ブラック企業にすり減らされた社畜が主人公になれるアプリを手にしたらどうなるか→ 作:ぱちぱち
ナーガの調教は順調に進んでいる。馬体重も適正な範囲で推移しているし、ナーガの体調も良好。ケンタッキーダービーに向けた準備は万端と言っても良いが、『まみ』と調教師の表情には楽観は一切ない。
『勝負にはなる。ワンチャンもある。けど、それでも勝てるかは微妙だねぇ』
――他が強いとか?
『それもあるねぇ。間違いなく全米の3歳馬最強決定戦になるから、他の子だってナーガにも負けてない子ばっかりだよぉ。あと距離とコースがね。2000mが初めてってのもあるから今までみたいに最後の直線一気が出来る足が残せるか。残っていたとして前々の好位置で走る強豪に追いつけるか。うん、やっぱり他が強いからワンチャン狙えるくらいとしか言えないわ』
――それでもワンチャンはあるんだ?
『当然。他の子だって強いけど……ナーガだって強いから』
俺の言葉にそう応えて、『まみ』は調教を終えて汗だくのナーガの首を撫でる。強度の高い調教は今日で終わり、明日からはレースに向けての調整を行っていく。やる事は全て終え、後は万全の態勢を維持できるかという勝負になるわけだ。
『まみ』や調教師さんがこれだけ頑張っても、必ず勝てるとは言えない。競馬に絶対はないという言葉があるが、正にその通りなんだろう。勝ってほしい。難しいのは分かっているが、だからこそ心からそう思う。
全米で最も強い3歳馬を決めるレースまで、残り3日。その日、彼らの努力が報われるのか。それとも、敗北の涙を流す事になるかが決まる。
そしてそんな大一番の前日に日本からの団体客が『篠原騎手』の応援と称してやってくるわけだ。
――頼んどいてあれだが、もしかして俺けっこうな常識外れの頼みした?
『いやー、当日レース前とかじゃなきゃいいんじゃないかな。トーキチローで三冠取った時の取材の連中は馬房に突っ込んできたしアイツらに比べりゃよゆーよゆー』
――そいつらは処すべきじゃないか?
『処したに決まってんじゃん。馬の近くでフラッシュ焚くとかシャレにならないから損害賠償も請求したよぉ』
頭の中でそんな会話を交わしながら、俺と『まみ』はホテルのロビーでガチガチのガチに固まったアキコさん他競馬好きVタレからの訪問を受けた。先導してきた『セシル』が扮する山里一也に『よ』と片手を上げて座っていたソファから立ち上がると、『山里一也』の隣に立つアキコさんに歩み寄り、右手を差し出して声をかける。
『篠原まみです。スポンサーさんに挨拶が遅れて申し訳ない。日米での活動の為忙しくて』
「あ、い、いえ! 大石明子です! ニュースで見て、篠原騎手の事知って、その! 応援してます! 一也くん! スポンサーってなに!?」
『篠原騎手の米国での活動は耶馬千葉牧場経由でVVVが支援してます。篠原騎手には将来的にピンクスカート号の子供の騎手を任せたいと考えてまして、そのための初期投資として一度アキコさんにご相談した件ですね』
「あれ今年の一月じゃなかった!!?」
『たまたまナーガと私の相性が良かったんでぇ。まさかライセンス取って3か月でG1取る事になるたぁお釈迦様もわかんねぇでしょうねぇ』
そう言ってけらけらと笑う『まみ』に、後ろで話を聞いていたVタレ達が絶句したり「すげぇ」を連呼するBOTになったりしている。内情を知ってる俺達からすると運があればイケる実力を『まみ』が持っていると知っていたが、傍から聞いた人はデビュー3か月でいきなりトップジョッキーになった野生の天才としか思わないだろう。
そこ。こそこそと「やっぱり豪運」「やることなす事大成功するしか出来ない女」とか言ってアキコさんをディスらない。それだとアキコさんが運だけで活動してることになってしまうだろうが。『さやか』やひなちゃん、VVVガールズバンドが人気を出してる中でもオーイシアキコチャンネルWithあきらが事務所トップのファン数を維持どころか増やしてるのはアキコさんの魅力なんだからな? 『あきら』? あいつはロボット開発が始まってから一回も配信してないから……
まぁそんな今の場とは関係ないことは置いておくとして、いつまでもこの場で屯するのは他のお客さんにも迷惑だからちゃっちゃとファンサは済ませてしまおう。ホテルに頼んで用意して貰った小部屋に行き、立体投射機でVタレ達を3Dモデルの姿にした後、動画を撮りながら簡単な握手とそれぞれのVタレさんに声をかけて最後に集合写真。明日は楽しんでいってね! と声掛けをして『篠原まみ』の握手会は終了だ。
これらの動画は編集した後にVVV公式チャンネルで配信されるが、それぞれのVタレさんが握手を交わしているシーンは小分けしてそれぞれにデータとしてお渡しする。全体図はこっちで貰ったが細かい部分は自由に使ってくれと言ったら、記念にする! だとかSNSにあげないと! と喜ぶ声が多い。まぁ場のセッティングを行ったんだから実利はこっちでもらうけど、思い出とかそういうのは持って帰ってほしいからね。
そんなこんなでレース前の夜が明け、本番当日。ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場は、まだレース開催前だというのにある種の熱気のようなものが漂っていた。今日の『まみ』の騎乗は3回。依頼自体はかなり多かったのだが、本番を考えて余力を残した騎乗回数にしてある。
『体力を考えて絞ってたけど、もう1レース乗っときゃ良かったかなぁ』
――本番前に余力を残せたと考えよう
ただ、思った以上に本番前に体力を残せたため、『まみ』としては若干心残りが残ってしまったようだ。前のレースで乗った2頭の癖馬は1着1回に3着1回と調子よく乗れたのだが、『まみ』としてはもう1回くらい騎乗してコースの把握に努めたかったらしい。
まぁ、それはもう言っても詮無いことである。流石に本番直前に騎手を変えるなんて事は騎手が前のレースで怪我をするとかでなければまず起きないからだ。この残った体力は本番に注ぎ込むしかないだろう。
本番が刻一刻と迫ってくる。会場の人数もどんどん増えていき、普段は空きが目立つ米国のレース場では見た事が無いほどの観客が競馬場にやってくる。これから祭りが始まる。そんな空気と人の熱気に、自然とジョッキールームの中の空気も張り詰めていく。
やがて、刻限がやってくる。競馬場のスタッフがガチャリとドアを開ける音と共に、本番を迎えた騎手たちが椅子から立ち上がった。
スポーツで最も偉大な2分間と呼ばれる時間が、始まる。
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