書庫の空気はひんやりと静まり返り、古い紙と墨の匂いが充満していた。
夏油はランプの灯りの下で、流れるような手つきで幻想郷縁起のページをめくり続けていた。
阿求の記した情報は、夏油の予想を遥かに超える密度を備えていた。歴史、能力、勢力、異変、危険地帯、そして妖怪。
夏油は膨大な情報を、自身の知る呪術のシステムに重ね合わせながら急速に吸収し、解釈していく。
まず彼の目を引いたのは、この世界における能力を持つ強い人間たちの存在だった。
霊夢のような巫女や、魔法使いと呼ばれる者たち。彼女たちは生まれつき、あるいは修行によって超常の力を身につけ、怪異と渡り合っている。
(私の世界における、呪術師と同じ立ち位置か。彼女たちの能力は、さしずめ生得術式といったところだろう)
特異な力に目覚め、理不尽に立ち向かう強者たち。夏油は彼女らに対し、かつての同胞に向けるような静かな親愛と敬意を覚えた。
しかし、その強者たちが対峙する「妖怪」の項目を読み進めるにつれ、夏油の胸の内にどす黒い感情が渦巻き始める。
吸血鬼、天狗、河童、鬼。彼らは独自の勢力を築き、人間を遥かに凌駕する力と寿命を持っている。
(成り立ちこそ違えど、人間の存在を糧とし、人間を害し得る存在……。本質的には呪霊と変わらない。いや、明確な知性や社会性を持つ分、より性質が悪いとも言える)
人里を一歩出れば、そこは彼らの狩り場である危険地帯だ。魔法の森、妖怪の山、無縁塚。そこでは力を持たぬ人間は容易く命を落とす。
そして、時折起こるという異変。妖怪たちがそれぞれの思惑で世界に影響を及ぼす大事件だ。霊夢から弾幕ごっこという遊戯のようなルールを聞いてはいたが、根本的な原因が常に妖怪の身勝手な振る舞いにあることに変わりはない。
(どこの世界でも、怪異というものは自意識過剰で身勝手極まりないらしい)
夏油の嫌悪は静かに深まっていく。
中でも、夏油の目を最も長く留めさせたのは、ある一人の強大な妖怪の記述だった。
境界の妖怪――八雲紫。
(事象の境界を操る能力……。空間移動はおろか、物理法則や概念にすら干渉し得るというのか。特級呪霊などという枠に収まる次元ではない。彼女こそが、この幻想郷という結界社会を維持している黒幕の一人か)
底知れぬ強大さ。もし敵対すれば、今の自分の手持ちの呪霊だけで太刀打ちできるかさえ怪しい。
夏油は本を閉じ、深く息を吐き出した。
情報の海を泳ぎ切り、この世界の全体像がようやく見えてきた。
特異な術式、ここでは能力を持つ人間、強大な力で跋扈する妖怪、そして無力な猿。
「……くくっ」
静寂の書庫に、夏油の低く歪んだ笑い声が響いた。
妖怪という呪い同然の存在がのさばり、それを退治するために力ある人間が奔走している構造。それは彼の愛した呪術界の悲劇と同じだ。
だが、決定的に違う点が一つある。
(私の世界では、あの無知で愚かな猿どもが、あろうことか世界の多数派として主導権を握り、我が物顔で術師を使い潰していた。だが、ここではどうだ?)
夏油は人里の光景を思い出す。
結界に守られ、保護という名目で狭い箱庭に押し込められた人間たち。彼らは夜の闇を恐れ、妖怪に怯え、限られた領域の中でだけ生かされている。文字通りの資源としての扱いだ。
(身の程を知っている。自分たちが弱者であることを自覚し、強者に管理されることを甘んじて受け入れている。……実に滑稽だが、同時にひどく健全じゃないか)
猿が猿としての分を弁え、身の丈に合った檻の中で飼い慣らされている。
その事実が、夏油の心に奇妙な安堵と、歪んだ悦びをもたらしていた。
「さて……」
夏油は立ち上がり、装束の埃をゆっくりと払った。
書庫から客間へと戻ってきた夏油傑は、文机で静かに待っていた阿求の前で、深く、そして優雅に頭を下げた。
「阿求様、貴重な資料を拝見させていただき、心より感謝いたします。非常に……ええ、非常に有意義な時間でした」
夏油は顔を上げ、細めた目の奥に純粋な感嘆の光を浮かべて阿求を見つめた。
「素晴らしい記録です。この幻想郷という箱庭……いえ、複雑な生態系が、いかに見事な均衡の上に成り立っているか、よく理解できました。何代にも渡り、個人の生を捧げてこの世界の理を編纂し続ける……あなたのその知性と覚悟、そして功績は計り知れない。あなたのような特異で賢明な存在がいるからこそ、この世界は正しく形を保っていられるのでしょう。心からの敬意を表します」
「……過分な評価ですね。私はただ、記録するという役割を全うしているだけに過ぎません」
阿求は静かに首を振ったが、目の前の男の言葉に嘘がないことは読み取れた。彼は純粋に、特別な役割を持つ強者としての阿求を高く評価しているのだ。
「それにしても」
夏油はふと、窓の外……人里の広がる方角へと視線を移し、ひどく穏やかな、慈愛に満ちたような笑みを浮かべた。
「人里の方々は、本当に恵まれていますね。私は少し、彼らが羨ましくなりましたよ」
「恵まれている、ですか?」
阿求が小首を傾げると、夏油はゆっくりと頷いた。
「ええ。自らの無力さを正しく自覚し、分を弁え、強き者たちに庇護されることで平穏を享受している。自分たちで世界をどうにかしようなどという、身の丈に合わない傲慢さも野心も抱かない。ただ与えられた結界の中で、無垢なまま、短い生を健やかに全うできるのですから」
夏油の声は、春の陽だまりのように暖かかった。
「力なき弱者が、弱者のまま、正しく管理されている。自らの醜さで世界を穢すこともなく、ただ庇護されるだけの存在としてそこに在る。……愚か……いえ、実に純朴で、美しい在り方だ。彼らがそのように身の程を知り、平和に飼い慣らされているという事実が、私にはとても嬉しく、また喜ばしく思えるのですよ」
言葉の表面だけを掬い取れば、それは平和な里の在り方を称賛する僧侶の慈悲深い言葉に聞こえる。事実、外の世界の残酷さを知る者からすれば、結界に守られた幻想郷の人間は過保護であるほど守られていると言えるだろう。
だが、阿求はその言葉の端々に、微かな、しかし決定的な違和感を覚えた。
彼が称賛しているのは、人間の幸福ではない。人間が管理される側の無力な生き物として完成していることそのものを喜んでいるように聞こえる。
「……幻想郷の人間は、そこまで弱くはありませんよ。彼らなりにしぶとく、強かに生きています」
「ええ、そうでしょうとも。だからこそ、愛おしい」
夏油は満足げに微笑むと、再び阿求に向き直った。
「長居をして申し訳ありませんでした。私はこれで失礼します。次は命蓮寺という場所へ向かってみようと思います。あそこの掲げる理念には、少々興味がありましてね」
「命蓮寺に……。あそこもまた、少し変わった者たちの集まりですから、あなたにとって良き縁があるかもしれませんね。道中、お気をつけて」
「ご親切に。阿求様も、どうかご自愛を」
静かな衣擦れの音と共に、夏油傑は客間を後にした。
ーーーーーーー
パタン、と。
襖が閉まり、客間に再び静寂が降りる。
阿求は手元の筆を置き、夏油が消えた襖の向こうをじっと見つめた。
「……正しく管理されている、か」
阿求の脳裏に、先ほどの夏油の笑顔がフラッシュバックする。
穏やかで、知的で、礼儀正しい男だった。しかし、彼の言う純朴で美しいという言葉は、人間が人間に対して向けるものではなかった。
それはまるで、知性ある者が、美しく整えられた鶏小屋を眺めて微笑むような……決定的な見下し。
あの男は、決して人間を愛してなどいない。
むしろ、力を持たない人間という種そのものを、根本的なところで酷く蔑んでいる。
(外の世界の暗部を知る者……。彼が語った呪霊よりも、彼自身の内側にあるものの方が、よほど……)
阿求は自身の腕をそっとさすった。
わずかに肌が粟立っている。
彼の纏う僧衣の下には、どす黒く、淀んだ、底知れない闇が広がっている。
九代に渡る転生の中で、数多の妖怪や悪人を見てきた阿求の本能が、そう告げていた。幻想郷に、とてつもない異物が入り込んでしまったのではないか、と。