深淵の凪、水槽の怪物   作:りー037

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第三片:冷雨の境界線と、交差する呪いの軌跡

[2017年 10月24日 16:30 PM / 東京都内・荒川河川敷]

 

十月も後半に差し掛かると、東京の空気は急激にその温度を奪われ、冬の気配を帯び始める。

 

重く垂れ込めた鉛色の空から、細く、冷たい雨が降り続いていた。アスファルトを打ち据える無数の雨粒の音が、世界から他のあらゆる生活音を白く塗り潰していく。濁った川面は無数の波紋を刻み続け、河川敷には人っ子一人いない。

 

冷雨と泥の匂いが立ち込める中、星渕悠希はひとり、水たまりの広がるコンクリートの遊歩道に立っていた。

 

 

傘は持っていない。

 

指定の学生服のまま、ただ両手を力なく下ろし、灰色の空を見上げている。

 

傍目から見れば、失恋したか、あるいは深い絶望を抱えた少年が、雨に打たれて立ち尽くしているように見えるだろう。

 

しかし、その光景を数メートルまで近づいて観察した者がいれば、即座に自らの視覚を疑い、そして名状しがたい恐怖に襲われるはずだ。

 

 

 

悠希の体は、一滴たりとも濡れていなかった。

 

彼の頭上、肩、腕、靴の先に至るまで。無数に降り注ぐ雨粒は、彼の衣服や皮膚に触れるコンマ数ミリ手前で、まるで目に見えない不可視の球体に弾かれるように……いや、違う。『消滅』しているのだ。

 

 

水しぶきすら上がらない。

 

雨粒は、悠希の輪郭をなぞるように存在する「空間の断層」に触れた瞬間、何の物理的抵抗もなく、音もなく、完全に虚無へと呑み込まれていた。

 

 

「……置換の精度は、悪くない」

 

 

悠希の唇が微かに動き、冷たい空気に白い息が溶けていく。

 

彼が行っているのは、呪力による物理的なバリアの展開ではない。彼の一族に代々受け継がれてきた『置換呪法』――その概念が外宇宙の知性体との接触によって変質した、彼自身の術式『外宇宙接触術(アウター・コンタクト)』の極小規模な連続発動。

 

 

 

大いなる界神をこの現実に顕現させる本質は「召喚」ではなく、現実と異界の間の「置換」

 

今、悠希は自身の皮膚の表面を覆うように、現実世界の空間と、深淵の異界の空間を、マイクロメートル単位の薄い層として連続的に入れ替え続けている。彼に向かって落下してくる雨粒は、その極小の『裂け目』に触れた瞬間、深海に沈む古代神殿の世界――■■■■■の絶対的な暗黒と水圧の中へ、空間ごと転送されているのだ。

 

 

(対象の大きさと速度、それを処理するための置換速度の同期。……問題ない。脳への負荷も許容範囲内だ。この程度の微細な操作であれば、日常的な『護身』として常時展開することも可能かもしれない)

 

 

彼の脳内では、まるで高性能なコンピュータのように、雨粒の落下軌道、風速、気温、そしてそれらを処理するための術式のオンオフが、秒間数千回の演算として行われていた。

 

そこに「凄いことができている」という誇りも、「失敗したらどうしよう」という焦りも存在しない。

 

ただ、自らの肉体に備わった機能の限界値を、無機質に測定(テスト)しているだけだ。

 

 

水たまりに足を踏み出す。

 

ちゃぷ、という音は鳴らない。靴底が触れるはずの泥水すらも、彼が歩みを進めるたびに異界へと置換され、彼が通り過ぎた後には完全に乾燥したコンクリートの足跡だけが不自然に残されていく。

 

 

(……一族の者たちが見れば、卒倒するだろうな)

 

 

悠希の虚無の精神の底で、かつての記憶が、インクの染みのように静かに滲んだ。

 

呪術師の家系。中堅どころの堅実な一族。対象と対象を入れ替えるだけの、地味だが実用的な術式。両親は、その術式を色濃く受け継いだ彼に、普通の術師としての将来を期待していた。

 

 

だが、12歳の時、全てが壊れた。

 

いや、彼からすれば「書き換えられた」という表現が正しい。

 

星の外、巨大な知性体との、偶然の精神接触。

 

人間の精神構造が処理できる次元を遥かに超えた情報量と狂気の波動。それに触れた瞬間、両親が愛した「■■悠希」という少年の魂は、事実上死滅した。代わりに残ったのは、狂気を己の力として定着させ、人間から完全に乖離した精神構造を持つ「器」だった。

 

 

 

 

『あなた、この子は……この子はもう、悠希じゃないわ!』

 

 

 

『化け物だ。人の皮を被ったナニカだ。こんなものを、一族に置いておくわけにはいかない……!』

 

 

 

彼を前にして震え上がり、恐怖に顔を引きつらせた両親の姿。一族の長たちが集まり、彼を呪術界から放逐し、歴史から消去することを決定したあの夜の会議。

 

彼らの怯えた瞳、震える声、向けられた明確な嫌悪と拒絶。

 

その全てを思い出しながらも、現在の悠希の心拍数は1ミリたりとも変動しない。

 

 

 

 

悲しくない。寂しくない。怒りも湧かない。

 

 

ただ、「あの時の彼らは、未知の脅威に対して適切な自己防衛反応を行っていた」という、生物学的な法則として事実を処理しているだけだ。彼には同族がいなかった。人間の中にいても異物であり、それは家族であっても例外ではない。

 

 

「……さて。データは十分に取れた。帰ろう」

 

 

悠希は術式の出力をスッと落とした。

 

途端に、冷たい十月の雨が彼の衣服を濡らし始める。肩が重くなり、前髪が額に張り付く。物理的な『不快感』が全身を包むが、それすらも彼にとっては「生存に必要な触覚情報の入力」でしかない。

 

彼は土手で身を翻し、ネオンの光が滲む街の方向へと、正確な歩幅で歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[2017年 10月24日 17:15 PM / 街への帰り道・駅前商店街]

 

雨は少し弱まり、霧雨のように街を白く煙らせていた。

 

駅前のアーケード街に入ると、帰宅を急ぐ人々や、夕食の買い出しに出た人々の熱気が、冷たい空気と混ざり合って独特のむせ返るような匂いを作っていた。

 

悠希は濡れた衣服から滴る水滴を気にすることもなく、人波の端を滑るように歩いていた。周囲の人間は、ずぶ濡れの中学生を見て怪訝な顔をするが、彼の放つ「気配の無さ」に無意識の居心地の悪さを感じ、自然と道を譲っていく。

 

 

 

ふと、悠希の視線が、前方の交差点で信号待ちをしている四人の集団に止まった。

 

その集団は、あまりにも異質だった。

 

道ゆく一般人が二度見、三度見をしていくのも無理はない。何しろ、そのうちの一人は、どう見ても二メートル近い『巨大なパンダ』だったのだから。

 

だが、悠希が彼らに視線を向けた理由は、その外見の奇抜さではない。

 

 

(……高い呪力密度。四人中、三人が術師、あるいはそれに類する存在。一人は呪力を殆ど持たないが、肉体の密度が常軌を逸している)

 

 

彼らは、東京都立呪術高等専門学校の一年生たち——乙骨憂太、禪院真希、狗巻棘、そしてパンダだった。

 

任務の帰りなのだろう。それぞれに微かな疲労の色が見えるが、彼らが放つ『気配』は、悠希が通う中学校の生徒たちとは根本的に次元が違っていた。

 

悠希の目が、彼らを一人ずつ、スキャナーのように冷徹に分析していく。

 

 

 

巨大なパンダ。あれは動物ではない。内側に三つの強大な呪力の核(コア)を宿した、自立型の人工呪物——呪骸だ。

 

 

その隣に立つ、口元を衣服で覆った小柄な少年。彼の喉元から口先にかけて、呪力が異常な密度で圧縮され、渦を巻いている。発する言葉そのものに呪いを乗せる、呪言師の家系だろう。

 

 

薙刀の入った長いケースを背負った、ポニーテールの少女。彼女からは殆ど呪力を感じない。しかし、その肉体は筋肉と骨格の強度が人間という種の限界値を突破している。天与呪縛によるフィジカルギフテッド。

 

 

 

そして。

 

悠希の視線が、最後に、白い制服を着た少年——乙骨憂太に定まった。

 

 

(……ほう)

 

 

悠希の虚無の精神の底で、微かな、本当に微かな興味の針が振れた。

 

乙骨憂太という個体そのものの呪力総量も凄まじい。だが、それ以上に異常なのは、彼の背後に、巨大で、黒く、おぞましい『影』がべったりと張り付いていることだった。

 

 

一般人には決して見えない、特級過呪怨霊・祈本里香。

 

彼女の放つ、底なしの愛と、それゆえの絶対的な拒絶。圧倒的な暴力の気配が、乙骨の周囲の空間を歪ませ、重く澱ませている。すれ違うだけの一般人を、その呪力の重圧だけで圧死させかねないほどの異常な質量。

 

 

 

乙骨が、ふと顔を上げた。

 

呪術師としての研ぎ澄まされた直感が、何者かの視線を感じ取ったのだ。

 

雑踏の中。

 

霧雨が降る交差点で、乙骨憂太の視線と、星渕悠希の視線が、数メートルの距離を隔てて交差した。

 

乙骨の目には、ずぶ濡れで立つ見知らぬ中学生の姿が映った。

 

だが、乙骨は一瞬、息を呑んだ。

 

背後にいる里香が、微かに、本当に微かにだが、威嚇するように喉の奥で『ギ、ヂィッ……』と鳴ったのだ。里香が一般人に対してこんな反応を示すことはあり得ない。乙骨は咄嗟に身を構え、その少年の呪力を探ろうとした。

 

 

しかし、何もなかった。

 

少年の体からは、呪術師特有の呪力の揺らぎも、一般人が無意識に垂れ流す微小な呪力の漏出も、一切感じ取れない。まるでそこに、絵の具で描かれた人間が立っているかのような、完璧な『無』。

 

しかし、その少年の奥底、瞳のずっと奥の暗闇に、乙骨は一瞬だけ……途方もなく巨大な、宇宙の深淵のような暗黒を見せられた気がした。

 

 

視線が交わったのは、時間にしてわずか一秒未満。

 

悠希は、完璧なタイミングで、ごく自然に視線を逸らした。

 

怯えたわけでも、警戒したわけでもない。「一般人が、奇抜な集団を見て一瞥し、興味を失って前を向いた」という動作を、マニュアル通りに出力しただけだ。

 

 

(特級の過呪怨霊。極めて強力な呪力だ。人間の持つ感情の極致とも言える)

 

 

悠希は歩幅を変えることなく、信号が青に変わった横断歩道へと足を踏み出した。乙骨たちの横を、擦れ違うようにして歩いていく。

 

(しかし、所狭し。あくまで『人間』という枠組みの中で発生したバグに過ぎない)

 

 

乙骨を覆う里香の呪いは、確かに凄まじい。

 

だが、悠希の魂の奥底で今も脈動を続けている大いなる界神の存在規模に比べれば、それは「水たまりの中で暴れる凶暴な魚」のようなものだ。

 

■■■■■が一度でも完全顕現すれば、あの特級呪霊の底なしの愛も、呪術師たちの決意も、この星の物理法則も、すべて等しく狂気の波に呑み込まれ、原形を留めることなく崩壊する。スケールが、次元が、根本から異なるのだ。

 

すれ違いざま、乙骨が「あの……」と声をかけようとしたのが分かった。

 

 

だが、悠希は立ち止まらない。

 

合気道の歩法を用いて、人波の中にスッと入り込み、あっという間に彼らの視界から自らの姿を消し去った。

 

 

呪術師。

 

呪いを祓うために己の命を削り、理不尽な死と隣り合わせで生きる者たち。

 

かつての自分も、何かの歯車が違えば、あの輪の中にいて、誰かを守るために傷つき、誰かの死に涙を流していたのだろうか。

 

 

「仲間」という概念。「絆」という非合理な鎖。

 

悠希は、アーケードの出口で振り返ることなく、雨の降る暗い夜道へと歩を進めた。

 

(理解はできる。人間がなぜそう生きるかの論理はわかる。でもそれだけだ。僕には、体温がない。共鳴がない)

 

人間を同じ生き物として認識できない彼にとって、彼らの戦いや生き様は、遠い国で上演されている劇をガラス越しに眺めているようなものだ。

 

 

 

しかし、それでも。

 

 

 

冷たい雨の音の奥で、もうこの世界にはいない彼女の声が、静かにリフレインした。

 

悠希は、ずぶ濡れの顔に、スッと柔らかな笑みを浮かべた。誰も見ていない暗がりの中で、完璧に人間らしい、温かい笑みを。

 

 

「ああ、そうだね。彼女がそう言うなら、そうなのだろう」

 

 

彼はこれからも、呪術師として生きることはないのだろう。

 

人間として生きるために、ただルールに従って「善き行い」を続けるだけだ。この狂気の神を腹に飼い殺したまま、透明な水槽の中で、人間を演じ続ける。

 

世界にたった一人取り残された、虚無の怪物のまま。

 

悠希の足音が、雨音の中に静かに溶けて消えていった。

 

 

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