多重世界の特命係   作:ミッツ

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歌姫の守り人 6

 警視庁の鑑識室、そこで伊丹と芹沢の二人は手ぐすねを引いて如月優介と現場に残されていた遺留品の照合結果を待っていた。ほどなく、鑑定書と思われる書類を持った米沢が現れる。

 

「結果が出ました。」

 

「おう、それでどうだった?」

 

「現場に残されていた遺留品、および被害者の衣服に付着していた指紋とDNAを照合してみましたが、伊丹刑事が持ってきたものと合致するものはありませんでした。」

 

「なんだと?つまり、如月優介は犯人じゃないってわけか?」

 

「その可能性が高いかと思われます。」

 

「くそっ、はずれだったかあ…」

 

 伊丹は額に手をやり天井を仰ぐ。ここまで有力な容疑者とみた二人の人物がいずれも事件と関係ない可能性が指摘され、伊丹としても頭を抱えざるを得ない状況へとなっている。これはいよいよ特命係の力を無ければ利用しなければならないかもしれない。そんな考えが伊丹の脳裏をよぎる。

 すると不意に芹沢の携帯に着信を知らせる音楽が流れ始めた。芹沢は伊丹に断りを入れ電話に出る。

 

「はい、こちら芹沢。ああ、なんだカイトか。いったいどうしたんだよ……え?765プロの定例ライブをやってる会場に来てくれ?なんで?……はあっ!?そこに犯人がいるだって!?」

 

 思わず叫んでしまった芹沢の声を聞きつけ、伊丹は芹沢の手から携帯を奪い取る。

 

「おいカイト、そりゃあいったいどういう事だ?」

 

 不機嫌そうな声で電話口に話しかける伊丹。その表情はカイトからの返答を聞くうちにますます不機嫌さの色を濃くしていく。それを見た米沢はとばっちりを受けないうちにすごすごとその場を後にする。とりあえず今は萩原雪歩の動画でも見て、心穏やかな時を過ごそうと思う米沢なのだった。

 

 

 

 

 ステージの袖からステージ上のアイドルを見つめるプロデューサーの面持は普段以上に真剣なものである。

 ライブの前はいつも緊張する。アイドル達の体調は大丈夫だろうか?お客さんの入りは?機械にトラブルはないだろうか?初めてのライブの時から今日までの間、彼はライブのたびにそう言った不安に駆られる。

 それでも、今日ほど独特の緊張感に包まれたライブは記憶にない。おそらく今日のライブは生涯忘れられないものになるだろう、という予感がしていた。

 するとそんな彼の肩をたたく者がいた。

 

「よっ!どうしたんだいプロデューサー君。そんな顔してるとアイドルの子たちが怖がっちゃうよ。」

 

「大木さん…」

 

 プロデューサーに声をかけたのは会場の設営スタッフである大木だ。彼とは初めてライブを行った時に知り合った仲であり、定例ライブのたびに顔を合わせる馴染めでもある。

 

「君が緊張するのも分からないでもないさ。でも、こういった時こそ君がどっしり構えて彼女たちを安心させるべきだよ。」

 

 そう言って大木は指で後ろを示す。それに釣られ、プロデューサーはステージから目を離し後ろを振り向くと、そこには階段に腰を下ろし何やら話し合っている二人の少女の姿があった。頭にリボンを付けている少女が765プロの所属アイドルである天海春香。もう一人はここ最近渦中の人物となっている如月千早だ。彼女は今日、アイドル活動を再開させる。ここに至るまでにどれ程の葛藤があったのだろうか?とても想像できたものではないが、それでも千早は会場に来てくれた。

 絶対にこのライブは成功させなければならない。そんな思いがプロデューサーの顔を自然と強張らせていたのだろう。

 プロデューサーは自分の頬をパチンッと叩くと大木に向かって笑ってみせる。

 

「大木さん、これで大丈夫ですか?」

 

「おう。そっちの方が君らしいよ、プロデューサー君。」

 

大木はそう言って笑みを返した。そうだ、今ここで彼女たちの事を気にもんでも仕方がない。今自分がやるべきことはいい状態で彼女たちをライブに送り出してやること。そして帰ってきた彼女たちを思いっきり誉めてやることだ。

 

「お忙しいところ失礼します。」

 

 唐突に聞こえてきた声がプロデューサーの思考を遮った。声のした方に首を向けると、ここ数日ですっかり見慣れてしまった二人組がいる。

 

「どうもこんにちわ。事件の真相が分かったのでご報告に来ました。」

 

 穏やかな口調で二人組の片割れである初老の紳士が言う。だが、その物腰と相反するが如く、プロデューサーたちを見る目は獲物をしとめにかかる猟犬の鋭さを帯びていた。

 

 

 

 

 

「すべての始まりは7年前の交通事故でした。この事故の被害者は当時5歳であった如月優君。事故直後、優君にはまだ僅かに息があったそうですが病院に運ばれて約一時間後に死亡。実際のところ、手の施しようがなかったそうです。この事故をきっかけに如月さんの家庭内に不和が生じ、結果的に家族が離散することになりました。

 しかし、これは事故の一側面でしかありません。今回の事件の発端にはもう一つの事実が大きく関わっています。

 事故の原因は優君が突然車道に飛び出してしまったことでした。これは複数の目撃証言や現場のブレーキ痕の状況から裁判所が判断したものです。人身事故で人を死なせてしまった以上お咎めなしというわけにはいきませんが、事故の直接の原因、運転手の前科、そして事故後の反省した態度を総合的に判断し裁判所は執行猶予を付けた判決を加害者に言い渡しています。

 そうですね!大木 大二郎さん!」

 

 杉下が張りのある声を投げかけた先には反論するどころか、何一つ物言わぬまま虚空を見つめる大木がいた。彼の視線の先にあるのは、休憩時間になり誰もいなくなった舞台だけである。

 

「少々あなたについて調べさせていただきました。事故後あなたは人を轢き殺してしまったにも拘らず、このような軽い判決を受けてしまい遺族の方に申し訳ないといったことを漏らしています。事実あなたは、損害賠償とは別に毎月3万円を謝罪の手紙と共に如月さんに送っていたそうですね。この事から推察するに、あなたの中では今でもあの事故の事が尾を引いているのでわないでしょう。そんな時に事故の事を掘り起こす記事を書かれ、心中穏やかにはいられなかったのではないでしょうか?」尾を引いているのでわ→尾を引いているのでは

 

「刑事さんちょっと待ってください。それだけで大木さんを疑うのはあまりにも横暴です。第一、大木さんが犯人だっていう証拠は…」

 

 大木を擁護する発言をするのはプロデューサーだ。刑事から示された衝撃の事実によって彼は非常に混乱していたが杉下の推理を必死に否定しようとした。大木が殺人を犯したとはとても信じられない、いや、信じたくなかった。

 プロデューサーと会場スタッフと言う立場に違いがあれど、下積みのころから裏方としてアイドルを共に支えてきたことで大木に対してはある種の仲間意識を抱いている。戦友ともいえる間柄だ。

 大木は日頃から真面目に仕事に向き合っており、アイドルと直接面識を得ることはなくとも、見守るような視線をアイドル達に向けていることをプロデューサーは知っている。

 そんな彼が、交通事故はまだしも殺人を犯すなど、とてもすぐに信じられるものでは無かった。

 しかし、杉下は淡々と事実を積み重ねていく。

 

「事件現場には犯人のものと思われる765プロのロゴが入ったタオルが落されていました。このタオルは初めてのライブを記念して製作されたものだそうですねえ。このタオルが配られたのは765プロの関係者、その中には普段からライブの設営に関わっている大木さんの会社も含まれています。」

 

「で、でも、それが大木さんのものだとは…」

 

「おそらくこのタオルは犯人が渋澤さんともみ合いになった際に落としたものでしょう。タオルに染みついた汗を解析すれば、そこから犯人のDNAも採取することが出来ます。そうすれば、これが誰の物であるかも…」

 

「そんな事をする必要はありませんよ、刑事さん。」

 

 杉下の言葉を遮ったのは、それまで黙って杉下の話を聞いていた大木だ。

 

「お、大木さん…いったい何を…」

 

「もういいんだ、プロデューサー君。すべて自分でまいた種だ。最後くらい、自分で終わらせなくちゃなあ。」

 

 大木は杉下たちに向き直ると、深々と礼をする。その顔には、憑き物が落ちたように仄かな安堵の色が見えた。

 

「お手数をおかけして申し訳ありません。私が…あの男性を死なせました…」

 

「……原因はあの記事の内容ですね。」

 

「ええ、そうです。あの記事だけは…あの内容だけは、どうしても許せませんでした…」

 

 

 

 

 どうすれば私の罪は償えるのだろう………

 この7年間、その事ばかりを考えて生きてきました。

 一人の命を奪った私に下された判決は禁固1年6か月、執行猶予3年。裁判の中で私が深い反省を示し、被害者側にも一定の落ち度があったことが認められたものでした。

 だけど、本当にこれでよかったんでしょうか………人の命を奪った罰がたった1年と半年拘置されるだけで許される。それも執行猶予つきで…賠償金も保険が下りたので払えない額ではありませんでした。如月優君は二度と戻ってこないというのに…

 思えば判決の日からでした。私の心に言いようのない焦燥感と罪悪感が住み始めたのは…

 

 どうしても判決の内容が私の中で整理できず、私は毎月見舞金と共に謝罪の手紙を如月さんに送り続けました。こうすることが残された家族への贖罪になると信じて。あるいは、自分の心に巣食った罪悪感を少しでも薄れさせようとしていたのかもしれません。

 けれど事故から3年が経ったある日、優君のお父さんが私を呼び出してこう言ったんです。

 

『もう、見舞金も、謝罪の手紙もいらない…』

 

 一瞬何を言っているのかがわかりませんでした。次に思い浮かんだのは、手紙の内容に不備があったのか事でしたが、優君のお父さんは顔を蒼くする私を諭すようにこう言ったんです。

 

『この三年間で君がどれほど、あの事故を後悔しているかは今までの手紙を読んで十分に伝わった。私たちは君から受け取ったお金に手を付けていない。すべて、交通事故削減に取り組む団体に寄付したんだ。もう三年も経つんだ。そろそろ事故の事は終わらせよう。』

 

 本当にそれでいいんですか。私はその言葉が口から出ないようにするのに必死で俯くことしかできませんでした。その様子を見て何を思ったのか、優君のお父さんは私の肩にそっと手を置いたんです。

 

『君も辛かっただろう。これからはお互いに前を向いて生きていこう。天国の優もそれを望んでいるはずだ。』

 

 やめてください。なんであなたがそんなことを言うんですか。私はあなたの息子を殺してしまったんですよ…

 

 

 

 

 傍目から見れば、感動的な光景だったかもしれません。加害者が必死に罪を償い、被害者の家族が罪を許すというのは映画のワンシーンにも見えたことでしょう。けれど、私の心は暗澹としたものでした。本当にこれでよかったのか?私の罪は許されたのか?そんな疑問を常に心に宿し生きてきました。

 

 そんなある日です。当時勤めていた会社の帰りに上司に誘われ、とあるライブバーを訪れたのは。そこで私は如月千早に出会いました。

 信じられませんでした。けれど、見間違えようもない。あの事故で私が轢いてしまった少年の傍らをじっと離れず寄り添っていた女の子がそこにいました。家に帰ってすぐに調べてみると、千早ちゃんは765プロの所属アイドルとしてアイドル活動を始めた駆け出しのアイドルであることが分かりました。その瞬間、私の脳裏に天啓のような物が下りてきました。

 この子の手助けをしよう。どのような事情があって彼女がアイドルになろうとしたのかはわかりませんでしたが、少しでも彼女のアイドル活動の手助けをしたいと思ったんです。だから私は誓いました。千早ちゃんを見守り、それを私の償いにしようと…

 

 私はすぐ765プロの高木社長のもとを訪れ、私の身の上についてすべてを離した上で765プロで雇ってもらえないかと頼みました。どんな仕事であれ、ほんの少しでも千早ちゃんの助けになる仕事がしたかったんです。

 高木社長は当初は驚いた様子でしたが真剣に私の話を聞いていただき、私が話を終えると熟考の末に申し訳なさそうに私の申し出を断りました。なんでもつい最近、新たにプロデューサーを雇ったため他の人材を雇う余裕がないとのことでした。その代わり、高木社長の伝手でライブの設営を請け負っている会社を紹介してまらえました。

 そこでの仕事は充実してました。765プロのライブのたびに千早ちゃんの姿を目にすることが出来、本番で素晴らしい歌唱力を披露した際には、自分も千早ちゃんの手助けをしていることを実感出来ました。千早ちゃんが順調にステップアップしていっているのが自分の事のようにうれしく思え、そのたびに自身が犯した罪が灌がれていくような気がしたんです。

 

 あの記事が出たときは心臓を掴まれたような思いでした。記事の内容はまるで千早ちゃんのせいで優君が死んでしまったように書かれていたんです。私はこの時、体の奥底から湧き上がるどす黒い感情を抑える術を持っていませんでした。

 記事に添えられた明らかに盗撮されたものと分かる写真に気づいた時、私は誰がこのようなものを書いたのかを悟りました。以前プロデューサー君から最近怪しい記者がアイドルの周りをうろついているという話は聞いていましたし、劇場の近くで何度か記者風の怪しい男の姿を見かけてましたから。そして何より、961プロが765プロにちょっかいをかけているという噂は、すでに業界ではかなり真実味のある噂として実しやかに囁かれていたんです。

 

 その日私は、仕事が終わるとその足で961プロの事務所ビルに向かいました。あの記者が961プロの差し金なら、必ず事務所を訪れているという確信があったんです。予想は当たりました。あの男が事務所ビルから出てくると、私はその後を追いました。どうやら男は帰宅途中だったようです。私は男が人気のない場所についたのを見計らって声を掛けました。

 

『ちょっと、あなた。少しいいですか?』

 

『ん?なんだい兄ちゃん?』

 

 男は帰宅途中で飼ったウイスキーを飲んだためか、赤くなった顔を振り向かせ、不審げに首を傾げました。

 私は男に掛けるべき言葉を用意していませんでした。だから、自分の胸中になる言葉をそのまま口に出したんです。

 

『あなたが如月さんの家庭の事を記事にしたんですよね?なんであんなことをしたんですか?』

 

『あん?記事にしたって……ああ、兄ちゃん如月千早のファンか。いやはや参ったねえ…』

 

 男は面倒くさい事になったとでも言うように苦笑を浮かべながら首の後ろを掻きました。それから憐れむような視線を私に向けて来たんです。

 

『言っとくけど、あの記事に書かれていることはあらかた真実だぜ。如月千早の弟が死んだのも、家庭が崩壊しているのもな。』

 

『真実って…だからって、あんなふうに掻き立てることは…』

 

『あの女は弟を見殺しにしたんだよ。要するに、立派な殺人者ってわけだ。』

 

『なっ!?』

 

 言葉を失った。コノオトコハイマナントイッタ・・・

 

『かわいい顔して裏じゃ身内を見殺しにする残酷さを飼ってたわけだ。そう言ったのを明らかにするのが俺たちの仕事だからよ。』

 

 違う。優君を殺したのは私で、辛い思いをしたのはあの人たちだ・・・

 

『まっ、俺からアドバイスをするなら、あんな女のファンなんかはやめて、とっとと忘れることだな。大体、アイドルなんて消耗品だし…』

 

『黙れえええええええええええええええ!!』

 

 激高した私は男の襟首を掴み、詰め寄っていました。男は虚を突かれたようでしたが、すぐに振りほどこうと応戦してきました。

 

『このっ!テメエなにしやがるっ!』

 

『お前なんかにっ!お前なんかに何が分かるっ!』

 

 その時です、私と男の足が絡み合いバランスを崩し、私は男を押し倒す形で地面に倒れました。痛みに顔を歪ませながらなんとか立ち上がると、薄明かりの中赤い液体が地面に広がっているのが見えました。こと切れた男の目が光をなくし、じっと私の事を見据えていた。

 

 

 

 

「殺すつもりなんてなかったんです。殺すつもりは…」

 

 沈痛な面持ちでそう繰り返す大木に誰一人として言葉をかけてやれないでいた。するとそこに仏頂面を携えた伊丹と芹沢が現れ、大木に目をやる。

 

「警部殿、この人が?」

 

 吐き捨てるように質問をする伊丹に対し、杉下は首を縦に振って肯定を示す。

 

「伊丹さん、あとの事はよろしくお願いします。」

 

「……借りだとは思いませんからね。」

 

「ええ、それはもちろん。」

 

 いつもと変わらぬ様子の杉下に舌打ちをすると、伊丹は大木に手錠をかけ歩かせようとする。その時、

 

「待ってください!」

 

 突如、大きな声を上げたのはプロデューサーだった。彼は伊丹たちの前に進み出ると大きく頭を垂れた。

 

「お願いします!少しだけ大木さんを連れていくのを待ってくれませんか!」

 

「おい、あんたいったい何を…」

 

「この後、千早がステージに立つんです!だからせめて、それだけは見せてあげてください!」

 

 プロデューサーの申し出に大木は、はっと目を見開く。一方事情を知らない伊丹たちは困惑するばかりだ。すると、カイトがプロデューサーの横に立ち、彼に倣うように頭を下げた。

 

「俺からもお願いします、伊丹さん。5分だけでいいんで待ってもらってやってください。」

 

「……カイト、お前は自分が何を言っているのかわかっているのか?」

 

「わかってます。責任は俺が取ります。」

 

 カイトが決意を秘めた目で伊丹の事を見つめると、伊丹は盛大な溜息を吐いて後ろに控えるカイトの上司を見やった。

 

「って、お宅のところ若造が言ってますけど?」

 

「その責任は当然上司である僕も取らなくてはいけないでしょうねえ。もっとも、しょせん窓際部署の管理職ですから、事象に吊り合うだけの責任が取れるかは甚だ疑問ですねえ。」

 

「そうですか。だったら、取れるだけの責任は取ってくださいね。全く、最近カイトを見てると、どこぞの亀を思い出してしまいますよ。いったいどんな教育をしているんですかな?」

 

 杉下はその問いに柔らかな笑みを返すのみであった。

 

 

 

 

 ステージには一人の少女が立っている。その表情はどこか不安げだ。少女が不安げな表情を浮かべるように、会場にいるファンもまた心配そうに少女の姿を見つめている。杉下とカイトは観客席の最後方から大木の両脇を挟む形でその様子を眺めていた。その後ろにはプロデューサーが控えている。

 やがて会場にピアノの旋律が響く。少女は口を開き、自らの喉から言葉の旋律を紡ごうとする。しかし、言葉は音色を伴っていなかった。

 

「そんな…」

 

 カイトの口から零れた言葉は会場にいるすべての人の気持ちを代弁していたと言えるだろう。杉下ですら自分の顔が強張るのを感じられた。

 

「杉下さん…」

 

 カイトが助けを求めるように杉下の名前を呼ぶ。だが、たとえ杉下が全てを見通す知能を持ち合わせていたところで現状をどうすることもできなかったであろう。だが次の瞬間、会場に如月千早の物と違う歌声が響いた。

 ステージに目をやると、二つのリボンを頭に付けた少女が千早を支え、守るように寄り添い、歌詞を紡いでいる。

 それに続くようにステージ上に次々と少女たちが上がっていく。彼女らは皆、千早を励ますように優し気な笑みを浮かべ、千早が歌うべき歌を歌っている。千早が再び歌えるように。

 そして、如月千早はマイクを顔の前で持ち、口を開いた。

 

「やった!」

 

 それはプロデューサーの口から洩れたものであった。それと同時に、その場にいる皆の気持ちを代弁したものでもある。如月千早は心から嬉しそうに、笑顔で歌を歌っている。その歌声はカイトが今まで聞いた度の歌よりも心にしみわたるものだった。

 するとカイトの横で大木が急にしゃがみこんだ。慌ててカイトがその肩を持とうとするが、途中でそれを止めた。大木は声を押し殺して泣いていた。その顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたが、口に手を当て必死に声を押し殺している。

 大木だけではない。会場を見渡せば、同じ様に涙を流す人が大勢いた。皆、如月千早が再び歌声を取り戻せたことが嬉しくて仕方ないのだ。この会場にいるほとんどの人が千早が再び立ち上がることを願い、見守っていたのだろう。

 やがて曲が終わると会場内は万雷の拍手に埋め尽くされた。杉下とカイトもそれに倣い、惜しみない拍手をステージに送った。歌姫の帰還を祝福するために。


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