ブラック企業にすり減らされた社畜が主人公になれるアプリを手にしたらどうなるか→ 作:ぱちぱち
歌を歌う。
人にとって恐らく、最も原始的な楽器は声だっただろう。高い声、低い声。それこそ千差万別で、人によって声の種類や聞こえ方は違ってくる。その声を使って、音を奏でるのが歌うという事。
もっとも原始的で、もっとも単純で、たった一人でできてしまう。
そして、恐らく人類を最も感動させた音楽は、きっと歌なのだろう。
「…………すごっ」
その呟きを誰がしたのか、分からない。だが、それに共感するように3期生の誰かが首を縦に振ったのが分かる。全くの同感だ。
彼女の歌は、素晴らしかった。
アカペラで少し古いポップスを歌い始めた彼女は、最初はおどおどと、しかし次第に声も滑らかになっていき、最初のサビ部分に来た時、一気にハジけた。素人が良く陥る、サビだけやたらと声が張り上がるアレだ。
だが、彼女の歌は素晴らしかった。
ただただ才能。それを感じさせる、どこまでも突き抜けるような高音。それを維持する極めて優れた心肺能力。そして、何よりも一度聴いたら忘れられない、声質。それらによって彼女の歌は、一瞬で周囲の人間の意識を奪い去っていった。
ただ歩いているだけだった中年の男性が。耳にイヤホンをつけてスマホを眺めていた青年が。ギターケースを背負ってシックスストリートへ行こうとしていたミュージシャンまでもが、明らかに素人丸出しの彼女の声に吸い寄せられていく。
『研磨されずとも、光り輝くダイヤモンドはある』
「師匠」
『アレがそうだ。ろっこ、良く見なさい。お前は、あそこへ至れるし、アレ以上にだってなれる。だが、今はまだそうじゃない。だから、これから起こる事をよく見て、学ぶんだ』
マネージャーはそう口にして、百山さんが背負うギグバッグから彼女のアコースティックギターを取り出した。彼女が父親から受け継いだYAMADA製のアコギは素直な音色が出る良いギターだ。状態は良好。百山さんが大事に扱っているのが良く分かる。
1番を歌い終えた少女は周囲の観衆に気付いたのだろう、少し視線を迷わせ、困惑しているように見える。周囲の視線に今気づいたのだろう。才能と経験が明らかに伴っていない。それが面白くて、マネージャーは口元を歪めた。
ギターにピックを合わせ、導く様に音を出す。少女の視線がこちらに向いたので小さく頷いてピックを走らせる。主張しすぎてはいけない。この素人然とした少女が歌いやすいように合わせる。
こちらの意図を理解したのか、少女が笑顔を浮かべて声を張り上げる。ギターに負けじと、張り合ってくる。そう言う意図じゃなかったんだが。苦笑しながら少女のやりたいようにギターを合わせると、周囲のギャラリーもざわざわ騒めきながら、肩を揺らし始めた。気持ちはわかるぞ、この子楽しそうに歌うもんな。
どんどんとギャラリーが増えていく中、彼女は額に汗を浮かべながら歌を歌う。技術は拙く、マイクもないし、伴奏はギターだけという寂しい楽団だ。だが、たったそれだけでも彼女は光り輝いた。恐らく、このシックスストリート全体のどんなミュージシャンよりも。
そして演奏が終わる。歌いきった彼女は、大きく息を吐きだし、そしてぺこりと頭を下げる。ワァっとその姿に周囲が拍手を送り、そして彼女の前に置かれている空き缶にチップがどんどんと投げ込まれていく。良いものを聞いた。その思いが、この場に居る者達の財布のひもを緩めた。
良いものを見た。これが東京だったらスカウトしたいほどに、掛け値なしの才能を見る事が出来た。見せる事が出来た。今回の研修旅行はこれだけで十分すぎるほどの成果だったな。
「ありがとう、百山さん」
「あ、……はい。お疲れさまでした、師匠」
ギターを百山さんに返しながら、ふぅっとため息を吐く。マネージャーの演奏に付き合うのは、結構疲れるのだ。『日華』との鍛錬くらいには体力が消耗されてしまう。
『ね、ねぇ貴方! そこのギターの貴方!』
「ん?」
声をかけられたので振り返ると、先ほどの少女がコインで満たされた空き缶を手にこちらに向かってダッシュしているのが目に入る。驚く前に危ない、と思った瞬間、何かに足を取られた彼女が盛大にずっこけ、手に持っていたコイン満載の空き缶がこっちに向かって中身をまき散らしながら飛んでくる。俺は兎も角3期生に当たったら怪我をするかもしれない。咄嗟にそう判断し、飛んできたコインを回し受けで受け止め、ずっこけた彼女が地面にぶつかる直前服を掴んで勢いを殺す。
曲芸みたいな動きをしてしまったが、なんとか誰も傷つかずにすんだ。そうほっと胸を撫でおろした時、周りから先ほどの演奏時のように大きな拍手が鳴り響いた。
『え、何今のパフォーマンス!?』
『手が一杯見えたぞ! 本当だ!』
『
『あのアジア人は誰? ジャクキー?』
『ああ、似てるかもしれない』
『違うわよ。ジェント・リーだわ』
『
観衆たちの反応を見るに見世物にされているらしい。どうやらライブパフォーマンスだと勘違いされているみたいだな。グイっと服を引っ張って転びかけた少女を起き上がらせると、少女はきょとんとした表情で周囲を見回している。まぁ、すっ転びかけたと思ったら拍手喝采だからな。何が起きたのか分からなかっただろう。さて、ケガもなさそうだし騒ぎになりそうだしとっとと帰ろうか。
『あ、ねぇそこの! ギターの貴方よ。あれ、ギターの貴方が女の子になってるわ?』
「その子のギターだから返したんだよ」
『あらそう、まぁいいの。持ち主が違ってもギターの貴方は貴方よ。ね、ね? とってもすごい演奏だったわ。私おばあちゃんのピアノ以外で初めて歌ったけどとっても楽しかった。こんなに歌いやすいのは初めてよ! ね、すごかったわ!』
と思ったのだが、我に返った少女に話しかけられ、ぎゅっと手を握られる。柔らかい。それにアメリカ人らしく見た目の年齢の割に中々……っといかんいかん。視線が胸部に向かいそうになるのを必死になって抵抗していると少女は少しずつ少しずつ俺との距離を近づけていく。
ああ、いけません! お嬢さんそれ以上はいけません! ああ、離れてください! 男の必死の抵抗を踏みにじるかのように無防備に近づいてくる青い果実。駄目だ、このままでは3期生たちの頼れる先輩像が壊されてしまう! いや、しかし! 助けてくれ、マネージャー!
なんて頭の中で小芝居を打って平静さを保とうとしていると、俺と少女との間にすっと百山さんが割り込んできた。ありがたい、けどちょっと残念でもある。あと、割り込んできたときにギグバッグで軽く頬をはたかれた。でも少し冷静に慣れた気がする。
「あ、あ、あ、あ、あんだ! 師匠に何してらんだすか! 師匠は私達のだ!」
「いえ、違いますが」
『何? あなた誰よ。邪魔しないで!』
割り込んできた百山さんの言葉にそう応えるも、百山さんも少女も俺の言葉なんて意に介さずに睨み合っている。近くでその様子を眺めていた黒人の兄ちゃんが『
……違うよね?
山里一也(男)26歳
視聴履歴
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