校舎の外へ辿り着いた瞬間、七瀬翼は一瞬だけ、
自分たちは助かったのだと思いかけた。
食堂の非常口を塞いでいた不自然な段ボールの山を全員でどかし、
煙に追われ、怒号に押され、足元の瓦礫に何度もつまずきながら、
それでも外気へ触れたその瞬間だけは、たしかに胸の奥に小さな安堵が生まれた。
だが、それはほんの一呼吸分の錯覚に過ぎなかった。
外にあったのは、安全な避難場所ではない。
そこに広がっていたのは、高度育成高等学校という巨大な箱庭が、
内側から焼き崩されていく光景だった。
校舎の窓という窓から黒煙が噴き出し、
上階の一部では炎が舌のように外壁を舐め、
割れたガラス片が煤に汚れた地面の上で鈍く光っていた。
学生寮の方向では、外壁の一部が崩落し、
普段なら整然とした生活空間であるはずの場所が、
ひしゃげた鉄骨と砕けたコンクリートの塊へ変わっていた。
さらに遠く、ケヤキモールの方角からも、絶えず濃い煙が立ち上っている。
生徒たちが日用品を買い、友人と食事をし、
休日を過ごしていた場所もまた、今は炎と煙に呑まれていた。
「……こんなの……」
誰かが声を漏らした。
その言葉は最後まで続かなかった。
続けられなかったのだ。
何を言えばいいのか分からない。
どう受け止めればいいのか分からない。
ほんの少し前まで弁当を食べ、友人と話し、
次の授業を面倒に思っていたはずの世界が、目の前で崩れている。
その事実に、心が追いつかなかった。
足元には瓦礫が散らばっていた。
細かなガラス片、折れた金属、黒く焼けた看板の破片、
どこから飛んできたのか分からない机の脚。
熱風が吹き抜けるたび、灰が舞い上がり、生徒たちは反射的に顔を背けた。
「……もう無理だ……」
一人の男子生徒が膝から崩れ落ちた。
彼だけではない。
他にも数人が、その場で座り込み、肩を震わせていた。
ここまで出てくるだけで、すでに限界だった。
煙に喉を焼かれ、恐怖に足を縫い止められ、
怒号の中で必死に段ボールをどかし、ようやく外へ出た。
それなのに、そこにも逃げ場はなかった。
星之宮は、そんな生徒たちを見て唇を噛んだ。
「みんな、立って。お願い、まだここにいちゃ危ないから」
声は出ていた。
だが、いつもの軽さはない。
明るく冗談めかして生徒たちを引っ張る星之宮は、そこにはいなかった。
いたのは、自分も恐怖で震えているのに、
それでも教師として立たなければならない一人の大人だった。
坂上数馬もまた、生徒たちを背に庇うように前へ出ながら、
燃え広がる校舎と周囲の状況を確認していた。
「建物から離れる。壁際を歩くな。
落下物が来る可能性がある。瓦礫の山にも近づくな」
言葉は冷静だった。
しかし、その額には汗が滲んでいた。
熱のせいだけではない。
どこへ向かえばいいのか。
何が安全なのか。
その判断が、あまりにも難しかった。
校舎から離れればいい。
しかし校庭側にも瓦礫が散乱している。
寮からも煙が上がっている。
ケヤキモール方面は論外だ。
消防のサイレンは聞こえるが、まだこの場所まで人の手は届いていない。
その重苦しい沈黙を踏み破るように、宝泉和臣が一歩前へ出た。
「どけ」
短い一言。
それだけで、周囲の生徒が反射的に道を空ける。
宝泉は瓦礫を蹴り飛ばし、焼け焦げた破片を踏みつけ、
炎の揺らめく方へずんずんと進んでいった。
「待ってください、宝泉くん!」
七瀬が慌ててその腕を掴んだ。
「この状況で勝手に動くのは危険です。まず先生方と避難先を確認してから――」
だが、宝泉は最後まで聞かなかった。
腕を乱暴に振り払う。
七瀬の身体は軽く弾かれ、瓦礫に足を取られ、そのまま地面に尻もちをついた。
「七瀬さん!」
白石飛鳥が声を上げる。
八神拓也もわずかに眉を動かしたが、まだ動かなかった。
天沢一夏は宝泉の背中を見ながら、いつもの軽い笑みを少しだけ薄めていた。
宝泉は七瀬を見下ろすこともなく、星之宮と坂上へ視線を向けた。
「俺の時計コレクションが全部炭になった」
その言葉は、場違いに聞こえた。
だが、宝泉の声は本気だった。
「部屋に置いてたやつも、ケースも、全部だ。ふざけんなよ」
彼は一歩、教師たちへ近づく。
「どう落とし前つけんだ、あぁ!?」
星之宮の顔が強張る。
「宝泉くん、今はそういう話をしている場合じゃ――」
「今だからだろうが!」
宝泉の怒声が炎の音を裂いた。
「生徒を守るのが教師の仕事だろうが。
校舎も寮も燃やされて、持ち物も生活も全部潰されて、テメェらは何してたんだ?」
坂上が前に出る。
「宝泉、落ち着け。責任の所在は後で――」
「後で?」
宝泉の口元が歪んだ。
「その後が来る保証がどこにあんだよ」
その一言に、周囲の生徒たちが黙り込む。
乱暴で、身勝手で、めちゃくちゃな怒りだった。
けれど、そこには否定しきれない現実も混じっていた。
今この瞬間、誰も明日を保証できない。
「責任取れや」
宝泉が坂上へ詰め寄る。
「指でも詰めるか?道具ならそこら辺にいくらでも転がってんだろ」
星之宮が息を呑む。
坂上は宝泉を睨み返した。
だが、言葉が出なかった。
何を言っても、今の宝泉には届かない。
その沈黙が、宝泉の怒りをさらに煽った。
「何黙ってんだよ」
宝泉の拳が上がる。
七瀬が立ち上がろうとした。
葛城康平も動こうとする。
神崎隆二も一歩踏み出した。
だが、それより早く、八神拓也が宝泉の腕を掴んだ。
同時に、天沢一夏が反対側から肩を押さえる。
「そこまでにしましょうか、宝泉くん」
八神の声は穏やかだった。
だが、その手の力は穏やかではない。
宝泉の腕が止まる。
「放せ」
低く唸るような声。
「放したら殴るでしょ?」
天沢が軽く言う。
「だったら放すわけないじゃん」
「テメェら……」
宝泉が力を込める。
だが、動かない。
八神と天沢。
二人の身体は細く見える。
少なくとも、宝泉のような圧倒的な体格ではない。
それなのに、力の通し方、重心の置き方、
関節を抑える角度が、明らかに普通ではなかった。
宝泉は本能で悟る。
力任せに振りほどめる相手ではない。
「……チッ」
宝泉は舌打ちし、腕の力を抜いた。
八神は静かに手を離す。
天沢も肩から手を退けた。
「今ここで先生を殴っても、時計は戻りませんよ」
八神が言う。
「分かってんだよ」
宝泉は吐き捨てる。
「分かっててやろうとしたんだよ」
「それはそれで最悪だね」
天沢が笑う。
宝泉が睨む。
だが、それ以上は動かなかった。
険悪な空気だけが残った。
誰も話さない。
炎の音。
遠くのサイレン。
時折響く小さな爆発音。
それらだけが、空白を埋めていた。
その空気を、妙に平坦な声が破った。
「なるほど。つまり宝泉和臣の時計たちは、今頃、時を止めたわけですね」
森下藍だった。
全員が彼女を見る。
森下は真顔で続ける。
「時計だけに」
沈黙。
黒煙が流れる。
瓦礫が崩れる小さな音がする。
誰も笑わない。
山村美紀だけが、ほんのわずかに肩を揺らした。
「……す、少しだけ、上手いと思います」
森下は満足げに頷く。
「山村美紀、あなたはこの混沌の中でも審美眼を失っていません」
「いや、普通に滑ってるからね」
天沢が冷静に言った。
「滑ったということは、まだ地面に水分が残っている証拠です」
「そういう意味じゃないでしょ」
くだらない。
本当にくだらないやり取りだった。
だが、その場にいた何人かは、わずかに息を吐いた。
笑いではない。
安堵でもない。
それでも、張り詰めすぎた心がほんの一瞬だけ緩む。
その瞬間、空から重い音が響いた。
バラバラバラバラ――。
最初は、崩落の音かと思った。
だが違う。
規則的で、空気を叩くような音。
「ヘリ……?」
白石が空を見上げた。
黒煙の向こうから、三機の消防ヘリが現れた。
赤と白の機体が煙をかき分け、燃え盛る校舎の上空を旋回しながら近づいてくる。
ローターの風が煙を乱し、灰を巻き上げた。
生徒たちの表情が変わる。
絶望で座り込んでいた者まで、ゆっくりと顔を上げた。
「助け……?」
「助かるのか……?」
その声はまだ弱い。
けれど、確かに希望の響きがあった。
一機が近くの比較的開けた場所でホバリングを始める。
機体の側面が開き、ロープとハシゴが降ろされる。
続いて、レスキュー隊員がワイヤーを伝って降下してきた。
オレンジ色の救助服。
ヘルメット。
防護具。
その姿は、生徒たちにとって、この地獄の中で初めて見えた外の世界だった。
隊員は着地するとすぐに周囲を確認し、声を張り上げた。
「全員、その場で固まらないでください!順番にヘリへ収容します!
怪我人、歩行困難者を優先!指示に従ってください!」
その声は強かった。
混乱を断ち切るための声だった。
星之宮が目に涙を浮かべそうになりながらも、すぐに教師の顔へ戻る。
「みんな、聞こえたね!勝手に動かないで!順番に!」
坂上も生徒たちを並ばせる。
「落ち着け!焦って殺到すれば救助が遅れる!」
レスキュー隊員は状況を見て、素早く順番を決めた。
「まず体力の低い生徒から上げます!次に負傷者!最後に歩ける者!」
森下が手を挙げる。
「すみません、精神的にはかなり負傷しています」
「も、森下さん、今は本当に黙っていた方がいいです」
山村が小さく言った。
「忠告ありがとうございます」
森下は真顔で頷きながらも、隊員に促されてハシゴへ向かった。
「足元を見て!手を離さない!」
隊員が叫ぶ。
森下は一段ずつハシゴを上る。
ローターの風に髪が乱れ、灰が舞い、下からは炎の熱が押し寄せる。
それでも、彼女は一度も下を見なかった。
次に山村美紀。
彼女は不安そうにハシゴを見上げたが、白石がそっと背中を押した。
「大丈夫。ゆっくりでいい」
「……はい」
山村は震える手でハシゴを掴み、隊員の補助を受けながら上っていく。
白石飛鳥も続いた。
彼女は最後に地上を一度だけ見下ろした。
崩壊した校舎。
煙。
炎。
自分たちが通っていた場所。
それを見て、表情を硬くしたまま、ヘリへ引き上げられていった。
次に葛城康平。
「俺は後でいい」
葛城はそう言ったが、隊員は首を振った。
「体格のある生徒に後方を任せすぎると、後が詰まります。順番に従ってください」
葛城は一瞬だけ不満そうに眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「分かった」
神崎隆二も続く。
彼は上りながら、地上に残る生徒たちへ視線を向けた。
「焦るな。必ず全員上がれる」
その言葉に、何人かが頷いた。
八神拓也は静かにハシゴを掴んだ。
登る動きに無駄がない。
まるで訓練された動作のようだった。
天沢はそれを下から見上げ、軽く笑った。
「八神くんって、こういう時も優等生っぽいよね」
八神は返事をしなかった。
他の生き残った生徒数名も、順番に救助されていく。
星之宮も隊員に促され、最後まで地上に残ると主張したが、坂上が低く言った。
「星之宮先生、先に行ってください。生徒が上で不安になります」
「……分かりました」
星之宮は苦しそうに頷き、ハシゴへ向かった。
坂上も続いて救助される。
残されたのは、宝泉、七瀬、天沢の三人。
天沢はまだ地上にいた。
宝泉は腕を組み、苛立たしげに舌打ちしている。
七瀬は周囲の炎と煙を確認しながら、
最後まで取り残されることに強い緊張を覚えていた。
「次、君たちだ!急げ!」
レスキュー隊員が叫んだ。
天沢が先にハシゴへ手をかける。
「じゃ、お先に」
「さっさと行け」
宝泉が吐き捨てる。
天沢は軽く肩をすくめ、素早く上っていく。
宝泉もハシゴに手をかけようとした。
その瞬間だった。
背後で、轟音が響いた。
今までの爆発とは違う。
近い。
地面そのものが跳ねるような衝撃。
七瀬は反射的に振り返る。
校舎の低層部で火柱が上がっていた。
内部に残っていた可燃物に引火したのか、構造が崩れたのかは分からない。
ただ、爆炎が押し出されるように外へ広がり、熱風が津波のように迫ってくる。
次の瞬間、窓枠が内側から弾け飛び、
破片が火の勢いに乗って外へと射出される。
炎は一方向ではなく、渦を巻くように膨れ上がり、
空気を巻き込みながらさらに巨大化していく。
地面を叩く衝撃が遅れて伝わり、足元の瓦礫が跳ね、視界がぐらりと揺れた。
押し寄せる熱は肌を焼くだけではなく、呼吸を奪い、
肺の奥まで侵入してくるかのようだった。
「急げ!」
隊員が叫ぶ。
ヘリが揺れる。
ローターが必死に機体を安定させようと唸る。
宝泉はハシゴへ飛びついた。
天沢はすでに上へ到達しかけている。
だが、七瀬は瓦礫に足を取られていた。
足元のコンクリート片が崩れ、彼女の身体が大きく傾く。
「七瀬さん!」
白石の声がヘリの中から聞こえた。
七瀬は立ち上がろうとする。
だが、爆風が迫る。
熱が肌を刺す。
視界が橙色に染まる。
宝泉がハシゴの途中で振り返った。
「チッ……!」
舌打ち。
それは苛立ちだった。
だが、同時に決断でもあった。
宝泉は片腕でハシゴを掴んだまま、もう一方の腕を伸ばした。
「掴め!」
七瀬が手を伸ばす。
届かない。
数十センチ。
そのわずかな距離が、炎の中では絶望的に遠い。
爆風でハシゴが揺れる。
ヘリが高度を保てず、わずかに上昇を始める。
「まずい、上げるぞ!」
操縦席側から怒声が飛ぶ。
「まだ一人残ってる!」
レスキュー隊員が叫び返す。
宝泉は歯を食いしばった。
腕の長さだけでは足りない。
七瀬が跳んでも届かない。
このままでは、ヘリが安全確保のため上昇し、七瀬だけが地上に残される。
宝泉は自分の腕を見た。
そこに巻かれていた腕時計。
残ったコレクションの一つ。
さっきまで教師に怒鳴り散らしていた原因でもあるもの。
宝泉はそれを乱暴に外した。
「おい七瀬!」
炎の音に負けないように怒鳴る。
「これを腕に巻け!」
腕時計が投げられる。
七瀬は必死にそれを受け取った。
「え……?」
「聞こえねぇのか!腕に巻けっつってんだよ!」
七瀬はすぐに理解した。
腕時計のベルトを、自分の手首に巻きつける。
強く。
外れないように。
指が震える。
煙で目が痛い。
熱風で息が苦しい。
それでも、必死に留め具を固定する。
「巻きました!」
「なら手ぇ伸ばせ!」
七瀬が手を伸ばす。
宝泉も身体を限界まで乗り出す。
ハシゴが大きく揺れた。
レスキュー隊員が宝泉の腰を掴み、落下を防ぐ。
「無茶するな!」
「うるせぇ!」
宝泉の手が、七瀬の腕を掴む。
正確には、時計の巻かれた腕ごと掴んだ。
七瀬も宝泉の手首へ必死に指をかける。
その瞬間、背後の空気そのものが爆ぜた。
爆炎はただ燃え広がるのではなく、
圧力を伴った壁となって地面を舐めるように押し出される。
空気が一瞬で膨張し、視界の奥で景色が歪み、
まるで世界が熱に溶けかけているかのように揺らぐ。
赤ではない、橙でもない、白熱した中心部が
眩光となって膨れ上がり、視界を焼き尽くす。
その光の中から、遅れて轟音が叩きつけられ、鼓膜を内側から殴る。
地面が浮き上がるように震え、足場の瓦礫が一斉に跳ね上がる。
砕けたコンクリート片が弾丸のように弾き飛ばされ、鉄骨が悲鳴を上げながら歪む。
熱風が津波のように押し寄せ、肌を刺すどころか焼き削る勢いで襲いかかる。
炎は燃えるというより、侵食するように周囲を飲み込みながら広がっていく。
爆発の中心から放たれた火の舌が何本も分岐し、
建物の残骸に絡みついてさらに燃え上がる。
崩れかけていた壁面が耐えきれずに崩壊し、その落下すら炎の勢いに押し流される。
空へと立ち上る黒煙は瞬時に膨張し、巨大な雲のように広がりながら空を覆う。
その下では、火の粉が無数の流星のように舞い、地面へと降り注ぐ。
焼けた鉄の匂い、焦げた樹脂の臭気、何かが炭化していく重たい匂いが混ざり合う。
視界の端で、まだ燃えていなかった残骸に火が移り、次の炎が連鎖する。
爆炎は一度で終わらず、波のようにうねりながら押し寄せ、さらに空気をかき乱す。
まるで巨大な獣が咆哮しながら地表を駆け抜けるかのように、
その破壊は止まらなかった。
ヘリが耐えきれず、上昇を開始した。
地面が遠ざかる。
七瀬の身体が宙へ引き上げられる。
「っ……!」
七瀬の腕に激しい負荷がかかる。
宝泉の腕にも、七瀬の全体重が一気に乗る。
「離すんじゃねぇぞ!」
宝泉が怒鳴る。
「はい!」
七瀬は叫び返した。
ハシゴが揺れる。
ヘリが煙の中で大きく傾く。
下では爆炎が地面を舐め、七瀬が数秒前までいた場所を飲み込んだ。
焼け焦げた地面は瞬時に赤熱し、
さっきまで確かに立っていたはずの足場が、形を失った影のように崩れていく。
瓦礫は熱に押されて弾け飛び、細かな破片が火の粉と混ざって空中を乱れ舞う。
もし一歩でも遅れていれば、七瀬の身体はその爆炎の中に消えていただろうと、
誰の目にも分かるほどの圧倒的な破壊だった。
そして炎はなおも止まらず、地面を這い、
次の獲物を探すかのように広がり続けていた。
レスキュー隊員が宝泉の腕を掴む。
天沢も上から手を伸ばした。
「宝泉くん、意外と頑張るじゃん」
「黙って引け!」
「はいはい」
天沢と隊員が協力して、七瀬の身体をハシゴ側へ引き寄せる。
七瀬は片足をハシゴにかけた。
だが、揺れで足が外れそうになる。
宝泉がさらに力を込める。
「足かけろ!腕だけじゃ持たねぇ!」
「分かっています!」
七瀬は歯を食いしばり、もう一度足を伸ばした。
今度はハシゴを捉えた。
隊員が七瀬の腕を掴み、引き上げる。
宝泉も上へ押し上げる。
数秒後、七瀬の身体はようやくハシゴにしがみついた。
地上はすでに遠い。
炎はまだ追ってくるように見えたが、
ヘリは高度を上げ、煙の層を抜けようとしていた。
「上がれ!あと少し!」
隊員の声。
七瀬は震える腕でハシゴを上る。
宝泉はその下で支え、天沢は上から腕を伸ばす。
やがて七瀬がヘリの機内へ引き込まれた。
続いて宝泉。
最後に隊員が乗り込む。
扉が閉められ、ヘリはさらに上昇した。
機内には荒い息だけが満ちていた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
森下も、山村も、白石も、葛城も、神崎も、
星之宮も、坂上も、ただ呆然と七瀬と宝泉を見ていた。
生きている。
七瀬も。
宝泉も。
天沢も。
全員が、あの炎の中から引き上げられた。
窓の外では、高度育成高等学校が燃えていた。
生徒たちの生活を支えていた校舎も、寮も、ケヤキモールも、
黒煙の下で形を失いつつある。
七瀬は床に座り込んだまま、自分の腕に巻かれた時計を見た。
煤で汚れている。
ベルトには強い負荷がかかった跡がある。
けれど、壊れてはいなかった。
それは、たった今、自分と宝泉を繋いだ命綱だった。
七瀬はゆっくり顔を上げ、宝泉を見た。
「……ありがとうございます」
宝泉は荒く息を吐きながら、顔を背けていた。
「別に助けたわけじゃねぇ。邪魔だっただけだ」
「それでも、助かりました」
七瀬は小さく微笑んだ。
そして、自分の腕時計を見下ろす。
「この時計、大切にしますね」
一瞬、機内の空気が止まった。
宝泉がゆっくりと振り向く。
「……あ?」
七瀬は真面目な顔で続ける。
「命を救ってくれた時計ですから。宝泉くんの大切なものなら、なおさら――」
「返せや!!」
宝泉の怒号が、ヘリの機内に響き渡った。
「何勝手に自分のもんにしてんだコラ!俺のだろうが!」
七瀬はきょとんとした顔をする。
「でも、腕に巻けとおっしゃったので」
「一時的にだ!所有権まで渡してねぇ!」
天沢が横で吹き出した。
「宝泉くん、最後まで元気だね」
森下が真顔で頷く。
「命の恩人ならぬ、時計の恩人ですね」
山村が小さく言う。
「……少し、意味が分かりません」
「私もです」
森下は真顔で返した。
そのやり取りに、ほんのわずかに笑いが漏れた。
星之宮はその笑い声を聞き、ようやく肩の力を抜いた。
坂上も深く息を吐く。
白石は窓の外の炎を見ながら、目を伏せた。
葛城は無言で拳を握る。
神崎は救助された生徒たちの人数を確認している。
八神は静かに七瀬と宝泉のやり取りを見ていた。
天沢は退屈そうに、しかしどこか楽しげに笑っている。
ヘリは燃え盛る学校から離れていく。
地上では、まだ消防隊が消火活動を続けている。
別のヘリが水を撒き、消防車の放水が白い筋を描き、
黒煙の下で人々が走り回っている。
だが、七瀬たちのいる機体は、確かにその地獄から距離を取っていた。
完全な終わりではない。
救助されたからといって、失われたものが戻るわけではない。
校舎も、寮も、友人たちの安否も、まだ何一つ確かではない。
けれど、今この瞬間だけは、生きている。
七瀬は腕に巻かれた時計へ、そっと触れた。
彼女を助けた時計は、時間を示すためのものではなかった。
命を、繋ぎ止めるためのものだった。
宝泉がそれを見て、再び怒鳴る。
「だから返せっつってんだろ!」
「後で必ずお返しします」
「今返せ!」
「今外すと、なんだか縁起が悪い気がして」
「縁起で俺の時計持ってくんじゃねえ!」
その怒声は、ヘリのローター音にも負けず、最後まで響いていた。
炎に包まれた地上から遠ざかりながら、それでもその声だけは妙に現実的で、
命の重さに押し潰されそうだった機内の空気を、
かろうじて人間の世界へ引き戻していた。
七瀬は小さく笑った。
宝泉は怒鳴り続けている。
天沢はそれを面白そうに眺め、
森下は意味不明な感想を述べ、山村が控えめに反応する。
そのどれもが、数分前までの地獄を思えば、
信じられないほど平凡で、馬鹿馬鹿しくて、そして救いだった。
ヘリは煙の層を抜け、少しだけ明るい空へ出た。
下ではまだ、学校が燃えていた。
だが、彼らはそこから生きて離れた。
少なくとも、この一団は。
地獄から逃れた最初の集団は、
宝泉の怒号を最後の余韻に残しながら、炎の学園を後にした。
この話と同時刻、5月14日午前0時に「誰が綾小路清隆を退学にしたか?」を投稿しました。
ある日、とある特別試験によって綾小路が退学した。
しかし、各クラスのリーダーも南雲も一年生も彼の退学の関与を否定する。
何故、綾小路は退学したのか?その真相に迫る物語です。
途中までですが、第1話「退学者、綾小路清隆」の試し読みをどうぞ。
◯
高度育成高等学校の空気が、いつもと違っていた。
それは、校舎の廊下に漂う静けさがいつもより深いとか、
教室に入ってくる生徒たちの足音が妙に重いとか、
そういう分かりやすい異変ではなく、もっと皮膚の内側を薄く撫でられるような、
まだ何も起きていないはずなのに、すでに何かが終わった後のような、
そんな奇妙な違和感だった。
堀北鈴音は自席に鞄を置き、椅子を引く前に一度だけ教室全体を見渡した。
誰も騒いでいない。
普段なら朝から無駄に明るい声を出す者や、
昨日の出来事を大げさに語る者や、
試験の結果を気にして落ち着かない者が一人や二人はいるはずなのに、
その日の教室は、まるで全員が同じ悪夢を別々の場所で見てきたかのように、
言葉を探しながら黙っていた。
「……変ね」
堀北は小さく呟いた。
特別試験の結果発表日。
それ自体は珍しいことではない。
この学校にいる限り、試験とは日常の延長であり、
勝敗とは教室の空気を塗り替える天候のようなものだ。
だが、今日の沈黙は敗北の沈黙ではなかった。
怒りでもない。
悔しさでもない。
恐怖ですらない。
むしろ、それは――理解できないものを前にした人間が、最初に選ぶ沈黙だった。
堀北が席に着こうとしたそのとき、教室の扉が開き、茶柱佐枝が入ってきた。
いつも通りの無表情。
いつも通りの歩幅。
いつも通りの黒いスーツ。
けれど、堀北には分かった。
ほんのわずかに、茶柱の視線が教室の一点を避けている。
そこは、綾小路清隆の席だった。
朝のホームルームが始まっても、綾小路は来ていなかった。
遅刻。
そう片付けるには、あまりにも静かすぎた。
「全員、席に着け」
茶柱の声は普段と変わらなかった。
それなのに、その声が教室の壁に当たって返ってくるまでの時間が、
いつもより長く感じられた。
誰も冗談を言わない。
誰も椅子を鳴らさない。
誰も、綾小路の空席について触れない。
その異常さが、逆にその空席を巨大な穴のように際立たせていた。
「昨日まで実施されていた特別試験、最適化選抜試験の正式な結果が確定した」
その名称が告げられた瞬間、教室の空気が微かに揺れた。
最適化選抜試験。
学年全体を対象とし、個人評価、班評価、協力行動、情報管理、
そして最終投票を組み合わせた複合型の特別試験。
ルールは複雑だった。
説明された時点では、誰もがいつものように思っていた。
また学校が面倒な制度を作ってきたのだと。
だが、終わってみれば違った。
あの試験は、単なる競争ではなかった。
一人一人の判断が、
別の誰かの逃げ道を少しずつ塞いでいくように設計された、冷たい迷路だった。
「結果は既に各自の端末にも送信されている。
クラス全体のポイント変動については後で確認しろ」
茶柱は淡々と続けた。
淡々としすぎていた。
それは教師として冷静であろうとしている態度ではなく、
感情を入れた瞬間に何かが崩れてしまうことを知っている人間の声だった。
堀北は机の上に置いた端末へ視線を落とした。
通知が一件。
試験結果通知。
指先が動かない。
普段の堀北なら、誰よりも早く結果を確認し、
点数、順位、ポイント、ペナルティ、今後の戦略まで一気に思考を進める。
だが、その日は違った。
開いてはいけない。
そんな幼稚な直感が、彼女の指を止めていた。
「茶柱先生」
沈黙を破ったのは平田だった。
彼の声は震えていなかったが、いつものような柔らかさもなかった。
「綾小路くんは……どうしたんですか」
その問いが出た瞬間、教室の全員が呼吸を止めたように見えた。
誰もが訊きたかった。
だが誰もが訊けなかった。
空席の意味を言葉にしてしまえば、それは現実になる。
そんな迷信じみた恐れが、教室全体を縛っていた。
茶柱は平田を見た。
それから、ほんの一瞬だけ堀北を見た。
その視線の意味を、堀北は理解できなかった。
理解したくなかった。
「綾小路清隆は、本日付で退学処分となった」
音が消えた。
本当に、教室から音が消えたように思えた。
窓の外で風が木々を揺らす音も、廊下を歩く足音も、
誰かが飲み込んだ息の音さえも、堀北の耳には届かなかった。
ただ、茶柱の言葉だけが、頭の中で何度も形を変えずに反響していた。
綾小路清隆は。
本日付で。
退学処分。
「……は?」
須藤が立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに鋭く響いた。