呪詛師、幻想にて   作:おそのすけ

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第四話

稗田の屋敷に上がり込むための「口実」。

夏油は再び人里の喧騒に紛れながら、その最適解を探り始めた。

相手は幻想郷の歴史を編纂する名家にして、里の重鎮。ただの怪しい旅の僧侶が本を読ませてほしいのと、書いた人に会いたいと頼み込んだところで、門前払いされるのが関の山だ。ならば、向こうから「会いたい」と思わせる手札を切る必要がある。

夏油は通りを歩きながら、目星をつけていた紙問屋の前に足を止めた。荷車から大量の和紙を下ろそうと悪戦苦闘している若い店主を見つけると、すかさず柔和な笑みを浮かべて歩み寄る。

「おや、大荷物ですね。手伝いましょう」

「えっ? あ、お坊さん、悪いね! これ、稗田の屋敷に納める上質な和紙で、重くてさ」

(やはり。歴史を記録し続けるのであれば、紙や墨の消費は莫大なはずだ)

夏油は軽々と和紙の束を持ち上げ、店主と共に店の中へと運び込んだ。術師としての腕力を持つ彼にとって、これしきの重さは羽のようなものだった。

「いやあ、助かったよ! 見かけによらず力持ちなんだな。お礼に冷たいお茶でもどうだい?」

「お気遣い痛み入ります。いやなに、修行の賜物ですよ」

縁台に腰掛け、冷たい茶を傾けながら、夏油は極めて自然な相槌とともに話題を誘導していく。

「それにしても、稗田の屋敷に納める紙とは。あの幻想郷縁起を執筆されているという、阿求様のためのものですか。里の歴史を一人で背負うとは、さぞ厳格で近寄りがたい御方なのでしょうね」

「んー、厳格っていうか、阿求様はとにかく新しい知識に目がないんだよ」

店主は汗を拭いながら、得意げに語り出した。

「外の世界の珍しい話や、誰も見たことがないような妖怪の噂話なんかを持っていくと、屋敷の者を通じてえらく喜ばれるらしくてね。逆に、ありきたりな話だとすぐに見透かされちまう。なんせ、一度見聞きしたことは絶対忘れない御方だからね。常に未知の情報を欲している、生粋の学者肌ってやつさ」

「……なるほど。未知の情報、ですか」

夏油の口角が、隠しきれない歓喜の形に微かに吊り上がった。

(ビンゴだ。私が彼女に提示できる唯一にして最大の手札。それは外の世界の、それも彼女の知識体系に存在しない呪いという概念そのものだ)

呪力を持たないこの世界において、人間の負の感情から生まれる呪霊のシステムは、完全なる「未知」であるはずだ。妖怪が人間の「畏怖」から生まれるというのなら、呪霊の成り立ちは似て非なる異世界の法則。記録者としての本能を持つ阿求が、これに食いつかないはずがない。

茶をご馳走になった礼を丁重に述べ、夏油は紙問屋を後にした。

足取りは軽く、彼の中で完全に盤面は整っていた。自分の呪霊操術をひけらかすような野蛮な真似はしない。あくまで知的な対話の糸口として、情報だけを差し出す。

人里の中心部から少し離れた、静かで荘厳な空気を纏う大邸宅。

夏油は稗田家の立派な門前に立つと、門番を務める男に深く一礼した。

「突然の訪問、お許しください。私は外の世界より流れ着いた、しがない僧侶にございます」

「外の人間? 悪いが、阿求様は多忙の身だ。見ず知らずの者に易々と面会できる御方ではない」

門番は警戒心を露わにして立ちはだかった。夏油はそれに動じることなく、袖から一枚の和紙を取り出した。先ほどの紙問屋で、事情を話し一枚だけ譲ってもらったものだ。そこには、夏油の達筆な字で短い文章が記されていた。

「重々承知しております。ですが、阿求様は常に未知を探求される御方と伺いました。どうか、この書き付けを阿求様にお渡しいただけないでしょうか」

門番が怪訝な顔で和紙を受け取る。

そこには、こう書かれていた。

 

「畏怖」ではなく「悪意」から生まれる怪異について。

妖力を持たず、ただ人間の澱んだ感情のみを糧とする不可視の存在の法則。

外の世界の暗部を知る者として、稗田家の記録に資する情報を提供したく存じます。

 

「……なんだこりゃ。妖怪じゃねえってのか?」

「阿求様がこれをご覧になれば、必ず私の意図をご理解いただけるはずです。もし興味を示されなければ、潔く立ち去りましょう」

門番は夏油の異様に落ち着き払った態度と、その底知れぬ自信に気圧されたのか、「……少し待ってろ」とだけ言い残し、屋敷の中へと消えていった。

夏油は門前で静かに目を閉じる。

(さあ、どう出るか転生の記録者。知的好奇心の餌に、彼女は抗えるかな?)

数分後。

急ぐ足音と共に、先ほどの門番が戻ってきた。

「……阿求様が、お通ししろとのことだ。奥の客間でお待ちになっている」

「お取次ぎ、感謝いたします」

夏油傑は、完璧な所作で一礼した。

重厚な門がゆっくりと開かれる。未知の世界の法則を解き明かすための扉が、彼の巧みな盤上遊戯によって、今、静かに開かれたのだった。

通された奥の客間は、静謐そのものだった。

微かに漂う墨の香と、磨き抜かれた廊下の冷たさ。夏油傑は、かつて訪れた旧家の座敷を思い出しながら、悠然とした足取りで畳を踏んだ。

部屋の中央、文机を前に座っていたのは、紫を基調とした装束に身を包んだ、まだ幼さの残る少女だった。しかし、その瞳には数百年を積み重ねた者特有のものだろうか、深く、透き通った理知の光が宿っている。

「お初にお目にかかります、九代目御阿礼の子、稗田阿求様。突然の不躾な申し出、寛大なるご配慮に感謝いたします」

夏油は完璧な所作で座り、深く一礼した。

「顔を上げてください。旅の僧侶……いえ、夏油さんと仰いましたね。あなたが門番に預けた書き付け、非常に興味深く拝見しました」

阿求は傍らに置かれた夏油のメモを指先でなぞった。

「畏怖ではなく悪意から生まれる怪異……。幻想郷の妖怪は、人間に忘れられないための畏怖を糧としますが、あなたの言うそれは、もっと独り善がりで、淀んだものを感じさせます。是非、詳しくお聞かせ願えますか?」

「ええ、喜んで」

夏油は薄く笑みを浮かべ、穏やかな口調で話し始めた。

彼が語ったのは、自身の術式でも、血塗られた過去でもない。ただ、彼が知っている怪異の生態――呪霊という存在のシステムだ。

「私のいた地では、人々は妖怪を畏れる以上に、日々の中で卑近な負の感情を積み重ねていました。対人関係の嫌悪、死への恐怖、隣人への嫉妬……。それらは形を持たない呪いとして漏れ出し、やがて意志を持つ怪物へと変貌するのです」

「……興味深いですね。それは妖怪のように、人間との相互関係を必要としないのですか?」

「ええ。呪霊はただ、人間の負の感情という排泄物から勝手に生まれ、勝手に人を害する。共存の意思も、存在理由の証明も必要としない。それは言わば、伝染病に近い存在です」

阿求は手元の筆を走らせ、夏油の言葉を書き留めていく。その筆致は驚くほど速く、正確だった。一度聞けば忘れないという彼女の能力をもってしても、その記録を残そうとする姿勢は、彼女の義務感の表れだろう。

「……なるほど。幻想郷の理とは決定的に異なる法則ですね。ですが、夏油さん。そんな危険な怪異が蔓延る場所で、あなたはどうやって今日まで生き延びてこられたのですか? 魔法使いや妖怪のように霊力や妖力を操るようには見えませんが」

鋭い問いだった。夏油は微塵も動揺を見せず、伏せ目がちに答える。

「……お恥ずかしい話ですが、私は少々、武道の心得がありましてね。肉体を鍛え、精神を研ぎ澄ますことで、それらの害意を退ける術を学んできました。あとは、運が良かったのでしょう」

「武の心得……。それだけで、その呪霊とやらを相手に?」

阿求の目が細められた。夏油が隠し持っている真の力ーー呪霊を取り込むという異質の術式には気づいていない。だが、目の前の男から放たれる、常人離れした静かな威圧感までは隠しきれていなかった。

「人里にも、武を嗜む者は多くいます。ですが、あなたのような静かな気配を持つ方は稀です。……まあいいでしょう。あなたが何者であれ、この新たな知見は幻想郷縁起に刻むべき価値のあるものです」

阿求は筆を置くと、満足げに頷いた。

「夏油さん、あなたは情報の価値を正しく理解している。約束通り、我が家に伝わる幻想郷縁起の閲覧を許可しましょう。……外の世界から来たあなたにとって、この世界の理を知ることは、生存に直結するはずですから」

「……感謝いたします、阿求様」

夏油は再び深く頭を下げた。

自身の核心には一切触れさせず、情報の等価交換によって、彼はこの世界の最深部への切符を手に入れた。

「それでは、書庫へ案内させましょう。……ああ、一つだけ」

立ち上がろうとした夏油に、阿求が静かに問いかけた。

「あなたの言うその呪いは、この幻想郷にも生まれると思いますか?」

夏油は足を止め、振り返らずに答えた。

「……いいえ。この里の人々は、あまりに空でして。呪いが形を成す土壌が全くない場所ですよ。……代わりが妖怪という存在かもしれませんが」

皮肉を込めたその言葉の意味を、阿求がどう捉えたかは分からない。

夏油傑は、案内された書庫の扉の向こうへと、吸い込まれるように入っていった。

そこには、彼が探求する膨大な情報の海が広がっていた。

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