ブラック企業にすり減らされた社畜が主人公になれるアプリを手にしたらどうなるか→ 作:ぱちぱち
割れんばかりの大歓声に包まれながら、『まみ』が右手を天に向かって突き上げる。
その瞬間を。このレースを『まみ』の視点で体験した俺は、声を上げる事すら出来ない感動を覚えていた。最高だった。辛うじて思考できたのはその一言だけだ。
勝者にだけ許されたウイニングランを行い、再び大歓声を浴びながら『まみ』とナーガはゆっくりとした足取りで息を整え、厩務員の元へと向かう。レース後の体調チェックを受けた後にウイナーズサークルへ向かうと、そこにはすでに大量の涙とかいろんな汁を顔中から出しているプレリーさんとぐちゃぐちゃになったカツラを被ったスー先生の姿がある。どっちも別の意味でぐちゃぐちゃだ。
――すっげぇ顔だ、二人とも
『ダービーに勝つってのは全馬主の夢。調教師や馬産家にとっちゃ人生の目標だからね。スザンヌで勝った時もトーキチローで勝った時も父ちゃんああだったなぁ』
ようやく思考出来るようになった俺の言葉に『まみ』がそう返答する。という事はピンクスカート号の子供がもしダービーに勝った時はアキコさんも耶馬さんもこんな風になるという事か。それは、かなり、見てみたい光景だ。
いや、見てみたいじゃない。もちろん確実とは言えないが、『まみ』が背中に乗るんだからその可能性は十分以上にあるはずだ。もちろん競馬は馬が主体のスポーツで騎手はあくまでも助力しかできない。だが、その助力の部分で最上のモノを用意できるなら大分違ってくる。
おそらくこの会場のどこかで、きっと喜んでくれているアキコさんをもっと喜ばせる事が出来る。今、目の前で変な汁を大量に流しながら『まみ』に抱き着こうとしてナーガにインターセプトされているプレリーさんのように。
『まぁ、その前に今はやる事やんねーとな。未来の事を今語っても皮算用にしかなんないし』
――そうだな。ナーガ、意外とオーナーさん好きくない?
『重賞買ってからは毎回メロン差し入れてくれてっからねぇ。メロン提供係だと思われてる可能性も……?』
べろんべろんと顔中の変な汁を舐められて代わりによだれを付けられているオーナーさんとそれを必死に止めようとするスー先生のやり取りに、思わずけらけらと笑いながら『まみ』がナーガの手綱を引く。
この時に取られた口取り式の写真は、プレリーさんにとって生涯の宝物になったらしい。
そして流れるように記者会見だとかが組まれていき、プレリーさんやスー先生と共に記者に囲まれてインタビューを受けるのだが、これが大変だった。
『史上初の女性騎手によるケンタッキーダービー制覇おめでとうございますナーガはこのまま三冠路線でいくんでしょうかコメントお願いします!』
『わはは。そーいうんはオーナーさんのぉ意向次第ですんでぇ』
同じような質問を20回くらい繰り返し、また同じような言葉を20回くらい返答する。ダービーって勝つとめっちゃめんどくさいんだな。人を変えて同じやり取りを繰り返す不毛な時間が1時間ほど続き、インタビューが終わった後は近くのホテルで祝勝会が行われる。ケンタッキーダービーに出るからと一族の人で応援に来ていたらしく、ほとんど全員がプレリーさんという名前で誰が誰か分からない会場で更に3時間。主催のプレリーさん(馬主)が飲みすぎてダウンするまで宴は続けられ、そこをお暇してから宿泊しているホテルに戻り、そこで固定用の箱に入れていた魂羽織に『まみ』の意識を移しかえる。
ぱちりと魂羽織の瞼が開いた瞬間、俺と『まみ』の視線が混ざり合い――俺は主導権を取り戻した体を駆け巡る感情に合わせて、その場でバク宙を始めた。
『お、おお? どしたん急に。話聞こか?』
「すまん! 感動しすぎ! て落ち着! かん! ちょっと体! 動かさないと!」
『ほへー、ガキかよ。怪我しちゃだめよ?』
バク宙しながら答える俺に『まみ』が呆れたような表情でそう言って、部屋に備え付けられた冷蔵庫からビールを取り出す。カシュッと良い音を立てたビール缶に口をつけて、ぐいっとそれを呷り『プハーッ!』と大きく息を吐き、『まみ』は叫んだ。
『っしゃおらぁ! 途中ミスったけど勝ったぞちくしょうめぇ!』
「すまし! 顔してた! のにめ! っちゃ喜んで! んじゃん!」
『当たり前だろぉ。ケンタッキーダービーだぞ? 現実でもまだ取ってないのにこっちで先に取っちゃうとはなぁ。お釈迦様でもわかんねって』
けらけら笑いながらそう言ってもう一口ビールを呷り、ぷはーっと大きく息を吐く。あんまりにも雑に飲むからそのたわわな胸部にビールがだらだらこぼれているがそんな事は気にもしていない。すげ、谷間にビール溜まってる。そんなある種視覚のサービスを行いながら『まみ』はビールを飲み干し、そして天井を見上げながら『あー』と言葉を吐いた後、悲しそうな表情で俺を見た。
『こんな記念すべき夜なのに、私の部屋には抱きしめて讃えてくれる愛しい人はおらず。なぜか室内でひたすらバク宙する弟分だけが祝ってくれるなんて間違ってる。世の中間違ってんよぉ! ギブミー恋人!』
「はっ倒すぞ。まぁ、その、なんだ。すっげーカッコよかった。おめでとう、『まみ』」
煽られたお陰でちょっと落ち着いたため、バク宙を止めてそう口にする。正直、めちゃめちゃ感動したし今も感動してるんだが、それはそれとして煽られたら中指を立てるのが山里流だからね。まぁ煽った代金として冷蔵庫の中のビールは一本貰って乾杯しとこうか。乾杯の理由はまぁ、無事に走って勝ててラッキーでいいかな。お疲れさん。
レースの翌日。『セシル』と交代して山里一也に戻り、さて日本に帰るかぁと集合場所のロビーに向かうと、そこには昨日の興奮が未だに冷めやらぬ様子のVタレたちが目の下にクマを作ってわいわいがやがやと騒いでいた。
「さいこうだった……かずやくん、つれてきてくれてありがと……」
「アキコさん……昨日寝ました……?」
「むりぃ……あんなのみてねれないぃ」
「まぁ……そっすね……」
今回のケンタッキーダービーは色々と記録づくめのレースだったらしく、少しでも競馬に詳しい人にとってはこのレースを生で見た、というのは一生語り継げるくらいのものだったらしい。ここまで追い込みで勝ってきたナーガが奇襲的に逃げた所から始まり、そのまま逃げ切ったというのも語られる要素だがそのタイムもまた面白いのだとか。
「今年のケンタッキーダービーの決着タイムは2:03! 全く例年通りってタイムだけどナーガの大逃げが決まってこのタイムって事はつまりナーガは全然飛ばしてなかったって事! 初めて逃げた馬の幻惑逃げに後続の馬はみぃんな騙された! そしてそれを成し遂げたのが史上初の女性騎手によるケンタッキーダービー制覇! しかもそれは日本人騎手の篠原まみ! しかもしかも篠原騎手は今年の2月にライセンスを取得したばかりの超が付く新人騎手! これで話題にならない方がおかしいっしょ!」
「あ、うん。群青さん詳しく教えてくれてありがとう」
「まだ語って良いです?」
「いや、結構です」
「分かりました語りますね!」
俺の返答を聞かずに群青さんはこれまでの日本人によるケンタッキーダービーへの挑戦、そして挫折の歴史までを語り始めそれを耳にした競馬好きのVタレたちが補足するように雑学を語り始め、集合場所のロビーは俺が来る前よりも酷い騒めきに包まれる事になる。こ、これだからオタクって人種は……面白いけどホテルの人が大分迷惑そうだからそろそろ静かに、静かにだね。移動時間もあるからさ?
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