――憎しみの魔女と、偽物の光と闇――
「なるほど。こいつがスオウか」
ロアヒカセンは、そう呟くと手にしていた剣を鞘へと収めた。
その声音には、勝者の高揚も、敵を打ち倒した達成感もなかった。まるで、長い時間をかけて組み立てた難解なパズルが、ようやく最後の一片を残すところまで来た。そんな、奇妙な納得だけがあった。
その眼前には、凄惨な戦いの痕跡が広がっている。
砕けた闘技場の床。黒く焼け焦げた壁面。大気中に漂う、まだ消えきらない闇の残滓。
そして何より、そこには己の魔力と契約モンスター、持てる限りの技術と経験、そのすべてをスオウという存在に叩きつけた者たちがいた。
誰もが満身創痍だった。
しかし、誰一人として倒れてはいない。
彼らは、ただ強かったのではない。
それぞれが己の欲望、執念、あるいは人生そのものを燃料として、この理不尽な試練に挑んだのだ。
その姿は、実に多種多様だった。
角を生やし、獣じみた肌を持つ、筋骨隆々の憤怒の獣人。
怒りをその身に宿したオートマタは、もはや機械というより、戦場そのものが人型を取ったかのようだった。駆動音は唸り声となり、その拳には、積み重ねた憤怒のすべてが込められていた。
メテオを多彩なる経験と、リアルでは魔法を使えないという嫉妬を薪にして燃やし続ける、無敵の黒魔導士。
アルカディアのリングに立つその魔術師にとって、魔法とは単なる攻撃手段ではない。現実では決して手に入らなかった夢を、ゲームの中でならばどこまでも追い求められるという証明だった。
傲慢。
だが、その傲慢を裏付けるだけの実力と、運命さえも味方につける異常なまでの強運を持つアルカディアの幹部社員、カイザーアシエン。
彼は自らの力を疑わない。疑う必要がないからだ。己こそが勝者に相応しいと信じ、その信念を現実に変えてしまうだけの力が、彼にはあった。
己が怠惰する絶好のタイミングを虎視眈々と狙い続けながらも、いざとなれば普段の二倍のやる気を出したと豪語する優秀どまりの生徒。
その二倍がどこから来たのか、そもそも普段のやる気がどれほどのものだったのか。それを問いただす者は、この場にはいなかった。
結果として彼女は戦い抜いた。
それで十分だった。
スオウの力を、ゲーム上とはいえ完全に相殺し続けた強欲の暗黒騎士。
彼女にとって、アルカディアを守るという行為は、純粋な正義感だけで成立するものではない。
報酬がある。
希少なアイテムがある。
そして、今まで誰も手に入れたことのないような、とんでもない戦利品が手に入る可能性がある。
ならば戦う理由としては十分だ。
……さて、アルカディアを守り抜いた報酬として、彼女はいったい何を要求するつもりなのだろうか。
考えるだけで、運営側の胃が痛くなる。
「お腹八分目なんて、初めて!」
そんな場違いな歓声を上げていたのは、特殊な体質を持つ暴食者だった。
スオウが放つ闇の魔力。その膨大なエネルギーを、彼女は食らい、吸収し、己の糧としていたのである。
世界を焼き尽くしかねない闇の奔流を前にして、彼女が得た感想は、まさかの満腹感だった。
そして、ネクロマンサー。
スオウの完璧なスタイルは、彼女の審美眼にとって百点満点どころか、採点基準そのものを破壊する芸術品だった。
ゆえに、戦闘中であるにもかかわらず、セクハラめいたコメントを飛ばして相手の集中を乱すという、ある意味で極めて高度な戦術を展開していた。
その評価基準が健全かどうかについては、議論の余地がある。
だが、結果として彼女もまた、この戦いに貢献していた。
憤怒。嫉妬。傲慢。怠惰。強欲。暴食。色欲。
六つの大罪。
人間の業を煮詰めたような、しかし、それぞれが自分なりの理由と人生を持つ者たち。
そして、彼らをこの場へと呼び出した張本人。
終末の物語としてゲームが生み出した闇と光。その狭間から生まれた、光の戦士にして、闇の戦士。
ロアヒカセン。
本物の光の戦士ではない。
本物の闇の戦士でもない。
光であり、闇であり、善であり、悪であり、秩序であり、混沌である。
あらゆる相反するものを抱え込みながら、それでも一つの人格として成立してしまった、歪な存在。
その男が、今、憎しみの魔女スオウと対峙していた。
「お前、何がしたいんだ?」
あまりにも素朴な問いだった。
あれほどの戦いを経て、世界を滅ぼしかねないほどの力を持つ相手に投げかける言葉としては、拍子抜けするほどに。
スオウは、血の滲むような目でロアヒカセンを睨みつけた。
「初めに……言っただろう……」
声は掠れ、呼吸は乱れ、それでも彼女の瞳に宿る憎悪だけは、少しも衰えていなかった。
「私は……全てが憎いと……!」
その言葉を、ロアヒカセンは否定しなかった。
否定する必要がなかったからだ。
「それは、お前の全てではないな」
「……何?」
スオウの眉が、ぴくりと動いた。
「貴様……何を……」
「いや、だってそうだろう?」
ロアヒカセンは、まるで当たり前のことを確認するかのように首を傾げた。
「お前は憎しんでいる。世界を憎み、人を憎み、あらゆるものを破壊しようとしている。そこまでは分かる」
一歩。
ロアヒカセンが歩み寄る。
「だが、それはお前の人生のすべてなのか?」
スオウの口元が歪んだ。
この男は何を言っている?
自分は全てを憎んでいる。
だからこそ、全てを破壊する。
そのために力を求め、そのためにゼロムスへと至り、そのためにこの世界を踏み台にすることさえ厭わなかった。
それ以外に何があるというのだ。
そもそも。
この男は何なのだ?
本物の光の戦士ではない。
本物の闇の戦士でもない。
それなのに、光と闇の両方を扱い、六つの大罪を従え、あまつさえ自分の憎悪を理解したかのように語っている。
偽物。
そう、偽物なのだ。
本物の光の戦士であれば、きっと正義を語るのだろう。
本物の闇の戦士であれば、きっと闇を受け入れるのだろう。
だが、この男は違う。
どちらにも属さないからこそ、どちらの理屈にも囚われない。
そして、偽物だからこそ。
本物の憎しみを知らないからこそ、憎しみ以外の道を示せるのかもしれない。
そんな考えが、ほんの一瞬だけスオウの脳裏をよぎった。
次の瞬間。
「いいかッ!!」
ロアヒカセンの怒声が、闘技場を震わせた。
「憎しみだけが人間性ではなぁぁぁいッ!!!」
スオウの瞳が見開かれる。
「そんな人生はつまらんッ!!!」
「…………」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、スオウの思考が停止した。
そして。
「……貴様ァァァァッ!!!」
憎悪が爆発した。
「つまらんと……言ったかァァァッ!!!」
スオウの全身から、黒い炎が噴き上がる。
それは単なる火炎ではなかった。
光を拒絶し、熱を超越し、触れたものの存在そのものを焼き尽くさんとする、深淵の闇。
床が融解する。
空気が軋む。
闘技場を包んでいた魔力の残滓が、巨大な渦となってスオウの周囲へと吸い込まれていく。
憎悪そのものが炎となり、彼女の怒りに呼応して世界を侵食していた。
「消え失せろォォォッ!!」
放たれた闇の炎が、ロアヒカセンへと殺到する。
だが。
「だから、そういうところだぞ!」
ロアヒカセンは、退かなかった。
黒い炎が彼の身体を飲み込む、その寸前。
一閃。
剣が走った。
闇の炎が、切り裂かれる。
二つに分かれた黒炎が左右へと逸れ、闘技場の壁面を焼き崩した。
その炎を突き破り、ロアヒカセンが突撃する。
「なっ――!?」
スオウが反応するよりも速く。
ゴッッッ!!
「ぐぶっ!?」
頭突きが炸裂した。
額と額が正面から激突する。
常人ならば、それだけで意識を刈り取られるような一撃。
しかし、問題はそこではなかった。
「いっ……!?」
スオウの口から、思わず呻き声が漏れた。
痛い。
そう、痛かったのだ。
彼女が攻撃した側ではない。
攻撃を受けた側でもない。
頭突きを叩き込んだ側のロアヒカセンが、あまりにも硬かったのである。
「お、お前……頭蓋骨はどうなっている……!?」
「鍛えた」
「鍛えたで済むかァッ!!」
「済むぞ。少なくとも私の中ではな!」
ロアヒカセンは、悪びれもせずに言い放った。
そして、スオウの胸ぐらを掴む。
「そんなものは生命体ではなぁい! モンスターでもなぁい! 神ですらなぁぁいッ!!」
その言葉は、戦いの勝者が敗者へ投げかける嘲笑ではなかった。
もっと根本的な、存在そのものへの問いかけだった。
「私は……!」
スオウの顔が歪む。
「私は、それになるとゼロムス様に宣言したのだッ!!」
「ほう」
ロアヒカセンは、少しだけ目を細めた。
「それで?」
「……何?」
「それになって、どうする?」
「全てを破壊するためだッ!!」
「その先だ」
「…………は?」
「その先だと言っている」
ロアヒカセンは、スオウを見据えたまま言葉を続ける。
「全てを破壊した。世界は滅びた。お前の憎むものは何一つ残っていない。ゼロムスの威光のもと、あらゆるものが無に帰した」
一つずつ、彼は言葉を積み上げていく。
「それで?」
「…………」
「その先、お前は何になる?」
スオウの唇が、わずかに震えた。
答えられなかった。
考えたこともなかったのだ。
キヴォトスを滅ぼす。
その次は第三世界。
その先も、そのまた先も。
ゼロムスの威光を広げ、憎むべき世界を一つずつ無へと帰していく。
それが自分の目的だった。
それが自分の人生だった。
いや。
違う。
それが自分の人生なのだと、ただ信じていた。
では、全てを滅ぼした後は?
憎むものが何もなくなった後は?
誰もいない世界で、何を憎めばいい?
何を壊せばいい?
そもそも。
全てを滅ぼすことができたとして。
そのとき、自分は何を思うのだろう。
「……そんなことは……」
声が出なかった。
考えたこともなかった。
ただ、憎しみを燃やしていた。
燃やし続けなければならないと信じていた。
その炎が消えた後のことなど、一度たりとも考えたことがなかった。
「人を恨むより恨まれよ!」
突然、ロアヒカセンが叫んだ。
「人を憎むより憎まれよ!」
「……は?」
「人をブチ切らすよりもブチ切れよ!」
「何を……」
「これが私の家訓だッ!!」
ロアヒカセンは、己の胸を親指で指し示した。
「いわば、子孫に代々伝わってきたミームだ! 人間の生き様とは、そういうものなのだ!」
「ど、どんな家系だ貴様は!?」
「知らん! だが、少なくとも憎しみだけで一生を終えるよりは、よほど愉快だろう!」
「愉快……だと……?」
「そうだ!」
ロアヒカセンは、まるで人生の真理を説く賢者のような顔で、しかし語っている内容はどうしようもなくろくでもないことを、堂々と宣言した。
「スオウ! お前、その憎しみを誰かに継がせる気はなかったんだろう?」
「…………」
「自分が全てを背負い、自分が全てを壊し、自分の代で何もかも終わらせる。そういうことだろう?」
スオウは答えない。
否定できなかった。
「それじゃあ、つまらんのだ」
「……つまらない……」
スオウは、呆然と呟いた。
「憎しみが……つまらない……?」
「いや、憎しみそのものを否定しているわけではないぞ?」
「は?」
「怒りも、嫉妬も、傲慢も、怠惰も、強欲も、暴食も、色欲も! 人間という存在を形作る大事な要素だ! もちろん、憎しみもな!」
ロアヒカセンは、満面の笑みを浮かべた。
「要するにだ。一つの大罪だけで満足するのは、もったいないと言っているのだ!」
「…………」
「どうせなら全部コンプリートした方が、人生は楽しい!」
「………………」
スオウは、初めて出会った。
ここまで話が通じない人間を。
いや、そもそも人間なのか、この存在は。
世界を滅ぼそうとする自分を前にして、何を言っているのだ。
憎しみを否定するでもなく、肯定するでもなく、あろうことか人生を楽しむための収集要素の一つとして扱っている。
「……お前のような……」
スオウの声が震える。
怒りか。
困惑か。
それとも、理解できないものを前にした恐怖か。
「お前のようなイカレ狂人は、初めてだ……!」
「光栄だ!」
「だが……そのイカレぶりですら……私には憎しみの対象にしか……!」
「ならば、それでいい!」
ロアヒカセンは、即座に答えた。
「憎め! 恨め! 怒れ! 私を憎むことが、お前の新しい人生の第一歩になるのなら、それもまた一興だ!」
「…………ッ!」
「だからこそ!」
ロアヒカセンの声が、闘技場全体に響き渡った。
「お前には、所詮偽物である私から、大罪の始まりをくれてやる!」
「……は?」
スオウは、完全に思考を停止させた。
何を言っている?
何をするつもりだ?
この男は、今度はいったい何を――。
ロアヒカセンが、天を仰ぐ。
「ロアヒカセンとして命ずるッ!!」
その瞬間。
アルカディア全域に、警報が鳴り響いた。
闘技場の床に刻まれた魔法陣が、一斉に起動する。
天井を走る照明が明滅し、空間を維持していたエーテルの流れが異常な速度で加速を始めた。
それは、単なる魔力の放出ではない。
アルカディアというシステムそのものが、目の前の存在に応答していた。
「アルカディアシステム、掌握ッ!!」
「は?」
「ヴァーチャ社長の魔力をオーバーロードさせてでも、私の大罪をスオウにぶち込んでやるッ!!」
「はァ!?」
どこからともなく、悲鳴が響いた。
『待て待て待て待てェェェッ!? 何を勝手にシステムを操作しているんですかァァァッ!!』
ヴァーチャ社長の絶叫だった。
『それは私の魔力を使う前提のシステムではないでしょう!? というか、オーバーロードさせるって、私の身体が――!』
「うるさい! 細かいことを気にするな!」
『細かくありませんよォォォッ!!』
「安心しろ! たぶん死なん!」
『たぶんで社長の命を扱うなァァァッ!!』
悲鳴が遠ざかる。
システムの稼働音がさらに高まり、闘技場を埋め尽くすほどの光が収束していく。
スオウは、目の前の光景を理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
この男は、自分を倒すつもりではない。
自分を殺すつもりでもない。
あろうことか。
自分に何かを押しつけようとしている。
「ま、待て……! 何をする気だ、貴様ァッ!!」
「何、簡単なことだ!」
ロアヒカセンは、笑った。
光と闇が混ざり合った、ひどく歪で、それでいて不思議なほど晴れやかな笑顔だった。
「偽物の光に対抗するのは、偽物の闇!」
その言葉と同時に、光が爆ぜた。
「そして、偽物の闇に対抗するのは――!」
スオウの身体を、膨大なエネルギーが包み込む。
「――本物の大罪だァァァッ!!」
世界が白く染まった。
憤怒。
嫉妬。
傲慢。
怠惰。
強欲。
暴食。
色欲。
そして、憎しみ。
人間の業が、存在の根幹に刻み込まれていく。
それは呪いではない。
祝福でもない。
ただ、逃げ場のない可能性だった。
憎しみしかなかった人生に、憎しみ以外のものを無理やり押し込む。
怒りを知れ。
欲望を知れ。
他者を羨め。
自分を誇れ。
怠けることを覚え、何かを欲しがり、腹を満たし、美しいものに目を奪われろ。
そして。
それでも憎しみが残るのなら、好きなだけ憎めばいい。
一つの感情だけで、人生を終わらせる必要などないのだから。
スオウの悲鳴が、光の中に消えていった。
***
そもそも、ロアヒカセンとは何なのか。
光の戦士。
闇の戦士。
終末の物語において、ゲームが生み出した二つの相反する概念。
その両者から生まれたロアヒカセンは、どちらでもあり、どちらでもなかった。
善であり、悪。
光であり、闇。
秩序であり、混沌。
だが、そのどれもが本物ではない。
所詮は、物語の中で生まれた偽物なのだ。
だからこそ、ゼロムスの闇に対しても、正面から同じ理屈で対抗する必要がなかった。
本物の光が届かないのなら、偽物の光でいい。
本物の闇が届かないのなら、偽物の闇でいい。
そして、偽物の光と闇を抱える存在が立つアルカディアは、ゲームという世界そのものだった。
ゲームの中では、憤怒も、嫉妬も、傲慢も、怠惰も、強欲も、暴食も、色欲も、そして憎しみでさえも、プレイヤーが向き合い、攻略し、時には笑い飛ばすことのできるものだ。
どれほど理不尽な敵であっても。
どれほど絶望的な状況であっても。
そこに挑戦する者がいる限り、物語は終わらない。
スオウが憎しみ以外の何かを知る可能性もまた、消えはしない。
それが、この偽物の世界における理屈だった。
もっとも。
その理屈を成立させるために、ヴァーチャ社長の魔力がどれほど消費されたのか。
そして、どれほどの修理費用が発生したのか。
それについては、また別の話である。
***
なお、この事件の後。
ヴァーチャ社長は、全治一か月の修理期間を要した。
社長としての業務は完全に停止。
アルカディアの運営は一時的に混乱し、システムの一部は原因不明のエラーを吐き出し続けた。
誰もが、これは重大な事故だと考えた。
しかし。
次元の狭間から押し寄せる魔力を、休業中も延々と吸収し続けた結果。
ヴァーチャ社長は、進化した。
その名も――。
ネオヴァーチャ社長。
そして、アルカディアシステムには新たな機能が実装された。
『一人一つの次元の狭間』
参加者はそれぞれ、自分だけの次元の狭間へとアクセス可能。
他人の進行状況に左右されることなく、己の力だけで攻略を極めることができる、やりこみソロモードである。
なお、この機能が誰のために実装されたのかについては、諸説ある。
アルカディアのプレイヤーたちは歓喜した。
運営は頭を抱えた。
そしてヴァーチャ社長は、何も言わずに天を仰いだ。
たぶん、彼女はもう二度とロアヒカセンを信用しないだろう。
……たぶん。
***
「……ここ、は……」
スオウが目を覚ましたとき、最初に感じたのは揺れだった。
規則的に上下する振動。
木材の軋む音。
車輪が地面を踏みしめる音。
そして、どこからともなく聞こえてくる、鳥の鳴き声。
「…………」
彼女はゆっくりと目を開いた。
視界に入ったのは、木製の天井だった。
見慣れない荷台。
藁の匂い。
窓の向こうには、青々とした草原と、どこまでも続く空が広がっている。
どうやら、馬車の中らしい。
いや、正確にはチョコボの荷車だ。
「…………は?」
スオウは、上半身を起こした。
そして、自分の身体を見下ろす。
「……なんだ、これは」
着ている服が違う。
かつての装束ではない。
身に纏っているのは、アルカディアのゲーム内で見覚えのある、魔女の衣装だった。
黒を基調とした、どこか妖しく、それでいて不思議なほど自分に馴染む服。
「……は?」
もう一度、声が出た。
状況が理解できない。
自分は、あの闘技場で何をされた?
ロアヒカセン。
大罪。
アルカディアシステム。
ヴァーチャ社長の悲鳴。
記憶が断片的に蘇る。
「……あのイカレ狂人……ッ!」
スオウが歯噛みした、そのときだった。
「おぉ! 目覚めましたか、憎しみの魔女スオウよ!」
突然、目の前から明るい声が飛んできた。
スオウは反射的に顔を上げた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
いや、正確には少女という表現が適切なのかどうか、彼女自身にも分からない。
少なくとも、その瞳には一切の曇りがなく、その表情には世界の理不尽など存在しないとでも言いたげな、恐ろしいほどの無邪気さがあった。
「……誰だ、お前は」
「私の名前はアリスです!」
少女は胸を張った。
「アリスは、スオウと一緒に冒険するためにここにいるのです!」
「……は?」
「これから私たちは、世界を好き勝手に、善と悪を自由にしまくる冒険に出るのです!」
「は???」
スオウの頭が痛くなった。
何を言っているのだ、この少女は。
「まずは自由です!」
アリスは、荷車の前方を指差した。
「このチョコボの運転賃を払うか、運転手をぶん殴って、逆に手間賃をぶん殴るのかも自由です!」
「そんな自由があるものか!?」
思わず叫んでいた。
「自由とは、何をしてもいいという意味ではないだろうが!?」
「おお! スオウは自由について詳しいのですね!」
「違う! 今の話のどこに詳しい要素があった!?」
「つまり、運転手をぶん殴るのは自由ではないということですね!」
「そうだ!」
「では、運転手をぶん殴った後に運賃を払うのはどうでしょう?」
「どうして殴ることが前提になっている!?」
「なるほど! まずは運転手さんに相談してみましょう!」
「最初からそうしろォォォッ!!」
チョコボが、驚いたようにクエッと鳴いた。
荷車の外から、運転手の困惑した声が聞こえる。
「お客さん方、何を騒いでるんで……?」
「何でもありません!」
アリスが元気よく返事をした。
「ところで運転手さん! 運賃は無料にできますか!?」
「できるわけねえだろ!?」
「そうですか! では、お金を払う必要があるのですね!」
「最初からそう言ってるだろうが!」
「スオウ! 世界は厳しいですね!」
「お前が言うなァァァッ!!」
スオウは頭を抱えた。
世界を滅ぼそうとした。
ゼロムスの威光を広げようとした。
憎しみを燃やし、全てを無へと帰そうとした。
その果てに待っていたのが、見知らぬ少女とのチョコボの荷車での旅。
しかも、どうやら自分は魔女にされているらしい。
何もかもが理解できない。
何もかもが思いどおりにならない。
そして何より。
この少女の相手をしていると、憎しみを燃やす暇さえない。
「……私は……」
スオウは、深く息を吐いた。
「……私は、いったい何をさせられているんだ……」
「冒険です!」
アリスは即答した。
「冒険をして、いろいろな人と出会って、いろいろなものを見て、いろいろな経験をするのです!」
「……それで?」
「その先は、まだ分かりません!」
「…………」
「でも、分からないからこそ、冒険するのです!」
アリスは、満面の笑みを浮かべた。
「さあ、スオウ! まずは運賃を払いましょう! その後、世界を自由にするための作戦会議です!」
「……私は憎しみの魔女なのだが……」
「はい! では、憎しみの魔女として、運賃を払ってください!」
「どういう理屈だ!?」
チョコボの荷車は、今日も平和に走り続けていた。
少なくとも、運転手にとっては。
***
こうして始まった。
シナリオライター・モモイが、アルカディアのために書き下ろした、カオスを超えた善と悪の物語。
世界を憎み、全てを破壊しようとした魔女スオウ。
世界の善も悪も、自由も理不尽も、何もかもを真正面から受け入れて突き進む少女アリス。
二人の旅路に、まともな展開が待っている保証はない。
そもそも、まともな展開を期待すること自体が間違いなのかもしれない。
だが、少なくとも。
スオウは、もう一人ではなかった。
憎しみだけで全てを埋め尽くす必要もなくなった。
世界を滅ぼす以外の道があることを、彼女はまだ理解していない。
それでも、チョコボの荷車は進んでいく。
見知らぬ土地へ。
見知らぬ人々のもとへ。
そして、スオウがまだ知らない、憎しみ以外の感情が待つ場所へ。
これは、英雄の物語ではない。
世界を救う聖人の物語でもない。
憎しみに染まりきった一人の魔女が、ゼロから何かを始めるための物語。
本物の救済ではない。
本物の奇跡でもない。
ただ、偽物だからこそ始められる物語。
スオウが、マイナスからゼロへと戻るための。
――これは、偽物の物語である。
IFルート
『スオウが襲ったのがアルカディアだった場合』
――そして、ヴァーチャ社長の受難は、まだ終わらない。