南雲たちと合流した後、
綾小路たちはプール棟の外周から校舎内部へ続く連絡通路へと足を踏み入れていた。
そこは本来なら、生徒たちが体育館やプール、
特別教室棟へ移動するために使う、何の変哲もない通路だったはずだった。
しかし今、その白い壁は煤で黒ずみ、天井の非常灯は赤く明滅し、
床には割れたガラス片と崩れた天井材が散乱していた。
外では消防車のサイレンが聞こえている。
ヘリのローター音も遠くに混じっていた。
だが、その音はあまりにも遠かった。
救助が来ていることは分かる。
しかし、自分たちの元へ届くかどうかは、まったく別の問題だった。
「……ここを抜ければ、屋上階段に近い」
綾小路が言った。
その声に、誰も大きく反応しなかった。
全員が疲れていた。
水底を抜けてきた南雲、須藤、平田、小野寺、伊吹、神室、ひより、朝比奈。
炎の非常階段を抜けてきた堀北、一之瀬、龍園、坂柳、高円寺、
軽井沢、佐藤、長谷部、佐倉、櫛田、みーちゃん、茶柱、真嶋。
誰もが煤や水に汚れ、呼吸を乱し、足元をふらつかせていた。
それでも進まなければならなかった。
止まれば、炎と煙が追いつく。
「屋上まで行けば、ヘリに見つけてもらえる可能性が高いわね」
堀北が短く言う。
「問題は、そこまで行けるかどうかです」
坂柳が高円寺に背負われたまま、静かに周囲を見渡した。
橋本を失った彼女の顔色は悪い。
それでも、その瞳だけは変わらず冷静だった。
「随分とまあ、面白い散歩道だねぇ」
高円寺が余裕の笑みを浮かべる。
「あんたの場合、本当に散歩感覚なのが腹立つわね」
伊吹が低く吐き捨てた。
「文句を言う体力が残っているなら結構なことです」
坂柳が淡々と返す。
「こんな時まで嫌味かよ」
龍園が笑う。
だが、その笑いにも疲労が混じっていた。
石崎とアルベルトを失い、坂柳を助け、なお前に進んでいる。
彼の中にも、言葉にならないものが積み重なっているはずだった。
「全員、列を崩すな」
真嶋が声を張った。
「煙が濃くなったら姿勢を低くしろ。走りすぎるな。だが、遅れるな」
「すごい矛盾した指示……」
軽井沢が苦しそうに呟く。
「今はその矛盾を両方守るしかない」
茶柱が言った。
「転べば終わり。遅れれば終わりだ」
その言葉が、全員の背筋を冷やした。
先頭には綾小路、堀北、龍園。
中間には一之瀬、軽井沢、佐藤、長谷部、佐倉、櫛田、みーちゃん。
坂柳を背負った高円寺は、列のやや中央寄りに位置し、
ひよりは平田、伊吹、神室に支えられている。
南雲、須藤、小野寺、朝比奈は後方寄りに入り、茶柱と真嶋が全体を見ていた。
この人数で動くのは難しい。
誰か一人が遅れれば、全体が詰まる。
誰か一人が転べば、全員が危険になる。
だが、バラバラに動けばもっと危険だった。
「……妙だな」
綾小路が小さく呟いた。
堀北がすぐに反応する。
「何が?」
「防火区画に入ったはずなのに、シャッターが作動していない」
その一言に、坂柳の目が細くなる。
「いえ、違います」
坂柳は天井の警告灯を見た。
「作動していないのではありません。おそらく、タイミングを見ています」
その直後だった。
通路の奥から、低く重い機械音が響いた。
ギィィィィ、と金属が軋む音。
赤い警告灯が点滅する。
「来る!」
小野寺が叫んだ。
天井に収納されていた防火シャッターが、通路の前方と後方、ほぼ同時に降下を始めた。
本来なら火災の拡大を防ぐためのもの。
だが今、それは生徒たちを閉じ込める鉄の壁として迫っていた。
「全員、前へ!」
堀北が叫ぶ。
「走れ!」
須藤が先に動く。
しかし、前方のシャッターは明らかに通常より速く降りていた。
ただ閉じるのではない。
人間の移動速度を計算したような、嫌なタイミングだった。
「間に合わない」
綾小路が即座に言った。
「止まれ。押すな」
「止まるの!?」
佐藤が悲鳴に近い声を上げる。
「突っ込めば挟まれる」
綾小路の声は平坦だった。
次の瞬間、前方のシャッターが轟音とともに床へ落ちた。
さらに背後でも、同じ音が響く。
閉じ込められた。
「……おいおい」
南雲が苦笑する。
「まるで罠だな」
「まるで、ではないわ」
堀北が言った。
「これは罠よ」
龍園がシャッターに近づき、拳で叩いた。
分厚い金属板が重く響く。
「ぶち破れるか?」
須藤が聞く。
龍園は鼻で笑った。
「素手でやるには骨が折れるな。比喩じゃなくな」
高円寺が肩をすくめる。
「私ならば不可能とは言わないが、背中に美しい荷物があるのでね」
「荷物扱いは心外です」
坂柳が静かに返す。
だが、その表情には余裕よりも思考の色が強かった。
「これは閉じ込めるためだけではありません」
坂柳が言った。
「次が来ます」
「次……?」
長谷部が顔を上げる。
その時、空気が変わった。
焦げた臭いに混じって、別の匂いが漂い始める。
生徒の誰もがすぐに理解できるわけではなかった。
だが、綾小路と坂柳はほぼ同時に気づいた。
「ガスだ」
綾小路が言う。
一瞬、全員の動きが止まった。
「ガス……?」
佐倉が震える。
「この通路に可燃性ガスが流されている可能性があります」
坂柳が冷静に説明する。
「このまま濃度が上がれば、火花ひとつで爆発します」
「はぁ!?」
須藤が声を上げる。
「ふざけんなよ!閉じ込めてから爆発させる気かよ!」
「その通りでしょうね」
坂柳は淡々と答えた。
その淡々さが、かえって状況の異常さを際立たせていた。
「じゃあどうするの!?」
軽井沢の声が震える。
「このままじゃ……」
「落ち着いて、軽井沢さん」
一之瀬がすぐに近づき、軽井沢の肩に手を置いた。
「大丈夫。まだ爆発してない。なら、まだ間に合う」
「本当に?」
「本当にするの」
一之瀬の声も震えていた。
だが、それでも彼女は他人を支えようとしていた。
櫛田もみーちゃんの手を握り、周囲の女子たちへ声をかける。
「口元を覆って。できるだけ低い姿勢で。勝手に走らないで」
「う、うん……」
みーちゃんは涙目で頷いた。
「綾小路くん」
堀北が問う。
「このシャッターを開ける方法は?」
綾小路は前方のシャッター、天井、壁の配管、非常灯、床の排水溝を順に見た。
「正攻法では無理だ。電源か制御盤が必要になる」
「制御盤なら、あそこにあります」
坂柳が指した。
通路の右側、少し奥の壁に、赤い小さな管理パネルがあった。
だが、その手前には崩れた天井材と配線が絡み、近づきにくい。
「私が行く」
堀北が言う。
「駄目だ」
綾小路が即座に止めた。
「感電の可能性がある。触るなら、絶縁できるものが必要だ」
「なら俺がやる」
須藤が前へ出る。
「力任せに壊せばいいんだろ?」
「壊せば開くとは限りません。むしろロックされる可能性があります」
坂柳が言った。
「では、どうするんですか?」
ひよりが苦しそうに問いかける。
彼女は足を庇いながら、伊吹と神室の肩に体重を預けていた。
「配管を使う」
綾小路が言った。
「配管?」
平田が聞き返す。
「ガスが流れているなら、どこかに排気の流れがある。
滞留させる構造にしているとしても、完全な密閉ではない。
圧が上がりすぎれば仕掛け側にも危険が出る」
坂柳が小さく頷く。
「つまり、意図的に爆発しやすい濃度へ調整している」
「そうだ」
綾小路が答える。
「なら、その流れを乱せばいい」
龍園が口角を上げる。
「つまり、配管をぶっ壊せばいいってことか」
「正確には、破壊する場所を選ぶ必要がある」
坂柳が言う。
「間違えれば、こちらが先に爆発します」
「楽しいじゃねぇか」
「楽しくはないわね」
堀北が即座に言った。
南雲が周囲を見ながら薄く笑う。
「この状況で頭脳戦とはね。さすがこの学校と言うべきかな」
「感心している場合ではないでしょう」
神室が冷たく返した。
「同感。余裕ぶってると死ぬよ、南雲先輩」
伊吹も鋭く言う。
「怖いねぇ」
南雲はそう言いつつも、視線は真剣だった。
「須藤、平田、龍園」
綾小路が指示を出す。
「右上の配管を狙う。だが一気に破壊するな。まず外装を剥がす」
「了解!」
須藤が頷く。
「高円寺は坂柳を下ろさず、そのまま中央にいてくれ。
万一シャッターが再作動した時、支えられるのはお前くらいだ」
「私を柱代わりに使うとは、なかなか大胆な発想だねぇ」
「適材適所だ」
「ふむ。悪くない」
高円寺は笑った。
「伊吹、神室は椎名を支えながら後方へ。
朝比奈は軽井沢と佐藤を見てくれ。長谷部は佐倉を。櫛田はみーちゃんを頼む」
「分かった」
朝比奈が答える。
「言われなくてもやる」
伊吹がひよりの腕を支え直す。
「椎名さん、痛むなら言って」
神室が低く言う。
「……はい。ありがとうございます」
ひよりは小さく頷いた。
「佐藤さん、こっち」
朝比奈が佐藤の手を引く。
「大丈夫、大丈夫。たぶん私も全然大丈夫じゃないけど、大丈夫って言うしかないしね」
「朝比奈先輩……」
佐藤は泣きそうな顔で頷いた。
「愛里、私の服掴んでて」
長谷部が言う。
「離れないで」
「うん……」
佐倉は震える手で長谷部の袖を握った。
「みーちゃん、息をゆっくり」
櫛田が優しく声をかける。
「怖い時ほど、急に吸わないで」
「う、うん……ありがとう、櫛田さん」
その間にも、ガスの匂いは濃くなっていく。
時間がない。
「龍園、須藤、平田。始めろ」
綾小路が言った。
龍園が崩れた金属片を拾い、配管の外装に叩きつける。
須藤は壁の下部に体重をかけて押し込み、
平田は崩れた配線を避けながら、手にした棒で外装の継ぎ目をこじった。
「硬ぇな……!」
須藤が歯を食いしばる。
「力任せにやりすぎるな」
綾小路が言う。
「中の管を一気に割ると危険だ」
「分かってる!」
「本当に分かっているのか不安ですね」
坂柳が淡々と言う。
「うるせぇ、口だけの奴は黙ってろ」
須藤が返す。
「口だけで生き延びる場面もあります」
「それは認めるが腹立つ!」
そんなやり取りの中でも、作業は進む。
外装が剥がれ、内側の細い配管が露出した。
坂柳が目を細める。
「綾小路くん、上ではありません。下側の細い方です」
「理由は?」
「上は供給、下は排気の可能性が高い。
爆発させるなら、上側を残して濃度を維持するはずです」
綾小路は一瞬だけ配管を見る。
「同意する」
坂柳がわずかに笑う。
「珍しく意見が一致しましたね」
「状況が状況だからな」
「普段なら否定するような言い方ですね」
「否定はしない」
「フフ、そうですか」
緊張の中、二人の会話だけが奇妙に静かだった。
堀北はそのやり取りを見て、わずかに眉を寄せる。
「あなたたち、こんな時でも落ち着きすぎよ」
「落ち着かなければ死ぬ」
綾小路が答える。
「感情でガスは薄くなりません」
坂柳も続ける。
「……そうね」
堀北は納得したように息を吐いた。
「龍園、下の細い配管を潰せ。完全に切るな。穴を開けるだけでいい」
綾小路が言う。
「注文が多いな」
龍園は笑う。
彼は金属片を配管に当て、角度を調整した。
そして、須藤に目を向ける。
「デカブツ、押さえろ」
「誰がデカブツだ!」
「いいから押さえろ」
須藤は文句を言いながらも配管周辺を固定した。
平田が反対側を支え、龍園が金属片を打ち込む。
一撃。
二撃。
三撃。
小さな裂け目ができた。
そこから、勢いよく空気が噴き出した。
「下がれ!」
綾小路が叫ぶ。
全員が身を低くする。
裂けた配管から流れが変わる。
通路に溜まり始めていたガスが、
強制的に一方向へ引っ張られ、濃度が一瞬だけ崩れた。
坂柳が言う。
「今です」
「前方シャッターの隙間を狙う」
綾小路が続ける。
「完全には閉まっていない。下にわずかな歪みがある」
「高円寺くん」
坂柳が呼んだ。
「出番です」
「やれやれ、今日は人気者だ」
高円寺は坂柳を背負ったまま、前方のシャッターへ歩く。
シャッターの下端には、床の歪みでほんのわずかな隙間があった。
普通なら人が通れる幅ではない。
だが、押し上げれば広がる可能性がある。
「私に支えろというわけだね」
「ええ。あなたの無駄に優れた身体能力を、今だけは評価します」
「評価が遅いねぇ」
高円寺は片手をシャッター下部にかけ、もう片方で坂柳の体勢を保つ。
「坂柳を下ろせ」
龍園が言う。
「邪魔だろ」
「その言い方は感心しませんね」
坂柳が返す。
「だが正論だ」
綾小路が言った。
高円寺は少し笑い、坂柳を一度、龍園に預けた。
龍園は一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「おい、なんで俺だ」
「近くにいたからだ」
綾小路が答える。
「テメェな……」
坂柳は龍園に支えられながら、涼しい顔をしていた。
「よろしくお願いします、ドラゴンボーイ」
「落としてやろうか、リトルガール」
「今は勘弁していただきたいですね」
高円寺が両手をシャッターにかける。
「では、美しい力技といこう」
次の瞬間、金属が軋んだ。
シャッターが、わずかに持ち上がる。
「嘘でしょ……」
軽井沢が思わず呟いた。
「何なの、あの人……」
「高円寺だからな」
南雲が半ば呆れたように言う。
「説明になってないけど、説明になってるのが嫌だね」
朝比奈が苦笑する。
「全員、低くなって通れ!」
茶柱が叫ぶ。
「急げ!」
まず、ひよりが平田、伊吹、神室に支えられながら隙間をくぐる。
「椎名さん、頭を下げて」
小野寺が声をかける。
「はい……」
伊吹が背中を押し、神室が足の位置を確認する。
「いける。次」
次に佐倉。
長谷部が先に通り、反対側から手を伸ばす。
「愛里、こっち!」
「う、うん……!」
佐倉は震えながらも通った。
櫛田とみーちゃん。
軽井沢と佐藤。
一之瀬。
堀北。
須藤。
小野寺。
南雲。
朝比奈。
茶柱。
真嶋。
次々と通っていく。
龍園は坂柳を支えたまま、最後の方に回った。
「ほら、行け」
「あなたに促されるのは妙な気分です」
「文句言うな」
龍園が坂柳を慎重に通らせる。
その手つきは乱暴ではなかった。
坂柳は通過した後、小さく言った。
「また借りができましたね」
「利子つけて返せ」
「覚えておきます」
最後に綾小路が通る。
高円寺もシャッターを支えたまま身を滑らせるように抜けた。
シャッターは再び落ちた。
同時に、背後で爆発が起きた。
轟音。
熱風。
閉じ込められていた空間が一瞬で炎に飲み込まれる。
シャッターの向こう側が赤く光った。
「……本当に爆発した」
佐藤が震えた声で言った。
「少しでも遅れていたら、全員終わっていたわね」
堀北が息を整えながら言う。
「それが狙いだ」
綾小路は言った。
「閉じ込め、濃度を上げ、爆発させる。通常の火災対策を逆に利用している」
坂柳が続ける。
「防火設備、防煙区画、避難導線。すべてを理解したうえで罠に変えています」
「この学校の構造を知っている奴がいるってことか」
龍園の声が低くなる。
「内部協力者の可能性が高い」
綾小路が答える。
一瞬、場の空気が重くなった。
内部協力者。
それは、誰かがこの学校の中から、彼らを殺すために道を作ったという意味だった。
「……気持ち悪い」
長谷部が呟く。
「誰かが、私たちの動きを見てたってこと?」
「可能性はある。そして、頭が良い」
綾小路は否定しなかった。
「でも、今は犯人探しより脱出よ」
一之瀬が言う。
「生きて出ないと、何も分からない」
「正論ね」
堀北が頷く。
その時、また機械音が響いた。
前方だけではない。
左右の天井から、連続して警告音が鳴り始めた。
「まだ来るのかよ!」
須藤が叫ぶ。
「次は何だ!?」
「左右の区画が閉じます」
坂柳が言った。
「しかも、今度は片側だけではありません」
通路の左右にある防火扉が、次々と閉まり始める。
一枚。
二枚。
三枚。
まるで進路を限定するように、扉が閉じていく。
残された道は、中央の一本だけ。
だが、その先には赤い警告灯が明滅していた。
「誘導されている」
綾小路が言った。
「この先に何かある」
「なら別ルートを探すべきでは?」
平田が言う。
「探す時間がない」
南雲が即答した。
「背後は爆発、横は閉鎖。前に行くしかない。随分と分かりやすい」
「敵の掌の上というわけね」
堀北が悔しげに言う。
「掌の上でも、指の隙間はある」
綾小路は言った。
「そこを抜ける」
坂柳がわずかに笑う。
「詩的ですね」
「そう聞こえたなら偶然だ」
「では、偶然に期待しましょう」
一同は再び走り出した。
前方の通路は長い。
天井は低く、煙が溜まりやすい。
途中で何度も小爆発が起き、壁の内側から火が吹き出した。
小野寺が叫ぶ。
「左、火が来る!」
須藤が咄嗟に佐倉と長谷部を押しのける。
炎が横をかすめた。
「大丈夫か!?」
「う、うん……!」
長谷部が息を荒げる。
「須藤くん、助かった」
「礼は後だ!」
櫛田はみーちゃんを庇いながら進む。
「みーちゃん、足元!」
「はい……!」
軽井沢は佐藤の手を強く握っている。
「絶対離さないで」
「うん……!」
朝比奈は後方を見ながら南雲に声を飛ばす。
「雅、後ろから煙が来てるよ!」
「見えてる。急ぐぞ」
南雲はひよりの状態を確認しながら、伊吹と神室に言う。
「椎名を中央へ。端は危ない」
「分かってる」
伊吹がひよりの身体を引き寄せる。
「足、もう少し耐えなさい」
「……はい」
ひよりは痛みに顔を歪めながらも頷いた。
「平田くん、少しだけ右に寄ってください」
「分かった」
神室が冷静に足場を見て、ひよりの次の一歩を誘導する。
「そこは割れてる。踏まないで」
全員が、それぞれに誰かを支えていた。
普段なら同じクラス、違うクラス、敵、味方、上級生、教師という線引きがある。
だが今、その線引きは熱と煙の中で意味を失っていた。
生き残るには、隣の人間の手が必要だった。
その時、通路の先で再びシャッターが降り始めた。
今度は距離が近い。
間に合うかどうか、ぎりぎりだった。
「走れ!」
茶柱が叫ぶ。
「全員、走れ!」
だが、ひよりが遅れる。
足が限界だった。
「椎名さん!」
平田が支えようとする。
しかし、その瞬間、ひよりの膝が崩れた。
「……っ」
「椎名!」
伊吹が咄嗟に支える。
だが、全体の流れが止まりかける。
シャッターは迫る。
「俺が担ぐ!」
須藤が引き返そうとした。
「駄目だ、時間が足りない」
綾小路が言った。
須藤が怒鳴る。
「じゃあどうすんだよ!」
その瞬間、高円寺が動いた。
彼は軽やかにひよりの元へ近づき、片腕で彼女を抱え上げた。
「失礼するよ、お嬢さん」
「え……?」
ひよりが驚く間もなく、高円寺はそのまま走り出す。
坂柳はすでに龍園に支えられていた。
「おい、俺に二人目を押しつけるなよ」
龍園が言う。
「あなたの活躍どころです」
坂柳が返す。
「ぶん投げるぞ」
「丁寧にお願いします」
龍園は舌打ちしながらも、坂柳を支えて走る。
高円寺はひよりを抱えたまま、落ちかけるシャッターの下へ突っ込んだ。
「通れ!」
綾小路が叫ぶ。
一同が次々と滑り込む。
最後尾の真嶋が茶柱を押し込むように通し、自分も身を低くしてくぐる。
シャッターが背後で落ちた。
直後、また爆発。
だが今度は、前方にも異変があった。
天井のスプリンクラーヘッドのようなものから、液体が垂れている。
水ではない。
匂いが違う。
「油か?」
龍園が顔をしかめる。
「可燃性の液体ですね」
坂柳が言う。
「本当に悪趣味だな」
南雲が低く呟く。
床に広がった液体へ火の粉が落ちれば、一気に燃える。
「上を見ろ」
綾小路が言った。
「天井裏の配管が破れている。完全に広がる前に抜ける」
「でも滑るわよ」
堀北が言う。
「走れば転ぶ」
「なら歩くしかありません」
坂柳が答える。
「ただし、遅すぎても焼かれます」
「最悪だな」
龍園が笑う。
「龍園、お前が先頭で足場を確認しろ」
綾小路が言う。
「命令すんな」
「できるだろ」
龍園は数秒だけ綾小路を睨み、鼻で笑った。
「ハッ、いいぜ。ついてこい」
龍園が前に出る。
床を踏み、滑り具合を確認しながら進む。
「右は駄目だ。左寄れ」
「そこ踏むな。滑る」
「おい軽井沢、足元見ろ!」
「分かってるわよ!」
軽井沢が涙目で返す。
佐藤が小さく笑いそうになったが、すぐに顔を引き締める。
「軽井沢さん、こっち」
「ありがと……」
小野寺は濡れたタオルを床へ投げ、滑り止め代わりにする。
「ここ踏んで!」
「ナイス、小野寺!」
須藤が言う。
「当たり前でしょ、水回りは慣れてるの」
「頼りになるな!」
「今さら?」
その短い掛け合いが、ほんの少しだけ空気を和らげた。
だが、次の瞬間、天井から火の粉が落ちた。
床の液体に触れる。
一瞬、青白い火が走った。
「来るぞ!」
綾小路が叫ぶ。
床を這う炎が一気に広がる。
「走れ!」
今度は全員が駆けた。
滑る床。
迫る炎。
落ちる火の粉。
閉じていくシャッター。
誰かが誰かの手を引き、誰かが誰かの背を押す。
ひよりを抱えた高円寺が先に抜ける。
龍園が坂柳を支えながら抜ける。
平田が神室と伊吹を確認し、小野寺が佐倉を押し出す。
一之瀬が最後まで後ろを見ていた。
「一之瀬さん!」
堀北が叫ぶ。
「早く!」
「全員通った!?」
「通った、行け!」
一之瀬が走る。
その直後、床の炎が背後から追いついた。
綾小路が手を伸ばす。
一之瀬はその手を掴み、勢いのまま前へ引き込まれた。
炎がすぐ後ろで通路を包む。
「……ありがとう、綾小路くん」
「礼は後だ」
「うん」
一之瀬は苦しそうに微笑んだ。
そしてまた、全員が走り出す。
もう誰も、ここがただの学校だとは思っていなかった。
教室。
廊下。
階段。
防火設備。
避難経路。
すべてが、逃げる者を選別する仕掛けへ変えられている。
「これが……カーストリング」
ひよりが高円寺の腕の中で小さく呟いた。
「囲まれた階級社会の地獄、か」
南雲がその言葉を拾う。
「いい名前だ。最悪だがな」
坂柳が静かに言う。
「ええ。逃げ場のない輪です」
綾小路は前を見たまま言った。
「だが、輪なら切れ目がある」
「見つけられれば、ですね」
「見つける」
その言葉に、坂柳はわずかに笑った。
「頼もしいことです」
やがて、通路の先に屋上階段へ続く扉が見えた。
今度こそ、先が見えた。
しかし、その前に最後のシャッターが降り始める。
さらに背後では、今までで最大の爆発音が響いた。
熱風が押し寄せる。
全員が前へ吹き飛ばされそうになる。
「もう限界だ!」
真嶋が叫ぶ。
「全員、扉へ!」
綾小路は一瞬で判断した。
「高円寺、シャッターを支えろ。龍園、坂柳を先に。須藤、扉を開けろ。
南雲、後方を見ろ。堀北、一之瀬、列を整えろ」
指示が飛ぶ。
誰も反論しない。
高円寺がシャッター下に入り、両手で支える。
「今度は少々重いね」
「余裕そうに言うな!」
伊吹が叫ぶ。
須藤が扉へ体当たりする。
「開けぇぇ!」
一撃。
二撃。
扉が歪む。
真嶋が鍵束を取り出し、叫ぶ。
「どけ、鍵がある!」
「早く!」
茶柱が後ろを見ながら叫ぶ。
真嶋が鍵を差し込む。
手が震える。
だが、回る。
扉が開いた。
「行って!」
堀北が叫ぶ。
全員が階段へ流れ込む。
ひよりは平田たちに戻され、坂柳は高円寺が再び背負う。
軽井沢、佐藤、長谷部、佐倉、櫛田、みーちゃん。
一之瀬、須藤、小野寺、南雲、朝比奈、伊吹、神室、ひより、平田。
茶柱、真嶋。
龍園、堀北、坂柳、高円寺。
そして綾小路。
全員が、かろうじて階段へ入った。
背後でシャッターが落ちた。
その向こう側が、爆発で赤く光った。
音が遅れて届く。
階段全体が揺れた。
誰もが息を荒げていた。
誰もが限界だった。
だが、屋上への道は開いた。
「……今のが最後だといいんだけど」
軽井沢が震える声で言った。
「残念ながら、そう甘くはないだろう」
南雲が答える。
「やめてくださいよ、南雲会長……」
佐藤が泣きそうに言う。
「でも、進むしかありません」
ひよりが静かに言った。
その声に、皆が一瞬だけ彼女を見た。
守られてばかりだった少女が、痛む足を抱えながら、それでも前を見ていた。
「そうだね」
平田が頷く。
「行こう」
綾小路は階段の上を見た。
この先で、さらに大きな崩壊が待っている。
それは予感ではなく、確信だった。
だが、ここまで来た以上、戻る道はない。
綾小路と坂柳は、ほぼ同時に背後を見た。
閉じたシャッター。
赤く光る向こう側。
逃げ場のない輪。
カーストリング。
その内側で、彼らはまだ生きている。
「綾小路くん」
坂柳が言った。
「何だ」
「この先、さらに犠牲が出るかもしれません」
「分かっている」
「それでも、進むのですね」
「進まなければ、全員死ぬ」
坂柳は目を伏せ、そして静かに笑った。
「あなたらしい答えです」
「そうか」
「ええ。残酷で、正しい」
綾小路は何も返さなかった。
そのまま階段を上り始める。
堀北が続く。
龍園が続く。
一之瀬が、泣きそうな顔をしながらも前を向く。
全員が続く。
炎はまだ背後にある。
煙はまだ追ってくる。
建物はまだ崩れ続けている。
それでも、屋上へ向かう階段だけが、今の彼らに残された最後の道だった。
その先に待つ崩壊の頂点へ向かって、一同は足を止めることなく進んでいった。