花海咲季からは逃げられない   作:幻の大地

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第六話 見届けたい

◇

 

――なにも、わかってないんですね

 

 

あの、底冷えするような温度のない声が、未だに耳の奥にこびりついて離れない。

 

深夜の天川の公園。アスファルトを力強く蹴る靴音が、一定のリズムで響いている。

視界の先では、花海さんがメニュー通りに、激しいステップと重心移動の反復をこなしていた。

だが、その動きを追っているはずの俺の意識は、ひどく曖昧なところに浮遊していた。

 

「・・・・・・ちょっと、ちゃんと見てるの?」

 

不機嫌な声にハッと顔を上げる。

息を乱し、トレーニングを中断したであろう花海さんが、冷ややかな瞳でこちらを睨みつけていた。 

 

「コンサルタントの分際で、レッスン中に集中力を欠くなんてありえない」

 

「……申し訳ありません。少し、考え事をしていて」

 

申し開きもなく、淡々と謝罪を口にする。

薄っぺらいな、俺。

 

仕事だから。

そうやって都合のいい言葉を盾にしてこの場に立っているというのに、その足元はすでに崩れかけている。

 

「……あっそ。なら、今すぐ考えごとを止めなさい」

 

「すみません、集中します」

 

「安っぽい謝罪はいらないわ。いいからちゃんと見てなさいよね!」

 

挑発的にぶっきらぼうに言い放つと、彼女はすぐさま元の位置へと戻っていった。

 

仕事を完遂する、一度そう宣言したのだ。なら、真剣にその責務を全うすべきだ。

 

 

『一生、そうやって都合のいい言葉で逃げ続けてればいいじゃないですか』

 

 

それでもなお、突きつけられた正論が、俺の心の臓を、的確に抉り続けていた。

 

 

◇

 

 

「ねぇ、もうそろそろお開きでしょ」

 

花海さんの声で我に返る。

 

慌てて確認すると、時計の針は、既に頂上を過ぎていた。

辺りを満たす空気が、熱気を引き立たせている。温かくなったとはいえ、まだ深夜の風は涼し気だ。

 

熱心に彼女を見過ぎていたのか。それとも、ただ考えに耽って放心していたのかは釈然としない。

 

心の内を悟られないよう、平静を装う。

 

 

「そうですね。今日もおつかれさまです」

 

「……」

 

 

俺が発したのは至って普通の返答だというのに、彼女は納得がいっていないようだった。

まるで、俺の心の乱れを見抜いているかのようなだった。

 

彼女はそのまま、握りしめたタオルを乱暴に肩にかけた。

 

 

「ふぬけたわね」

 

「え?」

 

「今のあなた、起き上がらない達磨みたい」

 

 

何をいっているのか、突然のことで理解が追い付かない。

 

けれど、その口ぶりからして、俺に不満があるのだろう。

いや、そもそも、不満しか抱いていないとは思うが。

 

 

「なんか、もう、良く分からなくなっちゃった」

 

「……花海さん?」

 

「……なんでもないわ。 それじゃ、来週ね」

 

 

 鞄を肩にかけると、彼女は少しだけ振り向いた後、公園を早足に立ち去ってしまった。

 

 

俺は、一人残されてしまった。

 

 

「……分からない、か」

 

 

俺自身にも、俺がどうしたいのか分からない。

 

負い目があるから、仕事を引き受けているのだと考えていた。

 

後悔などではなく、ただ、過去を清算するためなのだと。

 

それは、彼女も同じことなのだろうと思っていた。

 

……いや、勝手に俺がそう思いたかっただけなのだろうか。

 

問いかけても、返ってくるのは、静まった夜風だけだ。

 

 

これ以上、悩んだところで答えは出ないだろう。これは、時間が解決するような話ではないのだ。

 

放っていたスーツを着直して、帰路についた。

 

 

そんな帰り際に、一通のメールが着信した。

 

 

件名にはただ一言『すまない』と記されていた。

 

 

 

◇

 

 

天野に会ったのは、メールを受けた次の日のことだった。

 

指定されたのは、俺の職場の役所からほど近い、人目のつかない喫茶店。

 向かいの席に座る天野は、運ばれてきたコーヒーに口をつけることもなく、開幕一番に、深く頭を下げてきた。

 

「……俺の、力不足だ」

 

苦渋に満ちた声だった。目の下が腫れている。

葛藤の末に、思いついた一言目だったのだろうか。

 

 

 呼び出された用件は、すでにメールで告げられていた。

 

 

100プロダクションとの間で結ばれていた匿名のコンサルタント契約の解(・)除(・)。

 

 

メールを見たとき、不思議と驚きはしなかった。

当然だろうとも思った。身元も良く分からない相手のコンサルティングが、今までよく通っていたものだと感心すらした。

 

だが、天野はただひたすらに頭を下げたままだった。

 

 

「事務所がここまで、方針を固辞するとは、思いもしなかった。

 全てがいい方向に進んでいた筈だったのに、どうしてこんな……」

 

「……天野」

 

「俺から、君に発破をかけておいて、なんて情けないんだろうな

 結局、一人の人間のできることなんて、たかが知れてるってことなのか」

 

ギリッと、天野が膝の上で拳を握りしめる音が聞こえた。

 俺は、冷めていくブラックコーヒーのカップを見つめたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 だが、吸い込んだつもりだったモノは、空回りしたのか、かすれたような音が、喉から鳴っただけだ。

 

……動揺しているのか、俺は。

 

 

慌ててカップを持とうとする手は、言うことをきかず、ただかすかに震えるだけだ。

 

段々と、実感が湧いてきたのだろうか。

 

契約が解除されたということは、花海さんとの関係もこれで終わりだということだ。

彼女と交わした契約もまた、果たせずに終わるのだ。

 

3年前もそうだった。

 

あの日、突如として夢を断ち切られた時間。

思い描いていたものが、一瞬にして朽ち果てていった。

 

面談での記憶がフラッシュバックする。

 

 

胸の奥が、焼け焦げるように痛む。

だが、ここで少しでも感情を露わにしてしまえば、俺は二度と立ち直れなくなる。

 

落ち着かなければ。

もう既に、経験した痛みなのだから。

 

「……頭を上げてくれ、天野。お前のせいじゃないだろ」

 

「君は悔しくないのか?」

 

「事務所の判断としては、極めて合理的だろ。彼女の事務所でのブランドイメージを守るなら、無理な変化は嫌って当然だ」

 

「そんなこと……!」

 

語気が強まる天野に対して、俺は自嘲気味に口角を上げ、淡々と言い放つ。

 

「むしろ、胡散臭い匿名のコンサルタント契約が、よくここまで保った方だろ。……ハナから、いつかこうなることは分かってたよ」

 

これでいいのだ。予防線を張って、言い訳がましく、期待をしてないとうそぶく。

 

3年間、ずっとそうしてきたのだ。寧ろ、ここ最近がおかしかったのだ。

心を動かされ、思考を乱され、おまけに体調まで荒らされかけた。

 

人間は、変化を嫌う生き物だ。現状維持を良しとして、妙な行動を起こしたりしない。

 

脳内の整理をつけて、コーヒーを一気に喉へ流し込んだ。

吐き出した息は、思いの外かすれていた。

 

 

「君は……それでいいのか」

 

「俺も社会人だ。大人の事情で契約が切れるなんてこと、慣れてるさ」

 

「……っ」

 

本心からの慰めと、乾いた諦念を装ったその強がりに、天野はひどく痛みを堪えるような顔をして、それ以上は何も言わなかった。

 

これでいい。誰も悪くない。

 俺はただの、替えの効く歯車に戻るだけだ。これまでもそうしてきたのだ。いまさら不満などない。

 

 

けれど、

 

カップの水面に浮かぶ顔は、ぎこちなく笑っていた。

 

 

 

◇

 

 

「……そう。分かったわ」

 

事務所のレッスン室。天野からコンサルタント契約の解除を告げられた彼女の声は、驚くほど平坦だった。

 

てっきり激昂するか、抗議するか。そう身構えていた天野の予想を裏切り、咲季の表情からはスッと一切の熱が抜け落ちていた。

 

「じゃあ、あの無駄に疲れるだけのメニューはもうおしまいね。これからは事務所の方針通り、綺麗で、完璧なお人形のアイドルをやるわ。事務所はそれで満足なんでしょ?」

 

淡々と告げて、彼女はレッスン室を出る。

 

それを、ただ見送るしかない天野の表情は、ひたすらに歪んでいた。

 

元に戻ってしまった、いや、戻してしまったのだと、彼はただ後悔することしかできなかった。

 

彼女が去ったレッスン室は、心なしか温度が下がったようだった。

 

 

一人になった無機質な廊下で、咲季は無意識に自分の腕を強く握りしめた。

 

突然、心の中にポッカリと開いた、底なしの暗い穴。

 

(また、元通りね)

 

あの男は「仕事」という鎖がなければ、自分の前からは消えてしまう。三年前と同じように。

正当な理由を与えてしまえば、きっと彼は二度と自分を振り返らない。

 

その確信が、彼女を深い虚無へと引きずり込んでいた。

 

ただでさえ、彼のことが分からなくなっていたというのに。

 

 

「ちゃんと聞いておけば、よかったかしら」

 

 

抜け殻のように、表情を失ってしまった彼女は、朧気にも、更衣室へとたどり着いた。

 

その、綺麗に作られた仮面のまま、淡々とロッカーで荷物を整理し始めた。

 

 

その時、鞄の底の方で、指先が硬い感触に触れた。

 

取り出してみると、それは安っぽいプラスチックのボールペンだった。

 

「……なにこれ」

 

デザインからして自分のものではない。事務所の備品だろうか。

興味を失いかけたその時、ペンに記された名前を偶然見つけた。

 

思わず息をのんだ。

 

どうして、彼のものが。

 

いや、思い当たる節は一つだけあった。

 以前、雨の中で倒れた彼を介抱した時だ。濡れた荷物を適当にまとめた時、ポケットか鞄から、彼女の鞄に紛れ込んでしまったのだろう。

 

百円もしないような、どこにでもあるボールペン。本来ならそのままゴミ箱に捨てるか、適当に処分しておけばいいだけのガラクタだ。

 

ゴミ箱の上へ手を伸ばす。だが、彼女の指先はどうしてもそれを手放すことができなかった。

 

これが、彼と繋がる最後の欠片。

 

「……人のものを、勝手に持っているわけにはいかないわね」

 

誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。

 

「これを返しに行くという用(・)事(・)があるんだもの、行かなくちゃ」

 

安物のボールペンを、痛いほど強く握りしめる。

 

ほんの少し、彼女の顔に色が戻る。

 

 

無機質なお人形の仮面の奥で、燻り続ける呪いのような執着を必死に隠して、咲季は天川の公園へと向かった。

 

 

 

◇

 

「少し、暑くなったか」

 

喫茶店を出て、夜の街を一人歩く。

 

街ゆく人々は、十人十色の姿をしている。

それぞれに、それぞれの人生があるのだろうが、それを知るすべというのは、存外数少ない。

 

人生に干渉するということは、難しいことなのだ。

 

駅へと向かう道すがら、理性が冷たく囁く。

これでよかったんだと。

元の平穏な生活に戻るべきだ。事務所の判断は正しい。

それに、俺に彼女の隣に立つ資格は元からないのだから。

 

けれど、地下鉄の入り口が見えてきた時、足がピタリと動かなくなった。

 

――そうやって都合のいい言葉で逃げ続けてればいいじゃないですか。

 

佑芽さんの呪いのような言葉が、足首に絡みついて離れない。

 

いや、これは逃げじゃないだろう。

契約が解除されたことによる外的な要因だ。

俺の責めに帰すべき事由なんて、どこにもないはずだ。

 

だというのに、頭に浮かぶのは、3年前のことばかりだ。

 

推薦が貰えなかった。彼女と同じ場所にいられなくなった。

 

けれどあの時、俺は何故すんなりと諦めてしまったのだろうか。

いくらでも方法があったはずなのに。俺は勝手に一人で抱えて彼女のもとを去った。

 

理由は分かっている。4年間の努力が、何の成果にも帰さなかったことが、ただ、耐えられなかったのだ。

あんなに熱意を持てた仕事など、いまだかつて無かった。俺の一生を、人生をかけたいと思えるようなことだった。

 

だからあの時、プツリと、心の中で、決定的な何かが切れてしまったんだ。

 

けれど、今の俺はどうだ。

 

諦めたはずの夢に触れて、久方ぶりに胸に炎が宿る気がした。

ここ一ヶ月の自分は、今までと違っていた。

それは、否定のしようのない事実なんだ。

 

「……言い訳、か」

 

あの時切れたモノは、既に元通りになっていて。

けれど、俺はそれを見ないふりをしていたんだ。

あくまで、仕事なのだと言い聞かせて、いつか来るであろう別れの時に、何も失わないように予防線を張っていた。

 

……滑稽な話だ。

傷つくことから逃げるために、一番傷つけたくない相手の熱を、踏みにじろうとしていたのだから。

 

「本当に、ダメなやつだな、俺」

 

そもそも、誰に気を遣っていたのか。事務所?それとも世間体?

俺はただ、何よりも、自分が傷つくのを恐れていただけだ。 

代償もなしに、得られるものなどない。

 

『最後まで、責任を取りなさいよ』

 

花海さんの言葉が脳裏に浮かぶ。

 

俺は、彼女の行く先を見届けたい。

 

その資格がないのは分かっている。彼女のプロデューサーに戻ることができないのも分かっている。

 

それでもただ、あの時交わした約束だけは、守りたい。

 

 

◇

 

 

「すっかり夜ね」

 

事務所を後にした咲季は、地下鉄に揺られるままに、天川までやってきていた。

 その胸元に、一本のペンを抱えながら。

 何故ならその他に、彼女がここに来る理由はなかったからだ。

 

昔馴染みの土地を横目に、彼女はあの場所を目指す。

 

視界を過ぎる風景は、嫌でも3年前の思い出を蘇らせる

 歩道一つにせよ、街路樹一つにしても、何かしらの記憶が残っていた。

 そしてその隣には、いつも彼がいた。

 

「……嫌な思い出」

 

どうせ、二度とそんなことは起こらない。ありもしない未来を想像してしまった彼女は、不格好な自分を誤魔化すように不機嫌そうに毒づく。

 

彼は何と言うだろうか。

 そもそも、来るかさえもわからない。仕事は終わりなどと勝手に理由づけて、別れの挨拶すらないかもしれない。

 

けれど、あの雨の日の彼の寂しげな背中を、咲季は覚えていた。

 

公園の門が見えた。

 等間隔に並ぶ街灯の白い光が、無人のアスファルトを冷たく照らし出している。

 深夜の公園は水を打ったように静まり返っており、周囲の音すら耳に届かない。

 

意を決して、彼女は公園へと足を踏み入れた。

 

白い街灯の柱の影に、一人の男が立っていた。

 いつも通り、小綺麗なスーツを身に纏い、片手にはビジネスバッグを抱えて。

 

「……なんで、いるのよ」

 

薄々勘づいていたというのに、彼女は驚きのような、はたまた安堵のような声を漏らした。

 声に気づいた男は、彼女の方を向くと、足を一歩踏み出した。

 

「……事務所との契約は、切れたはずでしょ」

 

「ええ、切られましたね。それもすっぱりと」

 

拍子抜けするほど平坦な声だった。

 男の態度は、あまりにも静かだった。動揺も、焦りもない。一周回って辿り着いたかのような、異様なほどの冷静さ。

 そのあっけらかんとした態度に、咲季は眉を顰める。

 いっそ、開き直っているかのようだ。

 

「わざわざ別れの言葉でも言いに来たわけ?

 あの時とは違って律儀なのね」

 

「三年前は、ちゃんと書置きをしておきましたよ」

 

「……そうだったわね」

 

期待通りに彼が来ていたことに安心した、とは素直に言えずに、咲季は嫌みをぶつけた。

 だというのに、以前とは違い、男は動じていなかった。

 寧ろ、彼女を挑発するかのように、わざわざ過去のことを引き合いに出してくる。静かで、冷たい熱を帯びた眼差しを向け、まるで、自ら退路を断っているかのようにみえた。

 

「別に、別れの言葉を告げに来たわけではないです」

 

「はぁ? ……じゃあ、なんだっていうのよ」

 

彼は何のつもりで、ここへ来たのか。

自分はこんなに悩んでいるというのに、男の普段と変わらぬテンションに納得がいかなかった。

 

「いつもの特訓をはじめましょう」

 

「は?」

 

突然の言葉に、咲季は呆気に取られた。

 

「契約、切られたこと、聞いてるのよね?」

 

「確かに聞いていますよ」

 

男も、咲季も、同じ状況のはずだというのに、その態度は正反対。

彼は全く、契約の解除という事態に、堪えていない。

むしろ、何もなかったかのようである。

 

「はぁ!? じゃあ、なんのつもりよ? あなたは、もう、私のプロデューサーじゃっ___」

 

「そうですね」

 

遮るように、男はさらに一歩、彼女へと距離を詰めた。

 

「でも、俺はあ(・)な(・)た(・)に(・)『最後まで責任を取れ』と言われました。

 依頼を受けたのは、事務所からだけじゃないです」

 

吐き気がするような、見苦しい言い訳。傍からみれば、ただの詭弁だ。

 

だが、その不格好で泥臭い言葉を聞いた瞬間、咲季の被っていた無機質な仮面がガラガラと音を立てて崩れ去った。

 

何が彼を変えたのか、一体どうして、昨日までとは打って変わって冷静なのか。

ただでさえ、分からなくなっていた彼の内面は、咲季にとってはぐちゃぐちゃに見えた。

 

けれど、今までとは違うことは、彼女には分かっていた。

 

今の彼は、ふ(・)ぬ(・)け(・)て(・)い(・)な(・)い(・)。

 

「……馬鹿じゃないの」

 

咲季は、ツカツカと乱暴な足取りで男に歩み寄る。そして、握りしめていた安物のプラスチックのボールペンを、彼の胸ぐらに思い切り押し付けた。

 硬いペン先が胸骨に当たる鈍い感触。布越しに、胸ぐらを掴む彼女の小さな手が小刻みに震えているのが、男にも確かに伝わってくる。

 

「契約書とか……なんにも交わしてないでしょ」

 

「別に、事務所とも交わしてないですね。

 匿名でやってましたから」

 

「あんなの、私の、ただのワガママで……っ」

 

「あなたがワガママなのは、昔からでしょう?」

 

男の静かな声が、夜の空気に溶ける。

 

咲季の脳裏に浮かぶのは、学園時代の思い出。

 

それも、一年生の夏、H.I.Fで負けた後のこと。

毎晩自分の弱音を受け止めろなどと、わがままを言っていた頃のこと。

 

それを静かに受け止めてくれた、目の前の男の姿。

 

 

「……なんなのよ、もうっ」

 

 

図星を突かれ、胸ぐらを掴む咲季の手にギュッと力がこもる。

 もはや、周囲の音など何も聞こえなかった。この静寂の世界には、自分たち二人しか存在していないと錯覚するほどの、濃密な時間が流れている。

 

俯いていた彼女が、勢いよく顔を上げた。

 街灯の白い光が、彼女の顔を鮮明に照らし出す。

 

その瞳には、いっぱいの涙が溜まっていた。

 けれど彼女は、意地でもそれを零すまいと、血が滲むほど強く唇を噛み締めて彼を睨みつけている。

 悔しさと、安堵と、どうしようもないほどの熱が入り混じった表情。

 

花海咲季の魅力が、そこにはあった。

 

「俺は、果たします。

 あなたにしてしまったことの、責任を」

 

「……プロデューサー」

 

「だから、あなたが変わるところを――最後まで、俺に見届けさせてくれませんか」

 

 

その言葉は、真っすぐに、彼女の体を貫いた。

 

答えはない。

 

けれど、この瞬間、二人を隔てていた壁は、確かに崩れ落ちてしまっていた。





わりとはやめに続き書きましたが、暫く空くかもしれないです。
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