呪詛師、幻想にて   作:おそのすけ

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第三話

夏油は神社を後にして程なく、霊夢に示された通りに目指した。

(試運転と行こうか)

 

呪霊操術

 

夏油はドロリとした黒からウミガメのような気色の悪い呪霊を放った。

夏油はそれの背中に乗り、優雅にヒレを動かして森を低空飛行していった。

(呪霊を顕現させることは確かめていたがここまでスムーズに使役できるとはね。いつも通りに呪霊は活動し、私の術式は問題なく作用している)

夏油は術式が問題なく作用することに、ますます疑問を深めた。

呪力を持たない世界において、なぜ自らの力が枯渇することなく機能するのか。夏油は移動の中で思考していた。

そして、一つの仮説に辿り着いた。

(呪力とは本来、人間の負の感情から絞り出されるもの。この世界自体に呪力が存在していなくとも関係ない。私自身の内にある感情、そして何より、私の中に取り込んでいる無数の呪霊そのものが莫大な呪力の源泉となっているのだろう。なら、私だけで呪力が完結しているということか)

外部からエネルギーを取り込む必要がないのであれば、現状問題はない。夏油は一度考えるのをやめた。

 

      ーーーーーーーーー

 

そろそろ目的地が近いと思い、呪霊をしまい歩き出した。

木々の切れ間から、土埃の匂いと人々のざわめきが漏れ聞こえてきた。

幻想郷における人間の生活圏、「人里」。

夏油傑が足を踏み入れたそこは、彼の知る現代の東京とは似ても似つかない、江戸や明治の時代を切り取ったような懐古的な風景だった。

木造の平屋が立ち並び、土の通りを多くの人々が忙しなく行き交っている。

夏油は通りの端をゆっくりと歩きながら、その光景を観察した。

(やはり、呪力がない。誰一人として……)

それが最も特異な点だった。彼の知る「猿」たちは、生きているだけで醜い呪いを垂れ流し、周囲を穢す存在だった。しかし、ここの人間たちは驚くほどに空だ。

(少し形は異なる世界とはいえ……これは、私が望んでいたような世界なのか?)

「おや、見ない顔のお坊さんだな。外から迷い込んだのかい?」

八百屋の店先で大根を並べていた初老の男が、夏油の特異な袈裟を見て声をかけてきた。

夏油は教祖時代に培った、完璧で穏やかな笑みを貼り付ける。

「ええ、少しばかり道に迷ってしまいまして。ここはとても活気がありますね。皆、平和に暮らしているようで」

「平和、ねえ。まあ、お天道様が出てるうちは安全さ。だが夜はあんまり出歩かねえ方がいいぜ。あんたみたいに優男じゃ、すぐ妖怪の腹の中だ」

男はあっけらかんと笑いながら、夏油に売り物の林檎を一つ放り投げた。

夏油はそれを見事な手付きで受け止め、小さく会釈をする。

「ご忠告、痛み入ります。お布施として頂きましょう」

(妖怪の脅威を語りながら、ひどく楽観的だ。自分たちが守られていることに疑問を持たない、飼い慣らされた猿の顔だな)

夏油は林檎を袈裟の袖にしまい、再び歩き出す。

「ああっ、ごめんなさい!」

ふいに、足元に小さな影がぶつかってきた。

通りで追いかけっこをしていた子供だ。転びそうになった小さな体を、夏油は咄嗟に手で支え、優しく立たせてやった。

「おっと、危ないよ。怪我はないかい?」

「う、うん。ありがとう、お坊さん!」

子供は夏油の顔を無邪気に見上げると、屈託のない笑顔を向け、すぐに仲間の元へと駆け出していった。

夏油はその小さな背中を見送る。

かつて、術師が命を懸けて守るべきだと思い込んでいた、非術師の姿。

だが、今の彼の心には何の波風も立たない。

(純粋だ。だが、いずれはあの大人たちと同じになる。弱いまま、ただ何かに縋って生きるしかない生き物だ)

さらに歩みを進めると、今度は重そうな米俵を運ぼうとして、ふらついている老婆がいた。

夏油は無言で歩み寄り、その米俵を軽々と肩に担ぎ上げた。

「あらあら、すいませんねえ、旅のお坊さん。助かりましたよ」

「困った時はお互い様です。どこまで運びましょうか」

「すぐそこの角の家ですよ。ありがたや、ありがたや。仏様のようなお人だ」

老婆はしわくちゃの手を合わせ、夏油を拝むように何度も頭を下げた。

教祖時代、盤星教の信者たちから数え切れないほど向けられた、盲目的な崇拝と依存の眼差し。

「仏様、ね」

老婆と別れた後、夏油は誰にも聞こえない声で零した。

自分たちが無力であることを受け入れ、ただ強い者に縋り、感謝し、そしてまた忘れていく。それがこの世界であっても変わらない「猿」たちの生き方なのだ。

夏油は人里の中心へ向かって歩き続けた。

匂い、音、熱気。すべてが人間のものだ。

夏油は猿を嫌い、久しく触れていなかった人間の社会に懐かしさを感じていた。

人里の通りを歩きながら、その特有の人の良さそうな笑みを崩さず、道行く人々と自然に言葉を交わしていった。

何しろ、今の彼にはこの世界の通貨が一文もない。手っ取り早く、かつ怪しまれずに情報を集めるには、愛想よく振る舞い、世間話の延長として人々の口を滑らせるのが最善だった。

「おや、見事な細工ですね。この里の職人の方々で作られているのですか?」

「ああ、お坊さんかい? そうさ、この辺のものは全部里の人間が作ってる。まあ、たまに妖怪のやつらが珍しいものを持ち込んでくることもあるがね」

小間物屋の店主との会話から始まり、夏油は茶屋の軒先で休む老人、談笑する女たちなど、様々な人間から少しずつこの世界の輪郭を切り取っていった。

言葉の端々から感じ取るのは、やはり妖怪という圧倒的な強者に対する「日常化された畏怖」だ。

そうして適当な相槌を打ちながら話を聞き出していた夏油は、ある一つの疑問を投げかけた。

「これほど特殊な環境でありながら、里の生活は随分と安定しているように見えます。外の世界と隔絶されて長いと聞きましたが、この里の歴史や、妖怪たちへの対処法といった知識は、どのように受け継がれているのでしょうか?」

荷下ろしを手伝ってやった縁で言葉を交わしていた、恰幅の良い米問屋の男が、その問いに自慢げに胸を張った。

「そりゃあ、稗田の阿求様のおかげさ。幻想郷の歴史や妖怪の弱点なんざ、全部あのお方が幻想郷縁起って書物にまとめてくださってるんだ」

「稗田の、阿求様……」

「ああ。あのお方はな、ただの人間じゃねえ。御阿礼の子って呼ばれててな、一度見聞きしたことは絶対に忘れねえんだ。それに、代々転生を繰り返して、何百年も前からずっとこの幻想郷の記録を書き記し続けてるんだとよ」

男の言葉に、夏油の細められた目が微かに見開かれた。

「……転生、ですか?」

「そうだ。今の阿求様で九代目らしいぜ。生まれ変わっては記憶を引き継いでるんだ。毎回寿命が短いらしくて、長くは生きられねえらしいが、里の人間にとっちゃ本当にありがてえお方だよ」

男と別れ、人目につかない路地裏へと入った夏油は、スッと冷たい表情に戻った。

(記憶を引き継ぎ、転生を繰り返す人間。……まるで、天元のようだな)

夏油の脳裏に、かつての任務、――不死の術式を持つ呪術界の要石、天元の存在が過った。

天元は肉体を乗り換える「星漿体との同化」を行うことで、その存在と日本の結界を維持していた。

しかし、ここは呪力のない世界である。それなのに、個人の魂が記憶を保持したまま「転生」という事象を引き起こしているという。

(輪廻転生という概念が、文字通りシステムとして組み込まれているのか。それとも、霊力とやらが作用しているのか……)

歴史を記録し、妖怪と人間の関係性、すなわち「幻想郷の理」を後世に固定化するためのシステムとしての転生。

天元が結界という物理的な防壁で世界を維持しているなら、その「稗田の阿求」という存在は、情報という概念によってこの世界を維持するための要石なのかもしれない。

(この世界を箱庭と霊夢は言っていたが、阿求とやらが結界のような役割も兼任しているのか。もしくは、他の妖怪とやらがその役割を担っているのかもしれない)

(寿命が短いというのも気にかかる。天元の同化のような、システムを維持するための何らかの代償を伴っているということか……)

いずれにせよ、この阿求という存在は、幻想郷という歪な箱庭の根幹に触れるための重要な鍵になることは間違いない。ただの庇護されるだけの無力な猿の群れかと思っていたが、やはり、霊夢のような強いと言える人間はいるようだ。

(俄然、興味が湧いてきた。……一度、直接話を聞いてみる必要があるね)

夏油は顔を上げ、再び柔和な笑みを貼り付けて通りへと戻った。

相手は里の重鎮たる名家だ。一文無しの怪しい僧侶がフラリと訪ねて会える相手ではないだろう。稗田の屋敷に上がり込むための「口実」を、どうにかして調達しなければならない。

夏油は当てもない探求において明確な目的地を見出した。

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