※原作には無いような展開を含む
※カンナと先生のちょっとしたお話
「やぁカンナ」
夜の帳が下りる頃、いつもの屋台、いつもの席。最近の私たちは、申し合わせたようにこの場所で暖簾をくぐることが増えていた。
「いらっしゃい、注文はどうする?」
「じゃあ柴関ラーメンと……ビールで!」
大将の威勢のいい声に、先生も弾んだ声で応える。手際よく調理が始まり、まずはキンと冷えたジョッキが差し出された。先生はそれを、待ってましたと言わんばかりに喉へと流し込む。
「意外です。先生がお酒を嗜む方だとは思いませんでした」
「明日は休みだからね、羽目を外してみようと思って。それに、カンナにも会いたかったし」
この人は時折、防弾ジョッキをも貫くような言葉を平然と口にする。
「……あまり人をからかわない方が、身のためですよ」
「ははっ、手厳しいな。忠告として受け取っておくよ」
アルコールのせいか、あるいは休日前夜の開放感か。今日の先生は、いつになく饒舌で上機嫌に見えた。
「はい、柴関ラーメンお待ち!」
湯気を立てるどんぶりが置かれると、先生はビールを煽りながら、勢いよく麺を啜り始めた。驚いたのは、そのピッチの早さだ。一杯、二杯、三杯……。空になったジョッキが、虚しくも等間隔に並んでいく。
「さいきん、ざんぎょうおおくてさぁ〜! あはははは、もう嫌になっちゃうよねぇ〜! まあ明日休みなんだけどさぁ〜! かんなぁぁぁああああ」
案の定、先生は絵に描いたような悪酔いを晒していた。私の肩を遠慮なく叩き、夜風に響くほど大きな声で管を巻く。
「先生、そろそろ止めておいた方が……」
「ええ〜? まだだいじょうぶらよぉ〜? ぜんぜん、いけるいける、のめる、のめ……」
――ガツン。
鈍い音を立てて机に突っ伏したかと思うと、先生はそのまま深い眠りの底へと沈んでしまった。
「先生!? だ、大丈夫ですか!?」
慌てて頭を持ち上げ確認するが、聞こえてくるのは安らかな寝息だけ。怪我もないようで、私は一つ大きな溜息をついた。
「お嬢ちゃんも大変だな」
「……先生に比べれば、私の苦労は些細なことですから」
私は自分のコートを脱ぎ、丸まった先生の背中にそっと掛けた。
「私が……必ず、救ってみせるから……」
漏れ出た独白に、胸が締め付けられる。彼はどんな夢を見ているのだろう。もしもこの人の意識に触れることができたなら――。叶うはずのない感傷が、胸をかすめた。
「悩み事かい?」
表情に出ていたのだろう。手際よく片付けをしていた大将が、不意に問いかけてきた。
「これは……悩みなのでしょうか。先生が立派な『大人』であることは理解しています。ですが、だからこそ……不甲斐ない私を、もっと頼ってほしいと思ってしまうんです」
市民を守る者としての性分か、あるいは。私はこれまで、この人の「弱点」を見たことがなかった。
……いいえ、見せないように振る舞っていただけなのかもしれない。完璧な大人である前に、この人もまた、一人の市民なのだ。
大将はさっきと変わらぬ朗らかな顔で、短く答えた。
「そこまで分かってるなら、あとは支えてやるだけなんじゃないのか?」
その言葉は、不思議なほど私の心に静かに着地した。
「……申し訳ありません。妙なことを相談してしまって」
「いいってことよ! 今のお嬢ちゃん、いい顔してるぜ」
大将がそう言うのなら、そうなのだろう。お会計を済ませ、眠り続ける先生を背負って屋台を後にする。
「……先生のこと、よろしくな」
「はい。それでは」
深く一礼し、夜の街へと歩き出す。先生の免許証から割り出した住所を頼りに、その重みを背中で感じながら一歩一歩進んでいった。
「……カンナ?」
自宅近くで、先生が微かに身じろぎした。
「起こしてしまいましたか?自宅までもうすぐですから」
「ごめんね。こんな先生で……」
その謝罪に込められた真意を、私は測りかねる。目的地に到着し、虚ろな様子の先生のポケットから鍵を借り、扉を開けた。
「先生、着きましたよ」
ベッドへ横たえると、彼は途切れ途切れの寝言を零した。
「行かないで……」
去ろうとした足が、凍りつく。先生の中にも、形にならない苦しみや、消えない哀しみがあるのだろう。
その真相に触れる日は、一生来ないのかもしれない。けれど、今この瞬間だけは――。
「どこにも行きませんよ」
私も抗いがたい眠気に身を任せ、その手を握った。隣にいるだけで、今は十分だった。
「――ナ、カンナ!」
名前を呼ばれ、弾かれたように身体を起こす。
「せ、先生!?」
目の前には、少し気恥ずかしそうな顔をした部屋着姿の先生が立っていた。窓の外を見れば、世界はすっかり白んでいる。
「昨日はごめんね? お礼と言っちゃなんだけど、お風呂入っていって!」
促されるまま浴室へ向かう。シャワーの音だけが響く個室で、私はひとり、昨夜の寝言を反芻していた。
先生が救いたいと願った誰か。先生を置いていった、誰か。
それを本人に問うことは、癒えかけた傷口を抉る行為になるのではないか。
「カンナ、部屋着ここに置いておくね」
「……ありがとうございます」
身なりを整えリビングへ戻ると、先生が二つのマグカップを手に待っていた。テーブルには、香ばしく焼けたトーストの皿。
「朝ごはん、一緒に食べよう」
「何から何まで、お世話になってしまって……」
「いいんだよ。こういうのも、たまにはいいでしょ?」
サクッとトーストを齧れば、溶けたバターの風味が口いっぱいに広がる。外はあいにくの曇天で、カラスの鳴き声が低く響いていた。
「美味しい?」
「……はい」
先生はいつもの笑顔だ。けれど、昨夜のあの一言が、どうしても心の凝りとなって離れない。
「……先生はキヴォトスに来る前、何をされていたんですか?」
その問いに、先生の手が止まった。
「いえ、変なことを聞きました。今のは忘れて――」
「いいよ、教えてあげる」
空気が変わった。穏やかな微笑みは消え、そこには一人の「大人」としての、峻厳な表情があった。
先生の話によれば、以前も今と同じような仕事をしていたという。そして、多くの生徒の中に、一人だけ――決して心を開かない少女がいたのだと。
***
それは、先生がまだ新米として歩み始めたばかりの、ある春の日の記憶。
「先生はどうして、こんなところにいるんですか?」
どんな生徒であっても、味方で居続ける。その信念は、当時から揺るぎないものだった。
「私なんかより、もっと話すべき人がいると思いますけど」
晴れの日も、雨の日も。凍えるような寒さの中でも、先生は彼女の前に立ち続けた。
「先生、今日も来たんですね」
彼女には、頼れる家族がいなかった。より正確に言えば、血の繋がりはあっても、彼女を「透明な存在」として扱う者たちばかりだった。
それには、あまりにも残酷な理由があった。
「彼女の余命は約一年半だ」
宣告を受けた瞬間から、周囲の眼差しは一変した。彼女を生きている人間としてではなく、まるで「いつか消える思い出」を眺めるかのような、よそよそしい慈愛に変わったのだ。
「あの日から君はずっとお見舞いをしているな」
「私の生徒ですから」
けれど、そんな対話の時間も永遠ではなかった。病状は刻一刻と彼女の自由を奪い、面会できる時間は削られていく。
「出ていって……」
いつしか、彼女は別人のように荒れた言葉を吐くようになった。
「性格の変化も症状のうちだ、気負いすぎるな」
主治医の言葉も虚しく、数ヶ月後、彼女はついに寝たきりとなった。
「もう見舞いの品は必要ない。彼女はもう、それを受け取る力さえないんだ」
それでも、先生が足を止めることはなかった。忙殺される日々の合間を縫い、今日あった些細な出来事を、反応のない彼女の傍らで語りかける。
そして――運命の日は、あまりに唐突に訪れた。
容態急変の知らせを受け、仕事を放り出して駆け込んだ病室。
「間に合ったか」
最期は、驚くほど静かだった。まるで微睡みに落ちるように、彼女は息を引き取った。
「待て」
呆然とする先生を、担当医が呼び止める。
「これを……君に」
差し出されたのは、色褪せた一枚の手紙だった。
***
先生へ
これは、私が最後にできる精一杯の恩返しです。
面と向かっては言えなかったことを、ここに綴ります。
まず、あんなに冷たい言い方をしてしまって、ごめんなさい。
あの頃の私は、死に向かっていく自分に耐えられなくて、心に余裕がなかったんだと思います。
……やっぱり、この手紙だけは敬語なしで書くね。
こんな私に、先生は毎日会いに来てくれた。本当は、ずっと嬉しかったんだよ。
一緒にいた時間は短かったけど、先生のことは、本当の家族みたいだと思ってた。
先生も、同じことを思ってくれてるかな?
そうだったら、いいな。
私は、たくさんの人に支えられてここまで来れた。先生も、お医者さんも。
家族のことは、もう悔いはないから安心して。
未練があるとしたら……なんだろう、自分でもよくわからないや。
やっぱり、私はまだまだ子どもだね。
強いて言うなら一つだけ。
先生が買ってきてくれたチーズケーキ、もっといっぱい食べたかったな。
つらつら書いちゃったけど、これでおしまい。
もし途中で書きたいことを思いついたら、また追加するかも。
それじゃあ、またね。
私がいなくなっても、先生の楽しいお話、ずっと待ってるから。
***
「もう、数年前の話だけどね」
先生は冷めたブラックコーヒーを一口啜り、寂しげに笑った。
聞くべきではなかったのかもしれない。私が彼の過去を暴いてしまったのだ。
「先生……」
伏せ目がちになった私を見て、先生は努めて明るい声を出す。
「カンナ、そんな顔をしないで。私はもう大丈夫だから!」
言葉だけでは伝わらないものがある。人の心の内を映し出すカメラなど、この世には存在しない。
「もし何かあったら、私に……いえ、誰かを頼ってください。私は、ずっと待っていますから」
先生の動きが、止まった。何かに驚いたような、あるいは何かを見つけたような眼差しで、私を見つめる。
「……ありがとう、カンナ」
その微笑みは、いつものそれだった。けれど、朝の光に透けた彼の表情は、昨日よりも少しだけ軽やかになったように見えた。
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先生の湯けむり珍道中