深淵の凪、水槽の怪物   作:りー037

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第二片:透明な水槽と、水面を揺らす深淵の影

[2017年 5月14日 13:15 PM / 東京都・渋谷スクランブル交差点]

 

週末の渋谷は、人間の欲望と疲労、そして無意識の悪意が煮詰まった巨大な坩堝(るつぼ)である。

 

信号機が青に変わると同時に、アスファルトを埋め尽くすほどの群衆が一斉に歩みを進める。数千の靴底が地面を擦る音、多言語が入り混じる喧騒、ファストフードの油の匂いと、行き交う人々の香水や汗の匂い。

 

星渕悠希は、その巨大な波の只中を、水の中を泳ぐ魚のように滑らかに歩いていた。

 

 

(……人間の密集地帯。物理的な情報量もさることながら、精神的な老廃物の濃度が高い)

 

 

悠希の目には、群衆の頭上を覆うように薄暗く靄がかった『澱み』が見えている。

 

行き交う人々が抱えるストレス、嫉妬、劣等感、焦燥。それらが行き場を失い、微小な呪霊の幼生体となって空気中を漂っているのだ。ここは呪術師からすれば、不快指数が極めて高い空間である。

 

 

だが、悠希の精神は完全な凪を保っていた。

 

彼の魂の奥底には、青緑とピンクのネオンが全身を彩る超巨大な蛸神——■■■■■■・■■■■■との接続回路が恒久的に開かれている。外宇宙の絶対的な狂気と虚無を内包している彼にとって、人間の放つ負の感情など、路傍の石ころほどのノイズでしかない。

 

 

「あっ……!」

 

 

ふいに、前方から短く小さな悲鳴が上がった。

 

人波に揉まれた初老の女性が、抱えていた紙袋を落とし、中から林檎やオレンジなどの果物がアスファルトへ転がり出たのだ。行き交う人々は一瞬だけ視線を向けるものの、自らの歩みを止めることなく、無関心にそれを避けていく。中には舌打ちをして蹴り飛ばしそうになる若い男もいた。

 

 

悠希の脳内で、即座に演算が開始される。

 

(事象:困窮している人間。周囲の反応:無関心。……彼女の定めた『動作規則』に従い、介入を行う)

 

脳裏に刻まれた彼女の言葉をトリガーとして、悠希の肉体が動いた。

 

靴底を滑らせる合気道の歩法『入り身』。人波の隙間を縫うように、一切の摩擦を生むことなく女性の足元へ滑り込む。蹴り飛ばされそうになっていた林檎を、地面すれすれで掬い上げるようにキャッチする。その動きはあまりにも自然で、周囲の人間は「いつの間にかそこに少年がしゃがんでいた」と錯覚するほどだった。

 

 

「……お怪我はありませんか?」

 

 

悠希は集めた果物を紙袋に戻し、柔和な微笑みを浮かべて女性に差し出した。

 

声帯の震え、目元の筋肉の弛緩、首の角度。どれをとっても「心優しい好青年」の完璧な出力である。

 

「あ、ああ……ありがとうございます、助かりました。本当に……」

 

女性は安堵の表情を浮かべ、何度も頭を下げた。

 

 

「いえ。お気をつけて」

 

 

悠希は会釈を返し、再び人波へと溶け込んでいく。

 

彼の内面には達成感も、女性から感謝されたことによる喜びも存在しない。ただ、「善き行いが完了した」というログが記録されただけだ。彼は虚無の器のまま、生活必需品を買うために量販店へと歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

[2017年 5月14日 17:40 PM / 自宅最寄り駅付近の高架下]

 

 

買い物を終え、地元に戻ってきた頃には、空は赤紫色の夕闇に染まり始めていた。

 

駅からの帰り道。普段は人通りの少ない、コンクリートに囲まれた高架下のトンネル。その薄暗い空間に、不穏な空気が滞留していた。

 

「だからさぁ、ちょっと金貸してよって言ってんの。お前、いつもいい靴履いてんじゃん」

 

「い、いや、これは親が買ってくれたもので……あの、通してください……!」

 

 

声の主は、悠希のクラスメイトである健太だった。

 

壁際に追い詰められている健太を囲んでいるのは、柄の悪い他校の制服を着た三人組の不良だった。リーダー格の男が、健太の胸ぐらを掴んで威嚇している。彼らの周囲には、暴力的な衝動から生じた蠅頭が数匹、まとわりついていた。

 

悠希は歩みを止めることなく、正確な等速直線運動でその場へと近づいていった。

 

 

(事象:知人が暴力による金銭の要求を受けている。対応:救出および無力化)

 

 

 

 

 

 

「こんばんは。健太君、こんな所で奇遇だね」

 

静かな高架下に、悠希の柔らかく透き通った声が響いた。

 

不良三人組が一斉に振り返る。華奢で、どこにでもいるような平凡な中学生が立っていた。

 

「あ? なんだお前、コイツのダチか? すっこんでろガキ」

 

リーダー格の男が、舌打ちをしながら健太から手を離し、悠希へと歩み寄ってくる。

 

「彼に用事がありまして。道を空けていただけませんか?」

 

 

悠希は微笑みを崩さない。

 

「ナメてんのか、てめェ!」

 

激昂したリーダー格の男が、右の拳を大きく振りかぶり、悠希の顔面へと躊躇なく打ち込んできた。

 

大振りで、体重の乗った重い一撃。まともに食らえば中学生の顎など容易に砕ける。

 

だが、悠希の主観時間の中で、その拳はひどく遅かった。

 

悠希は微動だにしなかった。拳が鼻先に触れるコンマ数秒前、彼は前足の軸を僅かにずらし、体を半身に開いた。

 

 

空を切る拳。前のめりになる男の重心。

 

悠希はそこに、自らの手をふわりと添えた。合気道における『転換』。

 

力は一切使っていない。相手の持つ怒りと殺意のベクトルを、そのまま相手自身へと返すだけだ。

 

 

「……え?」

 

 

男が間の抜けた声を上げた瞬間、彼の体は宙を舞っていた。

 

そのまま背中からコンクリートの地面へと叩きつけられる。激しい衝撃音。

 

 

「な、なんだと……!? てめェ、何しやがった!」

 

 

残りの二人が逆上し、同時に掴みかかってくる。

 

悠希は溜息すら吐かず、ただ冷徹に物理法則を適用した。

 

右から来る男の手首を柔らかく包み込み、螺旋を描くように誘導して関節を極め、そのまま左から来る男の進行方向へと投げつける。同士討ちの形で二人がもつれ合い、地面に転がる。

 

一切の打撃を加えていない。悠希の呼吸すら乱れていなかった。

 

 

しかし、最初に投げられたリーダー格の男が、顔を真っ赤にして立ち上がってきた。その手には、ポケットから取り出した鋭利なカッターナイフが握られていた。

 

 

「殺す……! ブッ殺してやる!!」

 

 

明確な殺意。それは微弱な呪力へと変換され、男の体をどす黒いオーラとして包み込んだ。

 

 

 

健太が「逃げろ星渕!」と悲鳴を上げる。

 

 

悠希は、初めて歩みを止めた。

 

 

彼の眼差しから、柔和な光が消え失せた。そこにあるのは、宇宙の深淵と同じ、光すら逃れられない絶対的な『無』。

 

 

(武器の所持。明確な殺意の出力。……物理的制圧では再犯の可能性が高い。精神領域への不可逆でない程度の『圧力』を適用する)

 

 

悠希は、魂の奥底で重く閉ざされている門の鍵を、ほんの1ミリだけ回した。

 

外宇宙接触術の接続回路が微かに開き、現実と異界の境界が『置換』される。

 

大いなる界神の巨躯を顕現させる必要はない。触手を伸ばす、必要もない。声を響かせることすら過剰だ。

 

ただ、そこに居るという『気配』だけを、男の精神の直上に置換した。

 

 

 

 

『――――――――』

 

 

 

 

 

音は無かった。

 

ただ、ナイフを振り被って突進してきていたリーダー格の男が、唐突にその場で硬直した。

 

 

男の主観世界は、完全に崩壊していた。

 

コンクリートの高架下という現実は消え失せ、彼の視界は、紫と青に輝く無数の眼球と、空を覆い尽くすほどの巨大な冒涜的肉塊によって埋め尽くされた。鼓膜を破るような名状しがたい音が脳髄を直接掻き回し、肺からは酸素が消え、深海一万メートルの水圧が全身の骨を軋ませる。

 

人間が蟻のように見える圧倒的なスケール。自分が今、足を踏み入れようとした相手の背後に、宇宙そのものを呑み込む『死』の概念が口を開けているという絶対的な事実。

 

 

 

「あ……あ、あ、あああアァァァァァァッ!!」

 

 

 

男はナイフを取り落とし、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。口から泡を吹き、全身を痙攣させながら、失禁して胎児のように丸まる。

 

それを見た残りの二人も、直接『それ』を見たわけではないが、男の異常な壊れ方と、空間そのものが一瞬だけ冷え込んだような名状しがたい恐怖に当てられ、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。

 

 

悠希は開いた回路を完全に閉じ、再び『優しい中学生』の仮面を被った。

 

「大丈夫だった? 健太君。彼、急に貧血で倒れちゃったみたいだね」

 

「え……? あ、ああ……。星渕、お前、すげえな……合気道ってあんな風に人投げれるのかよ……」

 

腰を抜かしていた健太が、震える声で立ち上がる。彼には悠希が男を投げ飛ばした事実しか見えておらず、最後の異常な現象は理解できていなかった。

 

「護身術だからね。さあ、帰ろうか。彼らはもう、君に近づくことはないと思うよ」

 

悠希は倒れた男を一瞥することなく、健太の背中を優しく押して歩き出した。

 

 

善き行い。今日もまた一つ、記録が積み重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

[2017年 5月15日 10:30 AM / 東京都立呪術高等専門学校・学長室]

 

東京の郊外、山間部に位置する法人の敷地。その奥深くにある一室。

 

部屋の中には、羊毛フェルトで作られた大小様々な『呪骸』と呼ばれるぬいぐるみたちが所狭しと並べられている。その中央で、厳つい顔つきの巨漢——夜蛾正道が、無言で針をチクチクと動かしていた。

 

 

 

 

バンッ!

 

 

 

 

突然、ノックもなしに乱暴に扉が開かれた。

 

「やっほー、学長! 頑張って可愛いぬいぐるみ量産してる?」

 

現れたのは、長身に黒い衣服を纏い、目元を白い包帯で覆った青年——五条悟だった。現代最強の呪術師である彼は、手にした紙の束をヒラヒラと揺らしながら、遠慮なくソファへと腰を下ろした。

 

「……ノックをしろと言っているだろう、悟。」

 

夜蛾は手を止めることなく、重い声でたしなめる。

 

「細かいことは気にしないの。それよりさ、総監部から降りてきたこの『窓』の報告書、見た?」

 

 

五条は紙の束をローテーブルの上に放り投げた。

 

「ああ。東京都第4ブロック……例の中学校およびその周辺における、呪霊の『不自然な消失』に関する報告だな。窓が観測していた数体の低級呪霊が、祓除の痕跡を一切残さずに消滅している件だ」

 

 

夜蛾の言葉に、五条は口元に笑みを浮かべた。

 

「そう。普通、術師が呪霊を祓えば、そこには必ず『呪力の残滓』が残る。術式を使えばなおさらだ。エネルギーは形を変えるだけで、完全にゼロになることはない。僕の『六眼』でも、過去の戦闘の痕跡を追うことはできる。……でもね」

 

 

五条は包帯越しの視線を、報告書に添付された現場の写真に向けた。

 

「この現場には、本当に『何もない』んだよ。呪力が散った跡も、術式の残滓も。まるで、最初からそこに呪霊が存在していなかったかのように、空間のデータごと『消去』されている。……こんな芸当ができる術師、僕は知らないな」

 

 

夜蛾の手がピタリと止まった。

 

「……呪詛師の仕業か? あるいは、未登録の特級による影響か」

 

「うーん、どっちかと言えば……全く新しい『エラー』が発生してるって感じかな。呪力という法則そのものを無視するような、異質な何かがね」

 

 

五条は背もたれに深く寄りかかり、天井を見上げた。

 

 

 

窓の外からは、グラウンドで訓練を行う一年生たちの声が聞こえてくる。

 

「オラァッ! もっと腰入れろパンダ!」と薙刀を振り回す禪院真希の声。

 

「しゃけ!」と声を張り上げる狗巻棘。

 

 

五条は彼らの元気な声を聞きながら、楽しそうに笑った。

 

「まあ、すぐに害があるわけじゃなさそうだし、放置でもいいんだけどさ。……もし、これが誰かの『術式』だとしたら、ちょっと面白いと思わない?」

 

「面白半分で首を突っ込むな。総監部はすでに監視の目を強化するよう手配している」

 

「はいはい。お堅いねえ」

 

 

 

五条は立ち上がり、ポケットに手を入れた。

 

「ま、東京のど真ん中で起きてる異常だ。いずれ、僕らの管轄に転がり込んでくるさ。その『見えないナニか』に会えるのが、ちょっと楽しみになってきたよ」

 

最強の術師の直感は、遠く離れた街で完璧に擬態している少年の存在を、確かに捉え始めていた。

 

 

 

 

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