花海咲季からは逃げられない   作:幻の大地

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雨と仕事と

 

 深夜0時。昼間までの賑わいが嘘のように静まり返った天川のとある公園。

 普段なら誰も近寄らないようなこの場所に、最近の俺は毎晩通っている。

 とある人に会うために。

 

 

「__一旦止めてください。ターンの後、綺麗にまとまろうとしすぎて踏み込みが浅くなっています。事務所の方針では上品なシルエットを求めているのでしょうが、あなたの持つ体のバネを殺してしまっています。もっと重心を落として踏み込んでください」

 

 仕事のために着用していたスーツのまま、俺はコンサルティング相手__花海咲季と対面していた。

 あの日ここで交わした契約通り、俺は毎晩彼女のトレーニングに付き合っていた。

 あれから一週間ほどが経っただろうか。お互い、連絡手段を持ち合わせていないというのに、よくもまあ、上手く集合できたものだと、我ながら感心する。

 

 

「……ふん。いちいち細かい人ね」

 

「それが仕事ですから」

 

 ステップを止めた花海さんは、肩で荒い息を突きながら、額の汗を手の甲で拭った。

 きっと彼女は事務所での殺人的なスケジュールやレッスンをこなしているはずだというのに、その動きには微塵の妥協もなかった。それどころか、俺が提示したプランを、ものの数日で自分のものにしてみせていた。流石、トップアイドルというべきか、もはや俺のサポートなんて、本当は必要ないくらいに完成されている。

 一体どこが、偽物の天才なのだろうか。

 

 手元の書類を見つめる俺の指先に、嫌な痺れが走る。自分の無価値さを突きつけられるような劣等感が、また胸の奥を騒がせているのを感じる。

 

「早熟」という言葉では片づけることの出来ない才能が彼女にある。

そんなことは、ずっと前から気づいている筈なのに。どうしてこうも心がざわつくのだろうか。

 

こうして彼女と向き合ってから、こんなことばから考えてしまっている。

 

 俺は一旦深呼吸をして彼女へ向き直した。

 

「とりあえず、今日はこの辺りにしておきましょう。まだまだ時間はありますから」

 

俺は書類を鞄にしまい、一歩後ろに下がって、軽く会釈をした。

 これ以上の深追いはしない。彼女に対してはあくまで「コンサルタント」であるべきなのだ。

 求められたこと以上をする権利は、今の俺にはないのだから。

 

こんなことを考えること自体、間違っている。

 

姿勢を正して、彼女に背を向けて公園を後にしようと足を踏みだす。

 

「……待ちなさいよ」

 

 俺の背中に、花海さんの鋭い声が突き刺さる。

 振り返ると、彼女はスポーツドリンクのボトルを握り締めたまま、街灯の光の下でじっと俺を見つめていた。

 

 その瞳は、昔と変わらずギラギラと強い光を放っている。

 ……だが、同時にどこか、酷く飢えたような、焦れたような色が混ざっているようにも見えた。

 

彼女が、こんな風に声を掛けてきたのは、特訓を開始してから初めてのことだったので、なんとも距離感を図りかね、その場で背を向けてしまった。

 

「何か、ありましたか」

 

「ねえ、あなた、どういうつもりなわけ」

 

「……どういう意味でしょうか」

 

 足が固まって動けない。彼女の深い視線は背中越しだというのに、俺を強固に捕らえる。

 『誤魔化させない』と言っているようだった。

 

 

「私はてっきり、何か話があるものかと思ってたけれど」

 

 

花海さんが一歩、俺の方へと足を踏み出しかけた音がした。

 

コツ、コツと足音が迫ってくる。

 

だが、彼女は俺を追い越すことはせず、俺のすぐそばで立ち止まった。

 

運動終わりの彼女の纏う空気は熱く、俺の背中に汗が滲んでくる。

 

 

「……」

 

 

話したいことは山ほどある。聞きたいことも沢山ある。

けれど、それらは話すべきじゃないし、聞くべきでもない。

 

俺が行うべきは、責任をとることで、過去を清算すること。

たとえ彼女が何か言葉を求めているのだとしても、それを与えてはいけないのだ。

 

言いかけた言葉を飲み込み、揺れる心を正しながら、俺はもう一度口を開く。

 

 

「俺は、契約通りの内容を履行するだけです。伝えるべき内容は適宜話しているつもりです」

 

「……そう」

 

花海さんはふっと冷ややかな笑みを浮かべ、それ以上は何も言ってこなかった。

 

振り返ると、既に彼女は自分の荷物の元へと戻っていた。

 

ただ、背を向けて荷物をまとめる彼女の小さな肩が、少し震えていた。

 

 昔の俺は、プロデューサーとしての俺だったら、なんと声をかけただろうか。

 

だが、今はただのコンサルタントでしかない。俺に言えることは一つしかない。

 

 

「それでは、明日も同じ時間に来ます」

 

「……わかったわ」

 

今度こそ、彼女に背を向け、俺は帰路についた。

 

 

 

翌日の夕方、役所の窓口業務が閉まり、フロアに書類を整理する音だけが響き始めた頃だった。

 

 隣のデスクで熱心に書類を編綴していた同僚の男が、ふと手を止めて、こちらを覗き込んできた。

 

「なぁ、最近なんか良いことでもあった?」

 

「……はい? 何ですか、唐突に」

 

手元の資料から目を離さずに返すと、同僚はからかうように話を続けてきた。

 

「いやさ、君いっつもしょぼくれた顔してたからさ。それがここ一週間くらい、なんかこう……目が据わってるっていうか、生気があるっていうかさ。もしかしてこっちで良い人でもできたん?」

 

「……はぁ、そんな人はいませんよ。ただ、仕事(・・)にやりがいを見つけることができただけです」

 

 同僚は「ふーん、まぁ仕事に熱が入るのは良いことだけどさ」と納得して自分の作業に戻っていったが、俺の胸の奥には、冷たい嫌悪感がこびりついて離れなかった。

 

生気がある、だと。俺が?

まさか、自分から背を向け、すべてを投げ出して逃げたくせに、今更そんな都合のいいことがあっていい筈がない。

 彼女との関わりに、何か意味を見出してはいけない。

 俺がしているのは「仕事」なのだから。

そう言い聞かせても、思考はぐるぐると巡って、思い通りにいかない。

 

 

結局俺は、退勤を告げるチャイムが鳴ると同時に、逃げるように役所を後にした。

 

 

地下鉄に揺られ、地上へと這い出て、街灯のまばらな住宅街を歩く。

 当然というべきか、こんな時間には誰も歩いていない。

 ただ、天川の公園へと続く夜道は、三年前のあの頃の空気と、嫌になるほど似ていた。

 

(あと少しの辛抱だ)

 

仕事の契約さえ終われば、ここに来る理由も意味も無くなる。そうすれば、もはやこの場所は思い出にもならない。

 

……いや、始めにここに来た時も同じようなことを考えていただろうか。

 

 時刻は既に深夜零時。

 公園の入り口に辿り着いたとき、スマートフォンの画面を確認したが覚えのないサイトからのメルマガの通知が来ているだけだ。

 ──そもそも連絡先すら知らないのだ。俺がいまここにいるのは、口約束だけでしかない。

 

寂れた公園の雰囲気に身を委ねているうちに、時計の長針はどんどんと下がり始めていた。

静まり返った夜の空気が、彼女の不在を冷酷に告げ始める。

 

 ふと、ポツ、と額を濡らした冷たい感触が、またたく間に激しい雨音へと膨れ上がっていく。

 慌てて鞄から取り出した折り畳み傘を広げたが、吹き付ける横殴りの風は、容赦なくスーツの肩を濡らしていった。

 

 ──もう、来ないのではないか。今までの俺の煮え切らない態度に愛想を尽かして、契約など最初からなかったことにしたのではないか。

 

 冷水が靴の中に染み込み、爪先の感覚が消えていく。今すぐ駅へ引き返せば、明日の業務に響くことはない。それがまっとうな社会人の判断だ。

 それに、これで彼女との関わりが消えるのなら、それが一番いいのではないだろうか。

 きれいさっぱり、過去の確執が昇華されるのなら、願ってもないことだと自分でも思う。

 

 だが、地面に張り付いた革靴は、一歩も後ろへ下がろうとはしなかった。

 いや、できなかったというべきだろうか。

 

 来ないかもしれない。それでも、俺にできることは、ここで立ち尽くすことだけだ。

 

 あの時から、自分の中で一つだけ決めた決まりごとがある。

 一度受けた仕事は、そう易々と放り出さないことだ。

 自分から仕事を、使命を放り出しておいて何様なのかと思う。

 それでも、あの時の選択は仕様のないことだったのだと、正当化したいのだ、俺は。

 

 だから、これしきのことで、俺は背を向けるわけには行かない。仕事を完遂するまでは。

 

 ──バキ、と頭上で嫌な音がして、小さな傘の骨がひしゃげた。

 めくれ上がった布地から、滝のような豪雨が差し込む。壊れた傘の柄を握り締めたまま、俺はただ、雨の作るカーテンの向こう側をじっと見据え続けていた。

 

 

公衆トイレの軒下、暗がりのコンクリート壁に背を預けたまま、花海咲季は冷たい指先で自分の二の腕を強くつかんでいた。

 足元には、ビニールに入ったままの新しい傘が転がっている。

 

 少しだけ、様子を見るつもりだった。

 あそこまで「契約」だの「仕事」だのと澄ました顔で言い張る男が、自分が現れないことで、ほんの少しでも焦ったり、不安そうに辺りを見回したりする無様な姿を見たかった。その焦りさえ引き出せば、あの男の頑なな仮面を剥ぎ取って、彼の本音に踏み込めるはずだと、そう考えていた。

 

 けれど。

 

 雨が嵐のように激しくなり、傘が無残にへし折られても、あの影は一歩も動かない。

 

 携帯を取り出して時間を気にする素振りすら見せない。ただ、自分がすぐそこにいることを知っているかのように、あるいは、自分が絶対にここに来ると信じて疑わないかのように、まっすぐ正面だけを見据えて突っ立っている。

 

「ふざけないでよ……」

 

 かすれた声は、激しい雨音に押し潰される。

 彼の無様さを笑うでもなく、彼女の心にこみ上げてくるのは、困惑だった。

 

 あんな死んだような顔をして、熱意なんてひとかけらもない事務的な態度を取っておきながら。どうして、彼女が来ないかもしれないという当然の疑念に、一瞬でも揺らがないのか。

 そして何より、その頑なな背中が、咲季の記憶の底にある傷口を容赦なく抉る。

 

 ただ、意味がわからない。

 あのとき(三年前)、何も言わず、あっけなく自分の前から消え去ったくせに。

 なぜ、今はただの「コンサルタント」のくせに、こんな雨の夜に限って、まるでそこから動けば死んでしまうかのように、頑固に居続けるのか。

 

「っ……!」

 

 気がついたときには、足が動いていた。

 足元のビニール傘を踏み越え、弾かれたように飛び出していた。

 

 

バシャッ、と、水たまりを乱暴に踏みつぶす足音が、雨音を切り裂いてすぐ背後に迫った。

 びくりと肩を揺らし、俺がゆっくりと振り返るより早く、腕を強く掴まれた。

 

「……なにしてるのよ」

 

 絞り出すような、けれど激しい怒りを孕んでいるような声が聞こえた。

 振り返った先には、傘も差さず、雨に打たれてずぶ濡れになった花海咲季が立っていた。

 

「花海さん……?何故傘もささずに___」

「私が訊いてるのよ!!」

 

 俺の言葉を遮るように、彼女が叫ぶ。

 その瞳は、街灯の光と雨粒のかすかな輝きを反射していた。

 掴まれた腕は少し震えているのが分かった。

 

「こんな雨の中で……馬鹿じゃないの! お互い、連絡先も知らないんだから、私が来ないと思ったら、適当に理由をつけてさっさと帰ればいいじゃない!」

「それは__」

 

 彼女のまっすぐな視線から咄嗟に目を逸らし、俺は必死に息を整え、いつもの「仮面」を貼り付けようと、姿勢を正して向き合う。

 来ないかもしれないと思っていたせいだろうか、彼女の登場に妙に動揺してしまっている自分がいた。何を言葉にするべきなのか、一瞬のうちに様々な考えが逡巡したが、それでも、答えは分かり切っていた。

 

「俺は、コンサルタントですから。契約通り、時間までは待機をしていただけです」

「この後に及んで……!!」

 

 花海さんが、俺の胸倉を掴み上げるようにして、至近距離まで顔を近づけてきた。

 水滴の滴る前髪の奥で、彼女の視線が俺の逃げ道を完全に塞ぐ。

 今度こそ、目線をそらすことは出来ない。そんな俺に、無慈悲に彼女は言葉をぶつけてくる。

 

「ただの仕事なら……あの時みたいに、さっさと逃げればいいじゃない!

 昔はあっけなく消えたくせに! 理由も言わずに、私の前から逃げ出したくせに……っ!

 なんで、こういう時だけ、逃げないのよ!」

 

「それは____」

 

 彼女の言葉にひどく動揺したせいか、焦点がうまく合わない。呼吸が落ち着かない。

 仮面を被る余裕もない。言うべき言葉も見つからなかった。

 ただ、彼女の鋭い瞳の輝きだけが、ぼやけて映るだけ。

 

「早く逃げなさいよ……今すぐ、仕事だなんだって言い訳して、帰りなさいよ!

 それができないなら……貴方の本音を聞かせなさいよ!」

 

彼女の叫びが、豪雨の音すらも掻き消して、俺の鼓膜を、心臓を、めちゃくちゃに揺さぶっていた。頭の血管が激しくうごめいて離さない。

 

「……ッ、」

 

喉の奥から、血を吐くような衝動がせり上がってくる。

 

 言えるわけがない。自分が、貴方に見合うだけの、対等な存在ではないだなんて。

 夢を共に誓ったくせに、その夢を掴むことも出来ない、弱い人間だなんて。

 

雨の冷たさで、体中の感覚はとうに消え失せていた。

 視界がぐらりと揺れる。全身の血が急激に冷え、同時に頭の芯だけが異常な熱を帯び始めているのがわかった。

 もはや、正確な思考は出来ていなかった。

 

 

 ぷつん、と。

 自分の中の、張り詰めていた何かの糸が切れた。

 

 

「ごめんなさい___」

 

「え……?」

 

急に力が抜けた俺の身体はコントロールが効くわけもなく、倒れ掛かる。

 コンクリートのアスファルトが目の前に迫るよりも早く、俺の身体は、ずぶ濡れの彼女の華奢な肩へと重く倒れ込んでいた。

 だが、認識はできていても、もはや、自分の体が今どうなっているのか、感じることは出来なくなっていた。

 

「ちょっと……!変なこと言って、また逃げようとして……っ!?」

 

遠のく意識の中で、彼女の怒声が、微かな焦燥に変わるのが聞こえた。

 

「ねえ……っ、ちょっと……プロデューサー……ッ!」

 

三年間、一度も呼ばれることのなかったその懐かしい響きを最後に、俺の意識は深く底へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

泥のような眠りから引き上げられたとき、最初に感じたのは、ひどく乾いた喉の渇きだった。

重い瞼をこじ開けると、見慣れた殺風景な天井が視界に入る。

 

体を起こそうとして、全身の関節が軋むような鈍痛に顔をしかめた。

スーツのジャケットとネクタイは外され、乱雑にハンガーに掛けられている。どうやら、ベッドの上に倒れ込むようにして眠っていたらしい。

 

(……俺は、どうやって帰ってきたんだ?)

 

未だに痛む頭で昨晩の記憶を探る。

雨の公園でずぶぬれになったこと。へし折れた傘。そして、彼女の悲痛な叫び。

そんな中、自分が彼女の肩に倒れ込んだところまでは覚えている。

だが、そこから先の記憶は完全に途切れていた。

 

ふと、ベッドの脇にある小さなテーブルに視線が止まる。

そこには、見覚えのないスポーツドリンクのペットボトルと、封の切られた薬の箱、そして俺の財布。

その横に、メモ帳の切れ端が置かれていた。

 

『自己管理もできないなんて、コンサルタント失格ね。

職場には、私から適当に休みの連絡を入れておいたわ。

今日の特訓は休み。 

明日、いつもの時間、いつもの場所で』

 

彼女のはっきりとした筆跡に、少し懐かしさを覚える。

端的な物言い、疲れた頭にすんなりと入って来た。

 

 

彼女が、タクシーか何かで俺をここまで運んだのか。

とにもかくにも、今俺がここに居るのは、彼女のお陰なのだろう。

面倒見の良さは、相変わらずなのだなと、思わず笑みがこぼれた。

 

(ちょっと待て、……職場に、連絡を入れた?)

 

メモの文面を二度見して、俺は血の気が引くのを感じた。

若い女性から、俺が熱を出したという欠勤の電話。それをもし、あの同僚が受けていたとしたら。

 

『なぁ、やっぱりいい人いたんじゃんか!』

 

ニヤニヤと笑う同僚の顔が脳裏に浮かび、俺はたまらず頭を抱えた。

 

「……はぁ、今日は落ち着こう」

 

掠れた声が、誰もいない部屋に落ちる。

昨夜、緊張していたせいだろうか、ほどけた糸がほつれるように、俺の心を縛っていた何かが、少しだけ緩んでいるように感じた。

 

ドリンクのボトルに触れると、結露した水滴がひんやりと指を濡らした。

それが少し心地よかった。

 

 





随分間が空きましたが、ちゃんと完結させるつもりです。
よろしくお願いします。
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