呪詛師、幻想にて   作:おそのすけ

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第六話

稗田の屋敷を後にした夏油傑は、人里の出口、そしてその先にあるという命蓮寺を目指して歩みを進めていた。

阿求の書庫で得た知識により、この幻想郷という箱庭の輪郭はより明確なものとなっている。道を歩く人間たちの顔を見る夏油の目には、以前にも増して冷酷な色、奇妙な安心感が宿っていた。

(どいつもこいつも、よく肥えた猿だ。何も理解しようとせず、ただ生かされているだけの……)

ふと、歩みを進める夏油の耳に、幼い声の唱和が聞こえてきた。

視線を向けると、少し開けた敷地に建つ立派な寺子屋があった。開け放たれた障子の向こうには、二十人ほどの里の子供たちがつまらなそう正座し、一人の教師は真剣に声を張り上げている。

「歴史とは、ただ過去を振り返るものではない。未来を生き抜くための道標でーー」

通りの端に立ち止まり、夏油はその光景を静かに観察した。

教壇に立っているのは、青と白を基調とした特徴的な衣服に身を包み、頭に奇妙な四角い帽子を被った女性だった。凛とした声、真っ直ぐな姿勢、そして黒板を叩く教鞭の音。

どこからどう見ても、熱心で立派な人間の教師だ。

しかし、夏油の特異な感覚は、彼女が放つ気配を正確に捉えていた。

(……ほう。人間ではないな)

呪力を持たない世界であっても、強者の放つ気迫や、人間とは決定的に異なる生命の質は誤魔化せない。阿求の幻想郷縁起の記憶が、夏油の脳内で瞬時に合致した。

(上白沢慧音。知識と歴史を操る、半獣半人の妖怪……)

夏油の目の奥が、スッと冷え込んだ。

人間の存在を糧とする怪異、すなわち呪霊と同義であるはずの妖怪が、あろうことか無力な猿の群れに知識を与え、導いている。

狼が羊の群れに肉のつけ方を教えているような、ひどく歪な光景だった。

(……実に興味深い。自ら餌を肥え太らせているのか、それとも別の目的があるのか)

やがて授業が終わったのか、寺子屋からわっと子供たちが飛び出してきた。夏油は子供たちの波をするりと避けながら、寺子屋の庭先へと足を踏み入れた。

黒板の字を消していた慧音が、見慣れぬ僧侶の気配に気づいて振り返る。

「見ない顔ですね。旅の僧でしょうか? 里の外から来たのなら、あまり長居は……」

「お邪魔して申し訳ありません」

夏油は完璧な、慈愛に満ちた笑みを浮かべて一礼した。

「通りすがりですが、あまりに素晴らしい授業の声が聞こえたもので、つい足を止めてしまいました。子供たちに歴史を説くその情熱、感銘を受けましたよ」

「……そうですか。褒められるのは悪い気はしませんが、私はただ、教師としての当たり前の務めを果たしているまでです」

慧音は教鞭を置き、夏油を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、里の子供たちを外部の脅威から守ろうとする、静かな警戒心が宿っていた。

「素晴らしい務めです」

夏油は微笑みを崩さない。

「しかし、貴女のような特別な力を持った御方が、わざわざ彼らのような……か弱き者たちに教えを説くとは。ひどく慈悲深いことですね」

特別な力。

その言葉の裏にある意味を察し、慧音の眉がわずかにピクリと動いた。目の前の男が、自分の正体を理解した上でそう言っていることに気づいた。

「……私はこの里の歴史と、人間たちを守るのが使命としています。無知は時に、命を落とす原因です。妖怪の跋扈するこの幻想郷で人間が生き抜くためには、知恵と歴史という武器が必要でしょう。私はそれを教えているに過ぎません」

「守る、ですか」

夏油は口元に手を当て、感心したように頷いた。

だが、その内側で渦巻く感情は、ひどく冷め切っていた。

(守るだと? 妖怪が人間を守る? ……反吐が出る。自分たちが人間を脅かしている元凶のくせに、保護者面をして自己満足に浸っているのか。猿に芸を仕込んで喜ぶような……欺瞞だな)

心の中でどれほど侮蔑しようと、夏油の外面は一片の曇りもない。

「貴女のその献身、感服いたします。強き者が弱きを導き、守る。それこそが、あるべき世界の姿なのでしょうね。……これから命蓮寺というお寺へ向かうのですが、あそこも妖怪と人間の共存を掲げていると聞きました。貴女もそちらの縁者なのですか?」

「いえ、私は私個人の意志でここにいます。聖白蓮のやり方を否定はしませんが、私の最優先は常にこの人里ですから。私は、あそこは少し、妖怪の出入りが多すぎるように感じていますから」

慧音の言葉には、強い意志と人間への確かな愛情が滲み出ていた。

それが、夏油にはたまらなく不快だった。

「なるほど、よく分かりました」

夏油はゆっくりと頭を下げた。自分から始めたものだが、これ以上この茶番に付き合う気にはなれなかった。

「お忙しいところ、引き止めてしまい申し訳ありません。貴女の素晴らしい教育が、この里の平穏をいつまでも支えんことを」

「貴方も、里の外に出るなら気をつけることです。あの辺りは比較的安全ですが、妖怪の気まぐれは読めませんから」

慧音の忠告を背に受けながら、夏油傑は寺子屋を後にした。

 

        ーーーーーーーーーー

 

夏油が背を向け、その姿が通りに消えるのを見送ると、慧音はふうっと小さく、しかし重い息を吐き出した。

「……何者だ、あの男は」

無意識のうちに、彼女の手は教鞭をきつく握りしめていた。

言葉遣いは丁寧で、態度は温和。一見すれば、徳の高い立派な僧侶にしか見えない。だが、慧音の半獣としての本能だろうか、そして里を守護する者としての直感が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。

彼が慈悲深いと口にした時、その微笑みの奥底に絶対な何かがあった。人間を愛護しているようでいて、その実、人間という存在に何か結論付けているような……そう感じていた。

それに、彼が纏っていた気配。妖力でも霊力でもない、ひどく淀んでいて、それでいて底知れぬほど強大な何か。

「……妙な輩が入り込んだものだな」

慧音の瞳に、鋭い獣の光が宿る。

「もし、この里に仇なすつもりなら……決して容赦はしない」

彼女は後で自警団の者たちに、あの特徴的な袈裟を着た僧侶の姿を伝え、再び里に姿を見せた際は即座に警戒態勢を敷くよう根回ししておくことを決めた。

そんな慧音の警戒など知る由もなく、あるいは知っていたとしても意に介することなく、夏油は再び人里の通りを歩き出す。

 

         ーーーーーーーーーー

 

賑わう猿たちの声も、優しき半獣の教師の存在も、今の夏油にとってはただの悪趣味な喜劇に過ぎない。

(強者が弱者を守る……かつての私が囚われていた、馬鹿げた呪い。それを、この世界の怪異はシステムとして嬉々としてこなしている)

里の出口が見えてきた。

重厚な木造の門が、人間と妖怪の境界を静かに示している。夏油はその境界――人里の門を、一切の躊躇いなく通り抜けた。

ここから先が外……阿求の記録によれば、妖怪たちが我が物顔で闊歩する危険地帯だ。だが、門を抜けて目前に伸びる道は、予想に反して比較的綺麗に整備されていた。命蓮寺は人里からほど近い場所にあり、里の人間が参拝に向かうための道としてある程度整えられているらしい。さらに言えば、この付近は妖怪による襲撃事例も極端に少ないようだった。おそらく、その妖怪の寺の存在自体が一種の抑止力となっているのだろう。

 

          ーーーーーーーーーー

 

夏油がなだらかな道をしばらく進み始めた。

 

ガサッ

 

「ばあぁーーーっ!おどろけーーっ!!」

頭上の枝から、唐突に何かが目の前に降ってきた。

大きな一つ目と長い舌が描かれた、奇妙な唐傘。そして、それを片手に持ったオッドアイの少女が、夏油の顔のすぐ目と鼻の先で脅かしのポーズをとっていた。

(……怪異か)

夏油の足はピタリと止まった。表情は全く変わらない。

だが、その内側では長年培われた呪術師としての生存本能が即座に反応していた。

ここは里の外だ。目撃する猿も、干渉してくる強い人間もいない。夏油の頭にとあることがよぎった。

今なら誰も見ていない。

この場でこの怪異の首を捻じきり、祓い落としたところで何の問題もない。夏油の指先が微かに動き、内なる呪力を練り上げようとした――が、彼は即座にそれを殺した。

(…………良い機会だ)

「……あれぇ?」

少女は、ピクリとも動かず、悲鳴一つ上げない夏油を見て、ぱちぱちと瞬きをした。

「あの、お兄さん? 今の、すっごく驚いたよね? 寿命が縮むくらいびっくりしたよね?」

「ああ、驚いたとも。心臓が止まるかと思ったよ」

夏油は教祖としての、あの完璧で胡散臭いほどに温和な笑みを貼り付けた。

少女はその言葉とは裏腹に全く動じていない夏油の態度に、あからさまに肩を落とす。

「お兄さん、全然驚いてくれないね……。私、お腹ペコペコなんだけどなぁ。最近の人間は肝が据わってて、ちっとも驚いてくれないや。はぁ……」

しょんぼりと傘を下ろす少女に、夏油はゆっくりと歩み寄り、

 

ポン

 

その頭にそっと手を置いた。

「よしよし、可哀想に。私が驚かなくて悪かったね」

「えっ? あ、うん……」

不思議そうに見上げる中、夏油は笑顔の裏でとある検証を行っていた。

頭に置いた掌により、それをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

          呪霊操術

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

「お兄さん?急になでなでしてどうしたの?」

少女は無垢な上目遣いで見上げてくる。

「……なるほど、ね」

自身の術式呪霊操術の対象となるかを探り、引き込もうと試みる。通常、降伏した、あるいは自身との間に二級以上の実力差がある呪霊であれば、即座に黒い球体へと圧縮され、呪霊球として変換できる。

だが――結果は否だった。

(……弾かれた、というより、術式の対象として認識されない。空振りをしている感覚だ)

夏油は掌に伝わる感触を確かめる。

柔らかい髪、わずかな体温、頭蓋骨の感触、そして確かな物理的質量。

彼の知る呪霊は、人間の負の感情が寄り集まった呪力の塊であり、術師でなければ触れることすらできない不可視の存在だ。しかし、目の前の妖怪は違う。確固たる肉体を持ち、この世界に物理的な存在として根を下ろしている。人間の驚きという精神的なものを糧にする性質は呪霊に似ているが、在り方は全くの別物だ。

(成り立ちは精神的なものに依存していても、すでに一個の生命体のように独立しているということか。私の術式で直接取り込むことはできないらしい。……まあ、予想はしていたがね)

夏油は未練なく術式を切り上げ、頭を軽く撫でてから手を離した。

くる。

夏油は思考を切り上げて少女に対応した。

「ああ、いや。驚かなかったお詫びだよ。君のような可愛らしい妖怪を無視してしまうとは、私もいささか無粋だったね。私は夏油傑、僧と旅人のようなものさ」

夏油は苦笑して見せ、懐をパタパタと換気した。

「ところで、私はこれから命蓮寺というお寺に向かうところなんだが……君はあの辺りに詳しいのかな?」

「命蓮寺? うん、知ってるよ! あそこは聖様やお寺の人たちも優しいし、よくお墓で人間を驚かそうと待ち伏せしてるんだ! まあ、あんまり成功しないんだけどね……」

(妖怪が寺の墓地に居座り、寺側もそれを黙認しているのか。あの寺の掲げる共存とやらの賜物か)

夏油の心中で、命蓮寺への興味がさらに一段階深まった。

「それは素晴らしい。実は私、外の世界から来たばかりでね。道中の地理に疎いのだよ」

夏油は少女と目線を合わせると、教祖としての本領とも言える甘く魅力的な声で囁いた。

「どうだろう。命蓮寺まで、私の案内役をお願いできないかな? 一緒に歩いていれば、道中、私はふとした拍子に驚かされてしまうかもね」

「えっ! ほんと!?」

小傘の顔がパァッと明るくなり、左右の目がキラキラと輝き出した。

「お兄さん、後で絶対びっくりさせーーじゃなくて。 任せてよ、命蓮寺までの道なら目を瞑ってても歩けるんだから!」

「ふふ、それは頼もしい。よろしく頼むよ、お嬢さん」

無邪気に先導して歩き始めたの後ろ姿を眺めながら、夏油は細めた瞳で微笑んだ。

道案内としての実用性はもちろん、命蓮寺と関わりのある妖怪を連れて歩くことは、寺の者たちと接触する際の良い手札になる。

「あ、まだ名乗ってなかったね。あちきは幻想郷の唐傘お化け、多々良小傘だよ!」

夏油傑は、傘を振る小傘とともに、妖怪の寺へと静かに歩みを進めた。








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