月見ヤチヨ 前日譚   作:エクソダス

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第1話

 

 

「んで、おねだりってなんだい、ヤチヨちゃん」

 

 

 アキラはステージの片隅で、構わず先を促した。

 仮想空間の照明が戦闘モードから落ち着いた色調に切り替わり、観客の歓声も遠のいて、もうそこには二人きりの空気が残っていた。

 

 

「ふふっ」

 

 

 ヤチヨは、すぐには答えなかった。

 肩に担いでいた和傘をくるりと回し、それを胸の前でぎゅっと抱える。「勝てちゃった〜」と笑っていたさっきまでのテンションが、潮が引くように消えていた。

 

 

「……貴方にやってほしいことがあるの。貴方にしか、頼めない事」

「ほう?」

 

 

 ヤチヨの一人称が「ヤチヨ」から「私」に滑った。

 

 

「それは、一体何かな」

 

 

ヤチヨは少し俯いて、それから真っ直ぐに彼を見上げた。

 

 

「貴方の妹さんにさ——私の話を、してみてほしいの」

 

 

 ピクリ、と。

 

 アキラの片眉が、明らかに動いた。

 

 

「……待て、妹?」

 

 

 俺様キャラの抑揚が、跡形もなく消える。

 彼は金棒の柄を握り直し、無意識にどこか身構える。

 

 

「ヤチヨちゃんに——というか。俺、ツクヨミで家族構成の話なんざ、したことねえぞ」

 

 

 身構えた理由は明白、アキラは今まで家族の事を話していない。自分でも知らないうちに、避けていた話題であるからだ。

 

 

「いつ、妹の話を知ったんだ?」

「さあ、いつでしょう」

 

 

 優雅に笑い、両手をぱっと広げて、まったく別の話題のように続ける。

 

 

「お願いって言うのは、ヤチヨのことをさ、妹さんにちょっと宣伝してきてほしいの。そしたらきっと、妹さんはヤチヨの虜になっちゃう予定〜」

 

 

 一人称がまた「ヤチヨ」に戻っていた。語尾も、いつものお気楽なやつに。

 それがかえって、不自然だった。

 

 

「……虜、ねえ。具体的には?」

 

 

 アキラは、流されてやらないとばかりに低い声で問う。

 

 

「自分の部屋にヤチヨの神棚を作って、毎日信仰するようになる」

 

 

 短い、空白。

 

 

「……そうか。そうなったらいいな」

 

 アキラは踵を返した。

 迷いのない撤退だった。会話の主導権を渡さない配信者としての反射神経と、これ以上踏み込ませない兄としての防衛本能が、同時に働いた——見事な引き際だ。

 

 

「ま——待って待って待って待って!」

 

 

 すると背後から、ヤチヨが飛びついてきた。

 和服の袖を振り乱しながら、子犬がじゃれつくようにアキラの腰のあたりにしがみつく。両腕でぎゅっとロックされて、アキラはたたらを踏んだ。

 

 

「おい、離せ!」

「やぁだぁ〜! 話、聞いて、聞いてぇ!」

「管理人が客にしがみつくな!」

「いまヤチヨはバトルゲストだから! 一般ユーザーカウントだから!」

「都合のいい解釈すんじゃねえよ!」

 

 

 仮想空間のフィジクスエンジンが、キャラクター衝突判定を生真面目に処理している。

 引きずられ、引きずり、ステージの端で二人はもつれた。しがみつかれたまま、アキラは大きく溜め息をついた。

 

 

「……ヤチヨちゃんよ」

「はい」

「お前、間違いなく誰かと勘違いしてるぞ」

 

 

 ヤチヨは頭の中で、何か確信がある口ぶり。

 だが妹は——良い意味でも悪い意味でも生真面目な女子だ。

 ヤチヨを推す? あり得ない。あの妹に限って——

 

 

「断言する、それは俺の妹じゃない」

「大丈夫! 間違えてない! 間違えてないから!」

 

 ヤチヨは、ぶんぶんと首を振った。

 腰にしがみついたまま、顔だけを上げて、やたらきっぱりと言い切る。否定の根拠は一つも示されていなかった。

 けれど、その「間違えてない」だけは、不思議なほど揺らぎがなかった。

 

 

「……いや、お前」

「絶対、絶対だよぉ! ヤチヨが言うんだから間違いない!」

「根拠は」

「8000年の勘!」

「設定で逃げんな!」

 

 

 アキラは反射的にツッコんでから、また言い返す。

 

 

「ありえねえよ! ウチの妹は生真面目な優等生! アニメとかラノベとか、興味もねえ!」

 

 

 ステージ脇で完全クールダウンに入っていた乃依が、ぴくりと耳を動かしてこちらを見た。雷も振り返った。アキラは構わず続ける。

 

 

「あいつはな、寝る間も惜しんで参考書めくってんだよ。母親に認めてもらいたい一心で、東大目指して、バイトと勉強で死にそうになってんの! そんな奴がだぞ?」

 

 

 声量が、配信モードに戻りつつあった。

 

 

「いきなり兄の勧めで推しなんて作るか!」

 

 

 ヤチヨは、しがみついたまま、まじまじとアキラを見上げていた。

 兄としては当然の反応、誰もがおかしいのはヤチヨだと思うだろう。

 

 

「いや、そういう理論もわからなくも、ないんだけどさ……」

 

 

 およよ、とヤチヨは悲しそうな顔をする。その表情が、ほんの一瞬だけ、笑っていなかった。

 ヤチヨは胸の奥で小さく息を呑んで——それから、いつもの調子でにっこり笑った。

 

 

「だぁいじょうぶ、帝様よ」

「何が大丈夫だよ」

「妹さんね、絶対ハマるから。ヤチヨ、見えるんだよぉ、未来が」

「設定で逃げんなって言っただろうが」

「8000年の千里眼!」

「言い換えるな!」

 

 

 アキラは吠えたが、ヤチヨは肩をすくめるだけだった。

 

 

「もういい、付き合ってられん」

 

 

 これ以上付き合っていられない。

 アキラは舌打ち一つ、踵を返す。今度こそ、本当に立ち去るつもりだった。

 

 

 

 

 

「——酒寄、彩葉ちゃん」

 

 

 

 

 

 背中に、声が当たった。

 ぴたりと、足が止まる。

 歓声の名残も、観客席のざわめきも、ステージの稼働音も、すべてが一拍だけ遠のいた。

 アキラの肩が、ほんの少しだけ上がる。

 ゆっくりと、振り返った。

「……お前」

 

 声が、低かった。

 俺様キャラの抑揚はもう完全に消えている。配信者としての笑顔の薄皮も、兄としての防衛線も、その一言で全部剥がされた。

 残ったのは、酒寄朝日、ただ一個人としての警戒だった。

 

 

「それが、ヤチヨが求め続けている女の子の名前」

 

 

 ヤチヨは、にっこり笑っていた。

 少しも悪びれず、両手を後ろで組んで、首を傾げる仕草で。

 

 

「ほら、ヤチヨの勘違いじゃないでしょ?」

 

 

 ヤチヨの目が、ふと、笑うのをやめた。

 笑顔のはずだった。口角は上がっている。

 けれどその奥にあるはずの軽さが、いつの間にか抜け落ちていた。

 

 

「あと一歩、あと一歩なんだ」

 

 

 ヤチヨの声が、少しだけ震えていた。だがゆっくり、一歩ずつ確実に前に。

 

 

「八千年も待って——やっと、ハッピーエンドに到達しそうなんだ」

「……八千年、か」

 アキラの耳が、その数字を捉えた。設定上のお約束、ライバーとしての肩書き、ファンへのリップサービス——そう自分に言い聞かせようとして、できなかった。

 ——8000年、その重みが今度ははっきりと胸に落ちてきた。

 

 

「ずっと望んでた、ハッピーエンド」

 

 ヤチヨの和傘が、力なく地面に滑り落ちた。両腕が、ぶらりと、垂れた。

 

 

「お前……」

 

 

 アキラの喉から、辛うじて言葉が出た。

 ヤチヨは、すっと息を吸って——

 

 

 「そのためなら——」

 

 

 両足を、軽く屈めた。

 

 

「何だって、してやる」

 

 

 ——次の瞬間。

 ヤチヨの体が、跳んだ。

 和服の袖を旗のようにはためかせ、見事な放物線を描いて、アキラの足元めがけて急降下する。

 仮想空間のフィジクスエンジンが、AIライバー史上稀に見る角度と速度の物体落下を生真面目に処理した。

 

ゴッ、と鈍い音。

 

 

 

 

 

 

 

 

orz

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャンピング土下座が、決まった。

 

 

「勘弁してくださいぃ!! プロローグすら始まらないのは、しゃれにならないんですぅ!!!」

「な——」

「ここで一手! ここで一手噛み合わないと、八千年が! 八千年が水の泡なんですよぉ!!!」

「待て待て待て待てなんだお前は!?」

 

 

 アキラは反射的に二歩下がった。

 土下座の頭頂部から、完全に号泣している。けれど涙のテクスチャがどう見ても演出用のキラキラエフェクトで、シリアスとコメディの境界線を脳が処理しきれない。

 ステージ脇から、乃依の「えっ何あれ……」という間延びした声が聞こえた。雷は無言で目を逸らした。

 冷静沈着なはずの帝アキラが、配信者人生で最大級のパニックに陥っていた。

 

 

「な、何でだ?」

 

 

 アキラの声が、土下座のヤチヨに向かって落ちた。

 

 

「なんでそこまで——俺の妹に、こだわるんだ?」

 

 

 ヤチヨは、ゆっくりと顔を上げた。

 涙のキラキラエフェクトはもう消えている。代わりに、笑顔だった。

 けれど、何と呼べばいいのか分からない笑顔だった。困ったような、許しを請うような、それでいて少しだけ、誇らしげな——アキラの語彙では捉えきれない。

 

 

「そうだ、ね……」

 

 ヤチヨは自分の手のひらを、まじまじと見つめる。

 何かを掬おうとして、掬えなかった人の仕草だった。

 

 

「簡単だよ」

 

 

 声が、低かった。

 

 

「どうしても、忘れられなかったから」

 

 

 アキラは、何も返せなかった。

 ヤチヨの指先がわずかに丸まる。空っぽの手を、握ろうとして、握り損ねたみたいに。

 

 

「いっそ忘れられたら、嫌いになれたらって——何度も思った」

 

 

 そこで一度、ヤチヨは言葉を切った。

 仮想空間の照明が、彼女の横顔を柔らかく縁取っている。和服の袖が、何かの拍子にずれて、白い手首が覗いた。

 ヤチヨは、ふっと息を吐いた。それから、誰にともなく、呟くように続けた。

 

 

「——かぐやにはわかんない、って」

「……は?」

「彼女のその、言いかけた言葉が」

 

 

 ヤチヨは、初めて、アキラを真っ直ぐに見た。

 その目が、笑っていた。けれど同時に、泣いていた。

 仮想空間の表現上、涙は流していなかった。それでも、泣いていた。

 

 

「驚くくらい、わかるように——なっちゃったから」

 

 

 

 

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