カーストリング・インフェルノ   作:戦竜

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第九話 死刑台のエレベーター

シャッターとガスの罠を抜けた直後、

綾小路たちはまだ屋上階段へ向かう途中にいた。

 

だが、その通路も安全とは程遠かった。

 

背後では先ほど抜けた防火区画が爆発し、

閉じたシャッターの向こう側が赤く光り、

厚い金属板越しにさえ熱がじわじわと伝わってきていた。

 

「……もう嫌……」

 

軽井沢が小さく呟いた。

その声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。

佐藤は軽井沢の手を握ったまま、涙を浮かべている。

 

長谷部は佐倉の背中を支えながら、何度も「大丈夫」と言い続けていたが、

その言葉を一番信じられていないのは、おそらく彼女自身だった。

 

煙は薄くなったり濃くなったりを繰り返している。

 

廊下の上部に溜まった黒煙は、空調の異常な流れに押され、

時折、低い位置まで落ちてきた。

 

視界が白く濁る。

喉が痛む。

息を吸うだけで、身体の内側がざらつく。

 

「屋上階段まで、あとどれくらいだ?」

 

須藤が息を切らしながら聞いた。

 

「近い」

 

綾小路が答える。

 

「だが、この先の通路が使える保証はない」

「保証、保証って……そんなのばっかりじゃない」

 

軽井沢が震える声で言った。

 

「もう歩けないよ……」

 

その言葉に、佐藤も小さく頷いた。

 

「私も……足が……」

 

普段なら軽井沢は、こういう弱音を簡単には見せない。

だが、ここまでに彼女たちは何度も死にかけた。

 

仲間を失った。

 

逃げても逃げても、炎と煙と崩壊が追ってくる。

精神の限界が近づいていた。

 

その時だった。

 

通路の右側に、エレベーターホールが見えた。

赤い非常灯に照らされ、半分煙に沈んだその空間で、

奇妙なことにエレベーターの表示灯がまだ点いていた。

 

数字が変わっている。

 

動いている。

 

それは、この地獄の中では信じがたいほど明確な希望に見えた。

 

「……エレベーター」

 

佐藤が呟いた。

 

「動いてる……?」

 

軽井沢の目がそこへ向いた。

疲労と恐怖に支配された人間にとって、

階段ではなく箱に乗るだけで上へ行けるという事実は、あまりにも甘い誘惑だった。

 

「待て」

 

綾小路が言った。

だが、その声は一瞬だけ煙と警報音に紛れた。

 

「軽井沢さん、あれなら……」

「うん、屋上まで行けるかもしれない」

「駄目!」

 

今度は堀北の声も飛んだ。

だが、軽井沢と佐藤はすでに数歩先へ出ていた。

 

「軽井沢さん、佐藤さん、待って!」

 

一之瀬が追いかける。

 

その背後で、長谷部が佐倉を支えながら焦っていた。

 

「ちょ、ちょっと二人とも、勝手に――」

 

軽井沢は振り返った。

 

「だって、もう無理だよ!階段なんてまた崩れるかもしれないじゃん!」

「エレベーターは火災時に使うものじゃない」

 

綾小路の声が低く響く。

 

「シャフトが煙と炎の通り道になる。止まれば逃げ場がない」

「でも動いてるじゃん!」

 

軽井沢の声は悲鳴に近かった。

 

「ここにいたら焼かれるんでしょ!?だったら――」

 

その瞬間、エレベーターの扉が開いた。

内部の照明が明滅している。

煙はまだ入っていない。

床も無事に見える。

それは、彼女たちにとって逃げられる場所にしか見えなかった。

 

「佐藤さん行こう!」

 

軽井沢が佐藤の手を引いた。

 

「待て、乗るな!」

 

綾小路が走り出した。

 

だが、軽井沢と佐藤は半ば反射的に中へ飛び込んでしまった。

長谷部は佐倉を庇いながら、二人を止めようとした。

 

「軽井沢さん、待ってってば!」

「長谷部さんたちも早く!」

 

しかし、軽井沢が長谷部と佐倉の手を引き

2人もエレベーターの中へ押し込まれる形になった。

 

「え、ちょっと……!」

 

佐倉が怯えた声を上げる。

 

「降りろ!」

 

南雲が叫ぶ。

その手が扉へ届きかけた瞬間、エレベーターの扉が閉まり始めた。

龍園が横から飛び込むようにして、扉の隙間へ腕を差し込んだ。

 

「開けろ!」

 

だが、扉は異常な力で閉じようとする。

通常なら安全装置が働くはずだった。

しかし、今のこの学校に通常など存在しない。

 

「チッ、制御が死んでやがる!」

 

龍園の腕が挟まれかける。

須藤が加勢しようと走る。

 

「俺も――」

 

だが、その前に綾小路が龍園の肩を掴んだ。

 

「抜け。腕を潰される」

「まだ――」

「無理だ」

 

龍園は舌打ちし、腕を引いた。

扉が閉じた。

密閉された金属の音が、廊下に重く響く。

 

エレベーターの表示が動き始める。

上へ。

いや、最初はそう見えた。

 

「……上がってる?」

 

一之瀬が不安そうに表示を見る。

次の瞬間、表示灯が激しく点滅した。

数字が乱れる。

上昇していたはずの箱が、途中で止まった。

 

そして――下がり始めた。

 

「まずい」

 

綾小路の声が低くなる。

 

「止めるぞ」

「どうやってだよ!」

 

須藤が叫ぶ。

綾小路は周囲を見た。

 

エレベーターホール。

制御盤。

非常用工具箱。

天井点検口。

シャフトに繋がる点検扉。

 

使えるものは少ない。

だが、ゼロではない。

 

「南雲先輩、制御盤を見てください」

「わかった」

 

南雲はすぐに壁の管理パネルへ向かった。

 

「堀北、茶柱先生、真嶋先生、他の生徒を下げてくれ。

シャフトから煙が逆流する可能性がある」

「分かったわ」

 

堀北が即座に動く。

 

「全員、ホールから離れて!壁際に寄りなさい!」

「一之瀬、軽井沢たちに声をかけ続けろ」

「うん!」

 

一之瀬が扉の前へ駆け寄る。

 

「軽井沢さん!佐藤さん!長谷部さん!佐倉さん!聞こえる!?」

 

内部から、かすかな声が返った。

 

「聞こえる!何これ、止まったんだけど!」

 

軽井沢の声だった。

完全なパニックになる寸前の声。

 

「落ち着いて!今助けるから!」

「落ち着けるわけないじゃん!」

 

佐藤のすすり泣く声も聞こえる。

 

「煙……なんか、下から変な臭いがする……」

 

その言葉に、綾小路の表情がわずかに硬くなった。

下から。

つまり、シャフト下部で火が回っている。

 

エレベーターの箱は、煙突の中に吊られた金属箱と同じだった。

下から熱が来れば、逃げ道はない。

 

「龍園、須藤、高円寺」

 

綾小路が言う。

 

「扉をこじ開ける。だが、今いる階の扉を開けても箱はここにない。

シャフトを開いて位置を確認する」

「はっ、命令が多いな」

 

龍園が笑う。

 

「だが悪くねぇ」

「やるしかねぇだろ!」

 

須藤が拳を握る。

高円寺は髪を払って、悠然と笑った。

 

「美しい救出劇には、相応の役者が必要というわけだねぇ」

「坂柳」

 

綾小路が視線を向ける。

 

「箱の停止位置を推測できるか」

 

坂柳は高円寺の背から降ろされ、壁際に身を預けていた。

 

「表示が乱れる直前、上昇から下降へ切り替わりました。

落下ではなく制御不良による下降です。

完全に自由落下していないなら、非常ブレーキが部分的に生きています」

「今は?」

「おそらく、この階と下階の中間付近で停止しかけているか、低速で下がっている」

 

綾小路は頷く。

 

「なら、今の階の扉を開けても下半分しか見えない可能性がある」

「ええ」

 

坂柳の視線が制御盤へ向く。

 

「南雲先輩、非常停止系統は?」

「探してる」

 

南雲はパネルを開け、焦げた配線を確認していた。

 

「一部焼けている。通常操作は期待できない。

ただ、電源の遮断ならできるかもしれない」

「遮断すれば止まる?」

 

堀北が問う。

 

「場合による。ブレーキが生きていれば止まる。死んでいれば落ちる」

「最悪ね」

 

伊吹が吐き捨てる。

 

「だからタイミングが必要です」

 

坂柳が言った。

 

「箱がこの階に最も近づいた瞬間に電源を落とす。ずれれば救出が難しくなります」

 

綾小路は扉に手を置いた。

金属越しに、わずかな振動が伝わる。

 

箱が動いている。

ゆっくりと下へ。

そして、下から熱が上がっている。

 

扉の隙間から、灰色の煙が細く漏れ始めた。

 

「中はどうだ」

 

綾小路が扉越しに声をかける。

 

「ちょっと揺れてる……!」

 

長谷部の声。

 

「愛里が怖がってる!私も怖いけど!」

「ご、ごめん……」

 

佐倉の震える声。

 

「謝るな。全員、床に座れ。壁に背をつけろ。できるだけ低い姿勢を取れ」

「え、なんで?」

 

軽井沢が聞く。

 

「急停止する可能性がある。立っていると転倒する」

「分かった……!」

「煙が入ってきたら、布で口元を覆え。濡れている布があれば使え」

 

佐藤が泣きそうな声で言う。

 

「濡れてるの、ある……さっきのタオル……!」

「それを使え」

 

綾小路は短く答えた。

その落ち着いた声が、箱の中の四人をぎりぎりで繋ぎ止めていた。

 

しかし、下から迫るものは待ってくれない。

エレベーターシャフトの下方で、低く爆ぜる音がした。

次の瞬間、扉の隙間から赤い光が一瞬走った。

 

須藤が息を呑む。

 

「今の……」

「炎だ」

 

綾小路が言った。

 

エレベーターの下方から、炎が上がってきている。

 

それは普通の火ではない。

シャフトという縦穴に酸素を吸い込まれ、

下層階の爆炎がまるで煙突を逆流する龍のように上へ伸びている。

熱を帯びた空気が下から吹き上がり、金属の内壁を震わせ、

暗いシャフトの奥で橙色の光が脈打つ。

炎は一度引いたかと思うと、次の瞬間にはさらに強く膨れ上がり、

まるでエレベーターの箱そのものを獲物として追いかけているようだった。

 

「下から火が来てる!」

 

佐藤の声が内部から響いた。

 

「床が熱い……!」

 

軽井沢の声も震える。

 

その瞬間、ガンッと鈍い衝撃音がシャフト全体に響いた。

エレベーターの箱が、突き落とされたように一気に沈む。

 

わずか数十センチ。

だが、その落下は致命的な恐怖を伴っていた。

 

「きゃあああっ!!」

 

軽井沢の悲鳴が反響する。

 

「落ちる!落ちるって!!」

 

佐藤の声が裏返る。

 

箱の内部で身体が浮き、次の瞬間、床へ叩きつけられる音が重なる。

非常ブレーキが悲鳴のような金属音を上げ、再び噛み合う。

だが、その安定はあまりにも頼りなかった。

 

「……っ、今の……!」

 

須藤が息を呑む。

 

「ブレーキが限界だ……!」

 

南雲が低く言った。

下からは、さらに強い熱気が押し寄せてくる。

 

炎が迫っている。

 

しかも――箱は、確実に落ち始めている。

 

「綾小路、急げ!」

 

龍園の怒声が飛ぶ。

 

「もう一回でも落ちたら終わりだ!」

「きよぽん、早く!」

 

長谷部が叫ぶ。

 

綾小路は扉に耳を寄せ、箱の位置を判断する。

 

金属音。

ワイヤーの軋み。

非常ブレーキの不規則な引っかかり。

箱は完全に落ちているのではない。

 

下がっている。

 

だが、それは救いであると同時に、時間切れが近づいているということでもあった。

 

「南雲先輩、三秒後に電源を落としてください」

「三秒?」

 

南雲が振り返る。

 

「この振動なら、三秒後に箱の上端がこの階の床より少し下に来る。

そこで止めれば、上部ハッチか扉上部から引き出せる」

「外したら?」

「四人は助からない」

 

その言葉に、空気が凍った。

 

だが南雲は笑った。

 

「いいね。分かりやすい」

 

坂柳が静かに言う。

 

「綾小路くんの読みで正しいと思います。

今、遮断するならそのタイミングしかありません」

 

堀北が拳を握る。

 

「やるしかないわね」

 

一之瀬は扉に向かって叫ぶ。

 

「みんな、衝撃が来る!座って、頭を守って!」

「分かった!」

 

長谷部の声。

 

「愛里、頭下げて!」

「うん……!」

「佐藤さん、私の手掴んで!」

「軽井沢さん……!」

 

箱の中の四人が身を低くする気配がした。

 

綾小路が指を立てる。

 

「三」

 

炎の音が下から迫る。

 

「二」

 

扉の隙間から熱風が漏れる。

 

「一」

 

金属が軋む。

 

「落とせ」

 

南雲が電源を遮断した。

瞬間、エレベーターの駆動音が途切れた。

次に、凄まじい金属音がシャフト内で響いた。

非常ブレーキが噛んだのだ。

 

箱が急停止する。

内部から悲鳴が響く。

 

「きゃあっ!」

「うわっ!」

「愛里!」

 

だが、落ちてはいない。

 

止まった。

 

「龍園、須藤、開ける」

 

綾小路が言う。

 

「おう」

「任せろ!」

 

三人が扉に取りつく。

 

龍園が非常工具のバールを隙間に打ち込み、須藤が両手で扉を掴む。

綾小路は力任せではなく、ロックの位置を探り、解除可能な点に圧をかける。

 

「そこじゃない。右上だ」

 

坂柳が言う。

 

「扉の歪み方から見て、ロックは上部に残っています」

 

綾小路は即座に手の位置を変えた。

 

「龍園、上をこじれ」

「分かってる!」

「須藤、下を広げろ」

「おお!」

 

金属が軋む。

扉の隙間が広がる。

その奥に、エレベーターの箱の上部が見えた。

箱は階の床より下に止まっている。

ちょうど、人が出るには危険すぎるが、救助できないほどではない位置だった。

 

「よし」

 

綾小路が低く言った。

 

「高円寺、扉を支えろ」

「実に雑な扱いだねぇ」

 

高円寺はそう言いながら、片手で扉を押さえた。

扉の閉じる力を、ほとんど表情を変えずに止める。

 

「何なのあいつ……」

 

伊吹が呆れたように呟く。

 

「今は助かる」

 

神室が短く返した。

 

綾小路は隙間から下を覗いた。

箱の天井が見える。

天井ハッチがある。

 

「中の四人、聞こえるか」

「聞こえる!」

 

軽井沢の声。

 

「天井にハッチがある。開けられるか」

「天井!?無理でしょ!」

 

長谷部が叫ぶ。

 

「椅子代わりになるものは?」

「手すりしかない!」

「佐藤と長谷部で佐倉を支えろ。恵はハッチの留め具を探せ」

「あ、あたし!?」

「一番近い」

 

一瞬、軽井沢は黙った。

それから、震える声で答えた。

 

「……分かった。やる」

 

その声は弱かったが、逃げていなかった。

 

箱の中で、四人が動き始める。

床は熱を持ち始めていた。

下から爆炎が迫っている。

 

シャフトの底から上がる赤い光が、箱の隙間を通して内部を不気味に照らしていた。

炎は、真下にいた。

シャフトの底部で生まれた火柱が、

空気を吸い込みながら縦に伸び、金属壁を舐めるように上昇してくる。

その光は一瞬ごとに強くなり、

まるで地の底から巨大な炉がせり上がってくるようだった。

箱の床が熱を帯び、内部の空気が重くなり、煙がわずかずつ入り込み、

呼吸をするたびに恐怖が肺の奥へ溜まっていく。

 

「熱い……!」

 

佐藤が泣きそうに言う。

 

「まだ耐えろ」

 

綾小路は答える。

 

「すぐ引き上げる」

「すぐって、どれくらい!?」

 

軽井沢が叫ぶ。

 

「今だ」

 

その時、箱の天井ハッチが内側から開いた。

細い隙間から、軽井沢の手が出る。

 

「開いた!」

「佐倉を先に」

 

綾小路が言う。

 

「なんで私……!」

 

佐倉の声が震える。

 

「一番動きが遅い。先に出す」

「言い方!」

 

長谷部が怒鳴る。

だが従った。

 

佐倉がハッチから顔を出す。

怯えた目で上を見上げる。

綾小路は隙間から腕を伸ばした。

 

「手を出せ」

「こ、怖い……」

「下を見るな。オレを見る」

 

佐倉は震えながら手を伸ばした。

綾小路がその手首を掴む。

 

同時に、須藤が身を乗り出した。

 

「俺も掴む!」

「落ちるなよ」

 

龍園が須藤の腰を掴む。

 

「うるせぇ!」

 

須藤と綾小路が佐倉を引き上げる。

 

高円寺が扉を支え、堀北と一之瀬が上から佐倉の肩を掴む。

 

「あと少し!」

 

一之瀬が叫ぶ。

佐倉の身体がシャフトの隙間から引き出される。

床へ転がるように出た佐倉を、長谷部ではなく堀北が受け止めた。

 

「無事?」

 

佐倉は泣きながら頷いた。

 

「次、佐藤」

 

綾小路が言う。

 

箱の下から、炎の音がさらに近づいた。

今や赤い光は隙間からはっきり見えている。

シャフトの内壁に沿って火の粉が舞い上がり、熱風が下から吹きつけてくる。

箱の底が焼かれ、金属が膨張するような音が聞こえた。

 

「急げ!」

 

龍園が怒鳴る。

佐藤がハッチから出る。

泣きながらも、必死に手を伸ばす。

 

「先に行くね!」

「早く行って!」

 

軽井沢が下から押し上げる。

佐藤の手を、南雲と一之瀬が掴む。

 

「せーの!」

 

引き上げる。

 

佐藤は途中で足を滑らせかけたが、須藤が腕を伸ばして支えた。

 

「落ちんな!」

「ご、ごめん!」

 

佐藤も外へ出た。

 

次は長谷部。

 

「愛里、離れないで!」

 

長谷部はそう言ってから、自分がまだ中にいることに気づき、

苦笑する余裕もなくハッチへ向かった。

 

「波瑠加ちゃん、早く!」

 

佐倉が叫ぶ。

長谷部はハッチから出ようとした瞬間、箱が大きく揺れた。

非常ブレーキが熱で緩み始めたのだ。

箱が数センチ落ちる。

 

全員の顔色が変わる。

 

「まずい」

 

坂柳が言う。

 

「長く持ちません」

「分かってる!」

 

龍園が叫ぶ。

綾小路が長谷部の腕を掴む。

 

「掴まれ」

「掴んでる!」

 

長谷部の身体が引き上げられる。

 

だが、その背後で軽井沢が咳き込んだ。

煙が入り始めている。

 

「軽井沢さん!」

 

堀北が叫ぶ。

 

「大丈夫!早く長谷部さんを!」

 

長谷部が外へ引き出される。

 

残るは軽井沢だけ。

 

箱の下から爆炎が迫る。

 

それはもう遠くで燃えているものではなかった。

 

シャフト下方で渦巻いていた火柱が、

突然、呼吸をするように大きく膨らみ、箱の底を赤く染めた。

 

熱が金属を伝って上がり、

エレベーターの床は灼けた鉄板のように温度を増していく。

 

空気が膨張し、箱の内部で圧が変わる。

照明が消え、赤い炎の光だけが下から揺らめいた。

軽井沢の顔が、その赤い光に照らされる。

恐怖で引きつった表情。

それでも、彼女は泣き叫ぶだけではなかった。

ハッチへ手を伸ばし、自分で上がろうとしている。

 

「恵、手を伸ばせ」

 

綾小路の声が飛ぶ。

 

「無理……足元が熱い……!」

「手を伸ばせ」

「分かってる!」

 

軽井沢は歯を食いしばり、ハッチから腕を出した。

綾小路がその手首を掴む。

 

次の瞬間だった。

ガンッ、と内側から叩きつけられるような衝撃とともに、箱がさらに大きく沈んだ。

それは落下というより、足場そのものが引き剥がされるような感覚だった。

 

「――っ!」

 

軽井沢の身体が一気に下へ引き込まれる。

 

腕が伸びきる。

関節が悲鳴を上げる。

視界の下で、シャフトの奥が赤く開いた。

爆炎が、まるで口を開けた獣のように迫っている。

熱が一瞬で距離を詰め、軽井沢の足元を舐めるように這い上がる。

 

「お、落ちる……っ!!」

 

軽井沢の声が掠れる。

綾小路の身体も前へ引きずられ、足場が半歩分滑る。

 

シャフトの縁が、すぐそこまで迫る。

そのまま崩れれば、二人とも下へ落ちる。

 

「放すなよ!」

 

龍園の怒声が飛ぶ。

同時に、龍園の手が綾小路の服を掴んだ。

 

強引に、後ろへ引き戻す。

 

須藤も反射的に綾小路の腰へ腕を回す。

だが、引く力と落ちる力が拮抗する。

軽井沢の体重と落下の勢いが、綾小路の腕を下へ引き続ける。

 

握力が試される。

ほんの少しでも緩めば、その瞬間に終わる距離だった。

 

「落ちんな!」

 

須藤も綾小路の腰を支える。

高円寺は扉を支えたまま、片足でシャフト縁に体重をかけている。

南雲が反対側から補助に入る。

 

「これはなかなか派手だな!」

「笑ってる場合か!」

 

須藤が怒鳴る。

 

坂柳が叫んだ。

 

「箱のブレーキが限界です!あと一度沈めば、位置がずれます!」

「綾小路くん!」

 

堀北の声。

 

「引き上げるぞ!」

 

龍園が怒鳴る。

 

「せーのじゃ遅ぇ!今だ!」

 

全員が力を込める。

綾小路は軽井沢の手首を離さなかった。

軽井沢も必死に掴んでいる。

 

「放すな」

 

綾小路が言う。

 

「放すわけないでしょ!」

 

軽井沢の叫びが返る。

次の瞬間、下から炎が吹き上がった。

シャフトの奥で爆炎が弾け、熱風が縦穴を駆け上がる。

炎は箱の底を舐め、金属の隙間から赤い光を噴き上げ、

まるで軽井沢の足元まで届こうとしていた。

 

箱の下部が熱で軋む。

ワイヤーが悲鳴を上げる。

 

全員の力が一点に集中する。

綾小路は腕の角度を変え、

軽井沢の身体がシャフトの縁に引っかからないように、わずかに横へずらした。

 

力任せではない。

摩擦を減らし、最短で引き上げる。

 

その一瞬の判断が、軽井沢の身体を救った。

 

軽井沢が外へ引き出される。

その直後、エレベーターの箱が大きく沈み、下方へ落ちた。

数秒遅れて、シャフトの中で爆炎が箱を飲み込んだ。

扉の隙間から、真っ赤な光が噴き上がる。

熱風が廊下へ吹き出し、全員が後ろへ倒れ込む。

 

次の瞬間、シャフトの奥で巨大な火柱が膨れ上がった。

それは単なる炎ではなく、圧力を伴って一気に押し出される爆発の奔流だった。

閉じられたはずの空間を突き破るように、火が縦穴を駆け上がる。

炎の壁は叩きつけるように暴れながら広がり、金属を赤熱させていく。

内部で圧縮されていた熱気が解放され、轟音とともに衝撃波が押し寄せる。

扉の隙間から噴き出した炎は、まるで獲物を求める手のように廊下へ伸びた。

一瞬遅れていれば、その指先は確実に誰かを掴み取っていただろう。

空気そのものが焼け、呼吸するだけで肺が灼かれるような熱が全身を包み込む。

 

「閉めろ!」

 

炎がほんの僅かに弱まった瞬間、真嶋が叫ぶ。

龍園と須藤と高円寺がすぐに全力で押し戻し、歪んだ扉を閉じる。

 

金属の向こう側で、爆炎が唸る。

もし軽井沢を引き上げるのが数秒遅れていれば、彼女は箱ごと炎に呑まれていた。

 

軽井沢は床に倒れ込み、荒く息をしていた。

涙が頬を伝っている。

 

佐藤が駆け寄り、長谷部と佐倉も彼女を囲む。

 

「軽井沢さん!」

「だいじょうぶ!?」

「よかった……本当に……!」

 

軽井沢はしばらく声を出せなかった。

 

ただ、震える手で綾小路の袖を掴んだ。

 

「……ありがと」

 

それだけ言った。

綾小路は彼女を見下ろす。

 

「間に合ってよかった」

「怖かった……怖かったよぉ……」

 

軽井沢は泣きながら涙を流した。

だが、その涙は生きているからこそ出せるものだった。

 

龍園が荒く息を吐く。

 

「ったく、エレベーターなんざ使うからだ」

 

佐藤がうつむく。

 

「ごめんなさい……」

 

長谷部も唇を噛んだ。

 

「私たち、焦って……」

 

佐倉は涙を浮かべていた。

 

「ご、ごめんなさい……」

「責めてる場合じゃないわ」

 

堀北が言った。

 

だが、その声は少しだけ厳しかった。

 

「でも覚えておきなさい。火災時のエレベーターは逃げ道じゃない。

閉じ込められれば終わりよ」

「……うん、ごめん……。清隆も、みんなも、助けてくれてありがとう……」

 

軽井沢は小さく頷いた。

 

一之瀬が四人に近づき、まとめて抱きしめるように手を回した。

 

「生きててよかった」

 

その声は震えていた。

 

四人も、ようやく泣き出した。

張り詰めていたものが、そこで少しだけ崩れた。

 

しかし、綾小路はすぐに立ち上がった。

 

「移動する」

「もう少し休ませてやれよ」

 

須藤が言った。

 

「エレベーターシャフトが爆炎の通路になった。ここにいると扉が持たない」

 

その言葉に、全員が金属扉を見る。

扉の隙間から、赤い光が漏れている。

 

内部で炎が暴れている。

 

エレベーターはもう、完全に死の縦穴になっていた。

 

南雲が軽く息を吐く。

 

「助かった直後に次の危険か。本当に忙しい学校だ」

 

坂柳が静かに言う。

 

「ですが、今の件で分かりました」

「何が?」

 

堀北が問う。

 

「仕掛けた側は、焦った生徒が選びそうな道を潰しています」

 

坂柳はエレベーターの扉を見た。

 

「階段が怖い者はエレベーターへ向かう。

疲れた者は楽な道を選ぶ。そこを狙っている」

 

綾小路も頷く。

 

「つまり、危険なのは炎だけじゃない」

「判断ミスそのものが罠になる」

 

坂柳が続けた。

 

その言葉に、軽井沢が小さく震えた。

 

「……あたしたち……」

「生きているなら、次に間違えなければいい」

 

綾小路は短く言った。

軽井沢は顔を上げる。

綾小路の声は優しくはなかった。

 

だが、責めてもいなかった。

ただ、次へ進むための言葉だった。

 

「行くぞ」

 

綾小路が言った。

 

今度は誰も反論しなかった。

 

軽井沢は佐藤の手を握り、長谷部は佐倉を支え直した。

 

四人はもう、エレベーターを振り返らなかった。

 

そこにあったのは希望ではない。

 

楽な逃げ道でもない。

 

炎へ続く縦穴だった。

 

一同は再び屋上階段へ向かって進み始める。

背後では、エレベーターシャフトの中で爆炎が唸り続けていた。

下から突き上げるような赤い光が、閉じた扉の隙間から漏れ、

廊下の床を不気味に照らしている。

 

その光は、まるで彼らの判断を試すようだった。

 

どの道を選ぶか。

 

誰を信じるか。

 

どこで足を止めるか。

 

この学校は、最後の最後まで彼らを選別しようとしている。

 

綾小路は前だけを見た。

坂柳も、堀北も、一之瀬も、龍園も、それぞれの思いを抱えながら進む。

 

エレベーターの檻を抜けた彼らの先には、まだ屋上へ続く炎の階段が待っていた。

 

だが、今度は全員が理解していた。

 

ここから先、救いに見えるものほど疑わなければならない。

 

そして生き残るためには、楽な道ではなく、正しい道を選ばなければならないのだ。

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