花海咲季からは逃げられない   作:幻の大地

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揺れ動く心

 

 

翌日。

 当然といえばその通りだが、やはり仕事に中々集中できなかった。

 

 昨夜、あの公園で目にした光景──。街灯の下で独り佇んでいた彼女の姿は、幻覚だったのではないかとさえ思う。

 

 そもそも、彼女はあんな夜更けに外出するような人では無かったはずだ。誰よりも体調管理に気を配っていた人が、深夜に出歩いて生活リズムが崩れるような行為をするわけがない。

だからきっと、あれは俺の思い違いだ。

 そう思い込みたかった。

 

窓口に座り、ひたすら申請書類の不備を指摘し、手続きを進める。ここにはステージの光も、アイドルのパフォーマンスも届かない。

 俺にとってはこれでいいのだと、自分に言い聞かせるように、手をひたすら動かしていた。

 

「次の方、どうぞ」

 

普段通り、待合室に向かって受付番号を呼ぶ。

 

 番号札を片手に目の前に立った男は、スーツを隙なく着こなしていた。

 その雰囲気に、俺にはない『熱意』を感じ取ってしまった。

 きっとこの人は仕事に誇りをもって努めているんだろう。勝手な想像でしかないというのに、自己否定に走ってしまう。

 ……これは重症だな。

 

「……失礼します。撮影許可の申請に来たんですが、窓口はここで間違いないでしょうか?」

 

手渡された書類に目を落とす。そこに記された名前を目にした瞬間、俺の思考が一瞬だけ停止した。

 

 

『100プロダクション 係員 天野 光』

 

学園時代の同期であり、かつては同じ夢を語り合った数少ない友人の名前が、そこには記されていた。

 

そして今、あの花海咲季の妹である「花海佑芽」のプロデューサーとして、業界の最前線を走っている男でもあった。

 

 どうしてこうも、偶然が重なるのだろうか。

 

「……え?……おい、嘘だろ」

 

書類を受け取る俺の手元から、天野の視線がゆっくりと上がってくる。

 俺の顔を認識した瞬間、彼の表情から余裕が消え、剥き出しの驚愕が取って代わった。

 

「君……どうして、君がこんなところにいるんだ? 学園を卒業した後、プロデューサーにもならずに忽然と姿を消して以来、誰も君の行方を知らなかったんだぞ」

 

天野の声が、静かな役所のロビーに場違いなほど響く。

一瞬注目を集めたが、すぐに興味を失ったのか、客たちは各々の会話を続けている。

 ……とんでもない質問が飛んできたな。これを、俺に答えることは到底できない。 

 

「……書類に不備がなければ、手続きを進めますが」

 

結果、俺は感情を殺し、できるだけ事務的な言葉を返した。

 あくまで俺はこの役所の歯車の一つでしかないのだと。そう主張するように、彼の顔を決して見ることはしなかった。

 だが、天野は納得した様子もなく、食い入るように俺を見つめていた。

 

「……君ほどの才能がある人間が、ずっと行方をくらませて、こんなところで油を売っていたっていうのか」

 

彼の言葉には、かつての友としての憤りと、理解できないものを見る困惑が入り混じっているように感じた。

 いや、はたまたただ呆れているだけか。

 

「……すみませんが、こちらにサインをお願いします。」

 

それでも俺は、逃げを選択した。

 合わせる顔がないのは、担当アイドルだけではないのだ。

 

だが、天野は引き下がらなかった。彼はカウンターに身を乗り出し、声を落として続けた。

 

「……佑芽さんが、どれだけ君を……いや。咲季さんが、今どういう状況か、君は知っているのか」

 

その名が出た瞬間、俺の胸の奥は、ナイフで抉られたような痛みに襲われた。

平静を装おうにも、彼に向ってこれ以上ビジネススマイルを向けることは、困難だった。  

 ……この執着心、あの頃から全く変わっていないんだな。

 

「……ハァ。悪いけど、今は仕事中なんだ。話はあとで聞くから、この場は一旦手続きを進めさせてくれないか」

 

この場を一旦保留にすること、これが今の自分にできる精一杯だった。

 俺の返事に、彼はにやりと笑った。

 

 

 

定時を過ぎ、ネクタイを緩める間もなく役所を出た。入り口では、昼間と変わらぬ隙のないスーツ姿の天野が待っていた。

 ……事務所には戻らなかったのだろうか。

 

 合流した俺は、彼に促されるまま、路地裏にある場違いに騒がしい居酒屋の暖簾をくぐった。

 店内に充満する安酒と油の匂い。かつて、学園の寮で「いつかプロとして成功したら、高い店で祝杯をあげよう」などと、彼女と青臭い夢を語り合った記憶が、不意に脳裏を掠めた。

 

席に着くなり置かれていたお通しを、俺は口に運びながら溜息をつく。

 

 目の前の天野は、注文して間もなく届いたビールジョッキをテーブルに置くと、俺を真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

「改めて聞く。なんであの時、忽然と姿を消したんだ。卒業式の後、誰とも連絡を絶って……。

 君たちはあのH.I.F.で優勝したんだ。咲季さんと一緒にトップアイドルを目指す、誰もがそう思っていたはずだ」

 

天野の言葉は、かつての友人としての純粋な疑問だった。

 無理もない。何故なら、俺はあの日、誰にも、そして彼女にすら本当の理由を告げずに逃げ出したのだから。

 

「……プロデューサーとして俺は、プロになるには至らなかった。ただ、それだけのことだ」

 

乾いた声で返し、冷えた酒で喉を流す。

だが、やはり天野は納得しなかった。

 

「そんなわけあるかよ。お前がそんな理由で放り出すような奴じゃないことは、俺が一番よく知ってる。……お前がこうして隠れている間に、咲季さんがどうなっているか分かってるのか」

 

天野はスマホを取り出し、最新の音楽チャートの画面を見せた。そこには、完璧な微笑みを浮かべる彼女の宣材写真が並んでいる。

 

「……これは」

 

 こんなもの、いつもテレビやSNSで見ているというのに、それでも尚動揺してしまった。

 

「今の咲季さんは、事務所の意向で、彼女の泥臭さや、あの苛烈なカッコよさを無駄ものとして削ぎ落としているんだ。……とにかく真っ白で、綺麗で透明無垢なアイドル。それが今の咲季さんのコンセプトさ」

 

天野の言葉が、昨夜、あの公園で目にした彼女の姿と重なる。

 街灯の下、ボロボロになりながら、今はもう誰にも求められていないはずの姿を魅せていた。

 彼女にとっても、事務所の意向は望まないものなのかもしれない。……いや、望むはずがないことは分かっている。

 

 絶対に諦めない。絶対に挫けない。そんな不撓不屈の精神が、彼女のアイドルとしての根幹になっていたことは、俺が一番知っているのだ。

 

 だというのに、この3年間、俺は今の彼女の姿を見て何も行動を起こそうとはしなかった。

……もう、それが答えなんじゃないのか。

 

 俺は無意識にジョッキを握る力を強めていた。

 

「佑芽さんは、咲季さんの変貌を誰より危惧しているし、その理由がたった一つだってことも知っている。だけど、その原因を取り除くことは俺にも、佑芽さんにもできないんだよ。」

 

「……それは」

 

「今の咲季さんはプロデューサーもつけずに活動しているんだ。この意味、君ならわかる筈だろ」

 

その言葉に、俺は頷くことも、首を振ることもできなかった。

原因は分かっている。けれど、それを認めてしまうことは、俺の過去の選択が間違っていた事になってしまう。

 あれだけ苦しんで、思い悩んで出した結論を、自分で簡単に否定することなんてできない。

 

俺のハッキリしない態度に痺れを切らしたのか、天野はジョッキを掴み、一気に半分ほど煽ってこう言った。

 

「なあ。頼むから教えてくれ。君ほどの奴が、どうしてプロデューサーの道を歩まなかったんだ。君がいれば、彼女がこんな風に自分を殺すことなんてなかったんじゃないのか」

 

その真摯な問いに、俺の中でギリギリと保っていた「仮面」にヒビが入る音がした。

 美談なんかじゃない。俺の失踪は、誰かのためを想った自己犠牲なんかでは決してないのだから。

 

 

「……俺は」

 

気づけば、口が動いていた。三年もの間、心の奥底で腐らせていた泥水のような本音が、喉を這い上がってくる。

 

「俺は……耐えられなかったんだよ、天野」

 

「……どういう意味だよ」

 

「1月に就職前の面談があったろ。あの時に学園の上層部から言われたんだよ。H.I.F.で優勝できたのは咲季さんの力であって、俺は誰にでも代わりが務まる存在に過ぎないってな。

だから、……100プロへの推薦も、俺には出なかった」

 

「代わりって……、そんなはずないだろ!

 一年のときのH.I.F.のことは今でも覚えている。一度は佑芽さんに負けた彼女が立ち上がれたのは、君のプロデュースあってのことじゃなかったのか?」

 

 天野の言葉に、込み上げるものがあったのか、言葉が一瞬出なかった。

 そんなこと、俺が一番知ってるんだよ。

 花海さんは完璧なんかじゃない。彼女の魅力は、どんな逆境でも諦めない精神性だったのだから。

 けれど、そんなことを理解してくれる人間はそう多くはなかったのだ。

 

「誰も途中経過なんて見ちゃくれないんだよ。学園からすれば、花海咲季はトップの成績で入学し、トップの成績で卒業していった存在なんだからな。

 誰が彼女をプロデュースしたとて、同じ結果になっただろうと思ったんだろうよ」

 

天野が息を呑む気配がした。俺は自嘲するように口角を上げる。

 こんなこと、誰にも言葉にしたことはない。ずっと一人でため込んできたのだ。

 けれど、いざ口にすると、少しスッキリした気分になる。

 もしくは、ただアルコールに惑わされているだけか。

 

 だが、そんな俺の態度が気にくわなかったのか、天野は追撃の手をやめなかった。

 

「だけど、それなら100プロ以外の事務所に行くことだってできたはずだろう!

 君と咲季さんなら何処でだって同じように輝けたはず__」

 

「そんなこと、できるわけないだろ!」

 

彼が言葉を紡ぎ終えるよりも前に、俺は叫んでしまった。

 しまった、と思った。けれど、一度口にしてしまったものはもう止められない。

 

俺は!ジョッキの表面を滑り落ちる水滴を、ただぼんやりと見つめながら、ぽつぽつと話す。

 

「……俺の実力不足で、担当アイドルの足を引っ張ることなんてできないだろ。共にトップアイドルを目指すのだと、夢を誓い合った相手に、まさか実力不足で事務所への推薦が貰えなかっただなんて、口が裂けても言えなかったよ。」

 

「そんな!実力不足なわけがないだろ。あのころの同級生全員に聞けば分かるさ。君は__」

 

「いいんだよ、天野。 結局俺は、自分のプロデュースすらできてなかったんだよ。就職活動ってのはそういうものだろ。自分の価値を思い知らすことができなかった時点で、俺の責任でしかないだろ」

 

 そんな言い訳がましい言葉を紡いでる途中で、湧き上がってくるあの頃の記憶。

 

『新しい事務所はどんなところかしらね』

 

『…事務所、ですか』

 

『ええ、今までは教室を使ってたでしょう?

 ここも好きだけど、ちょっといつもの学校と変わり映えないもの。もっと事務所っぽい雰囲気があるといいわね!』

 

『……そうですね、椅子はオフィスチェアだとありがたいですね』

 

『ええ、流石に硬くて疲れるもの__』

 

 推薦を得られなかったことを隠したまま、卒業式まで彼女と接していた2月。彼女が将来のことを語るたびに、俺は叫びそうになる心を落ち着けて、なんとか会話を続けていた。

 自分は翼になれなくとも、踏み台にはなれたのだと。そう言い聞かせなければ耐えられなかった。

 

「結局、俺は彼女と対等でいられなかったことに、耐えられなかったんだ。

 けれど、それでもいいって思ったんだ。少なくとも、学園時代の彼女が夢へと進むための土台ぐらいにはなれたんだからな」

 

「……そうか」

 

俺の惨めで、ひどく自分勝手な告白を聞き終えても、

 彼は静かに目を伏せ、冷えきったジョッキの表面を指でなぞった。

 軽蔑されるだろうと思った。

 自分のプライドの為に、簡単に夢を諦めてしまった俺は、彼にとっては許容しがたい存在だろう。

 だが、天野の口から細く吐き出されたため息には、どこか苦い共感のようなものが混じっていた。

 

「……結果がすべてのこの世界で、自分の居場所を『代わりが利く』と否定されることの恐ろしさは、俺もよく分かるよ

 俺だって、今でも自分のアイデンティティに悩むこともあるからね」

 

天野はジョッキを持ち上げ、残っていた酒を静かに飲み干した。

 それから、真っ直ぐに俺の目を見据える。その瞳には、かつての級友としてではなく、最前線で戦い続けるプロデューサーとしての鋭い光が宿っていた。

 

「だけど、諦めの悪い君のことだ。このまま夢から逃げたままじゃ終われないはずないだろ」

 

「……何言ってるんだよ。もう俺は諦めたんだよ。だからこんなアイドルとは無関係な仕事を……」

 

 それに、天川から、東京から逃げるために、俺はわざわざ大阪で就職したのだ。異動にこそなってしまったが、どうせまた3年もすればどこかへ異動になるのだ。

 ジョッキを下ろし、一息ついた俺に、天野は鞄の中から、クリアファイルに挟まれた数枚の企画書を取り出し、テーブルの上に置いた。

 

「それなら、その公務員としての優秀な事務処理能力を、少しだけ貸してくれないか」

 

「……は?」

 

当惑する俺に、彼はファイルの中身を少し見せながら話を続ける。

 

「次に咲季さんが控えている、大規模なソロライブの構成案だ。……見れば分かる通り、今まで通りの、事務所の都合が色濃く反映されたものだ」

 

俺はテーブルに置かれた書類から目を逸らせなかった。

 今の彼女が、どんなプランで活動しているのか知りたいという気持ちと、見てはいけないのだという拒絶が二律背反となって俺を押し付けてくる。

 

「佑芽さんを最高のアイドルにするためには、最大の敵である咲季さんにも、最高の状態でいてもらわなきゃ困るんだ。今の彼女を倒しても、佑芽さんは絶対に納得しない」

 

天野は身を乗り出し、声を一段と低くした。

 

「そこでだ。君に、彼女のための裏のプロデュースプラン……ライブのセットリストや演出、トレーニングメニューの抜本的な修正案を書いてほしい」

 

 耳を疑った。願ってもいないことだと思った。

 あの日投げ出した夢をもう一度追えると思った。

 

__けれど、それはもう諦めたことなのだ。

 

「馬鹿なことを言うなよ。今の俺にそんなことできるわけないだろう。それに、俺が作成したものなんて彼女は……」

 

「名前は出さない。君が表舞台に立つ必要もない。現場のスタッフを通じて、あくまで『コンサルタントからの提案』として処理する。これなら事務所も納得するだろうしね」

 

心臓が、早鐘を打っていた。

 彼の言葉が、だんだんと俺の逃げ場を無くしていく。

 駄目だ、引き受けてはならない。。何としてでも何か言い訳を作らねば__

 

「……君のプロデュースの力は、無価値なんかじゃない。それを、君自身の手で証明してみせなよ。

……言っておくけど、今でも君のことはライバルだって思ってるんだぜ」

 

天野の真っすぐな言葉が、逃げ道を断つように俺の胸に突き刺さった。

 

気づけば、俺はファイルを受け取ってしまっていた。

 

 

 

天野と居酒屋で別れてから数日後。

 残業を終えた俺は、重い足取りで夜の街を歩いていた。

 

天野から手渡されたクリアファイルが、鞄の中で異様に重く感じられる。

 

ただの一般人である俺が、これに手を出していいはずがない。

そうわかっているはずなのに、いつまで経っても断りの連絡を入れることもできなかった。 

 

……なんて醜いのだろう。

 

 俺はきっと、天野に否定してほしかったのだ。そうでなければ、俺自身の手で夢を完全に諦めることができないのだと分かっていたのだ。

 誰か、今の俺を否定してくれ。

 俺の過去の選択を肯定してくれ。

 

 

どっちつかずで悩んでいるうちに、俺の足はコンビニへと向かっていた。

 ……一旦落ち着くべきだな。 

 

 飲料コーナーへと行き、冷たいウーロン茶を買い、夜遅く、人気のないイートインスペースの椅子に腰を下ろす。

 

蓋を開け、一気に流して込んでいると、すぐ近くの自動ドアが開く音がして、深く帽子を被り、マスクで顔を隠した小柄な人影が入ってきた。

 

 黒いジャージ姿。足元は履き慣れたランニングシューズ。

 体幹の安定した、アスリート特有の歩き方を見た瞬間、俺の思考が完全に停止した。

 

(……花海、さん?)  

 

彼女は周囲を警戒しながら飲料コーナーへ向かい、ミネラルウォーターを手に取り、会計へ向かった。

 

こんな深夜に彼女が出歩いているという事実が、かつての自分の記憶に深く突き刺さる。

……やはり、あの頃の花海さんではなくなってしまっているのだろうか。心境の変化なのか、それとも__

 

いずれにしても、声をかけるべきではない。俺は身を隠すように顔をそむけた。

だが、彼女が外へ向かおうと振り返った瞬間、その視線がイートインスペースに座る俺を真っ直ぐに捉えた。

 一瞬の静寂。

 マスク越しでもわかるほど、彼女の瞳が大きく見開かれる。

 

逃げる間もなかった。彼女は足早にこちらへ歩み寄ると、俺の対面の席に乱暴に腰を下ろした。

 

「……こんなところで、待ち伏せのつもり?」

 

帽子を深く被り直しながら、棘のある低い声が飛んでくる。

まっすぐ俺を見据える瞳に、俺はただ視線をずらすことしかできなかった。

 

「……いや、ただの偶然ですよ。俺の職場からの帰り道に、ここがあるだけですから」

 

「ふーん。公務員って随分とブラックなのね。こんな時間までこき使われてるなんて」

 

「……なんでそのことを」

 

「佑芽のプロデューサーから色々聞いたわ。この間、会ったんでしょう?」

 

 一瞬、天野のことが恨めしくなったが、俺にそんな感情を抱く資格もない。

 

 ただ、彼女はその強気な態度の裏で、肩が微かに上下している。息が上がっているというより、極度の疲労とストレスを無理やり抑え込んでいるような呼吸だった。

 

「……花海さん。深夜に出歩くなら、もう少しマネジメントに気を使った方がいい。今のあなたは、見つかればすぐに週刊誌の的になる立場でしょう」

 

「あら、元プロデューサー様からのありがたいお説教? 心配しなくても、あんな連中の目は盗んできたわ。あの人たち、『綺麗なアイドル』の私にしか興味ないもの」

 

自分を顧みず、あっけらかんと言い放つ彼女に、俺は違和感を覚えた。まるで、それは俺に対する当てつけのようで。

 俺に恨むのはいい。

 けれど、それを理由に彼女がダメになってはいけない。

 

「……何を言っているんですか」

 

気づけば、俺は無意識に口を開いていた。

 

「こんな遅くに睡眠も取らずにいることの意味、貴方なら分かっているでしょう」

 

「……なんですって」

 

咲季さんが、ピタリと動きを止めた。

 

「疲労の蓄積も本来ならケアするべきだ。近ごろのあなたは左足の着地がおかしい。足首に無意識に体重を逃がしている。あのまま本番のステージに立てば、後半のステップで確実にスタミナが切れる」

 

「なっ……」

 

「それに、集中力も落ちている。かつての貴方ならパフォーマンス全体を見据えながらペース配分を考えることなんて容易だった筈だ。それなのに今は__」

 

そこまで一気にまくし立てて、俺はハッと我に返った。

しまった。これではまるで、彼女の隣にいた三年前の『プロデューサー』そのものだ。

慌てて口をつぐみ、気まずさから視線を逸らす。

 

イートインスペースに、重苦しい沈黙が降りた。

 俺の失言を前に、目の前に座る咲季さんは笑うでもなく、ただ氷のように冷たい視線で俺を見据えていた。

 

「……ふぅん」

 

やがて、地を這うような低い声が漏れた。

 

「私を捨てて、アイドルとは何の関係もない公務員になって、平穏な生活を送ってるって思っていたけど……」

 

咲季さんはテーブルに肘を突き、俺を逃がさないとばかりに身を乗り出した。

 

「気持ち悪いくらい私のこと見てるのね。……この三年間、ずっとそうやって未練がましく私の粗探しをしてたってわけ?」

「っ……それは、」

 

図星を突かれ、言葉に詰まる。

仮面を被りながらも、俺は彼女から目を離すことができなかった。そのどうしようもない矛盾を、彼女は容赦なく抉り出してきた。

 

「自分の手で最後までやり遂げる覚悟もなかったくせに、外野からプロデューサー面でお説教?……いいご身分ね」

 

刺すような言葉の連続に、俺は反論すらできない。

彼女の言う通りだ。俺はただの卑怯者でしかない。

 

「……すみません。出過ぎた真似をしました。今の言葉は忘れてください」

 

耐えきれず、椅子から立ち上がろうとした瞬間。

 

「待ちなさいよ」 

 

絶対に逆らえない、絶対的な命令だった。

 

咲季さんは帽子を少し持ち上げ、獲物の喉元に噛み付くような、執念深い瞳で俺を睨みつけていた。

 

「私の現状が間違ってるって、そう言ったわね。私の武器が殺されてるって。

だったら……責任、取りなさいよ」

 

「責任……?」

 

「今のやり方じゃダメだって言ったわよね?」

 

彼女は一文字ずつ、叩きつけるように言葉を紡ぐ。

 

「なら、貴方のその無駄に高い分析力で、私が最後まで最高のパフォーマンスを出せるように調整しなさい。……私の足を引っ張ってる連中の尻拭いよ」

 

それはお願いでも、提案でもなかった。 俺の失言と未練を逆手に取った、完全な脅迫であり、絶対的な命令だった。 

ここで断れば、俺はまた見て見ぬ振りをして逃げることになる。三年前と同じように。

 

「……俺に、そこまでする義理は」

「あるわよ」 

 

咲季さんは冷たく言い放ち、手元のミネラルウォーターを掴んで立ち上がった。

 

「私を置いて逃げたんだから、これくらいの負債、払って当然でしょ」

 

彼女の言葉は重く、俺の心の壁にのしかかった。




ちょっと長くなってしまった
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