ブラック企業にすり減らされた社畜が主人公になれるアプリを手にしたらどうなるか→ 作:ぱちぱち
篠原まみにとってこの夢か現か分からないもう一つの日常は、まぁ中々に楽しめるものだった。実家の牧場で生産した馬トーキチローが三冠を達成し、随分と周囲が煩くなってしまった現実世界はまみにとって随分と面倒なものになってしまい、気楽にただの騎手として馬と接する事が出来るこっちの世界は楽だと感じられたからだ。
まぁまさか三十路にもなって年下の男の身体に間借りするなんて不思議体験を経験する事になるとは思わなかったため、最初は少し混乱していて日米を往復して厩務員と騎手をするなんてとんでもない労働環境を約束させられたのは痛恨の極みだったが。正気に返った時にこいつぶっ殺してやると思っていたんだが、実際にやってみるとテレポートとかいう本物の超能力のお陰で存外時間も出来たし、ピンクスカート号は実家で世話していたとんでも達と違って凄く良い子だから癒しになるしで今ではこの生活も気にならなくなっている。
いや、はっきり言おうか。気に入っている。しがらみもなにもなく、騎手として馬産家として馬と接する事が出来る現状を、まみは気に入っているのだ。間借りしている体の持ち主である一也も何故か好みのタイプなのに異性としては一ミリも意識できない所以外は(ここ重要)弟が居たらこういうかんじだろうなーと感じる程度には親近感を持っているし、同じく彼の身体に間借りしている連中もどことなく他人の気がしない程度には気に入っている。
それを自覚した時にまみの中で一段。一也との距離が縮まった気がする。彼の身体を間借りしている時は普段以上の力を発揮できるし、彼が心の中で応援してくれる時には普段よりも頑張れるという自覚がある。恋とかではないだろう。この感情を言葉にするならそれは親愛。家族に向けた愛情を、確かにまみは彼と彼らに持っているのだ。
そんな彼が心の中で応援してくれている。勝ってくれと、ナーガと共に米国の頂点に立つことを願ってくれている。
それなら。
「お姉さんとして応えてあげないとねぇ」
にんまりと顔に笑顔を浮かべる。緊張するとき、勝負のとき、まみは自然と笑ってしまう。笑う門には福来る、とかいうし直す気もない。フクちゃんかぁ。私もあの子に乗りたかったなぁ。うちの連中に比べたら随分と乗り易そうだったしなんて思いながら扉を開けると、まみの隣で座っていた若い騎手に声をかけてきた。
『マミ、随分と楽しそうだね? これが終わったらデートに行かないか?』
『そりゃあこんなお祭りだよ? 楽しまないと損でしょ損。あ、私とナーガの勝利を祝うパーティーならご招待しても良いけど』
『HAHAHA! それは残念。この後は俺とビルギットの祝勝会になるからね』
隣り合う騎手と軽口を交わして、でも互いに目は笑っていないまま馬房へと向かう。調教師のスー先生は『オーマイゴッド』と連呼しながらナーガの身体の調子を確かめ、ウザそうにそれを受けているナーガがむしゃむしゃとスー先生のカツラを食べている。あ、吐き出した。ちょっと笑ってしまったけどこれは笑わなきゃ駄目でしょ。
【マミ! マミ! じいさんの髪不味い!】
『そうだねぇ。髪は食べる物じゃないからねぇ』
ナーガは少し赤茶けた大きめの馬体を揺らしながらそう話しかけてくる。一也には殺意の具現化だとか失礼な事を言われている子だが、この子はむしろ賢くて臆病な性質の馬だ。過剰なまでの攻撃性はむしろその臆病さから来る防衛本能なんだろう。それと、人への恐怖。自分の運命を人が握っているという事をこの子は漠然と認識している。だから、怖がっている。
馬群の一番最後方からの追い込みで勝負をしているのもそれが理由だ。この子は他馬とぶつかり合ってのポジション争いが出来ない。出来ても過剰に反応して体力を失ってしまう。そして先頭で走るには周りを気にしすぎる性質だから、これまでまみは最後方から一気に勝負をかけ続けた。だが、それで勝てるポテンシャルがナーガにはあった。一気に急加速して最高速にまで到達するパワーと瞬発力は間違いなく世代でも有数のモノだからだ。
パドックをゆっくり歩かせると大歓声が耳を打つ。ナーガは今年のデビューから4連勝でここまでたどり着いた有力馬であり、そのナーガに騎乗するまみは女性初のケンタッキーダービー制覇という夢を背負って走る事になる。ずしりと伸し掛かってくる歓声という期待の重み。現実でもよく背負わされている重み。嫌いではない重みだ。
【マミ! こいつら煩い! 殺していい?】
『この人たちはナーガが強いのを見に来てるんだよぉ。殺したら見れないでしょ?』
【そっか! 俺強いから見せる!】
ゆっくりとナーガを歩かせながらゲートへの誘導を待つ。枠順は13。ケンタッキーダービーで人気の枠順は内側だから本来なら外れだが、最後方一気しかないナーガの場合はむしろ他馬と押し合う必要がない外側の方が楽だ。前を歩く馬たちがどんどんゲートへ納まる中、まみとナーガもゲートの中へといざなわれる。中に入り、ガシャンと後ろのドアが閉まる。さあ、後はタイミングを待つだけ。
ガシャン、ガシャンとゲートが閉められていく音がする。一つ一つ、確実にスタートが近づいていく音。この瞬間がまみは好きだ。他の事を考えず、ただただレースに集中できる時間。
そしてまみの感覚が全てのゲートが閉まったと教えてくれた時、自然とまみの身体は動き出した。まみの動きに応えたナーガは持ち前の瞬発力でもってそれに答え、ゲートが開いた瞬間、他の馬たちが正にスタートしようとした瞬間にはポーンと前に飛び出し、瞬く間に先頭を取って最初のカーブに突入する。
『あ、やべ』
まみが思わずそう口にする。スタートが良すぎたのだ。先頭を取りに行くと思われた内枠の逃げ馬たちがけん制し合っていたため、スタートが良かったナーガがそのままハナを取ってしまった。いくらなんでもここから最後尾までずるずる戻るのは自分から敗北に向かって突き進むのと同じだ。馬群に飲まれた瞬間にナーガは持ち前の攻撃性を発揮して周囲に当たり散らすに決まっている。
ここまで来たらやるしかない。
最初のカーブを抜け直線。軽く背後を確認すると先頭に立ったナーガに虚を突かれたのか、逃げると思われていた有力馬たちが戸惑い気味にこちらの背後へと追随してくる。2馬身ほど後ろに2枠のラキラキスターとその背後から5枠のジョンブルジョンブル。更にそこから2馬身から3馬身離れて先頭集団と呼ぶべき馬群に、軽口を叩いた騎手のビルギットの姿を見つけてにぃっとほくそ笑む。あいつ逃げ馬なのに馬群に居るじゃん。こっちの初動でペースが握れなかったか?
さてこうなってくると大分話が変わるな。逃げる三頭を追う形のこの場面、最も恐れるべきは飛ばし過ぎて最後の足を残せない事だ。ケンタッキーダービーの最後の直線は400m近い長さで全体の5分の1となる。ここでのスパートの足を残せなければむざむざ後方の集団に簡単に食い散らかされてしまうだろう。かといってこのままのペースを維持しても逃げ慣れてないナーガが後方の2頭に競り勝てるかという話になる。
じゃあ、やる事は一つだね。
そう口の中で呟いて、ナーガにぼそぼそと指示を出す。馬と喋れるという能力は実は意外と不便なところもあるが、こういう風に大きな動作もなく指示を出せる点はありがたい。徐々に速度を増していくナーガと後方の2頭の距離が離れていく。急に速度を上げたナーガに他の逃げ馬が付いてこなかったためだ。客席の方から大きくどよめきが聞こえる。良いぞもっと騒げ。
ある程度距離を稼いだ辺りで少し速度を落として位置関係を維持。ナーガの様子と流れる汗を見るにまだ限界ではない。ここらがベターだろうと判断して大体10秒ほど今の速度を維持し、コーナーから出たあたりで少しずつ速度を落として楽に走れる速度へと切り替える。後ろからはナーガを御しきれずに飛ばしている風に見えている筈だ。そうであってくれ。
誤認してくれねぇと負けるってと口の中でぶつぶつ呟きながら背後を自分の股の間から覗き見ると、他の馬が距離を詰めに来る様子は見られない。まだレースも中盤、ようやく1000mを越えた所で先頭を取りに来ようという馬は居なかったらしい。デカい賭けに勝った。これで勝率は恐らく五分五分になった。後は序盤のロスをどれだけ誤魔化せるか。
客席の前を通過するときの怒号のような声。これを背後で聞いている騎手たちは勘違いを深めているだろう。先頭は自滅。小娘が操縦を誤った。そういう考えが、経験と自負と女に負けるかというちっぽけなプライドが判断を誤らせる。歴戦の直感を鈍らせる。まみが現実で戦っていた男たちも最初はそうだった。二度目は本気で潰しに来たが。
一発勝負の厳しい世界。使えるものは何でも使って、それで勝った奴が偉いんだ。文句なんて言わせない。
『勝つぞ、ナーガ!』
【一番! 殺す! 俺が一番!!!】
今日、初めて明確に勝利を意識して声を出し、それに応えてナーガが加速する。最終コーナーを回って大きく外に膨らみながらも速度を上げてナーガが一気に最高速へと突入する。鞭なんかいらない。完全に意思疎通が取れたまみとナーガの身体はシンクロして、ただただゴールめがけて疾走する。恐らくこの段階で他の陣営は騙されたと気付いたんだろう。カーブを抜ける際に少し早めにスパートをかけて追いすがる姿がちらほらと横目に見えた。
でも、その位置から届くかな? 届いたらビッグレッドもビックリの世紀の名馬だねぇ!
口角を上げながら呼吸をする。吐く。土の匂いがする米国ダートの風の匂いが、まみとナーガの身体を撫ぜ回す。少しずつ背後の蹄の音が大きくなる。流石は世代の代表たち。この状況で追いすがってくるか。強いねぇ、怖いねぇ。
――でも、勝つのは私達だねぇ!
最後の直線残り100m。勝ちを確信して、けれども最後の最後まで緩めない。緩めればその瞬間勝利の女神は去っていく。それが競馬のG1というものだ。ましてやこれは全米最強の駿馬を決めるケンタッキーダービー。油断は即命取りになる。
内側から横目に近づいてくる影と影。とんでもない末脚だ。仮に万全の態勢のナーガが最終直線勝負を挑んでいたら勝てたか分からなかった、そんな速さの馬が2頭もいる。これがケンタッキーダービー、これが全米。自分が過去に乗った最強の問題馬、トーキチローでも彼らに真っ向からやって勝てたか分からないやつらに、それでも。
それでもこの日、その2頭に頭一つ先にゴールをしたのは。
スポーツで最も偉大な2分間を制したのは、ナーガと篠原まみだった。
更新の励みになるのでお気に入り・評価よろしくお願いします!