「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。今日から皆さんは、アビドス高等学校の新たな一員となり――」
かつて砂塵に埋もれかけた校舎は今や、四大校の一角としてその威容を誇っている。全生徒数、約四万人。キヴォトスの頂点に立つアビドス学園の春が、今年も幕を開けた。
「生徒会長、奥空アヤネ――」
厳かな声が響く講堂を、色とりどりの期待を胸に抱いた新入生たちが埋め尽くす。新たな青春の芽吹きを探す、輝かしい季節。
「アヤネちゃ〜ん、新入生への挨拶すっごく立派だったよぉ〜」
「……本来、こうした役目はホシノ先輩が担うべきものですが」
「うへぇ〜、おじさんには荷が重いって。華のある後輩に任せるのが一番だよ〜」
そんな軽口を叩きながら、小柄な少女――ホシノは、ノノミの膝の上で小動物のように丸まっていた。春の陽だまりのような温かさに包まれ、彼女の意識はゆらゆらと微睡みの境界を漂っている。
「もう!ちゃんとして、ホシノ先輩!」
「うへ、でもこの暖かさ。どうしても眠くなっちゃうよねぇ〜」
セリカの小言を子守唄代わりに、ホシノはあっさりと夢の中へ逃避しそうになるも、意識を保つ。
「……その気持ち、私もわかる」
「さっすがシロコちゃ〜ん、分かってるねぇ。それじゃあ、おじさんはちょっとパトロールにでも行ってくるよぉ〜」
ふらりと立ち上がり、ホシノは街へと繰り出す。パトロールという名目のお散歩。それは、彼女がこのアビドスという場所――その隅々まで愛している証でもあった。
アビドス商店街は、今日も人の波で溢れ返っている。立ち並ぶ店々、行き交う活気ある声。かつて先輩と二人、死に物狂いで守り抜いたこの場所は、これからも憧れる幸福な街へと姿を変えていくだろう。
「ホシノの嬢ちゃん!抽選、引いていかないかい?」
「いいの? それじゃあ……」
差し出されたガラガラを無欲に回せば、飛び出したのは眩い金色の玉。高らかなベルの音が、春の空に響き渡る。
「大当たりだよ、嬢ちゃん!今日はツイてるねぇ」
手渡された景品に目を落とすと、そこには輝かしい文字。
「温泉二泊、無料招待券……!」
思わぬ幸運に目を丸くしながらも、彼女はその宝物を大切に懐へと仕舞い込んだ。
***
一方その頃、シャーレのオフィスでは、先生が居たたまれない思いで身を縮こまらせていた。
SRTのロア追跡劇が一段落し、ようやく溜まったデスクワークを片付けようとした矢先、背後に立っていたのは冷ややかな眼差しのミヤコ。
「先生……どういうことか、詳しく教えていただけますか?」
向けられる言葉は、もはや尋問に近いもの。
「ミ、ミヤコ。顔が近いよ……」
至近距離で見つめられ、椅子のキャスターを必死に転がしてパーソナルスペースを確保する。
「私、何か悪いことしたかな……」
そのおどおどした態度が、ついにミヤコの堪忍袋の緒を切った。
「先輩たちとの焼肉パーティー、先輩たちとの地下生活……その他にも色々、やっていましたよね?」
明らかな格差へ異を唱えていく。
「ミ、ミヤコ、そこまでに……」
「サキ!あなたは先輩たちの肩を持つんですか!?」
今度はサキへと矛先が向き、部屋の温度がさらに数℃下がる。
「い、いや、私は別にそんなつもりじゃ⋯⋯」
こうなった時のミヤコを止める術を、彼女たちは持っていなかった。サキは助けを求めて視線を彷徨わせたが、肝心の先生の姿は忽然と姿を消す。
ただ、騒動の張本人を失ったデスクには一枚の付箋。
『ちょっと急用ができたから、行ってくるね』
「先生、逃げるなーっ!!!」
不条理な叫びが、虚しく響き渡る。
***
ミヤコの追及をなんとかかわしたものの、FOX小隊の件については口を閉ざすしかない。脳裏をよぎるのは、連邦生徒会長からの密やかな言葉。
『これは、先生と私だけの秘密です。キヴォトスに現れたというドッペルゲンガーの噂……あなたにこの解決を託します』
誰にも打ち明けられない、孤独な任務。喧騒を眺めながら思考に耽っていると、端末が短く震えた。
「先生、もし宜しければ一緒に温泉へ行きませんか?商店街の抽選会で無料券を当てたのですが、人数が足りなくて……」
アヤネからの誘い。ちょうど息抜きが必要だったタイミングに、先生は迷わず返信を打つ。
「いいの?それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
身支度を整え、意気揚々とアビドスの地へ足を運ぶ。
「先生、元気にしてた〜?」
かつてより遥かに広くなった対策委員会室。最初に声をかけてきたのは、ホシノだった。
「みんなも元気だった?」
「ん、私たちはいつも通り」
キヴォトス四大校、アビドス学園。身寄りのない生徒たちを広く受け入れた結果、その勢いはかつての全盛期を彷彿とさせるほどに回復していた。借金という枷は未だ残っていても、その足取りは以前よりもずっと確かなもの。
「そういえば、今日は温泉に連れていってくれるんだよね?」
「一発で引き当てるなんて、凄いわよね!」
「善は急げです!早速向かいましょう☆」
駅のホームには、先生とアビドスの五人。
一行が電車に揺られて辿り着いたのは、ゲヘナにある格式高い大旅館。暖簾をくぐると、そこには見慣れた顔が。
「メグ!」
「先生!こんなところで会えるなんて!」
燃えるような赤髪と理知的な青い瞳。温泉開発部のメグが、満面の笑みで一行を迎えた。アヤネが無料券を差し出すと、彼女は面白そうに目を細める。
「へぇ〜、これを当てたんだ!運がいいね。はい、これは人数分の館内着とタオルだよ」
一行は館内バッグを手に、期待を膨らませて脱衣所へと向かう。
「……アビドスのみんな!ちょっと来て」
メグが何かを囁くと、少女たちの目が瞬時に「獲物を狙う狩人」のそれへと変貌した。そんな不穏な変化に気づくはずもなく、先生は鼻歌まじりに男湯へと足を踏み入れる。
「いざ温……泉!」
眼前に広がるのは、雄大な自然を独り占めできる大パノラマ。仕事に追われる日々で、湯船に浸かるのはいつ以来だろうか。
「はぁ〜、癒される……」
温かな湯が身体に染み渡り、蓄積された疲労が指先から溶け出していく。大人にこそ、こうした空白の時間は必要である。静寂の中でくつろいでいると、背後に微かな水音を感じた。
「……先生」
声をかけられて振り返った先に、湯煙の中でタオルを巻いたアビドスの面々が佇んでいた。
「えっ!?な、なんでみんなここに……!?」
慌てて周囲を見回すと、いつの間にか男湯と女湯を隔てる仕切りが見当たらない。あまりの心地よさに、周囲の変化に全く気づいていなかった。
「この時間帯は、混浴仕様みたいです♪」
茶目っ気たっぷりに微笑むノノミを筆頭に、ホシノとシロコが包囲網を狭めてくる。
「あ、あの……」
「どうしたの?先生」
近い。あまりにも近すぎる。もしこの光景が他の生徒や連邦生徒会にバレれば、明日には職を失うかもしれない。
「近いと思うんだけど……」
「どうして?先生、おじさんたちのことは嫌?」
ホシノの瞳からハイライトが消える。
「い、いや、そういうわけじゃないけど!」
居心地の悪さと、どうしようもない気まずさに身を強張らせる。
「アヤネちゃんとセリカちゃんは、こっちに来ないの〜?」
ホシノの挑発的な問いかけ。
「え、えーっと……私はその……」
「私たちはいいの!そういうのじゃないから!」
ブツブツと葛藤するアヤネとは対照的に、セリカが毅然と言い放つ。その強情さが、どこか微笑ましくもあった。
結局、一向に気の休まらない入浴を終え、一行はロビーへと戻った。
「どうだった?楽しめたかな?」
「はい☆」
少女たちの満足げな笑みを見て、赤髪の少女は笑いながら言う。
「それは良かった!」
湯上がりのメグが、冷えた瓶牛乳を差し出してきた。
「はい、これ!うち限定の牛乳、その名も『メグミルク』だよ!」
勧められるまま一口飲むと、濃厚な甘みが喉を通り抜けていく。
「うん、美味しいよ」
そう答えると、メグは嬉しそうに目を細め、当たり前のように先生の隣を陣取る。
「先生、最近はどう?仕事とか、健康とか」
「一人だった頃は大変だったけど、今は手伝ってくれる人たちがいるんだ。そのおかげで、今はちゃんと八時間睡眠だよ」
それを聞いた彼女は、かつて見たこともないほど安堵した表情。
「よかった」
彼女の見せた意外な横顔、言葉にどのような感情が含まれているか分からない。
そんなことも忘れて、後の二日も穏やかで楽しい思い出となった。
帰り道、揺れる電車の中で、先生は少しだけ名残惜しさを感じながら、アビドスへの路を戻っていく。
死神の銃口が、こちらへ向いていることに気づかずに。
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キヴォトスが沈黙した日