深淵の凪、水槽の怪物   作:りー037

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第一片:澱む旧舎と深淵からの微かな脈動

[2017年 5月12日 15:45 PM / 区立中学校・旧校舎 1階廊下]

 

 

放課後の生ぬるい風が、開け放たれた窓から吹き込んでくる。

 

本校舎の喧騒から切り離された旧校舎は、まるで時間の流れがそこだけ淀んでいるかのような独特の静けさを持っていた。空気中には微細な埃が西日に照らされて金色の砂のように舞い、古い木材とカビの入り混じった饐えた匂いが鼻腔を突く。

 

「悪いな星渕、いつも手伝わせちゃって。この備品、旧校舎の理科準備室に置いておいてくれるか?」

 

 

担任教師からそう頼まれた悠希は、段ボール箱を抱えながら、軋む床板を静かな足取りで進んでいた。

 

「いえ、お気になさらず。僕で役に立てるなら嬉しいですから」

 

教師に向けたその見事な愛想笑いは、彼の顔に張り付いたまま、誰もいない廊下でも一切崩れることはなかった。誰も見ていないからといって表情を変えるのは、彼の「擬態」の精度を下げる無駄な挙動でしかない。

 

理科準備室の引き戸に手をかけた瞬間、鼓膜の奥で低く湿った『音』がした。

 

 

 

 

ズルリ、ズルリ。

 

 

 

 

腐った肉を床に擦り付けるような音。

 

引き戸を開けると、部屋の天井の隅に、それは張り付いていた。

 

黒ずんだヘドロを無造作に固めたような肉塊。そこから無数の短い腕が生え、蠢いている。生徒たちが旧校舎に向けて吐き捨ててきた「テストへの恐怖」「人間関係の鬱屈」「名前のない苛立ち」、そうした負の感情の残滓が長年吹き溜まり、受肉した4級程度の呪霊だった。

 

 

 

『……やだ……めんどくさい……やりたくない……』

 

 

 

明瞭な意志を持たない呪霊が、うわ言のように呪詛を垂れ流す。その複数のどんぐりのような眼球が、侵入者である悠希をギョロリと捉えた。段ボールを抱えた無防備な少年。呪霊にとって、それは格好の「餌」に他ならない。

 

 

天井から肉塊が剥がれ落ち、悠希の頭上へと覆い被さるように飛びかかってきた。

 

口に当たる部分が大きく裂け、黒い牙が覗く。

 

 

悠希の心拍数は、1ミリたりとも変動しなかった。

 

恐怖も、焦燥も、あるいは嫌悪感すらもない。ただ、飛来する物体に対する「処理」の計算が、極めて冷徹に脳内を駆け巡る。

 

 

(荷物を落とせば、教師からの評価が下がる。段ボールに衝撃を与えずに、片手で処理する)

 

 

悠希は段ボールを左腕だけで抱え込むと、右手をゆっくりと——いや、呪霊の速度に比べて圧倒的に遅く見えるにも関わらず、なぜか回避不可能な絶対のタイミングで——前方へと差し出した。

 

 

 

呪霊の巨大な顎が悠希の右手に触れる、その数ミリ手前。

 

悠希は魂の奥底、彼という存在の根幹に刻まれた『外宇宙の大いなる界神』との接続回路を、ほんの僅かに、針の穴ほどだけ開いた。

 

 

術式、外宇宙接触術(アウター・コンタクト)。その本質は「召喚」ではなく「接続」であり、空間と空間の「置換」だ。

 

現実世界のこの座標と、深淵の異界の座標が、一瞬だけ重なり合う。

 

悠希の指先から、目に見えない絶対零度の圧力が生じた。それは「攻撃」ではない。現実の物理法則を根底から無視した、存在の書き換え。

 

 

『ガ、アァ——』

 

 

呪霊が悲鳴を上げる暇もなかった。

 

悠希の指先が触れた箇所から、呪霊の肉体が「消去」されていく。斬られたのでも、焼かれたのでもない。ただ、そこにあったはずの存在が、外宇宙の圧倒的な質量の前に耐えきれず、空間ごと削り取られるように虚無へと呑み込まれたのだ。

 

一切の音もなく、微弱な呪力の残滓すら残さず、呪霊は消滅した。

 

 

「……埃が舞うな」

 

 

 

悠希は右手を静かに下ろし、何事もなかったかのように理科準備室の棚に段ボールを置いた。

 

パンパンと制服の埃を払い、彼は再び完璧な笑みを浮かべて旧校舎を後にした。善き行い(教師の手伝い)が完了したという、ただそれだけの事実を胸に。

 

 

 

 

 

 

 

 

[2017年 5月12日 16:10 PM / 学校の正門前]

 

 

「……おかしいな」

 

学校の敷地の外、電柱の陰で、くたびれたスーツを着た男が舌打ちをした。

 

彼の目は、呪力を視認できる特殊な眼鏡を通して学校を睨んでいる。呪術総監部から派遣された「窓」——補助監督の末端である彼は、この中学校に溜まりつつあった呪霊の気配を定期観測しに来ていた。

 

 

 

だが、奇妙な現象が起きていた。

 

朝方に微弱に感じていた3年生の教室付近の呪い、そして今しがた旧校舎で肥大化しかけていた呪いの気配が、ふっつりと『途絶えた』のだ。

 

「祓われた……? いや、それなら術式の痕跡か、呪力の残滓が残るはずだ。まるで、最初から存在しなかったかのように消えやがった……」

 

 

得体の知れない現象に、男の背筋に冷たい汗が伝う。

 

その時、校門から一人の男子生徒が歩いてくるのが見えた。ごく普通の、整った顔立ちの少年だ。

 

悠希は男の横を通り過ぎる際、少しだけ歩みを緩め、目が合うと軽く会釈をした。

 

「こんにちは。お仕事、お疲れ様です」

 

 

爽やかな、非の打ち所のない声。

 

男は一瞬毒気を抜かれ、慌てて「あ、ああ……」と曖昧に会釈を返した。少年の背中を見送る男の目には、少年から一切の呪力——いや、一般人特有の微弱な呪力の漏出さえも感じ取れなかった。

 

 

(ただのガキか。……まあいい、報告書には『呪霊の不自然な消滅』とでも書いておくか)

 

 

男が視線を外したことなど、悠希は背中越しに完全に把握していた。

 

彼の術式と精神構造は、呪力というエネルギーのベクトルを完全に「内側(深淵)」へと引きずり込んでいるため、外部からは一切感知できない。彼は社会という水槽の中を、完全に透明なまま泳ぐことができるのだ。

 

 

「……さて、道場に行こう」

 

誰に向けたわけでもない独り言を呟き、悠希は歩幅を一定に保ったまま駅へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

[2017年 5月12日 17:30 PM / 町の合気道道場]

 

 

「それっ!」

 

気合いの声と共に、体重80キロを超える大柄な兄弟子が、悠希の胸ぐらを掴んで投げ飛ばそうと踏み込んできた。道場に染み付いた汗と畳の井草の匂いが、空気を重くしている。

 

悠希の目は、スローモーションのように相手の重心の移動、筋肉の収縮、呼吸のタイミングを観察していた。

 

彼の肉体は小柄で細身だ。力で張り合えば一瞬で押し潰される。だが、彼は相手の力に逆らわない。

 

 

 

トン、と。

 

 

悠希は前足の軸を半歩だけずらし、相手の突進のベクトルと自身の体を同化させた。合気道の極意『入り身』と『転換』。

 

 

そこに、彼特有のスパイスを加える。

 

筋肉の力ではなく、魂の奥底から引き出した極微量の呪力強化。それは肉体を鋼にするような無骨なものではなく、関節の可動域を滑らかにし、重力を一瞬だけ欺くような繊細な操作。

 

相手が「捕まえた」と錯覚した瞬間には、悠希の体はすでに相手の死角へと回り込んでいた。

 

悠希の腕が、兄弟子の肘の関節にふわりと添えられる。力は全く入っていない。ただ、そこに「ある」だけ。しかし、相手の突進する巨大な運動エネルギーは、悠希の手を支点として完全に方向を反転させられた。

 

 

 

 

ドァンッ!

 

 

 

 

大きな音を立てて、兄弟子が宙を舞い、畳に叩きつけられた。

 

見事な一本背負いのような形だが、悠希はほとんど力を使っていない。乱れた呼吸すらない。

 

 

「参った……! 凄えな星渕、お前ホントに中学生かよ。全く力が入ってないのに、気づいたら天井が見えてたぜ」

 

「怪我はありませんか? 先輩の踏み込みが鋭かったので、その勢いをお借りしただけです」

 

 

悠希は膝をつき、倒れた兄弟子に手を差し伸べる。

 

道場の奥で腕を組んでいた初老の師範が、満足げに頷いた。

 

「見事だ、悠希。お前の『脱力』と『相手と調和する感覚』は天性のものだ。合気道は相手を打ち負かす武道ではない。相手の敵意を和らげ、自然の理に帰すもの。お前はその体現者になり得る」

 

「過分なお褒めの言葉、ありがとうございます。師範のご指導の賜物です」

 

 

 

深く一礼する悠希。

 

周囲の門下生たちから向けられる羨望と称賛の眼差し。

 

だが、頭を下げた悠希の瞳には、一切の光が宿っていない。

 

(『相手の敵意を和らげ、自然の理に帰す』……。なるほど、倫理的な装飾としては美しい論理だ。社会生活において有効な概念として記録しておこう)

 

 

彼がやっているのは、相手との調和などではない。

 

外宇宙の絶対的な狂気を内包した彼の精神からすれば、人間の放つ敵意など、微風以下の物理現象に過ぎない。ただのベクトル計算と物理法則の適応。そこに感情の交わりなど一切存在しない。

 

彼は今日も、「心優しい少年」という役を完璧に演じきった。

 

 

 

 

 

 

 

[2017年 5月12日 20:30 PM / 悠希の自宅マンション]

 

 

一人暮らしの1LDK。

 

彼を放逐した一族が、手切れ金代わりに用意し、生活費だけを機械的に振り込んでくる無機質な空間。

 

部屋の明かりは点いていない。暗闇の中、悠希は夕食としてコンビニで買ったサンドイッチを、無表情のまま咀嚼し、嚥下していた。味覚は機能しているが、それが「美味しい」という感情には結びつかない。ただカロリーと栄養素を体内に摂取する作業だ。

 

食事を終え、彼はリビングの大きな窓辺に立ち、眼下に広がる東京の夜景を見下ろした。

 

無数の車のライトが血液のように道路を流れ、ビル群の窓が星のように瞬いている。数百万の人間が、それぞれの感情を抱いて生きている光の海。

 

 

 

その時だった。

 

 

 

 

『——————』

 

 

音のない、しかし脳髄を直接揺らすような巨大な脈動(ハウリング)。

 

 

悠希の視界が、一瞬だけブレた。

 

ガラス窓に反射していた自分の顔が、歪む。

 

窓の外に広がる東京の夜景が、突然、毒々しい青緑とピンクのネオンカラーに反転した。

 

空を覆い尽くすほどの超巨大なシルエット。ビル群の合間から、空間を埋め尽くすほどの無数の這い回る触手が幻視される。その中心、狂気的な光の渦の中に、赤く輝く巨大な「一つの眼」が、星の彼方から悠希を見下ろしていた。

 

 

 

今日、学校でほんの僅かに境界を開いたことへの、深淵からの共鳴。

 

「彼ら」の棲む世界——■■■■■の顕現への圧力が、悠希の魂の扉を内側から叩いたのだ。

 

常人であれば、この幻視を一瞥しただけで発狂し、自らの眼球を潰すほどの精神的重圧。

 

 

 

しかし、悠希の表情は全く変わらなかった。

 

「……今日は、少し騒がしいな」

 

静かな呟きと共に、悠希は瞳を閉じた。

 

そして、彼の中に構築された圧倒的な精神の檻で、その狂気の波動を強引に押さえ込み、飲み込んだ。

 

再び目を開けると、そこには見慣れた東京の夜景が広がっていた。

 

窓ガラスには、無表情な中学生の顔が反射しているだけだ。

 

 

 

彼がもし、あの力を完全に解放すれば——領域を展開し、境界を閉じずに垂れ流せば、この東京は一瞬にして深淵の海に沈み、全ての人間が狂気に狂い死ぬだろう。

 

彼にはそれができる。善悪の概念がない彼にとって、それは「やろうと思えばできる物理的アクション」の選択肢の一つでしかない。

 

それでも彼がそれをしないのは、世界に価値を見出しているからではない。

 

 

 

 

 

『人は良い行いをする生き物だよ。善人も悪人も、心の底には必ず善性があるんだ』

 

 

 

 

虚無の頭蓋の内側で、もうこの世にいない彼女の言葉がリフレインする。

 

「ああ、そうだね。分かっているよ」

 

悠希は窓ガラスに映る自分に向かって、ふわりと、完璧に人間らしい、優しく温かい微笑みを浮かべた。

 

「明日も、善き行いをしよう」

 

狂気の神を腹に飼い殺した怪物は、誰にも見られることのない暗闇の中でも、完璧な人間の模倣を続けていた。

 

 

 

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