花海咲季からは逃げられない 作:幻の大地
コンサルタント契約が解除されてからというもの、二人を繋ぎ止めるものは何もないというのに、それでもまた同じ場所で落ち合うことをやめることはなかった。傍目に見れば、さぞ奇妙に映っただろう。だが、幸いにも間に割って入ってくるような人間はついに現れなかった。
花海さんは契約が切れたことなど、まるでなかったことのように振る舞っていた。 俺もそれに倣った。
互いに、その理由を言葉にすることはなかった。ただ、あの雨の夜に交わした約束だけがそこにはあった。
言葉数が増えたわけではない。むしろ、口数は前よりも減っていたかもしれない。だが、公園に響く足音や息遣いの熱量は日を追うごとに増していった。彼女の動きから、迷いが消えていく。かつて事務所の方針に押し込められていた分だけ、その反動のように、彼女は貪欲に自分自身を取り戻そうとしていた。俺はただ、その熱量に置いていかれないよう、必死に食らいついていくだけだった。
そしてついに、その日々の集大成というべき、大規模なソロライブの日を迎えようとしていた。
◇
「よう、おつかれさん」
「……天野」
定時を過ぎた役所の出入り口で、天野がいつもと変わらぬ隙のないスーツ姿で待ち構えていた。 花海さんとの契約が切れてからというもの、天野とは何度か顔を合わせていた。
正確には向こうがこうして仕事上がりを狙ってやってくるだけなのだが。
「いい加減、受け取ってくれないか、これ」
天野が困り顔で懐から差し出したのは、一枚のチケット。「関係者用」と書かれている。
「……はぁ、受け取れないと何度も言っているだろ」
「……やっぱり、そうか」
かれこれ3週間ほど執着されているせいか、少し声にいら立ちがこもる。 天野も半ばあきらめているのか、俺の態度に文句も言わない。
ただ、ポツリと言葉を漏らした。
「これはさ、お詫びなんだよ。事務所の方針に逆らえなかった、俺の不甲斐なさの」
彼の声に、あの喫茶店で見せた苦渋の表情が重なる。
「お前のせいじゃないと、何度も言ったはずだが」
「君がそう言ってくれたとしても、佑芽さんや咲季さんに面目が立たないよ」
「……」
妙な理屈だと思ったが、反論する気にはなれなかった。
押し黙る俺を見て、天野は小さく息を吐いた。それから少しだけ声のトーンを落として続ける。
「……なあ。契約が切れてから、君、咲季さんとはどうなったんだ」
核心を突く質問だった。だが、俺は答えなかった。答えられなかった、というべきか。 あの雨の夜のことも、公園での毎晩の特訓のことも、契約が切れた後、それでも公園に立ち続けたことも天野は何一つ知らない。知りようがない。あれは俺と彼女、二人だけの間で起きたことだ。
「……なんだよ、その顔は」
「別に。何でもない」
「怪しいな」
顔に出てしまっていたのか、彼から訝しむような視線を向けられたが、俺はただ首を振るしかなかった。
天野の中ではきっと今も、俺と花海さんの関係は、あの契約解除の日で止まっているのだろう。凍りついたまま、二度と動くことのない関係として。
今はまだ、それでいいのだ。
「ライブには行くさ。……あくまで一般客としてな」
「君がそれでいいなら、何も言うまい。……本当に、何を考えているのかわからないな、君は」
「お前のほうが分からないよ。よく三週間も粘ったな」
「君こそ、なぜわざわざ自費で行こうとするんだ」
こんなやり取りも、三年ぶりだった。学園時代、寮の廊下で交わしていた他愛もない軽口。あの頃にはまだ何の負い目もなく、ただ純粋に同じ夢を見上げていられた。
「まあいいさ、当日は来るんだろう。俺に言ってくれれば咲季さんとも……」
「だから、そういうのはいらない。あくまで一般客としてだな」
「……はぁ、君も意固地だな。そういうところも変わってない」
流石の天野もついに観念したのか、それ以上は何も言わず踵を返した。
彼は、俺とは違う。夢を捨てず追いかけ続けた人間だ。俺にはないものを彼は持っている。それがたまらなく悔しくて、だが俺に悔しがる資格はない。
けれど、もうなりふり構っている場合じゃない。プライドだとか恥だとか、そんなものはとっくにかなぐり捨てたのだ。
今ここで踏み出さなければ。
「__天野」
「あ?」
振り返った彼の顔には、まだ後ろめたさの色が残っていた。
ならばここで、宣言してしまおう。
「俺も、まだライバルのつもりでいる」
言った瞬間、自分でも滑稽だと思った。逃げ出した男が、何をライバルなどと。
だが、それでも。三年間、ずっと飲み込んだままだった言葉だ。
天野は、一瞬、呆気にとられたように固まった。だが、俺の目を見た後、ゆっくりと、その表情が崩れていく。
「……は? 何だよ、いきなり」
「前に言われたからな。そのお返しだ」
「……君な」
呆れたような、それでいて、どこか噛みしめるような声だった。天野は片手で顔を覆うと、小さく肩を震わせた。笑っているのか、それとも別の感情なのか、俺には判別がつかなかった。
「__上等だよ。受けて立つ」
顔を上げた天野の目には、あの居酒屋で見せたのと同じ、プロデューサーとしての鋭い光が戻っていた。
「君たちが一体何を見せてくれるのか、楽しみにしているよ」
「……ああ」
気づけば太陽は沈んでいて、街灯が足元を照らしていた。
俺はただ、夕闇に紛れて薄れていく彼の背中を、静かに見送っていた。
◇
当日。開演を待つ会場のロビーは、既に異様な熱気に包まれていた。 私服に袖を通した自分の姿が、こんなにも心許なく感じられるとは思わなかった。かつてはスーツの内側に、プロデューサーとしての肩書きを隠し持っていた。
だが今は何もない。
ただの一観客としての自分がこんなにも頼りない存在だったとは。
それでも、天野に啖呵を切った以上後には引けない。資格がないことなど、とうに分かっている。それでも今日ばかりは、あの約束を果たしに来たのだ。
彼女がどこまで辿り着けたのか、この目で見届けるという約束を。
人波に流されるようにして、開場の列に並ぶ。
周囲の話し声が、耳をすり抜けていく。
「今日の咲季ちゃん、新曲やるんだって!もう涙出る……」
「物販間に合うかなぁ」
誰もが、これから始まるものへの期待に満ちていた。それは俺も同じだった。だが、俺の胸の内には、期待とは少し違う何かがずっと燻っていた。
資格がない。それは分かっている。だが、ここまで来てしまったのだから、もう戻れない。
かつて、俺は彼女のステージをいつも舞台袖から見ていた。緊張で強張る彼女の背中に「大丈夫だ」と声をかけるのが、俺の役目だった。あのときの俺には、確かに彼女の隣に立つ理由があった。
だが今は、この人波の中の名もない一人でしかない。誰も俺のことなど知らない。誰も、俺がかつて彼女の何であったかなど、知る由もない。
それでいいはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったままだった。
列がゆっくりと進む。俺はただ、流れに身を任せていた。
「__あれ?」
聞き覚えのある声に、思わず振り返った。人混みの中、缶ジュース片手に列に並んでいたのは、他でもない、この間花海さんのファンだと語っていた、職場の同僚だった。
「あ、やっぱり!今日来てたんだ! 大事な後輩の晴れ舞台だもんね!」
「……どうも」
しどろもどろに返すと、同僚は特に気にする様子もなく、満面の笑みで頷いた。
その屈託のない笑顔に、俺はただ、曖昧に頷き返すことしかできなかった。かつて、この男の前で「学生時代の顔見知り」とだけ嘘をついたことを思い出す。今、この場にいる理由を、正直に話せるはずもなかった。
「じゃ、また職場で!」
同僚は軽く手を振ると、人波に紛れて去っていった。
……ここでバレるわけにはいかない。妙な冷や汗をかきながら、俺は列の先へと視線を戻した。
「人多すぎて電波届かないんだけど!」
「なんか臭くね?」
……やっぱり、チケットもらえばよかったか。
◇
列を抜け、開場後のロビーへと進んだところで、不意に、視界の端に見覚えのある人影が映った。
関係者用の入り口からこちらを覗いていたのは花海佑芽さんだった。俺の姿を認めると、迷いのない足取りでこちらに近づいてきた。
「……本当に、来たんですね」
抑揚のない声だった。彼女は俺の前に立つと、値踏みするような視線を寄越した。
「今日も、無関係だとでも言うつもりですか」
「……いえ」
言い訳のしようがなかった。天野からチケットを断ってまで、結局こうして客席に座りに来ている。それは、紛れもない事実だ。
「私、言いましたよね。中途半端に関わってお姉ちゃんを振り回すなら、絶対に許さないって」
「……はい」
「三年前、無責任に逃げ出したのは、あなたです」
容赦のない一言だった。返す言葉を、俺は持たなかった。
「あなたがいなくなってから、お姉ちゃんがどれだけ苦しんで、自分を殺してきたか。
……忘れたわけじゃないですよね」
「……忘れたことなど、一度もありません」
佑芽さんは、しばらく黙って俺を見つめていた。値踏みするような、それでいてどこか試すような視線だった。
「__なら、いいです」
それだけ言うと彼女は背を向け、関係者用の通路へと戻っていった。許しでも、激励でもない。ただ、忘れるな、という念押しだけを残して。
俺はしばらく、その場から動けなかった。三年前の罪は、まだ何一つ清算されていない。それをあらためて突きつけられた気分だった。
◇
客席に腰を下ろし、開演を待つ。周囲を埋め尽くすペンライトの光が、まるで無数の星のように揺らめいていた。
あの頃、レッスン教室で彼女の努力を見守っていたときと、同じ緊張感が胸を締め付ける。
だが、あの頃とは違う。俺はもう、彼女の隣に立つプロデューサーではない。ただの観客の一人だ。
しばらくもしないうちに、開演のアナウンスが鳴った。
照明が落ち、会場全体が闇に沈む。無数のペンライトの光だけが、夜空の星のように揺らめいていた。空調の音すら聞こえなくなるほどの静寂が、代わりに会場を満たしていく。
自分の心臓の音が、やけにはっきりと耳の奥で鳴っているのが分かった。かつて、舞台袖でこの音を聞いていたときと違わない鼓動だ。
暗転した会場が、一瞬にして静まり返る。この静寂の先に何が待っているのか、俺だけでなく会場中の誰もが、固唾を呑んで見守っていた。
__花海咲季。
照明が弾けると同時に、彼女がそこに立っていた。
あの頃とは何もかもが違う。それでいて、何一つ変わっていない。
最初の数曲は驚くほど洗練されていた。寸分の狂いもない振り付け、崩れることのない微笑み。事務所が理想とする「綺麗な人形」を、これ以上ないほど忠実になぞる、完璧なステージだった。
だが、俺には伝わった。この静かな完成度の奥に、何かを押し殺すような気配があることに。かつて彼女が心に秘めていたあの獰猛な熱が、綺麗な仮面の下でじりじりと燻っているのが、手に取るように伝わってきた。
三曲目に差し掛かった頃、ついにその均衡が僅かに崩れ始めた。振り付けの合間、ほんの一瞬だけ覗く鋭い笑み。抑えていたはずの熱が、少しずつ表に滲み出してくる。
俺の胸に、あの動画で見た光景が蘇る。
『私は、逃げないわ』
あの言葉が、目の前の彼女の一挙手一投足に、確かに宿っていた。
曲が中盤に差し掛かった頃、彼女は最も難易度の高いパートへと踏み込んだ。
(__あれは)
脳裏に、ある夜の記憶が蘇った。
__契約が切れて、二週間ほど経った頃だった。
「花海さん、あのプラン、本番でも使いましょう」
深夜の公園。事務所から回ってきた「修正指示書」を、彼女の前に差し出した。
赤字で大きく×印がつけられているのは、ターンから右足一本での着地__以前、無茶な自主練で彼女が足首を痛めかけた、あの動きの部分だった。
もともと俺がコンサルタントとして最初に組んだプランに既に組み込んであったものだ。
「それ、事務所からダメって言われたやつじゃない」
花海さんは、面倒くさそうに肩をすくめた。
「ですが、俺は、これを本番でもやるべきだと思っています」
花海さんの目が、驚いたように見開かれる。
「……あなたがそんなこと言うの? 前は危ないから頭を冷やせ、しか言わなかったくせに」
「今更何を。これを提案したのはほかでもない俺です。何かあれば俺が責任を取ります、……いや、何も起こらないようにしますよ」
「……ふぅん」
花海さんは、しばらく黙って俺を見つめていた後、面白がるように口の端を持ち上げた。
「事務所の承認がいるのは、リハーサルの映像だけ。本番の中身までは、誰も見てないものね」
「そうです。差し替え案を見せておいて、本番当日、このタイミングからあなたの判断で元に戻す。曲が止まらない以上、始まってしまえば誰にも止めようがない」
「あら。今のあなたにしては、随分と物騒な提案じゃない」
「……あなたの武器を、事務所の都合で殺されるのを、俺がもう見ていられないだけです。あなたも、そう考えているはずだ」
花海さんは目を細め、それから、愉快そうに喉を鳴らした。
「言ったわね。……いいわ、乗った」
「その言葉を待っていました。ぜひやりましょう」
「あなたが言い出したことよ。絶対に、失敗させないでよね」
「もちろんです」
(__そうか。俺は、あのときから)
あのときすでに俺自身が、事務所の敷いたレールに反旗を翻す覚悟を、決めていたのだ。
……そして、花海さんも。
目の前で、彼女の右足が、寸分の狂いもなく、地を捉えた。ぐらつきは、一切なかった。
その場で一瞬静止したポーズから、彼女は不適な笑みを浮かべ、そのまま次の振り付けへと繋げていく。
一瞬の沈黙ののち、会場が割れんばかりの歓声に包まれた。
その瞬間を境に、彼女はもう取り繕うことをやめていた。事務所が求めていたはずの「花海咲季」は、そこにはもう欠片も残っていなかった。汗が飛び散るたび、光の粒が舞う。荒々しいパフォーマンス、地を蹴る力強さ。
あの頃の花海咲季が、そこにいた。
詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。目の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。
あの夜、公園の街灯の下で何十回、何百回と繰り返した練習が、今、この大舞台で、完璧な形となって結実している。
これはもう、俺が作ったプランの成果などではない。彼女自身が、己の力で掴み取った到達点だ。
曲が終わる。壮大な拍手の中心で、彼女は肩で息をしながら、まっすぐに前を見据えていた。あの頃と同じ、……いや、それ以上の強さで。
(……やっと、見届けられた)
俺の役目は、ここで終わったのだ。そう、思った。
◇
客席後方、一般の客と少し距離を置いた一角で、佑芽は缶コーヒーを片手に壁に寄りかかっていた。彼女も、今日は出演者としてではなく、一人の観客としてこの場に立っていた。
「__どうでしたか、佑芽さん」
声をかけながら現れた天野に、佑芽は視線を落としたまま小さく息を吐いた。
「……いきなり本番で、あんなパフォーマンスをやってくるとは思わなかったです」
「でしょうね。俺も、リハーサルの映像とは別物で、肝が冷えました。
会場のスタッフも事務所もてんやわんやしていますよ」
天野は苦笑しながら、隣に並んで壁に寄りかかった。
「……あれ、絶対にあの人の入れ知恵ですよね」
「さあ、どうでしょう。けれど、そうだとしても、実際にやり切ったのは咲季さん自身です。誰かに言われたからって、あそこまでできるものではないですから」
「分かってます、それくらい」
佑芽は、少しむきになったように言い返した後、ふっと表情を緩めた。
「……でもあの人がいなかったら、お姉ちゃんは今も、あの、綺麗なだけの人形のままだった」
「……佑芽さん」
「まだ、許せるわけじゃないけど。三年前のことも、この間のことも。それとこれとは別問題です。……ただ」
佑芽は、缶コーヒーに視線を落としたまま、ぽつりと続けた。
「お姉ちゃんが、ちゃんと戻ってきてくれた。それだけは、感謝しているって、伝えておいてください」
天野は、それ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。周囲では、まだ興奮冷めやらぬ観客たちの声が、あちこちで響いていた。
◇
鳴りやまない歓声の中、俺は静かに席を立った。
このまま残っていれば、いずれ彼女の視界に入ってしまうかもしれない。それに、これ以上を望む資格は俺にはない。ただ、この目に焼き付けられただけで十分だった。
人波に逆らうようにして、出口へと向かう。
胸の中には、言葉にならない感情が渦巻いていた。安堵と、寂しさと、そして、確かな満足感。三年間、目を逸らし続けてきたものに、ようやく決着をつけられた気がした。
会場の外に出ると、風が火照った体に心地よかった。
昼には会場入りしていたはずなのに、すでに日が沈みかけている。
余韻に浸る観客たちの喧騒を背に俺は一人、人気の少ない路地へと足を向ける。正面からでは、とても出待ちの人波を抜けられそうになかった。
これでいい。すべてを見届けた。それで、十分だ。
そう、自分に言い聞かせながら。
「__待ちなさいよ」
背後から聞き慣れた、けれど息を切らした声が飛んできた。
振り返ると、まだ舞台衣装のままの花海さんが、肩で息をしながら立っていた。関係者用の裏口から、この人気のない路地まで、走ってきたのだろうか。頬は上気し、乱れた髪が、街灯の光に淡く照らされている。
「……また逃げるつもり?」
開口一番そう言われて、俺は思わず苦笑した。
「いえ。一人で感傷に浸りたかっただけです」
「ふーん……。その割には、会場を出るのが早かったわね」
棘のある声だった。だがその声音の奥に、微かな不安の色が滲んでいるのを、俺は聞き逃さなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。互いの荒い呼吸だけが、路地に響く。
俺は、一度深く息を吸い込んでから、口を開いた。
「素晴らしいライブでした。見届けることができて、本当に、よかった」
花海さんは何も言わず、ただじっと俺を見つめていた。その瞳には、これまでのような刃のような鋭さではなく、何かを推し量ろうとするような、静かな光が宿っていた。 俺は、その視線から逃げることなく続けた。
「ずっと、悔やんでいました」
「……」
「あなたを、トップアイドルにすると誓ったのに、俺は約束を守ることができなかった」
三年間、口にすることのできなかった言葉がようやく喉を通っていく。
花海さんは、ふっと息を吐き出すと、呆れたように肩をすくめた。
「そうね。勝手に逃げ出して……勝手にまた戻ってきて。ほんと、自分勝手」
「返す言葉もない。……けれど、あなたは機会をくれた」
「……」
「あなたへの責任をとる、最後のチャンスだと思いました」
言葉を紡ぐたび、胸の奥が締め付けられる。だが、もう止まらなかった。止めるつもりもなかった。
花海さんは、少し苛立ったように前髪をかき上げた。
「……能書きはいいわよ。私が知りたいのは、理由のほう」
その瞳がまっすぐに俺を射抜く。逃げ場はもうどこにもなかった。
「……はい、話さなければなりませんね」
俺は一度、拳を握りしめてから、今までずっと、彼女に明かさなかった真実を語り始めた。
「卒業後、俺は100プロダクションには採用されませんでした」
「……え?」
花海さんの表情に、はっきりとした動揺が走った。
「俺の、プロデューサーとしての能力は、評価されなかったんです。
……まあ、花海さんほどの才能の持ち主がそばにいれば、当然の__」
「それ、本気で言ってるならぶつわよ」
低く、凄みのある声だった。俺は思わず息を呑んだ。
「……すみません、失言でした」
「ただ、当時の俺は本気でそう考えてしまいました。偽物の天才とあなたは自称こそしていましたが、それでも、何度打ちのめされても立ち上がるあの様は、まさしく才能だった」
「それとは対照的に、俺は、何も残せなかった。
あなたという存在に生かされていただけの、無価値な存在なのだと、そう思ってしまったんです」
花海さんの拳が、小刻みに震えているのが分かった。
「なによ、それ。無価値って、そんな外野のいうことなんてどうでもいいじゃない!
なんで、私には何も言ってくれなかったのよ。
……私には、ずっと! あなたが必要だったのに!」
叫びに近いその声が、夜の路地に反響する。この人にどれだけの孤独を強いてしまったのか、その一言だけで、痛いほど分かった。
けれど、まだ言っていないことがある。
「それだけではありません」
「……」
「あのとき俺が事情を話せば、きっとあなたは100プロダクションを蹴って、一緒に別の道を探してくれたでしょう。
……けれどそれが、俺には、耐えられなかった……!」
喉の奥から、ずっと秘めていた感情がせり上がってくる。
「あなたの足枷に、なりたくなかった。
……いいや、そんな綺麗ごとじゃない。
俺は、あなたの足を引っ張る自分に耐えられなかった」
言い終えると同時に、体の中の何かが、すとんと抜け落ちたような感覚があった。
長年、腹の底に沈んでいた本音が、ようやく光の下に晒された。
花海さんは、しばらく何も言わなかった。ただ、震える拳を握りしめたまま、俺を見据えていた。
軽蔑されただろうか、失望されただろうか。
俺がこんなに矮小な人間で、あなたにふさわしい存在ではなかったのだから。
けれど、これが正解なのだろう。
普通なら、絶対に交わらない存在だった。けれど奇跡が起きて、俺は彼女にかかわることができて。それだけで十分だったのだから。
花海さんは、しばらく黙り込んだ後、笑うでもなく、苦々しい声で言った。
「__皮肉な話よね」
「……え」
「足枷になりたくないから、勝手に消えた。その結果がこれじゃない。
……足を引っ張られたのは、結局どっちだと思う?」
喉が詰まった。返す言葉が見つからない。
「……その通りです。俺は結局、逃げただけだった」
「違うわ」
花海さんは、俺の言葉を遮るように、はっきりと言った。
「あなたの間違いは、弱かったことじゃない。……勝手に一人で、私たちのことを決めたこと」
「……」
「あなたが一人で『相応しくない』って結論を出して、勝手に姿を消す権利なんて、最初からない。
だって……私たち、ずっと二人でやってきたじゃない!」
その言葉が、深く突き刺さった。俺が恐れていたのは、自分の無価値さを晒すことだった。だが、本当に犯した罪は、それすらも彼女に選ばせなかったことだった。
自分の、ちっぽけなプライドを守るために、俺は彼女を裏切った。
ただ、それだけのことだった。
「……きっと、あのとき、あなたにちゃんと伝えていれば、こうはならなかったのでしょうね」
けれど、その仮定に意味はない。
もう3年も経ってしまっている。今更取り返しのつきようもないことだ。
「さあ、はやく事務所のところに戻ったほうがいい。
皆さん、あなたのことをきっと待っていますから」
言い切って、俺は背を向けた。これ以上、彼女の前で醜態をさらしたくなかった。
だが、いつまでたっても足音は聞こえない。
不思議に思って、振り向くと、花海さんは腕をがっしり組んで言い放った。
「必要ないわ。やめてきたもの、いまさっき」
「は?」
思わず、間の抜けた声が出た。 遠くから届いていたはずの、余韻に浸る観客たちのざわめきが、一瞬、ひどく遠くに感じられた。頭の芯が、痺れたように働かない。
今、彼女は何と言ったのか。理解が、追いついてこなかった。
「事務所って、方針とか諸々しがらみが面倒だったもの。私にはあってなかったわ。
___私は、私だけの道を進みたい」
あまりにあっさりとした口調に、俺の思考が追いつかなかった。だが、あっさりと語られたその一言の重みが、少し遅れて、ようやく実感として押し寄せてくる。この三年間、あれだけ縛られていたはずの看板を、彼女はこんな一瞬で手放したのだ。しかも、その引き金を引いたのは、他でもない俺自身だった。
「だからって、やめることは__トップアイドルになるんでしょう!?」
「いつアイドルをやめるって言ったのよ。事務所を抜けただけ。
……何が言いたいのか、わかるでしょ」
花海さんは、まるで当然のことのように言い放つと、一歩、俺との距離を詰めた。
「誰かに言われて決めたわけじゃない。全部、私が自分で決めたことよ。
あなたは、どうなの?」
「……俺は」
何か言わなければと思うのに、言葉にならなかった。彼女がここまでのものを懸けたという事実の前で、今更「資格がない」などという言い訳が、どれほど薄っぺらいものなのか、嫌というほど分かっていた。
「はぁ……資格がない、とでも言うわけ? 今の私がこうなってるの、あなたのせいなんだから。
最後まで面倒みなさいよ、この意気地なし!!」
その一喝に、これまで積み重ねてきた言い訳や予防線が、すべて吹き飛ばされていくのを感じた。
彼女は、俺なんかのために、積み上げてきたものを全部投げ出した。それだけの覚悟を示された以上、これ以上尻込みすることこそ、一番の裏切りだった。
「……あなたって人は。どこまでお人よしなんだ」
思わず漏れた呟きに、花海さんは片眉を上げただけだった。
一度、深く息を吸い込む。
もう、迷いはなかった。 この三年間、……いや、もっと前から、ずっと避け続けてきた呼び方があった。学園の教室で、彼女の隣に立っていたあの頃、当たり前のように呼んでいた名前。あの書き置きを残して逃げ出して以来、一度たりとも、口にすることを自分に許してこなかった。 だが、もう、隠す理由も、逃げる理由もない。
「花海さん……いや、花海咲季さん」
三年ぶりに、彼女の名を呼んだ。
「なによ」
「___あなたをプロデュースさせてもらえませんか」
最大限の誠意を込めた申し出だった。頭を下げることすら、いとわなかった。三年前に置き去りにしたものを、今度こそ、正式に取り戻すつもりだった。
だが、返ってきたのは、予想外の一言だった。
「いやよ」
「……え」
拍子抜けした声が漏れる。断られる可能性など、微塵も考えていなかった。頭を上げた俺の目に映ったのは、咲季さんの、悪戯っぽく吊り上がった口角だった。
彼女は、俺の胸元に人差し指を突きつけた。
「だって、【プロデューサー】だとまた逃げだしそうだもの。……そうね」
彼女は、街灯の光の下、悪戯で、鮮烈な笑みを浮かべる。三年前、俺が焦がれて止まなかった、あの不敵な笑みそのものだった。
「あなた、私のパートナーになりなさい!」
その言葉は、命令であり、それと同時にこれ以上ないほどの信頼の証だった。
「これからよろしく、私のベストパートナー!」
差し出された手を、俺はすぐには取れなかった。
「__ま、待ってください。パートナーとは、具体的に何を指すんですか」
思わず尋ねると、咲季さんは片眉を上げ、心底呆れたと言わんばかりに息を吐いた。
「今更、そんな細かいこと聞く?」
「重要なことです。俺は、あなたに対して誠実でありたい」
「はぁ……もう、相変わらず変なところで真面目ね。
……そうね。ただ、一番近くで、一番厳しく、私を鍛える人。
……今はそれで十分でしょ」
差し出された手を見て、俺はもう笑うしかなかった。三年間、逃げ続けた末に辿り着いたのが、こんな眩しい場所だったとは。
「はい」
俺は、その手をしっかりと握り返した。温かく、それでいて汗の名残でわずかに湿ったその手のひらの感触が、これが夢や幻ではないのだと、はっきりと教えてくれた。
「一生、お供させていただきます」
「……言ったわね?なら、ぜったいに逃がしてやらないんだから!」
咲季さんは、握った手を離さないまま、ふっと表情を緩めた。強気な仮面の下から覗いた、飾らない笑みだった。三年前、二人で夢を語り合っていたあの頃と、何一つ変わらない。
遠くから、いまだ鳴りやまない観客たちの歓声が、風に乗って微かに届く。それはもう、俺にとって、過去に置き去りにしていた音ではなく、これから隣で聞き続けていくべき音なのだと、そう思えた。
風が、二人の間を吹き抜けていく。
花海咲季からは、逃げられない。
ふと、そう思った。
Fin
前話からずいぶんと間が空いてしまいましたが、覚えている方はいたでしょうか。
しばらく忙しくて後回しにしているうちに、本編は咲季のHIFが実装されてしまいましたね。
話としては、これで終わりのつもりですが、気が向いたらこの後の話も書くかもです。
それでは皆様、よき学マスライフを。