寒波が僅かに和らぎ、薄鈍色の空の隙間から眩しい西日が覗く。
時刻は16時58分。
「…くしっ!」
微かに吹いた東風が、駅のベンチで電車を待つ遥人の鼻腔をくすぐり、くしゃみを誘う。
遥人はすんと鼻を啜ると直ぐに手元の小説に目を落とし直した。
「可愛いくしゃみだね」
虚をつかれたような顔で、遥人は声のしたほうへ顔を向けた。
「や。また会ったね」
「…お疲れ様です」
「何それ。 ビジネスマンみたい」
柔和な笑みをうかべた女性は、遥人の隣に一人分ほどの間をあけて腰掛けた。
「今帰り? 今日は早いんだね」
「昨日はちょっと面談があったので…早く終わっても結局は待たないといけないんですけどね」
余白だらけの色褪せた時刻表を横目に、遥人がぼやく。
「わざわざ寒空の下で待たなくても図書室とかで時間潰せばいいのに」
「一個下のやつらがたまり場にしてるんで…落ち着かなくて」
「あー…」
女性は納得、と言わんばかりの声を漏らして苦笑いする。
「たむろするのはいいんだけど場所考えてほしいよね。私が学生の頃もうるさい奴らがいてね」
「やっぱりどこにでも一定数いるんですかね」
「せっかく授業サボってても見つかりづらい昼寝スポットだったのに」
「…それはお姉さんも悪い気がしますけど」
「…真面目なんだねぇ」
束の間の沈黙の後、はっと思い立ったように女性が口を開く。
「そういえばね、私も昨日の帰りに買ったんだよ」
女性は鞄の中から1冊の文庫本を取り出すと、遥人の眼前に突き出した。
「あ…『若きウェルテルの悩み』…」
「うちの近くに古本屋があるんだけどさ、なんとなく立ち寄ったら偶然見つけちゃって」
女性はそう言いながら、手袋をしたまま器用にパラパラと捲り始めた。
「読みづらくないんですか、それ」
「だって寒いじゃん。冷え性だからあまり手足出したくないんだよ」
じゃあ家に帰ってから読めばいいのに、と出掛かった言葉を遥人はぐっと飲み込んだ。
「…じゃあ家に帰ってから読めばいいのに、とか思ってるでしょ」
ばれていた。
「君ってクールそうに見えて意外と表情に出やすいタイプだね」
「…初めてそんなこと言われましたよ」
少しだけ自嘲気味に笑うと、遥人も鞄から本を取り出し、栞を挟んだページを開く。
再び訪れた沈黙。
その沈黙を破ったのは、また女性の声だった。
「…ちなみにどこまで読んだ?」
「…言っていいんですか?」
遥人は自分が先行していた場合を想定して確認をとる。
「ああ、大丈夫大丈夫。私ネタバレとかあまり気にしないタイプだから」
それはどうなんだ、と思いつつも遥人は核心に触れない程度に言葉を選んで答える。
「まだ序盤も序盤ですよ。ウェルテルとロッテが舞踏会で出会った辺りです」
「お、じゃあちょうど同じくらいだね。私がほんのちょっとだけ進んでるかな?」
昨日から読み始めてもう追いつかれてるのか、と遥人は何故か少しだけ負けた気持ちになる。
「…もう追いつかれてるのか、って顔してるね」
これもばれていた。
「本なんてゆっくり読むに越したことないよ。せっかくお金出して買ったんだから長く楽しまないと損でしょ」
「…そういうもんですかね」
「そういうもんだよ」
そんな他愛もない会話をしていると、遠くから列車のジョイント音が響いてくる。
「あ、今更だけど名前聞いてなかったね」
「…宮嶋です。宮嶋遥人」
「おっけー。遥人くんね。また明日もこのくらいの時間でしょ? 私もまた明日来るから感想会しようよ」
遥人が口を挟む間もなく一方的に決めると、女性は列車に乗り込む。
「…自分は名乗らないのか」
遠くなっていく列車を眺めながらそう呟くと同時に、この考えも見透かされているのだろうか、と思う遥人であった。