カーストリング・インフェルノ   作:戦竜

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第八話 階級社会の輪

南雲たちと合流した後、

綾小路たちはプール棟の外周から校舎内部へ続く連絡通路へと足を踏み入れていた。

そこは本来なら、生徒たちが体育館やプール、

特別教室棟へ移動するために使う、何の変哲もない通路だったはずだった。

 

しかし今、その白い壁は煤で黒ずみ、天井の非常灯は赤く明滅し、

床には割れたガラス片と崩れた天井材が散乱していた。

 

外では消防車のサイレンが聞こえている。

ヘリのローター音も遠くに混じっていた。

だが、その音はあまりにも遠かった。

救助が来ていることは分かる。

 

しかし、自分たちの元へ届くかどうかは、まったく別の問題だった。

 

「……ここを抜ければ、屋上階段に近い」

 

綾小路が言った。

 

その声に、誰も大きく反応しなかった。

 

全員が疲れていた。

 

水底を抜けてきた南雲、須藤、平田、小野寺、伊吹、神室、ひより、朝比奈。

 

炎の非常階段を抜けてきた堀北、一之瀬、龍園、坂柳、高円寺、

軽井沢、佐藤、長谷部、佐倉、櫛田、みーちゃん、茶柱、真嶋。

 

誰もが煤や水に汚れ、呼吸を乱し、足元をふらつかせていた。

それでも進まなければならなかった。

止まれば、炎と煙が追いつく。

 

「屋上まで行けば、ヘリに見つけてもらえる可能性が高いわね」

 

堀北が短く言う。

 

「問題は、そこまで行けるかどうかです」

 

坂柳が高円寺に背負われたまま、静かに周囲を見渡した。

 

橋本を失った彼女の顔色は悪い。

それでも、その瞳だけは変わらず冷静だった。

 

「随分とまあ、面白い散歩道だねぇ」

 

高円寺が余裕の笑みを浮かべる。

 

「あんたの場合、本当に散歩感覚なのが腹立つわね」

 

伊吹が低く吐き捨てた。

 

「文句を言う体力が残っているなら結構なことです」

 

坂柳が淡々と返す。

 

「こんな時まで嫌味かよ」

 

龍園が笑う。

 

だが、その笑いにも疲労が混じっていた。

石崎とアルベルトを失い、坂柳を助け、なお前に進んでいる。

彼の中にも、言葉にならないものが積み重なっているはずだった。

 

「全員、列を崩すな」

 

真嶋が声を張った。

 

「煙が濃くなったら姿勢を低くしろ。走りすぎるな。だが、遅れるな」

「すごい矛盾した指示……」

 

軽井沢が苦しそうに呟く。

 

「今はその矛盾を両方守るしかない」

 

茶柱が言った。

 

「転べば終わり。遅れれば終わりだ」

 

その言葉が、全員の背筋を冷やした。

 

先頭には綾小路、堀北、龍園。

中間には一之瀬、軽井沢、佐藤、長谷部、佐倉、櫛田、みーちゃん。

坂柳を背負った高円寺は、列のやや中央寄りに位置し、

ひよりは平田、伊吹、神室に支えられている。

南雲、須藤、小野寺、朝比奈は後方寄りに入り、茶柱と真嶋が全体を見ていた。

 

この人数で動くのは難しい。

 

誰か一人が遅れれば、全体が詰まる。

誰か一人が転べば、全員が危険になる。

 

だが、バラバラに動けばもっと危険だった。

 

「……妙だな」

 

綾小路が小さく呟いた。

堀北がすぐに反応する。

 

「何が?」

「防火区画に入ったはずなのに、シャッターが作動していない」

 

その一言に、坂柳の目が細くなる。

 

「いえ、違います」

 

坂柳は天井の警告灯を見た。

 

「作動していないのではありません。おそらく、タイミングを見ています」

 

その直後だった。

通路の奥から、低く重い機械音が響いた。

ギィィィィ、と金属が軋む音。

赤い警告灯が点滅する。

 

「来る!」

 

小野寺が叫んだ。

天井に収納されていた防火シャッターが、通路の前方と後方、ほぼ同時に降下を始めた。

 

本来なら火災の拡大を防ぐためのもの。

だが今、それは生徒たちを閉じ込める鉄の壁として迫っていた。

 

「全員、前へ!」

 

堀北が叫ぶ。

 

「走れ!」

 

須藤が先に動く。

しかし、前方のシャッターは明らかに通常より速く降りていた。

 

ただ閉じるのではない。

 

人間の移動速度を計算したような、嫌なタイミングだった。

 

「間に合わない」

 

綾小路が即座に言った。

 

「止まれ。押すな」

「止まるの!?」

 

佐藤が悲鳴に近い声を上げる。

 

「突っ込めば挟まれる」

 

綾小路の声は平坦だった。

次の瞬間、前方のシャッターが轟音とともに床へ落ちた。

さらに背後でも、同じ音が響く。

 

閉じ込められた。

 

「……おいおい」

 

南雲が苦笑する。

 

「まるで罠だな」

「まるで、ではないわ」

 

堀北が言った。

 

「これは罠よ」

 

龍園がシャッターに近づき、拳で叩いた。

分厚い金属板が重く響く。

 

「ぶち破れるか?」

 

須藤が聞く。

龍園は鼻で笑った。

 

「素手でやるには骨が折れるな。比喩じゃなくな」

 

高円寺が肩をすくめる。

 

「私ならば不可能とは言わないが、背中に美しい荷物があるのでね」

「荷物扱いは心外です」

 

坂柳が静かに返す。

だが、その表情には余裕よりも思考の色が強かった。

 

「これは閉じ込めるためだけではありません」

 

坂柳が言った。

 

「次が来ます」

「次……?」

 

長谷部が顔を上げる。

その時、空気が変わった。

焦げた臭いに混じって、別の匂いが漂い始める。

生徒の誰もがすぐに理解できるわけではなかった。

 

だが、綾小路と坂柳はほぼ同時に気づいた。

 

「ガスだ」

 

綾小路が言う。

一瞬、全員の動きが止まった。

 

「ガス……?」

 

佐倉が震える。

 

「この通路に可燃性ガスが流されている可能性があります」

 

坂柳が冷静に説明する。

 

「このまま濃度が上がれば、火花ひとつで爆発します」

「はぁ!?」

 

須藤が声を上げる。

 

「ふざけんなよ!閉じ込めてから爆発させる気かよ!」

「その通りでしょうね」

 

坂柳は淡々と答えた。

その淡々さが、かえって状況の異常さを際立たせていた。

 

「じゃあどうするの!?」

 

軽井沢の声が震える。

 

「このままじゃ……」

「落ち着いて、軽井沢さん」

 

一之瀬がすぐに近づき、軽井沢の肩に手を置いた。

 

「大丈夫。まだ爆発してない。なら、まだ間に合う」

「本当に?」

「本当にするの」

 

一之瀬の声も震えていた。

だが、それでも彼女は他人を支えようとしていた。

櫛田もみーちゃんの手を握り、周囲の女子たちへ声をかける。

 

「口元を覆って。できるだけ低い姿勢で。勝手に走らないで」

「う、うん……」

 

みーちゃんは涙目で頷いた。

 

「綾小路くん」

 

堀北が問う。

 

「このシャッターを開ける方法は?」

 

綾小路は前方のシャッター、天井、壁の配管、非常灯、床の排水溝を順に見た。

 

「正攻法では無理だ。電源か制御盤が必要になる」

「制御盤なら、あそこにあります」

 

坂柳が指した。

通路の右側、少し奥の壁に、赤い小さな管理パネルがあった。

だが、その手前には崩れた天井材と配線が絡み、近づきにくい。

 

「私が行く」

 

堀北が言う。

 

「駄目だ」

 

綾小路が即座に止めた。

 

「感電の可能性がある。触るなら、絶縁できるものが必要だ」

「なら俺がやる」

 

須藤が前へ出る。

 

「力任せに壊せばいいんだろ?」

「壊せば開くとは限りません。むしろロックされる可能性があります」

 

坂柳が言った。

 

「では、どうするんですか?」

 

ひよりが苦しそうに問いかける。

彼女は足を庇いながら、伊吹と神室の肩に体重を預けていた。

 

「配管を使う」

 

綾小路が言った。

 

「配管?」

 

平田が聞き返す。

 

「ガスが流れているなら、どこかに排気の流れがある。

滞留させる構造にしているとしても、完全な密閉ではない。

圧が上がりすぎれば仕掛け側にも危険が出る」

 

坂柳が小さく頷く。

 

「つまり、意図的に爆発しやすい濃度へ調整している」

「そうだ」

 

綾小路が答える。

 

「なら、その流れを乱せばいい」

 

龍園が口角を上げる。

 

「つまり、配管をぶっ壊せばいいってことか」

「正確には、破壊する場所を選ぶ必要がある」

 

坂柳が言う。

 

「間違えれば、こちらが先に爆発します」

「楽しいじゃねぇか」

「楽しくはないわね」

 

堀北が即座に言った。

南雲が周囲を見ながら薄く笑う。

 

「この状況で頭脳戦とはね。さすがこの学校と言うべきかな」

「感心している場合ではないでしょう」

 

神室が冷たく返した。

 

「同感。余裕ぶってると死ぬよ、南雲先輩」

 

伊吹も鋭く言う。

 

「怖いねぇ」

 

南雲はそう言いつつも、視線は真剣だった。

 

「須藤、平田、龍園」

 

綾小路が指示を出す。

 

「右上の配管を狙う。だが一気に破壊するな。まず外装を剥がす」

「了解!」

 

須藤が頷く。

 

「高円寺は坂柳を下ろさず、そのまま中央にいてくれ。

万一シャッターが再作動した時、支えられるのはお前くらいだ」

「私を柱代わりに使うとは、なかなか大胆な発想だねぇ」

「適材適所だ」

「ふむ。悪くない」

 

高円寺は笑った。

 

「伊吹、神室は椎名を支えながら後方へ。

朝比奈は軽井沢と佐藤を見てくれ。長谷部は佐倉を。櫛田はみーちゃんを頼む」

「分かった」

 

朝比奈が答える。

 

「言われなくてもやる」

 

伊吹がひよりの腕を支え直す。

 

「椎名さん、痛むなら言って」

 

神室が低く言う。

 

「……はい。ありがとうございます」

 

ひよりは小さく頷いた。

 

「佐藤さん、こっち」

 

朝比奈が佐藤の手を引く。

 

「大丈夫、大丈夫。たぶん私も全然大丈夫じゃないけど、大丈夫って言うしかないしね」

「朝比奈先輩……」

 

佐藤は泣きそうな顔で頷いた。

 

「愛里、私の服掴んでて」

 

長谷部が言う。

 

「離れないで」

「うん……」

 

佐倉は震える手で長谷部の袖を握った。

 

「みーちゃん、息をゆっくり」

 

櫛田が優しく声をかける。

 

「怖い時ほど、急に吸わないで」

「う、うん……ありがとう、櫛田さん」

 

その間にも、ガスの匂いは濃くなっていく。

 

時間がない。

 

「龍園、須藤、平田。始めろ」

 

綾小路が言った。

龍園が崩れた金属片を拾い、配管の外装に叩きつける。

須藤は壁の下部に体重をかけて押し込み、

平田は崩れた配線を避けながら、手にした棒で外装の継ぎ目をこじった。

 

「硬ぇな……!」

 

須藤が歯を食いしばる。

 

「力任せにやりすぎるな」

 

綾小路が言う。

 

「中の管を一気に割ると危険だ」

「分かってる!」

「本当に分かっているのか不安ですね」

 

坂柳が淡々と言う。

 

「うるせぇ、口だけの奴は黙ってろ」

 

須藤が返す。

 

「口だけで生き延びる場面もあります」

「それは認めるが腹立つ!」

 

そんなやり取りの中でも、作業は進む。

外装が剥がれ、内側の細い配管が露出した。

 

坂柳が目を細める。

 

「綾小路くん、上ではありません。下側の細い方です」

「理由は?」

「上は供給、下は排気の可能性が高い。

爆発させるなら、上側を残して濃度を維持するはずです」

 

綾小路は一瞬だけ配管を見る。

 

「同意する」

 

坂柳がわずかに笑う。

 

「珍しく意見が一致しましたね」

「状況が状況だからな」

「普段なら否定するような言い方ですね」

「否定はしない」

「フフ、そうですか」

 

緊張の中、二人の会話だけが奇妙に静かだった。

堀北はそのやり取りを見て、わずかに眉を寄せる。

 

「あなたたち、こんな時でも落ち着きすぎよ」

「落ち着かなければ死ぬ」

 

綾小路が答える。

 

「感情でガスは薄くなりません」

 

坂柳も続ける。

 

「……そうね」

 

堀北は納得したように息を吐いた。

 

「龍園、下の細い配管を潰せ。完全に切るな。穴を開けるだけでいい」

 

綾小路が言う。

 

「注文が多いな」

 

龍園は笑う。

彼は金属片を配管に当て、角度を調整した。

 

そして、須藤に目を向ける。

 

「デカブツ、押さえろ」

「誰がデカブツだ!」

「いいから押さえろ」

 

須藤は文句を言いながらも配管周辺を固定した。

平田が反対側を支え、龍園が金属片を打ち込む。

 

一撃。

二撃。

三撃。

 

小さな裂け目ができた。

 

そこから、勢いよく空気が噴き出した。

 

「下がれ!」

 

綾小路が叫ぶ。

全員が身を低くする。

裂けた配管から流れが変わる。

通路に溜まり始めていたガスが、

強制的に一方向へ引っ張られ、濃度が一瞬だけ崩れた。

 

坂柳が言う。

 

「今です」

「前方シャッターの隙間を狙う」

 

綾小路が続ける。

 

「完全には閉まっていない。下にわずかな歪みがある」

「高円寺くん」

 

坂柳が呼んだ。

 

「出番です」

「やれやれ、今日は人気者だ」

 

高円寺は坂柳を背負ったまま、前方のシャッターへ歩く。

シャッターの下端には、床の歪みでほんのわずかな隙間があった。

 

普通なら人が通れる幅ではない。

だが、押し上げれば広がる可能性がある。

 

「私に支えろというわけだね」

「ええ。あなたの無駄に優れた身体能力を、今だけは評価します」

「評価が遅いねぇ」

 

高円寺は片手をシャッター下部にかけ、もう片方で坂柳の体勢を保つ。

 

「坂柳を下ろせ」

 

龍園が言う。

 

「邪魔だろ」

「その言い方は感心しませんね」

 

坂柳が返す。

 

「だが正論だ」

 

綾小路が言った。

高円寺は少し笑い、坂柳を一度、龍園に預けた。

龍園は一瞬だけ嫌そうな顔をした。

 

「おい、なんで俺だ」

「近くにいたからだ」

 

綾小路が答える。

 

「テメェな……」

 

坂柳は龍園に支えられながら、涼しい顔をしていた。

 

「よろしくお願いします、ドラゴンボーイ」

「落としてやろうか、リトルガール」

「今は勘弁していただきたいですね」

 

高円寺が両手をシャッターにかける。

 

「では、美しい力技といこう」

 

次の瞬間、金属が軋んだ。

シャッターが、わずかに持ち上がる。

 

「嘘でしょ……」

 

軽井沢が思わず呟いた。

 

「何なの、あの人……」

「高円寺だからな」

 

南雲が半ば呆れたように言う。

 

「説明になってないけど、説明になってるのが嫌だね」

 

朝比奈が苦笑する。

 

「全員、低くなって通れ!」

 

茶柱が叫ぶ。

 

「急げ!」

 

まず、ひよりが平田、伊吹、神室に支えられながら隙間をくぐる。

 

「椎名さん、頭を下げて」

 

小野寺が声をかける。

 

「はい……」

 

伊吹が背中を押し、神室が足の位置を確認する。

 

「いける。次」

 

次に佐倉。

 

長谷部が先に通り、反対側から手を伸ばす。

 

「愛里、こっち!」

「う、うん……!」

 

佐倉は震えながらも通った。

櫛田とみーちゃん。

軽井沢と佐藤。

 

一之瀬。

堀北。

須藤。

小野寺。

南雲。

朝比奈。

茶柱。

真嶋。

 

次々と通っていく。

 

龍園は坂柳を支えたまま、最後の方に回った。

 

「ほら、行け」

「あなたに促されるのは妙な気分です」

「文句言うな」

 

龍園が坂柳を慎重に通らせる。

その手つきは乱暴ではなかった。

坂柳は通過した後、小さく言った。

 

「また借りができましたね」

「利子つけて返せ」

「覚えておきます」

 

最後に綾小路が通る。

高円寺もシャッターを支えたまま身を滑らせるように抜けた。

 

シャッターは再び落ちた。

 

同時に、背後で爆発が起きた。

 

轟音。

熱風。

 

閉じ込められていた空間が一瞬で炎に飲み込まれる。

 

シャッターの向こう側が赤く光った。

 

「……本当に爆発した」

 

佐藤が震えた声で言った。

 

「少しでも遅れていたら、全員終わっていたわね」

 

堀北が息を整えながら言う。

 

「それが狙いだ」

 

綾小路は言った。

 

「閉じ込め、濃度を上げ、爆発させる。通常の火災対策を逆に利用している」

 

坂柳が続ける。

 

「防火設備、防煙区画、避難導線。すべてを理解したうえで罠に変えています」

「この学校の構造を知っている奴がいるってことか」

 

龍園の声が低くなる。

 

「内部協力者の可能性が高い」

 

綾小路が答える。

一瞬、場の空気が重くなった。

 

内部協力者。

 

それは、誰かがこの学校の中から、彼らを殺すために道を作ったという意味だった。

 

「……気持ち悪い」

 

長谷部が呟く。

 

「誰かが、私たちの動きを見てたってこと?」

「可能性はある。そして、頭が良い」

 

綾小路は否定しなかった。

 

「でも、今は犯人探しより脱出よ」

 

一之瀬が言う。

 

「生きて出ないと、何も分からない」

「正論ね」

 

堀北が頷く。

その時、また機械音が響いた。

前方だけではない。

左右の天井から、連続して警告音が鳴り始めた。

 

「まだ来るのかよ!」

 

須藤が叫ぶ。

 

「次は何だ!?」

「左右の区画が閉じます」

 

坂柳が言った。

 

「しかも、今度は片側だけではありません」

 

通路の左右にある防火扉が、次々と閉まり始める。

 

一枚。

二枚。

三枚。

 

まるで進路を限定するように、扉が閉じていく。

残された道は、中央の一本だけ。

だが、その先には赤い警告灯が明滅していた。

 

「誘導されている」

 

綾小路が言った。

 

「この先に何かある」

「なら別ルートを探すべきでは?」

 

平田が言う。

 

「探す時間がない」

 

南雲が即答した。

 

「背後は爆発、横は閉鎖。前に行くしかない。随分と分かりやすい」

「敵の掌の上というわけね」

 

堀北が悔しげに言う。

 

「掌の上でも、指の隙間はある」

 

綾小路は言った。

 

「そこを抜ける」

 

坂柳がわずかに笑う。

 

「詩的ですね」

「そう聞こえたなら偶然だ」

「では、偶然に期待しましょう」

 

一同は再び走り出した。

前方の通路は長い。

天井は低く、煙が溜まりやすい。

 

途中で何度も小爆発が起き、壁の内側から火が吹き出した。

小野寺が叫ぶ。

 

「左、火が来る!」

 

須藤が咄嗟に佐倉と長谷部を押しのける。

炎が横をかすめた。

 

「大丈夫か!?」

「う、うん……!」

 

長谷部が息を荒げる。

 

「須藤くん、助かった」

「礼は後だ!」

 

櫛田はみーちゃんを庇いながら進む。

 

「みーちゃん、足元!」

「はい……!」

 

軽井沢は佐藤の手を強く握っている。

 

「絶対離さないで」

「うん……!」

 

朝比奈は後方を見ながら南雲に声を飛ばす。

 

「雅、後ろから煙が来てるよ!」

「見えてる。急ぐぞ」

 

南雲はひよりの状態を確認しながら、伊吹と神室に言う。

 

「椎名を中央へ。端は危ない」

「分かってる」

 

伊吹がひよりの身体を引き寄せる。

 

「足、もう少し耐えなさい」

「……はい」

 

ひよりは痛みに顔を歪めながらも頷いた。

 

「平田くん、少しだけ右に寄ってください」

「分かった」

 

神室が冷静に足場を見て、ひよりの次の一歩を誘導する。

 

「そこは割れてる。踏まないで」

 

全員が、それぞれに誰かを支えていた。

普段なら同じクラス、違うクラス、敵、味方、上級生、教師という線引きがある。

だが今、その線引きは熱と煙の中で意味を失っていた。

生き残るには、隣の人間の手が必要だった。

 

その時、通路の先で再びシャッターが降り始めた。

今度は距離が近い。

間に合うかどうか、ぎりぎりだった。

 

「走れ!」

 

茶柱が叫ぶ。

 

「全員、走れ!」

 

だが、ひよりが遅れる。

足が限界だった。

 

「椎名さん!」

 

平田が支えようとする。

しかし、その瞬間、ひよりの膝が崩れた。

 

「……っ」

「椎名!」

 

伊吹が咄嗟に支える。

だが、全体の流れが止まりかける。

 

シャッターは迫る。

 

「俺が担ぐ!」

 

須藤が引き返そうとした。

 

「駄目だ、時間が足りない」

 

綾小路が言った。

須藤が怒鳴る。

 

「じゃあどうすんだよ!」

 

その瞬間、高円寺が動いた。

彼は軽やかにひよりの元へ近づき、片腕で彼女を抱え上げた。

 

「失礼するよ、お嬢さん」

「え……?」

 

ひよりが驚く間もなく、高円寺はそのまま走り出す。

 

坂柳はすでに龍園に支えられていた。

 

「おい、俺に二人目を押しつけるなよ」

 

龍園が言う。

 

「あなたの活躍どころです」

 

坂柳が返す。

 

「ぶん投げるぞ」

「丁寧にお願いします」

 

龍園は舌打ちしながらも、坂柳を支えて走る。

高円寺はひよりを抱えたまま、落ちかけるシャッターの下へ突っ込んだ。

 

「通れ!」

 

綾小路が叫ぶ。

一同が次々と滑り込む。

最後尾の真嶋が茶柱を押し込むように通し、自分も身を低くしてくぐる。

 

シャッターが背後で落ちた。

直後、また爆発。

だが今度は、前方にも異変があった。

 

天井のスプリンクラーヘッドのようなものから、液体が垂れている。

 

水ではない。

 

匂いが違う。

 

「油か?」

 

龍園が顔をしかめる。

 

「可燃性の液体ですね」

 

坂柳が言う。

 

「本当に悪趣味だな」

 

南雲が低く呟く。

床に広がった液体へ火の粉が落ちれば、一気に燃える。

 

「上を見ろ」

 

綾小路が言った。

 

「天井裏の配管が破れている。完全に広がる前に抜ける」

「でも滑るわよ」

 

堀北が言う。

 

「走れば転ぶ」

「なら歩くしかありません」

 

坂柳が答える。

 

「ただし、遅すぎても焼かれます」

「最悪だな」

 

龍園が笑う。

 

「龍園、お前が先頭で足場を確認しろ」

 

綾小路が言う。

 

「命令すんな」

「できるだろ」

 

龍園は数秒だけ綾小路を睨み、鼻で笑った。

 

「ハッ、いいぜ。ついてこい」

 

龍園が前に出る。

床を踏み、滑り具合を確認しながら進む。

 

「右は駄目だ。左寄れ」

「そこ踏むな。滑る」

「おい軽井沢、足元見ろ!」

 

「分かってるわよ!」

 

軽井沢が涙目で返す。

佐藤が小さく笑いそうになったが、すぐに顔を引き締める。

 

「軽井沢さん、こっち」

「ありがと……」

 

小野寺は濡れたタオルを床へ投げ、滑り止め代わりにする。

 

「ここ踏んで!」

「ナイス、小野寺!」

 

須藤が言う。

 

「当たり前でしょ、水回りは慣れてるの」

「頼りになるな!」

「今さら?」

 

その短い掛け合いが、ほんの少しだけ空気を和らげた。

 

だが、次の瞬間、天井から火の粉が落ちた。

床の液体に触れる。

一瞬、青白い火が走った。

 

「来るぞ!」

 

綾小路が叫ぶ。

床を這う炎が一気に広がる。

 

「走れ!」

 

今度は全員が駆けた。

 

滑る床。

迫る炎。

落ちる火の粉。

閉じていくシャッター。

 

誰かが誰かの手を引き、誰かが誰かの背を押す。

 

ひよりを抱えた高円寺が先に抜ける。

龍園が坂柳を支えながら抜ける。

平田が神室と伊吹を確認し、小野寺が佐倉を押し出す。

一之瀬が最後まで後ろを見ていた。

 

「一之瀬さん!」

 

堀北が叫ぶ。

 

「早く!」

「全員通った!?」

「通った、行け!」

 

一之瀬が走る。

 

その直後、床の炎が背後から追いついた。

 

綾小路が手を伸ばす。

一之瀬はその手を掴み、勢いのまま前へ引き込まれた。

 

炎がすぐ後ろで通路を包む。

 

「……ありがとう、綾小路くん」

「礼は後だ」

「うん」

 

一之瀬は苦しそうに微笑んだ。

 

そしてまた、全員が走り出す。

 

もう誰も、ここがただの学校だとは思っていなかった。

 

教室。

廊下。

階段。

防火設備。

避難経路。

 

すべてが、逃げる者を選別する仕掛けへ変えられている。

 

「これが……カーストリング」

 

ひよりが高円寺の腕の中で小さく呟いた。

 

「囲まれた階級社会の地獄、か」

 

南雲がその言葉を拾う。

 

「いい名前だ。最悪だがな」

 

坂柳が静かに言う。

 

「ええ。逃げ場のない輪です」

 

綾小路は前を見たまま言った。

 

「だが、輪なら切れ目がある」

「見つけられれば、ですね」

「見つける」

 

その言葉に、坂柳はわずかに笑った。

 

「頼もしいことです」

 

やがて、通路の先に屋上階段へ続く扉が見えた。

 

今度こそ、先が見えた。

 

しかし、その前に最後のシャッターが降り始める。

さらに背後では、今までで最大の爆発音が響いた。

 

熱風が押し寄せる。

 

全員が前へ吹き飛ばされそうになる。

 

「もう限界だ!」

 

真嶋が叫ぶ。

 

「全員、扉へ!」

 

綾小路は一瞬で判断した。

 

「高円寺、シャッターを支えろ。龍園、坂柳を先に。須藤、扉を開けろ。

南雲、後方を見ろ。堀北、一之瀬、列を整えろ」

 

指示が飛ぶ。

 

誰も反論しない。

 

高円寺がシャッター下に入り、両手で支える。

 

「今度は少々重いね」

「余裕そうに言うな!」

 

伊吹が叫ぶ。

須藤が扉へ体当たりする。

 

「開けぇぇ!」

 

一撃。

二撃。

扉が歪む。

 

真嶋が鍵束を取り出し、叫ぶ。

 

「どけ、鍵がある!」

「早く!」

 

茶柱が後ろを見ながら叫ぶ。

真嶋が鍵を差し込む。

 

手が震える。

だが、回る。

扉が開いた。

 

「行って!」

 

堀北が叫ぶ。

 

全員が階段へ流れ込む。

ひよりは平田たちに戻され、坂柳は高円寺が再び背負う。

軽井沢、佐藤、長谷部、佐倉、櫛田、みーちゃん。

一之瀬、須藤、小野寺、南雲、朝比奈、伊吹、神室、ひより、平田。

茶柱、真嶋。

 

龍園、堀北、坂柳、高円寺。

 

そして綾小路。

 

全員が、かろうじて階段へ入った。

背後でシャッターが落ちた。

その向こう側が、爆発で赤く光った。

 

音が遅れて届く。

階段全体が揺れた。

誰もが息を荒げていた。

誰もが限界だった。

 

だが、屋上への道は開いた。

 

「……今のが最後だといいんだけど」

 

軽井沢が震える声で言った。

 

「残念ながら、そう甘くはないだろう」

 

南雲が答える。

 

「やめてくださいよ、南雲会長……」

 

佐藤が泣きそうに言う。

 

「でも、進むしかありません」

 

ひよりが静かに言った。

 

その声に、皆が一瞬だけ彼女を見た。

守られてばかりだった少女が、痛む足を抱えながら、それでも前を見ていた。

 

「そうだね」

 

平田が頷く。

 

「行こう」

 

綾小路は階段の上を見た。

 

この先で、さらに大きな崩壊が待っている。

それは予感ではなく、確信だった。

だが、ここまで来た以上、戻る道はない。

 

綾小路と坂柳は、ほぼ同時に背後を見た。

 

閉じたシャッター。

 

赤く光る向こう側。

 

逃げ場のない輪。

 

カーストリング。

 

その内側で、彼らはまだ生きている。

 

「綾小路くん」

 

坂柳が言った。

 

「何だ」

「この先、さらに犠牲が出るかもしれません」

「分かっている」

「それでも、進むのですね」

「進まなければ、全員死ぬ」

 

坂柳は目を伏せ、そして静かに笑った。

 

「あなたらしい答えです」

「そうか」

「ええ。残酷で、正しい」

 

綾小路は何も返さなかった。

 

そのまま階段を上り始める。

 

堀北が続く。

 

龍園が続く。

 

一之瀬が、泣きそうな顔をしながらも前を向く。

 

全員が続く。

 

炎はまだ背後にある。

 

煙はまだ追ってくる。

 

建物はまだ崩れ続けている。

 

それでも、屋上へ向かう階段だけが、今の彼らに残された最後の道だった。

その先に待つ崩壊の頂点へ向かって、一同は足を止めることなく進んでいった。

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