ポケットモンスター グレー   作:カルロスシャイニー

2 / 15
ポケモンマスターへの道に休みはない!自身の過去を振り返り、サトシはさらなる成長のために、自分の経験を他者のために役立てるべきだと悟った。アララギ博士とのビデオ通話が絶好の機会をもたらす。遠く離れたイッシュ地方へ飛び、新人トレーナーのメンターとなることだ!しかし、信頼できる仲間なしでは旅は始まらない。カントーのコンテストと新たな冒険の間で揺れていたセレナは、決断した。イッシュクイーンの称号を目指す準備は万端だ!モールでの慌ただしいスタイルチェンジと、世界の反対側へと運ぶ豪華な大陸間フライトを経て、ヒーローたちはついにイッシュ地方に降り立った。サトシが導くべき謎のトレーナーとは誰か?そして、セレナを待ち受ける新たな試練とは?イッシュ地方での新たな冒険が、今始まる!


新たな冒険の始まり?

新しい冒険の始まり?

 

「嫌!嫌!絶対に嫌!」少女は毛布の下へと潜り込もうとしながら不満の声を上げた。まるで幾重にも重なる布地が、どうにかして外の世界から自分を守ってくれるかのように。

「もう十六歳でしょ。イッシュ地方の若者がみんな最初のポケモンを受け取って、ポケモントレーナーになる年齢よ。よく知っているはずでしょう。この約束をすっぽかすわけにはいかないことだって、分かっているはずよ!」母親が窘めた。

「だから何?私がトレーナーにならなかったらどうなるの?それでも世界は今まで通り回り続けるわ」少女は毛布に潜り込んだまま言い返した。

「私がそれを知らないとでも思っているの?テレビでポケモンバトルを見ているあなたの姿を、私はずっと見てきたのよ。目を輝かせて、まるで自分が戦っているトレーナーの一人であるかのように見入っていた。相手の次の手を必死に読もうとしていたわね。そしてサトシが戦うたびに、どれほど取り乱していたことか。彼のことを予測不能のチャンピオンと呼んで、バトルの後にはもし自分が彼のポケモンのトレーナーだったらどうしていたか、あれこれ空想を膨らませていたじゃない。そして今、ようやく自分のポケモンと一緒に戦えるというのに……」

毛布の隙間から濃い栗色の豊かな髪が零れ落ち、続いて青い瞳、小ぶりな鼻、薄い唇を持つ美しい少女の顔が現れた。母親は勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼女を見つめていた。母親は若々しく溌剌とした女性で、娘よりも少し明るい栗色の髪を、軽やかで活動的なショートボブに切り揃えていた。家事に向いた実用的でありながらも小綺麗な装いで、赤紫色の長袖の服の上に、濃い青のジャケットを羽織っていた。

「彼の名前を出せば考え直すと思っていたわ。あなたのことなら手に取るように分かるもの、アニタ」女性は言った。

アニタは言い返せなかった。トレーナーであるかどうかにかかわらず、同世代の多くの若者と同じように、自分自身もサトシに対して強い敬意と憧れを抱いているという事実は否定できなかった。あの少年は、自分より三歳足らず年上であるにもかかわらず、すでに一世代を象徴する存在となっていた。カントー地方の小さな町であるマサラタウンから相棒のピカチュウと共に出発し、世界中を旅してあらゆる強敵に挑み、仲間やポケモンたちと共に信じられないほどの高みへと駆け上がった。そしてポケモンワールドチャンピオンシップスでマスターズ・エイトの頂点に立ち、世界最強の王座に就いたことで、その栄光を揺るぎないものにしたのだ。

直接会ったことがないため、アニタは彼の物語のすべてを知っているわけではなかった。世間に知れ渡っている情報、つまりサトシがポケモンマスターという目標を目指して世界中を旅してきたことしか知らなかった。その称号が何を意味するのかは誰にも判然としなかったが。

「頭の中で想像するだけなら安全よ。危険なのは現実のほうじゃない。夢の中なら怪我をすることもないし、命を落とす心配もないもの。お母さんだって身に染みて分かっているはずよ」アニタは腕を組みながら反論した。

「一生ここに引きこもっているつもりだったの?」母親が尋ねた。

「私はただ、トレーナーにはなりたくないって言っただけよ」

その言葉に、母親は首を横に振り、選ぶ余地などないのだと娘に悟らせた。

「お母さんだってトレーナーじゃないじゃない!」アニタは母親の仕草を真似た。

「だから、どうして私にそこまで無理強いするのか分からないのよ」彼女は不満そうに息を吐き出しながら、ベッドの上に腰掛けた。

母親は娘の反抗に驚いた様子を見せた。「あなたは私のすべてを知っているわけではないのよ。私だって、かつてはポケモントレーナーだったの」母親は静かに打ち明けた。

「アララギ博士のお父様のような大人たちも、私のバトルを見て、大成する素質があると褒めてくれたわ。同世代の中でも屈指の実力を持つトレーナーになれるかもしれないとまで言われていたのよ」母親は少しの間言葉を切り、目を丸くする娘の表情を静かに見つめた。「ただ……」

少女は母親へ視線を向けた。「ただ、何?」

「今でも悔やんでも悔やみきれない選択をしてしまったの」母親は、娘の瞳に浮かぶ好奇心を感じ取り、ぽつりぽつりと昔のことを語り始めた。「まるで昨日のことのように鮮明に覚えているわ。もう二十年以上も前のことなのにね」彼女は語り始めた。

「トレーナーになって間もない頃のことよ。博士から炎タイプのポカブを託されて、それからヨーテリーを捕まえたの。そしてポケモンリーグを目指して旅を始めたわ。あるバトルの最中に、ヨーテリーはハーデリアへと進化した。本当に胸が高鳴ったわ。ポケモンの進化をこの目で見たのは、あの時が初めてだったから。自分の手で育て上げて、隣に並んで戦ってきたのだという実感は、言葉では言い表せないほどの喜びだった……」母親は自分が熱弁を振るいすぎていることに気づいた。「とにかく……」手短に話を戻した。

「私たちは二つ目のバッジを手に入れたばかりだったの。私の生まれ故郷であるシッポウシティでね。確か当時のジムリーダーはすでにアロエさんだったはずよ。その頃の彼女はまだ大学で考古学を学ぶ学生で、講義や試験の合間を縫ってジム戦をこなしていたわ。彼女と対戦の約束を取り付けるのがどれほど大変だったか想像してみて」まただ。二度も、母親はどうでもいい昔話に脱線しかけていた。

「私たちはヤグルマの森を抜けようとしていたところだったの。新しいポケモンを捕まえるつもりでね。むしタイプか、くさタイプか。誰にも分からないけれど……でも、現実は思い描いていた通りには進まなかったわ」母親は短く息を整えた。

「バッジを手に入れた後、すぐに出発せずに翌日まで待つことにしたの。ポケモンたちを休ませたかったし、それに正直に言えば、森の中で夜を明かすのが少し怖かったのね。そして今でも、その選択を悔やんでいるわ。翌朝、ポケモンセンターを出ると、一人の演説者の周りに大きな人だかりができているのが目に入ったの。好奇心に駆られて、私はその群衆に近づいていったわ。その男は、トレーナーの手からポケモンを解放するための活動をしている組織の一員だと名乗っていた。彼が言うには、人間とポケモンは互いに干渉せず、住む世界を分かつべきだというの。その組織の名前には、確かプラズマという言葉が入っていたはずよ。でも、そんなことはどうでもいいわ。当時の私は若くて、他人の言葉に簡単に流されてしまう性格だった。口先だけの美辞麗句にすっかり丸め込まれてしまったのね。私は森の入り口にポカブとハーデリアを置き去りにして、その組織に身を投じてしまったわ。やがてあなたを身ごもっていると分かった時、私は命の本当の尊さにようやく気づいたの。彼らは自由だの正義だのと声高に叫んでいたけれど、自分たちの目的のためなら誰かを平気で犠牲にするような連中だった。けれど、あなたがお腹の中にいると感じた瞬間、これから生まれようとしている命の重みに勝る主義主張など何一つないのだと悟ったの。守るということは、かつて私が自分のポケモンたちにしてしまったように、引き離したり見捨てたりすることではない。そばに寄り添い続けること、そこに居続けることなのだと分かったのよ。あなたのために逃げ出したの、アニタ。あのような狂気の中であなたを育てたくなかったから」アニタは息を呑み、一言も発せずに耳を傾けていた。それまでの苛立ちは消え去り、胸の中が激しい感情で麻痺していくようだった。「あなたのお父さんは……」記憶を手繰り寄せる母親の声がかすかに震えた。「……そこで出会った人なの。彼もまた、あの甘い言葉に心を奪われていた一人だった。私たちはその夜、二人で逃げ出したわ。胸の中に消えない恥辱を抱えながら、これから生まれてくる幼子を抱えた、ただ怯えるばかりの若者二人だった」母親は髪に手を通し、苦い吐息を漏らした。「けれど、そこで私たちの歩む道は……ある意味で分かれてしまったの。物理的に離れ離れになったわけではなくて、過ちの償い方が違っていたのね。あなたのお父さんは、実家へ戻る勇気を持っていた。家族の玄関の前に立ち、すべてを白状して、犯した過ちの許しを請うたの。そして家族は……彼を受け入れてくれたわ。悪意ある言葉に操られていただけなのだと、甘い言葉に屈してしまった怯える少年にすぎなかったのだと理解してくれたのよ」

母親は視線を落とし、床の何もない一点を見つめた。「私には……同じだけの勇気がなかった。それとも、背負った罪があまりにも重すぎたのかもしれない。森の中に置き去りにされたポカブとハーデリアの姿が、どうしても頭から離れなかったの。恥の重みに押し潰されて、身動きが取れなくなってしまった。両親の元へ帰って、私は失敗しました、仲間を置き去りにして怪しげな集団に加わってしまいました、なんて口が裂けても言えなかった」一筋の涙が母親の頬を伝ったが、彼女はすぐにそれを拭った。「それが、あなたが今まで祖父母に会ったことがない理由よ、アニタ。あの人たちがどこか別の場所へ引っ越してしまったのかどうかさえ、私には分からないわ。きっと、私が今でも世界中を放浪しているか、あるいはもっと酷い目に遭っていると思っているに違いないの。私が真っ当な暮らしを取り戻したことも、このカノコタウンに家を構えて暮らしていることも知らないのよ」母親は娘の方を向いた。その瞳には、二十年もの間抑え込み続けてきた苦痛の涙が潤んでいた。「そして何より……あなたが生まれたことさえ知らないの。自分たちに孫がいることすら、あの人たちは知らないのよ」

母親は、娘の美しい瞳に涙が溢れ出していくのを見た。

「だから、そこまで執着していたのね」アニタは言葉の合間に鼻をすすりながら、そう呟いた。

母親は娘にハンカチを手渡し、涙を拭って鼻をかめるようにした。

「私の過去の過ちを埋め合わせるためにあなたをトレーナーにしたいわけではないの。あなたには同じ過ちを繰り返してほしくないからこそ、トレーナーになってほしいのよ。旅というものは、人の人生を根底から変えてしまうほどの得難い経験だから。旅の途中で、あなたはいろいろな人間に出会うはずよ。あなたの力になってくれる人もいれば、ただ邪魔立てしてくる人もいる。あなたやポケモンのためを思って行動していると口先だけで言う人もいれば、真の意味であなたのために尽くしてくれる人もいるわ」

アニタは両手に握りしめたハンカチを見つめたまま、沈黙を守っていた。母親の言葉は、彼女の中にあった怠惰な気持ちや子供じみた恐怖を一瞬にして吹き飛ばしてしまった。これはもはや、単にポケモンを受け取ることや気ままに出かけることの問題ではなかった。自分が生まれるよりも前から血を流し続けている深い傷口を、自らの手で縫い合わせるための道なのだ。

彼女はベッドから静かに立ち上がり、ほんの十分前のように言い返したり駄々をこねたりする代わりに、母親のそばへ歩み寄ると、すがるように力強く抱きしめた。母親の体が瞬時に緊張を解くのが肌越しに伝わってきた。まるでその抱擁こそが、人生のすべてを費やして待ち望んでいた赦しであるかのように。

「分かったよ、お母さん」アニタはしっかりとした声で囁き、抱擁を解いて母親の目を真っ直ぐに見つめた。「みんながそうしているから旅立つわけじゃない。お母さんに言われたからでもないわ」少女は深く息を吸い込み、頬に残った最後の涙を拭った。「自分の目で世界を確かめたいから、自分の足で歩き出すの。それに何より……」アニタは一瞬口ごもったが、その眼差しには若き日の母親と生き写しの強い意志が宿っていた。「……何より、シッポウシティに行って、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くわ。孫がいること、そして娘が二人のことを一日たりとも忘れたことはなかったと伝えるの。お父さんが許してもらえたのなら、私たちにだってきっとやり直す道はあるはずよ。約束する」

母親は、娘の放った言葉に驚き、胸を打たれた。アニタはもう、毛布の中に隠れて現実から逃げていた小さな子供ではなかった。「さあ……」アニタは最後にもう一度鼻をすすると、重苦しい空気を和らげようと口元に微かな笑みを浮かべた。

「それなら、早く準備をしなくちゃね」

アニタはベッドを離れ、浴室へと向かった。母親も彼女の後を追うように部屋を出て行った。熱いシャワーを浴びることこそ、今の自分に必要なものだった。これほどまでに重く、大人同士のような会話の中で体に溜まり込んだ緊張を、すべて綺麗に洗い流さなければならなかった。熱い湯が首筋を伝い落ちるにつれて、先ほど交わした言葉の数々が頭の中を巡った。考えを深めれば深めるほど、次から次へと不安が押し寄せてきた。自分にこれほどの重責が務まるのだろうか。母親は自分がかつてトレーナーであったことは話してくれたが、どうやってトレーナーとして生きるべきかまでは教えてくれなかった。一つの命を預かるということは、想像を絶するほど重い責任を伴う。そして彼女は、アララギ博士の研究所の敷居をまだ跨いですらいないというのに、その冷厳な事実の重圧をすでに全身にひしひしと感じていた。

娘が身支度をしている隙を利用して、母親は小さな贈り物を取り出すことにした。主寝室へと足音を忍ばせて向かい、重厚な濃茶色の木製クローゼットを開けると、掛けられたコートの束を押し分け、目当てのものを探し出した。金属製のハトメがあしらわれた赤いショルダーバッグだった。二週間前の娘の十六歳の誕生日に買い求めた品だったが、すぐに渡すのは控えていた。単なる誕生日プレゼント以上の重みを持たせて手渡したいと考えていたからだ。幼い頃からアニタがアララギ博士をアララギおばさんと親しみを込めて呼んでいる間柄ゆえに、博士からの贈り物の方がずっと特別なものになることは承知していたが、母親にはそうした専門的な手配はできなかった。

娘の身支度に時間がかかっているおかげで、母親には旧友へ連絡を入れる余裕まで生まれた。

呼び出し音が二度鳴っただけで、博士が応答した。「もしもし、ジェシカ?何かあったの?」

旧友の聞き慣れた声が受話器から響いた。「どうしてアニタはまだ来ないのかしら?サトシが少し落ち着きを失い始めているのだけれど」

母親は溜息をついた。サトシとの対面は驚かせるための演出のはずだったが、娘が急がなければその計画も台無しになりかねない。昔からあの子のマイペースさは変わらないと彼女は心の中で苦笑した。「今、身支度をしているところよ。もうすぐそちらへ向かうわ。あの子には何も教えていないから、彼にどこかへ隠れてもらって、ここぞという瞬間まで顔を出さないように頼んでもらえるかしら?残念ながら私はその場に立ち会えないけれど、さっき起きたことを思えば、あの子には笑顔を取り戻してほしいの」

博士は事情を察して、受話器の向こうで深く頷いた。何があったのかはおおよそ想像がついた。アニタが拒絶し、ジェシカは自らの過去、友である自分もよく知るあの辛い記憶を打ち明ける羽目になったのだろう。「あなたの言う通りね。あの子には笑顔こそが必要だわ。心配しないで、彼女のことは私に任せて」

二人の女性は、研究所とジェシカの自宅との距離がわずか数百メートルしか離れていないにもかかわらず、しばらくの間そのまま言葉を交わし続けた。

母親たちが長電話を続けている間に、アニタはシャワーを浴び終え、長い髪にヘアパックとトリートメントを施していた。彼女の計算では、一週間もすれば家に戻ってくる予定だった。とはいえ、これほど短い旅であっても、身なりを乱すような真似はしたくなかった。旅の途中で思いがけず誰と巡り合うことになるかなど、誰にも予想できないのだから。

アニタは湿ったバスローブに身を包み、濡れた髪をターバンのようにタオルで巻き上げた姿で部屋へと戻った。背筋に冷たい震えが走った。部屋の中が凍てつくほど寒いわけではなかったが、三月の肌を刺すような冷気の中では、下着姿のままで長居することは避けたかった。

何を着ていくべきか、彼女はひどく頭を悩ませていた。小さく溜息をつき、着ていく服に迷ったときのいつもの非常手段に頼ることにした。主役となる服を一着だけ選び、それを中心に全体の組み合わせを組み立てていくという方法だ。

今回の主役はボトムスに決めた。濃茶色のクローゼットの右の扉を大きく開け放つと、彼女が揃えてきた服の数々が姿を現した。棚やハンガーには、数え切れないほどのジーンズが詰め込まれていた。股上の深いもの、浅いもの、細身のもの、ゆったりしたもの、明るい色合いから濃い色合いまで、実に多彩だった。生地が薄すぎるものや窮屈すぎるものは即座に候補から外した。研究所まで歩き、そこから旅に出るのであれば、動きやすくて丈夫なものが不可欠だった。彼女は濃い色合いの、飾りのないすっきりとした実用的なジーンズを選び出した。寒さをしのぎつつ、見た目も損なわない完璧な一本だった。

下半身が決まったので、次はトップスに取り掛かった。派手すぎる装いを好まない彼女は、小綺麗でありながらも主張しすぎないものを探した。選ばれたのは、白地に淡いパステルブルーの長袖をあしらったベースボール風のシャツだった。

胸元の中央には、意匠化されたピンク色のモンスターボールの模様が大胆に配されていた。簡素でありながらも目を引くデザインだった。

最後に、足元と小物の準備に取り掛かった。下駄箱から、濃いピンク色の紐とあしらいが施された黒のハイカットスニーカーを取り出した。買ったばかりでまだ新品の革の匂いが残っており、これをおろすには絶好の機会だった。装いを締めくくるのは、決して重すぎず、内側と外側にたくさんのポケットを備えた黒い上着だった。

鏡に映る自分の姿を確かめた。準備は整った。

部屋を最後にもう一度見渡そうと振り返ったその時、アニタの視線はベッドの脇にある椅子に留まった。

椅子の上には赤いバッグが誇らしげに置かれていた。

彼女が浴室にいる間に、母親が物音ひとつ立てずに置いていったに違いなかった。生地の上には手書きの手紙が添えられていた。アニタは、それが母親の流麗な筆跡であることにすぐさま気づいた。

“この贈り物が、あなたの旅に寄り添ってくれることを願って”

アニタはバッグを両手に取り、その重みを確かめた。容量の大きさを示すためなのか、ほとんどすべてのファスナーが開け放たれていたが、内側のポケットひとつだけは丁寧に閉じられていた。直感に突き動かされるようにして、彼女はそのファスナーを引いた。しっかりと保護された仕切りの中にぴったりと収まっていたのは、彼女の靴と同じような深みのあるピンク色をした最新型のスマートフォンだった。彼女は肩紐を胸元に抱き締め、この部屋の中で急に孤独感が薄らいでいくのを覚えた。「ありがとう……」誰もいない扉に向かって、彼女は小声で囁いた。

ようやく支度を終え、彼女は自分の部屋を出て階段を下り、玄関へと向かった。母親はまだアララギ博士と電話を続けていた。

「それじゃ、私、行くね」アニタは扉を開けながら挨拶した。「いろいろとありがとう!」

「ええ、それじゃ作戦を実行しましょう」母親は受話器に向かってそう返答したが、振り返った娘の不審そうな視線を浴びることになった。「あ、ええと……行ってらっしゃい!頑張ってね!」何食わぬ顔を取り繕いながら、引きつった笑みを浮かべて母親は慌てて言葉を返した。

アニタはくすくすと笑いながら首を横に振り、自分を待ち受ける運命のことも露知らず、研究所へ向かって歩き出した。

その頃、サトシとセレナはアララギ博士の研究所の片付けを手伝っていた。ひどく散らかっているわけではなかったが、走査型電子顕微鏡やDNAシーケンサー、質量分析計といった精密機器に加え、通り道を塞ぐように積み上げられた学術誌の山が作業机を占領していた。

三人は、ルカリオとゴウカザルの力、そしてマフォクシーのエスパーの力を借りて、作業机を壁際に沿って寄せ、中央に通路を作り出した。大きな窓から差し込む陽光が床を美しく照らし出し、一番奥の机へと続く光の道を作り上げていた。その机の上には、最初に選ばれる三匹のポケモンのモンスターボールが置かれていた。

「みんな、ありがとう」額の汗を拭いながら、女性は礼を言った。

「それでね、二人にちょっとしたお願いがあるの」その間に手持ちのポケモンたちをそれぞれのモンスターボールへと戻していたサトシとセレナは、博士の方へと向き直った。「はい?」

女性は含み笑いを浮かべながら二人を見つめた。「アニタにはまだ何も話していないの。二人に会えたら飛び跳ねて喜ぶのは間違いないのだけれど……せっかくだから驚かせたくてね」女性は二つの本棚の間に挟まれた横の扉へと視線を向けた。「付いてきて」女性は二人をその部屋へと案内し、机の上から八インチの小型タブレット端末を取り上げた。手早くいくつかの操作を済ませた後、それを二人に手渡した。「この端末は防犯カメラに直結しているの。ここから中の様子がすべて見渡せるわ。ここぞという最高の瞬間を見計らって飛び出してちょうだい」女性は説明した。

「分かりました」二人は声を揃えて返事をした。

その扉の向こうは、博士の個人的な控え室へと続いていた。夜遅くまで研究に没頭することがあるため、自宅へ戻る代わりにここで一夜を明かすことも珍しくなかった。床には、光沢を抑えた滑り止め加工の施された、薄い灰色の磁器質タイルが簡素に敷き詰められていた。

部屋は、研究所の一角を改装して作られた必要最小限のワンルームだった。

入り口の先には、ホワイトオークの木目を模した化粧板張りの小さなキッチンがあり、天板には御影石を思わせる質感の黒い調理台が据えられていた。天板には現代的な電磁調理器が埋め込まれ、その下には黒い琺瑯仕上げのオーブンが収まっていた。左側の棚には組み込み型の冷蔵庫が収まり、静かに低い唸り声を上げていた。

家具は簡潔で実用的なものばかりだった。キッチンと同系色で揃えられた四脚の椅子付きの食卓と、壁掛けの薄型テレビ。部屋の別の壁際口には本棚が置かれ、先ほど研究所で見かけたのと同じ学術誌のバックナンバーや専門書が所狭しと詰め込まれていた。そして、着替えを収めるための二枚扉と二つの引き出しが付いた小さな衣装箪笥。調理場の向かい側の壁にあるもう一つの扉は、浴室へと続いていた。

サトシ、セレナ、ピカチュウは、手元のタブレット端末を通して研究所全体の様子を余すところなく見渡すことができた。

特定のカメラの映像に切り替えることもできれば、画面を分割して部屋のあちこちを同時に見渡すことも可能だった。

画面上で動く人影に気づくや否や、セレナは入り口を捉えているカメラへと画面を切り替えた。

黒い上着に濃い色のジーンズ、スニーカーを身にまとった濃い栗色の長い髪の少女が、ちょうど扉の前へと足を踏み入れたところだった。彼女の足取りには独特の癖があった。この場所を熟知している者のような迷いのなさと、今この瞬間にここへ足を踏み入れたくないと願う躊躇いが入り混じっていた。

「へえ。あの子がアニタさん?思ったよりも……」セレナは目を細めながら呟いた。

「よりも?」サトシが不思議そうに尋ねた。

「大人びていると思って。だって、サトシがトレーナーになったのは十歳だったでしょ。私が旅に出たのも少し遅くて十三歳だったけれど。あの子は……どう見ても十四歳か、下手をしたら十六歳くらいに見えるわ」セレナは画面の中の姿を品定めするように説明した。「それがどうしたの?」サトシが尋ねた。彼の頭では、それが何の問題になるのか見当もつかなかった。

「変な虫がつかないといいけれど」金髪の少女は視線を逸らし、頬を赤らめるのを誤魔化すように言い放った。能天気なトレーナーとは対照的に、ピカチュウは相棒の意図を完全に理解しており、呆れたように溜息をついて首を振った。

「こんにちは、おばさん!」栗色の髪の少女は手を振りながら博士に挨拶し、緊張の面持ちの中にもどこか打ち解けた親しさを滲ませていた。「いらっしゃい!胸が高鳴っているんじゃないかしら」アララギ博士は親愛のこもった笑みを浮かべて出迎えた。「ついに特別な日がやってきたわね。今日からあなたも、名実ともに一人前のポケモントレーナーよ」博士の声には、厳かさと感極まったような震えが入り混じっていた。手塩にかけて見守ってきた姪のような存在が大きくなり、大人の階段へと続く最初の一歩を踏み出そうとしているのだ。「イヴァンがまだ来ていないのは少し残念だけれどね」博士は一瞬真顔に戻って付け加えた。「でもまあ、仮に二人揃ってここへ来たとしても、あの性格ならあなたに先に選ばせてくれたはずよ。少なくとも、それくらいの気遣いは見せてくれると信じたいわね。だから、彼を待たずに始めましょうか……」そう言って親しげに囁きながら、机の並ぶ通路の奥へと彼女を案内した。

セレナは端末を操作し、最初の三匹のモンスターボールが置かれた机を捉えるカメラに切り替えた。その場所は、博士が研究所に置いていた数少ない私物を使い、彼女自身が丁寧に整えたものだった。深い夜空を思わせる紺色のビロードの布が敷かれ、その上には紅い絹の座布団、そしてその上に三つのモンスターボールが静かに鎮座していた。

サトシとセレナは画面越しにその様子を見守っていた。「そのイヴァンって、一体誰なんだろう?」サトシが尋ねた。

「さあね。でも、いい友達になれるんじゃないかしら。二人とも筋金入りの遅刻魔みたいだし」セレナは画面から目を離さずに軽くからかった。

サトシ、セレナ、ピカチュウが見守る中、博士は三つのモンスターボールをひとつずつ開け放ち、アニタに旅立ちの相棒となる三匹のポケモンを引き合わせた。

研究所の床に、三匹の小さなポケモンたちが姿を現した。「ツタージャ、ポカブ、そしてミジュマルよ!」博士が紹介した。

栗色の髪の少女は腰を落とし、最初の旅の相棒を誰にするのか見極めるためにじっくりと観察した。まずは草タイプのツタージャから視線を向けた。小さな蛇を思わせる姿をしていたが、そうした爬虫類とは異なり、手足がしっかりと備わっていた。もっとも、その腕は極めて細く、指も三本しかなく、小さな足には爪すら見当たらなかったが。丸みを帯びた頭部の先はツンと上を向いて尖っており、どこか気位が高く冷ややかな雰囲気を醸し出していた。体の大部分は鮮やかな緑色で、腹部だけがクリーム色に染まっていた。背中から尾にかけて一本の黄色い筋が走り、大きな茶色の瞳の周りには黄色い隈取りのような模様があった。肩からは後ろへ突き出すようにして、葉に似た突起が伸びていた。

少女からの執拗な視線に苛立ちを覚えたのか、ツタージャは研究所の奥へと顔を背け、胸の前で腕を組んだ。「ジャッ!」鬱陶しそうに短く声を上げた。

そっぽを向かれてしまったアニタは、続いてポカブへと視線を移した。母親が旅立ちの日に選んだのと同じポケモンだった。このポケモンを選ぶことは、古傷に塩を塗り込むような苦痛を伴う行為に思えたが、それでも彼女はしっかりと向き合うことに決めていた。

ポカブの外見は小さな子豚を連想させた。体は温かみのある橙色を基調とし、黒、ピンク、黄色が散りばめられていた。ツタージャと同じく大きな瞳を持っていたが、その表情ははるかに人懐っこく愛嬌に満ちていた。赤みを帯びたピンク色の鼻先と、鼻筋に走る太い黄色の帯が特徴的だった。顔の大部分と、長く伸びた四角い耳は黒く染まっていた。手足は短くずんぐりとしており、背中の下部から腰にかけても黒い帯が走っていた。尾は渦を巻いた螺旋状で、その先端には鮮やかな朱色の丸い飾りが付いていた。ツタージャとは対照的に、ポカブは注目を浴びたことがたまらなく嬉しい様子で、飛び跳ねて喜びを爆発させていた。

そして最後に、未来のトレーナーの視線はミジュマルへと注がれた。二本足で直立する、ラッコに酷似したポケモンだった。

白く丸い頭部の両脇には、濃い青色をした三角形の小さな耳がちょこんと付いていた。瞳は黒く、利発そうで表情豊かであり、鼻は濃い橙色の楕円形をしていた。頬には愛らしいそばかすが散らばっていた。

体は水色の柔らかな毛並みに覆われ、首の周りには泡を連ねたような襟巻き状の毛が生えていた。腕は白く丸みを帯びており、三本の指を備えた足は濃い青色だった。舵のような平たい尾も濃い青色で、腹部には淡い黄色のホタチが大事そうに張り付いていた。

栗色の髪の少女は、この小さな水タイプのポケモンをじっと見つめ、どんな反応が返ってくるのかを待った。ツタージャのようににべもなく拒絶されるのか、それともポカブのように無邪気に跳ね回るのか。

ラッコのポケモンは、迷う彼女に代わって自ら答えを出した。少女の腕の中へと勢いよく飛び込んできたのだ。この少女こそが、自分のトレーナーなのだと告げるかのように。

セレナとサトシはその一部始終を見守っていた。「ツタージャってば、ずいぶん気が強い子ね!」セレナが言った。

「ああ。あの子のトレーナーになるやつは、一人前と認めてもらうまで相当骨が折れそうだな」サトシが答えた後、待ちきれないといった様子で身を乗り出した。「もう顔を出してもいいんじゃないか?」

「焦っちゃ駄目よ!」セレナがたしなめた。「せめてそのイヴァンって子が来るまでは待ちましょ。それにベルもまだ来ていないんだから、挨拶もなしに突然飛び出したら失礼じゃない」腰を上げかけていたサトシは、不満げに息を吐きながら再びソファーへと腰を沈めた。

その間に、博士はすぐ近くの棚からひとつのモンスターボールを取り出していた。「スマートフォンは持っているかしら?」

アニタはバッグのたくさんのポケットをごそごそと探った末、数分前に母親から贈られたばかりの端末を取り出した。「完璧ね!」博士はそう言いながら、モンスターボールのボタンを押した。中から飛び出してきたのは、いたずら好きな小鬼を思わせるポケモン、ロトムだった。橙色の体は小さな避雷針のようにツンと尖っており、その周囲を青い電気がゆらゆらと包み込んでいた。純粋なプラズマで構成されたその体は、周囲の空気をチリチリと震わせ、部屋の中に微かなオゾンの匂いを漂わせた。静電気のせいで、アニタの髪の毛先がふわりと逆立った。

「さあ、スマートフォンを高く掲げてちょうだい。ロトムが中に入れるようにね!」アニタは怪訝そうな顔で博士を見つめた。ロトムが電話の中に入るって、どういうこと、と彼女は心の中で首を傾げた。

だが、疑念よりも好奇心が勝り、次の瞬間には右腕をすっと上へと掲げていた。不適切な敬礼のような角度にならないよう、腕の上げ方には細心の注意を払っていた。

ロトムは新米トレーナーの端末へと勢いよく突進し、吸い込まれるように飛び込んで強制的な再起動を引き起こした。機能の組み込みが完了すると、録音された定型の音声案内が流れ、ロトムが端末の機能と完全に一体化したことを告げた。

それから間もなく、誰かが乱暴に扉を開け放ち、アニタとミジュマルを飛び上がらせた。

アニタは反射的に、腕の中の相棒を力任せに抱きしめてしまった。

息が詰まるほどの抱擁に驚いたラッコは、防衛本能からみずでっぽうを至近距離で浴びせかけた。幸いにも化粧をしていなかったため、ホラー映画の道化師のような無惨な顔相を晒す事態だけは免れ、旅立ちを控えたトレーナーの体裁を辛うじて保つことができた。

トレーナーになってほんの数秒で、早くも最初の大恥をかいてしまった格好だった。「これ、使いなよ」見知らぬ少年の声が響いた。

アニタは差し出された布切れを、言われるがままに受け取った。タオルだった。理由を尋ねる余裕もなく、少女は顔と髪の水分を大急ぎで拭い取った。

「なんだ、お前はミジュマルを選んだのか……よし、それなら俺は君に決めた!」少年は名乗りもせず、ツタージャを指差した。

その無遠慮な態度に、草蛇ポケモンは露骨な不快感を示した。背中の突起から勢いよく伸びた緑色のつるのムチが、少年の手首を激しく打ち据えた。「ジャッ!」忌々しそうに甲高い声を上げた。

「痛っ!なんなんだよ!せっかくトレーナーになってやろうって言ってんのに、その態度はなくないか!?」

少年は憤慨して声を荒らげた。ツタージャは完全に無視を決め込み、反対側へと顔を背けた。この金髪の少年の醸し出す空気が、どうしても気に食わなかったのだ。濃い青のジャージにスニーカー、橙色の上着といった飾り気のない軽装が嫌だったわけではない。服装の趣味など大した問題ではなかった。何よりも鼻についたのは、その尊大で無神経な立ち居振る舞いそのものだった。「そっちがその気ならいいさ。俺はポカブにする」

この騒動に怯えきった子豚は、机の脚の陰へと逃げ込んで身を潜めてしまった。彼の無邪気な喜びは、あまりにも短命に終わってしまった。

博士は優先順位を切り替えざるを得なかった。少年にポカブを引き渡す前に、ツタージャに付けられた手首の傷の手当てをしなければならなかった。傷口はそれほど深くはなさそうだった。

ツタージャにしても本気で傷つけるつもりはなく、自らの拒絶の意志を分からせようとしたに過ぎなかったのだ。

博士は専用の薬品で傷口を消毒し、清潔な滅菌ガーゼで手際よく包帯を巻いた。「あの子のことは大目に見てあげてね。とても気難しい気性の持ち主だから。あの子に振られたトレーナーはあなたが初めてではないし、きっと最後でもないはずよ」

サトシ、セレナ、ピカチュウはその成り行きをじっと見守っていた。少年に怪我がないことを確かめると、カロス地方出身の少女は草タイプのポケモンに視線を留めながら言葉を漏らした。「ねえ、あのツタージャの気性、ケロマツだった頃のゲッコウガに少し似ていると思わない?」思いがけない問いかけに、サトシは虚を突かれたように目を丸くした。

「どうだろうな。たくさんのトレーナーを突っぱねてきたって言っても、ただの偶然かもしれないし」セレナは彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「ここに隠れていたままじゃ、確かめようもないじゃない」カロス出身の少女にとって、ついに舞台の表へと姿を現す潮時が訪れたのだ。

二人はソファーから立ち上がり、サトシの肩にピカチュウを乗せたまま、博士の研究所の中へと足を踏み入れた。「こんにちは!」二人は声を揃えて挨拶した。

アニタは頭のてっぺんから爪先まで、二人を食い入るように見つめた。自分はたちの悪い白昼夢でも見ているのだろうか、それとも、本当に目の前にいるのだろうか。

そこには、二、三年前にカロス地方のトライポカロンでマスタークラスの決勝まで勝ち進み、幾多のグランドフェスティバルでも決勝の舞台を踏んできたセレナ・ガベナの姿があった。だが、彼女の真の関心は、その隣に立つ少年にこそ注がれていた。彼女よりわずかに背が高く、帽子を被り、無造作な黒髪に茶色い瞳……赤い襟の付いた青い薄手のセーターに濃い色のジーンズという、普段の彼に比べれば格段に大人びた服装に身を包んでいたものの、見紛うはずもなかった。そして肩の上に行儀よく留まるオスのピカチュウが、何よりの決定打となっていた。その少年こそ、サトシに他ならなかった。「これほど名を馳せたパフォーマーと、あの世界王者が、どうしてこんなところにいるの?」彼女は信じられない思いで自問した。

サトシとセレナは、少女の激しい動揺など気にも留めない様子で、迷いのない足取りで近づいてきた。さっきの少年の前で大恥をかいたばかりだというのに、今度はサトシとセレナという雲の上の有名人を前にして、また無様を晒すリスクを冒すというのか。絶対に御免だった。「今すぐ全速力で逃げ出せば、二人に気づかれずに済むかもしれない……」彼女はそう思った。

「は、初めまして……わ、私はア、アニタって言います……」彼女は自己紹介した。彼らに対して抱く畏怖の念に突き動かされ、アニタは握手を交わそうと右腕を伸ばしながら小刻みに震えていた。

セレナは少女をこれ以上怖がらせまいと、持ち前の優しさと穏やかさを精一杯かき集めた。「私はセレナ。会えて嬉しいわ」カロス出身の少女は、微笑みながら名乗った。

「こちらこそよろしくな!俺はサトシ、で、こっちは相棒のピカチュウだ!」カントー出身の少年は、いつもの底抜けの元気良さで自己紹介した。「ピッカ、ピカチュウ」電気ネズミのポケモンも自己紹介の声を上げ、アニタを驚かせた。

少し離れた場所にいたものの、イヴァンもその一連の光景を眺めていた。「たかがピカチュウ一匹に怯えるなんて、あり得ないだろ。外に出たらもっと大きくて危険なポケモンが山ほどいるっていうのに、どうするつもりなんだ?二、三歩進んだだけで泣きべそかいてママのところに逃げ帰るのが関の山だな……フン!」少年は嘲るように言い放った。

その少年は、たった一言でサトシとピカチュウ、そしてアニタの神経を逆撫ですることに成功した。セレナとアララギ博士は、飛び出そうとする彼らを必死で押し留めた。

見ず知らずの他人にそのような扱いを受けることにアニタは我慢ならず、サトシとピカチュウもまた、少年の無礼な言葉を自分たちへの侮辱として受け止めていた。

その光景をじっと観察していたツタージャも、居合わせた他の者たちと同様に、その金髪の少年がどのような人間であるかをすっかり見切っていた。

そして、肩にピカチュウを乗せた少年が金髪の無礼な物言いに真っ向から怒りを露わにした時、ツタージャは今までにない感覚、胸を貫くような武者震いを覚えた。

混じり気のない純粋な闘争心。自分が探し求めていたトレーナーは、まさか彼なのだろうか。ならば、直接試してみるより他にない。

ツタージャは持ち前の俊敏さを生かして音もなく少年に近づき、背中の突起からしなやかにつるを伸ばした。その一本でサトシにそっと触れ、もう一本でアニタのミジュマルに軽く触れてみせた。

それは、バトルを望むという彼女なりの意思表示だった。ピカチュウと戦う気は毛頭なかった。もしあの凄まじい闘気のオーラが彼からも放たれているのだとすれば、挑んだところで手酷い返り討ちに遭って棺桶に片足を突っ込む羽目になるのは火を見るより明らかだった。

「えっ!?ミジュマルとバトルしたいのか?」ポケモンの予想外の行動に、サトシは驚きの声を上げた。

「ジャッ!」ツタージャは短く鋭い声で鳴いて応えた。「なあ、ちょっといいかな……」サトシは新米トレーナーへと向き直った。

「どうぞ、お好きに……」アニタは恐縮しきった調子で答えた。

一行は、大して興味もなさそうなイヴァンを引き連れて研究所の外へ出て、バトルフィールドへと移動した。

サトシはスマホロトムを取り出し、まずはミジュマルから二匹の能力を分析し始めた。「ミジュマル、ラッコポケモン。水タイプ。オス。お腹にあるホタチを取り外して戦う。相手の攻撃をしっかり受け止めた後、素早く反撃を繰り出す。覚えている技、たいあたり、みずでっぽう、アクアジェット、れんぞくぎり」

続いて、電子端末の厳しい視線がツタージャへと向けられた。「ツタージャ、くさへびポケモン、草タイプ。メス。知能が高く、とても冷静沈着。太陽の光をたっぷり浴びると、動きのキレが一段と増す。覚えている技、メロメロ、つるのムチ、グラスミキサー、たいあたり」

サトシは少しの間、黙り込んだ。

「すごく面白いな。よし、それじゃあ始めようぜ!」彼は声を弾ませた。

セレナ、博士、アニタの三人は、その場にあった唯一のベンチに、まさにこの並び順で腰掛けていた。イヴァンは腰を下ろさず、少し離れた場所に突っ立っていた。彼にとって、この戦いは爪の先ほども興味のないものだった。

博士からポカブが正式に自分のポケモンになったという承認さえもらえれば、一刻も早くこの場から立ち去りたいと考えていたのだ。

「見ていてね、サトシのバトルを生で見るのは本当に特別な体験なんだから」セレナは心の底から誇らしげに言った。サトシという人間を誰よりも深く知る者ならではの、確信に満ちた熱意だった。彼女がこれから始まる激闘を見届ける体勢を整える一方で、その膝の上にちょこんと座ったピカチュウは、彼女の手による心地よい撫で心地を存分に堪能する気満々だった。

そうしている間に、バトルは幕を開けた。ツタージャは一刻の猶予も置かずに先手を打った。対戦相手に向けて愛らしくウインクを飛ばすと、無数のピンク色のハートを真っ直ぐに放ち出した。

「しまった!メロメロだ!」サトシが声を上げた。口にした言葉とは裏腹に、その声音は極めて落ち着き払っており、この手の戦術をいかに捌くかを熟知している者特有の余裕に満ちていた。

「早く!回転しながらみずでっぽうだ!」彼は力強く、しかし諭すように指示を飛ばした。何と言っても、このミジュマルにとってはこれが生まれて初めての、あるいはそれに限りなく近い実戦なのだから。

ラッコのポケモンは一切の疑いを持たずに指示に従った。口から勢いよく放たれた激しい水流は、自身の回転運動によって旋回し、相手が放ったすべてのハートを撃ち落として、厄介な搦め手が効果を発揮するのを未然に防ぎきった。

ツタージャは、悔しさと感嘆の双方が入り混じったような唸り声を漏らした。自慢の攻撃を完璧に防がれたことには苛立ちを覚えたものの、その一方で深く感心していた。あの少年はこのミジュマルと今初めて肩を並べて戦っているはずなのに、まるで何年も前から気心の知れた相棒同士であるかのように息が合っていた。

だが、相手の見事な連携を前にしても、そう簡単に白旗を揚げるつもりは毛頭なかった。背中の突起から二本のつるが目にも留まらぬ速さで繰り出され、凄まじい勢いでミジュマルへと迫った。つるのムチの攻撃だった。ツタージャという種族は、自らのつるを自在に操る技術に長けていることで知られていた。この個体も例外ではなく、むしろその卓越した操作技術こそが、彼女に揺るぎない自信を与えていた。

「よし!アクアジェットで飛び出して躱せ!」サトシは水タイプのポケモンに回避の指示を与えた。ミジュマルの全身が激しい水流の衣を纏い、勢いよく宙へと飛び上がった。「バッチリだ!そのまま俺の言う通りに動くんだ!」王者は指示を重ねた。激しく渦巻く水の幕に包まれながらも、ラッコのポケモンは少年の指示を完璧に聞き取っていた。まずは右へ、そこから急降下、続けて左へ、一気に上方へ跳ね上がり、ツタージャの正面へと突進したかと思えば、瞬時に軌道を変えて背後へと回り込む。変幻自在に飛び回るその予測不能な動きに、ツタージャは次第に視界を奪われ、翻弄されていった。

「いいぞ!そのまま真っ直ぐ突っ込んで、れんぞくぎりだ!」ラッコのポケモンは標的に向かって真っ直ぐに突き進んだ。手にしたホタチを構え、それを激しい勢いで振り抜いた。

「技を二つ同時に重ねて使うなんて、できるんだ……!」戦いの迫力に呑まれ、アニタは思わず息を呑んだ。

「サトシはいつだって驚かせてくれるの。あなたが今見ているのは、ほんの序の口よ」セレナが隣で微笑んだ。

その間にミジュマルは対戦相手の懐へと飛び込み、アクアジェットの爆発的な推進力を乗せることで、通常のれんぞくぎりとは比較にならないほど強大な威力の一撃をツタージャに見舞った。

ツタージャの体は激しく上方へと吹き飛ばされ、そのまま地面へと叩きつけられた。

草蛇ポケモンは必死に立ち上がろうともがいたが、力尽きてその場に崩れ落ちた。この短時間の攻防は、あまりにも過酷な消耗を強いるものだった。

このバトルの勝利はサトシとミジュマルの手に渡り、歓喜したミジュマルはその場で飛び跳ねて喜びを爆発させたが、次の瞬間には激戦の疲労が一気に押し寄せ、彼自身も地面へとへたり込んでしまった。

博士は白衣のポケットから、薄い黄色をした双角錐の形をした、ラベンダーとアンモニアの独特の刺激臭を放つげんきのかけらを取り出し、二匹のポケモンに差し出した。

独特の鋭い香りに鼻腔を刺激され、ミジュマルもツタージャも素早く跳ね起きた。

「よし、とりあえず一息つけそうね。見事なバトルだったけれど、ツタージャもミジュマルもしっかり休ませてあげないとね。後でみんなでポケモンセンターへ連れて行きましょう」博士はそう説明しながら、ツタージャの体に残る擦り傷にキズぐすりを吹きかけた。手当てを終えたツタージャは、ゆっくりとサトシの足元へと歩み寄った。そして自らのつるの先端を、少年の手首へとそっと絡ませた。「あなたと一緒に行きたいみたいね」セレナが呟いた。

イヴァンが完全に痺れを切らし、アニタがその光景に純粋な感嘆の眼差しを向ける中、博士は王者とくさへびポケモンの前へと進み出た。「ご存知の通り、ツタージャというのはとても気位の高いポケモンなの。普通、ツタージャやポカブ、ミジュマルといったポケモンは、さっきのアニタやイヴァンのように、旅立ちを迎えたばかりの新人トレーナーに託されるものよ……」

博士は、少年が苛立たしげに貧乏揺すりをしている様子に気づいていた。「新米トレーナーに彼らが託されるのは、初心者の不手際にも寛容で、二段階の進化を通じてトレーナー自身の成長と歩幅を合わせていけるからなの。もちろん、最初から別のポケモンと一緒に旅立つことが禁じられているわけではないけれど、それはあくまで例外中の例外ね」博士は自分がまた話を広げすぎていることに気がついた。「でも、さっきも言った通り、このツタージャは特別に我の強い子なの。そこら辺のありふれたトレーナーのパートナーになることなんて、彼女の誇りが許さないのよ。実はね、今日に至るまで、あの子は何人ものトレーナーに選ばれてきたわ。けれどその誰もが、数日もしないうちに私のところへ駆け込んできて、あの子を突き返してきたの。言うことを全く聞かないどころか、自分たちに攻撃を仕掛けてきたってね」当のツタージャは、「それが何か?私は私の流儀を貫いただけよ」とでも言いたげな鳴き声を一つ漏らした。

博士は話を続けた。「あの子は彼らを容赦なく攻撃したのよ、さっきイヴァンにしたのと同じようにね。自分の主として認めるに値しないと判断したから。そうしていつしか、新しいトレーナーに選ばれることすら拒むようになって、自分に少しでも興味を示した相手には見境なく先制攻撃を浴びせるようになってしまったの。そして今日、ようやくあなたという存在に出会えたのね」博士はそう話を結んだ。

「そうだったのか?」サトシが優しく問いかけると、ツタージャは疑う余地のない仕草で、誇らしげに頷いてみせた。

「それじゃ、あの子のモンスターボールを持ってくるわね。ちょっと待っていてちょうだい」女性は研究所の中へと戻っていった。研究室へ戻ったわずかな時間を利用して、彼女はそれぞれの端末へポケモンの正式な登録処理を済ませた。

スマートフォンに手続き完了の通知が届くや否や、イヴァンは誰に声をかけるでもなく、背を向けてその場を立ち去った。別れの挨拶ひとつ残さずに。

アニタは少し離れた場所に取り残されたまま、まだ完全に緊張を解くことができずにいた。サトシのような至高のチャンピオンや、セレナのような最高峰のコーディネーター兼パフォーマーが、なぜ新人トレーナーの旅立ちという、どこにでもあるありふれた瞬間に立ち会おうとしたのか、彼女にはどうしても理解できなかった。

その間に、博士がツタージャのモンスターボールを手にして研究所から戻ってきた。少しの躊躇いもなく、それを歴戦のトレーナーへと手渡した。ツタージャは自らのつるを伸ばしてボールの中央のボタンを押し、赤い光に包まれながらその内部へと吸い込まれていった。「やったぜ!」サトシはモンスターボールを天高く掲げながら歓声を上げた。「新しい仲間を……ゲットしたぞ!」

アニタは呆気にとられた表情で、ほとんど驚愕に近い眼差しでサトシを見つめた。その子供のように純真な喜びの爆発は、テレビの画面や配信の映像を通して憧れ続けてきた世界王者の公の姿とは、あまりにもかけ離れていたからだ。世界大会の決勝の舞台で見せていた彼の眼差しは、常に張り詰めた真剣さに満ち、研ぎ澄まされた威厳を放っていた。まさに不敗の覇者そのものだった。しかし、目の前にいる彼は、ずっと欲しかった宝物を手に入れて相好を崩す無邪気な少年にしか見えなかった。

「あの方……本当に、ものすごく熱い人なのね」セレナにかろうじて聞き取れるほどの小さな声で、アニタは呟いた。

カロス出身の少女は、全てを心得たような笑みを浮かべて彼女を振り返った。「そのうち慣れるわよ」彼女はそう答えた。

「そのうち慣れるわよ」その何気ない一言が、新米トレーナーの頭の中で卓球の球のように激しく跳ね回った。

慣れるって、一体どういう意味なのだろう。

そうしている間に、サトシは手持ちとして連れてきていたポケモンたちを、新しく仲間に加わったツタージャも含めて全員ボールから外へ呼び出していた。「お前たちに紹介したい仲間がいるんだ」新参のパートナーに向けて少年が言った。「ほら、こっちだ。ゲンガー、ゴウカザル、オンバーン、そしてルカリオだ」世界チャンピオンのポケモンたちが一斉に新しい仲間の元へと歩み寄り、ツタージャもまた、彼ら一人ひとりに対して礼儀正しく敬意を払って接した。彼女には、彼らが纏う桁違いの強さと不屈の闘志が肌身に染みて理解できていた。自らのつるを伸ばして四匹の先輩たちに丁寧に挨拶を交わすと、彼らもまた快く応じ、新しい仲間の加入を温かく歓迎した。

「ねえサトシ、そろそろ話してもいいんじゃないかしら」仲間たちと打ち解けるツタージャを見守っていたサトシに向けて、セレナが声をかけた。

カロス出身の少女の言葉は、アニタの頭の中をさらに大きな混乱の渦へと突き落とした。「さっきは『そのうち慣れる』なんて言われて、今度は大事な話があるだなんて……一体何が起きているの?誰か別の人と間違えられているの、それとも、悪質なドッキリ番組の隠しカメラにでも引っかかっているのかしら?」不安のあまり、彼女の胃袋がきりきりと締め付けられるようだった。

「あ、そうだった!俺たちがどうしてここまでやって来たのか、まだ話していなかったな」サトシは自分の世界から引き戻されたように声を上げた。彼は、王者の手持ちポケモンたちを呆然と見つめていた新米トレーナーへと向き直った。

とりわけ、彼女の視線はオンバーンとゴウカザルの二匹に釘付けになっていた。これまでの人生で一度も実物を見たことがないほど、圧倒的な存在感を放っていた。

前者は竜の血を引く威圧的な姿をしていた。巨大な蝙蝠のような巨体に、大きな耳、首元を覆う純白の豊かな体毛。見る者を竦み上がらせる外見とは裏腹に、その佇まいは至って穏やかだった。アニタはおずおずと端末を向けた。「オンバーン、おんぱポケモン。飛行・ドラゴンタイプ。オス。カロス地方原産。暗闇の中を飛び回り、岩をも砕く超音波で獲物を弱らせた後、鋭い牙で仕留める。覚えている技、ドラゴンクロー、ばくおんぱ、エアスラッシュ、シザークロス」

続いて彼女の視線はゴウカザルへと移った。歴戦の猿の戦士といった風貌だった。頭上で燃え盛る火炎は数メートル離れた場所にまで強烈な熱気を放ち、身に纏う黄金の装飾は達人の風格を漂わせていた。紅蓮の体毛とは対照的な青い瞳には、燃えるような闘志が宿っていた。彼女は手早くスキャンした。「ゴウカザル、かえんポケモン、炎・格闘タイプ。オス。シンオウ地方の最初のパートナーの一匹であるヒコザルの最終進化形。四肢を縦横無尽に駆使する独自の格闘術を用いる。頭上の炎が消えることは決してない。覚えている技、フレアドライブ、あなをほる、ほのおのパンチ、インファイト」

端末を下ろしたアニタの隙を突くように、サトシとセレナが歩み寄ってきた。「あなたに、とても大切なお話しがあるの」セレナが真剣な面持ちで口を開いた。

「俺たちがここまで足を運んできた、本当の理由なんだ」サトシが友人の言葉を引き継ぎ、話を結んだ。

「その、理由……?」消え入りそうな細い声で、アニタは怯えながら問い返した。

「なあ、俺の何より大きな夢は、ポケモンマスターになることなんだ」サトシは静寂を破り、口火を切った。

「それに、私がどうやって力になれるっていうんですか?私は今日トレーナーになったばかりの素人で……サトシさんは世界王者なんですよ……」二人がどれほど気さくに接してくれようとも、アニタの萎縮した態度は解けそうになかった。

「ポケモンマスターになるために欠かせない、大事な一歩が何なのか、ようやく分かったんだ。そしてそれを果たすためには、どうしてもお前の力が必要なんだよ」アニタは操り人形のようにぎこちない動きで、サトシへと視線を向けた。

「頼むから嘘だと言って!私がチャンピオンの力になるなんて、どう考えたってあり得ないじゃない!いつになったら司会者が飛び出してきて、全部偽物でしたってネタばらししてくれるの?今に大勢の人たちから指を差されて笑い者にされるんだわ!」少女の頭の中は絶望的な被害妄想で埋め尽くされていた。

サトシは彼女を落ち着かせようと穏やかな笑みを浮かべた。目の前の少女が、頭の中でどれほど破滅的な大惨事を想像して取り乱しているのかなど、純朴な彼には夢にも思い至らなかった。

「ねえ、本当のマスターっていうのは、ただバトルに勝ち続けるだけの人のことじゃないと思うんだ。自分が学んできたことを誰かに伝えることができなきゃいけない。誰かが自分の道を見つけるのを手助けして、その子が自分のポケモンと心を通わせられるように導いてあげること。自分のこれまでの経験を惜しみなく注ぎ込んで、別の誰かを育て上げることなんだ」少年は言葉を区切り、アニタの目を真っ直ぐに見つめた。「俺は、お前にその相手になってほしいんだ。お前と一緒に旅をして、お前が一人前になるまでの道のりを支えたいんだ」

アニタは一瞬息を呑み、その途方もない申し出を頭の中でうまく処理できずに立ち尽くした。やがて、自らが背負ってきた生々しい境遇の重みが、大きな岩のように容赦なく肩にのしかかってきた。「私……私がそんな大役にふさわしい人間なのか、分からないんです」彼女はミジュマルの方へと顔を背けながら、消え入りそうな声で呟いた。

「どうしてそんなふうに言うの?」セレナが隣から優しく問いかけた。

「だって私、自分の意志でここにいるわけじゃないんです。少なくとも、完全に自分の望みでここに来たわけじゃない」アニタの声がかすかに震えた。母親が語った過去の過ち、プラズマ団のこと、そして受け継いでしまった拭い去れない罪悪感が脳裏をよぎった。「私がトレーナーになったのは……そうしなければならなかったからです。誰かが過去に犯した過ちを、自分の手で埋め合わせるために。もし私一人の気持ちだけだったなら、きっと旅に出ることなんて絶対に選ばなかった」

サトシの顔から、明るい笑みがゆっくりと消え失せていった。誰かが本人の意志に反して何かを無理強いされること、とりわけポケモンと心を通わせる絆を結ぶことに関して強制されるような事態を、彼は何よりも嫌った。彼にとって、その絆は何かの義務から生まれるものではなく、純粋な喜びの中から芽生えるべきものだったからだ。「それなら、お前が本当にふさわしい相手なのか、俺にも確信が持てないな」サトシは怒りこそ滲ませていなかったものの、酷く真剣で、どこか悲しげな声音で言った。「誰かが無理やり何かをやらされるなんて、俺は絶対に嫌なんだ。たとえそれがポケモントレーナーになることだったとしてもね。俺自身はバトルも旅も心の底から愛しているけれど、そこに本人の心がこもっていないなら、やってみたって何の意味もないよ」

アニタはサトシに向かって小さく頷いてみせた。「正直に言えば……ほんの数分前までは、私も全く同じように考えていたんです。あなたがミジュマルと一緒に戦う姿を目の当たりにするまでは」少女は一歩前へと踏み出し、胸の内の気後れを必死に振り払おうとした。「テレビの画面越しにはあなたのバトルを数え切れないほど観てきましたけれど、こうして生で戦う姿を見るのは……まるで次元が違いました。あなたとミジュマルは、知り合ってまだ五分足らずのはずなのに、まるで何年も前からお互いを知り尽くしているみたいに見えたんです。お二人の姿を見ていたら、トレーナーになるってことも、自分が怯えていたほど恐ろしいことばかりじゃないのかもしれないって思えたんです」

サトシは彼女に向けて微笑みかけた。それこそが前を向く心だと言わんばかりの、どこまでも屈託のない、背中を押してくれるような笑みだった。

「だけど……」アニタの声が再び震えた。「それでも、あなたが求めているような大役に、私が応えられるかどうかなんて分からないんです。失敗するのが怖くてたまりません。期待を裏切ってしまうんじゃないかって、足がすくんでしまうんです」

セレナは少女の瞳を優しく見つめ返した。その怯えの色を、彼女は痛いほどよく知っていた。「その怖さ、私にもすごくよく分かるわ。旅に出たばかりの頃の私も全く同じだったし、今でも時々、その不安が胸をよぎることがあるもの。だけどね、私は信じることだけは絶対にやめなかったの」金髪の少女は決意を込めて小さく拳を握りしめた。「私は明確な夢を抱いてここまでやって来たの。イッシュ地方のクイーンになるという夢をね。ここでのトライポカロンは一筋縄ではいかないでしょうし、これまでとは競い合いの厳しさも全く違うはずよ。けれど私は、立ちはだかるどんな試練も、自分を高めるための糧にしてみせるわ。最後の最後まで決して諦めないこと……それはね、まさに彼から教わった大切な姿勢なのよ」彼女はサトシへと視線を投げかけながら、誇らしげに語り終えた。

胸の中に新たな灯火を宿した一行は、アララギ博士の案内を受け、約束通りカラクサタウンのポケモンセンターへと向けて車を走らせた。どうやら今日中にベルと顔を合わせる機会はなさそうだった。

いつもの紳士的な振る舞いそのままに、サトシは少女たちのために車の扉を開けて座席へと促した。二人が腰を下ろしたのを見届けると静かに扉を閉め、自身は最前列の助手席へと乗り込んだ。二十分にも満たない移動の末、車は町の中央にあるポケモンセンターの前へと滑り込んだ。到着した際も、サトシは行きと同じように真っ先に降り、少女たちが降りやすいように扉を開けてエスコートした。

博士は同乗者たちを促し、ポケモンセンターの建物の中へと足を踏み入れた。

外から見る建物の佇まいは素朴なレンガ造りで、カントー地方やカロス地方で見慣れた施設とそれほど大きな違いは見当たらなかった。決定的な違いは、その内部に広がっていた。ジョーイさんの受付窓口や順番を待つための腰掛け用の長椅子のほかに、品揃えの豊富な売店が併設されていたのだ。これまでサトシが旅してきた各地の施設とは、明らかに設計思想の異なる造りだった。

「こんにちは!」一行は声を揃えて挨拶した。

「いらっしゃいませ、こんにちは!」ジョーイさんが柔らかな声で応じた。「本日はどのようなご用件でしょうか?」

サトシは目の前の女性に視線を向けた。髪の色と身に纏う制服の違いを除けば、これまでの旅路で出会ってきた各地の同僚たちと瓜二つだった。髪の色は他の地方のジョーイさんたちに比べてやや深みのあるピンク色をしており、最大の違いはその服装にあった。着慣れた淡いピンクの作業着にエプロンという姿ではなく、深みのある濃いピンク色のシャツをきっちりと着こなしていたのだ。頭上の帽子だけは、他地方のものと寸分違わぬ意匠を保っていた。そして彼女の足元には、サトシとセレナがかつてカロス地方の旅路で幾度となく目にしてきたタブンネが寄り添っていた。

「ポケモンたちのお手入れですね?」女性は落ち着いた職務通りの調子で尋ねた。目の前に立つ少年が何者であるかを正確に把握してはいたものの、国家元首が窓口に現れたとしても決して乱すことのない、完璧な礼儀作法を崩さなかった。

「あ、はい!お願いします!」サトシは二人の少女を引き連れて受付台へと歩み寄った。サトシに続いて二人の少女もそれぞれのモンスターボールを差し出し、ピカチュウは軽やかに受付台の上へと飛び乗った。

「すぐにお預かりしてお戻ししますね」女性は優しく微笑んで請け合った。

「それじゃあ二人とも、私はこれで失礼するわね。くれぐれもアニタのことを頼んだわよ」博士はそう言い残して別れを告げた。

「ありがとうございました!」三人は背中に向けて挨拶を送った。

アニタは未だに、自分の身に起きている出来事のすべてが信じられずにいた。これが悪ふざけの作り話などではないことは、もはや疑いようのない事実だった。

十分ほどの時間が流れた後、ジョーイさんが三人に声をかけた。白いプラスチック製の台座にしっかりと固定されたモンスターボールが、受付の上に整然と並べられていた。

ピカチュウはサトシのボールの脇に凛々しく立ち上がり、いつでもトレーナーの肩へと飛び移れる体勢を整えていた。

「お預かりしたポケモンたちはみんな、とても健康そのものですよ。皆さんが深い愛情を注いで大切に育てているのがよく分かります」女性は満足そうに微笑んだ。

三人はポケモンセンターの外へと足を踏み出した。アニタの顔には隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。博士という頼もしい後ろ盾が去ってしまった今、まるで吹きさらしの荒野に一人で放り出されたような心細さを感じていた。今すぐにでも家に逃げ帰り、部屋に鍵をかけて今日の出来事をすべて夢の中に閉じ込めてしまいたかったが、目の前の世界王者の期待を裏切るわけにはいかないという強い思いが、彼女の足を地面に縫い止めていた。

建物を離れた直後、三人の視界の端に、ポケモンセンターからほど近い広場に集まる小さな人だかりが飛び込んできた。手頃な木箱の上に立ち、壇上に見立てて演説をぶつ奇妙な男を取り囲んでいたのだ。男は中世の騎士を連想させる衣装を身に纏い、白と灰色を基調とした羽織の上には、誰もが見紛うことのない特徴的な紋章が大きく掲げられていた。

三人の耳に、男が声高に叫ぶ言葉の数々がはっきりと届いてきた。その勧誘員は、宗教の導師のような狂信的な熱量と、大衆政治家のような巧みな弁舌を使い分けていた。「イッシュの市民の皆さん!ポケモンたちはもう限界を迎えています!トレーナーたちの身勝手な見栄や浅ましい道楽のために、傷つき倒れるポケモンたちの姿を見過ごすことに、皆さんはもう疲れ果ててはいませんか!」男の声は次第に張り詰めた高音へと達し、行き交う通行人たちの足を止めさせた。「ならば今こそ、プラズマ団に加わるのです!あまりにも長い間、トレーナーたちはポケモンたちを不当な隷属状態に置き、まるで知性の劣る下等な生き物であるかのように意のままに従属させてきました!そしてさらに許し難いことに……」男は民衆の目を鋭く見回し、計算し尽くされた間を置いた。「彼らはポケモンを都合のいい暴力装置として悪用し、我々一般市民に対して不当な優位を築き上げて私腹を肥やしているのです!ゲーチス様に従いなさい!そうすれば、この腐敗しきった社会構造を根底から覆すことができます!ポケモンたちは人間の不当な支配から解き放たれ、本来の真なる自由を取り戻すのです!」

サトシの全身の血が、怒りで沸騰した。その恥知らずな出鱈目を、これ以上黙って聞き流すことなど到底できなかった。「お前、よくもそんな大嘘を平気な顔で言えたな!」彼は人混みを強引に押し分けながら怒声を上げた。「トレーナーとポケモンが一緒にいることは、この世界で一番素晴らしいことなんだ!それは固い友情であって、奴隷扱いなんかじゃない!俺たちの誰も、無理やりポケモンを従わせたことなんて一度だってあるものか!」

サトシの声は激しい怒りに震えており、胸の内で燃え盛る激昂を覆い隠そうともしなかった。トレーナーの激しい感情に共鳴するように、ピカチュウもまた野生の本能を剥き出しにした。赤い頬袋からバチバチと激しい火花が散り、青白い電撃が唸りを上げた。

フードの下で、勧誘員の口元に冷酷な笑みが浮かんだ。男は最初から、この瞬間を引き出すことだけを狙っていたのだ。「皆さん、ご覧なさい!」男は激高する電気ネズミを指差して勝ち誇ったように叫んだ。「この剥き出しの暴力を!」そして男は、挑発的な流し目でサトシを射すくめた。「それで、どうするつもりだね、少年?当ててみせようか……その自慢のお友達のピカチュウとやらに命令して、私を攻撃させる気かね?私が不都合な真実を口にしたというだけの理由で、電撃で丸焦げにしてこの上から叩き落とそうというのかね?」

周囲の空気に呑まれ、持ち前の直情径行な気質が災いしたサトシは、その露骨な罠に気づくことができなかった。「ああ、ちょうどそうしてやろうかと思ってたところだ!」彼は拳を固く握りしめ、売り言葉に買い言葉で怒鳴り返してしまった。「ピッカ、ピカチュウ!」電気ネズミもまた、低く凄みのある声を上げて敵意を露わにした。

群衆の間から、ざわめくような非難のどよめきが沸き起こった。

「これこそが、この世界を蝕む歪みの正体だ!」プラズマ団の男は両腕を天へと広げ、まるで理不尽な迫害に耐える殉教者のように叫んだ。「この少年のごときトレーナーどもは、己と意見を異にする者を暴力で叩き潰すためにポケモンを道具として悪用する!これはあからさまな脅迫だ!力こそが正義だと言わんばかりの横暴ではないか!」

男を取り囲んでいた群衆は熱狂的な歓声を上げ、煽られるがままにサトシに向けて冷たい敵意の眼差しを向け始めた。

「なっ……違う!俺たちは誰かを力で脅そうとなんてしてない!」自らの失言に手遅れになってから気づいたサトシは、慌てて弁解を試みた。周囲の人々の冷淡な反応に、彼はますます激昂し、同時に激しい混乱に陥っていた。大衆心理の移ろいや人前での見せ方を誰よりも熟知していたセレナは、この場の力関係が完全に崩壊したことを瞬時に悟った。

サトシは技を一つも繰り出すことすらなく、完全にこの言論戦に敗北していた。「サトシ、もうやめて!」彼女は少年の腕を強引に掴んだ。

「その男に踊らされているのよ!ここから離れましょう!」幸いにも、事態が物理的な衝突へと発展する前に、少女は世界王者の体を力づくで引きずり出すことに成功した。

「待って!アニタさんはどこに行ったの?」サトシをどうにか落ち着かせた後、セレナは新米トレーナーの姿が見当たらないことに気がついた。アニタにとってはこれが生まれて初めての旅であり、一人きりで外の世界に出るのもおそらくこれが最初の経験のはずだった。

二人は血眼になって周囲を探し始めた。

アニタは人混みの波に押し流され、サトシとセレナの姿を完全に見失ってしまっていた。一刻も早く二人の元へ戻りたかった。たった一人で立ち尽くすこの場所は、心細くて仕方がなかった。自分を奮い立たせるため、少女はモンスターボールから相棒のミジュマルを外へ呼び出した。少なくとも、これなら一人きりではなくなる。二人と合流しようと焦るあまり、少女は町の入り組んだ路地裏へと迷い込んでしまった。「大丈夫かい?」突然背後から投げかけられたその簡潔な問いかけに、少女の肩が大きく跳ね上がった。

足元を歩いていたミジュマルは瞬時にホタチを構え、迎撃の姿勢をとった。

「落ち着いて。戦うつもりはないよ」少女とラッコのポケモンは、声の主の方へと恐る恐る振り返った。二人の目の前に立っていたのは、淡い緑色の長い髪を揺らす背の高い痩身の青年だった。黒い帽子を被り、白い上着に薄茶色のズボン、足元には緑色の靴を履いていた。首元には太陽系を模したペンダントが揺れていた。腕には幾重もの腕輪を巻き、腰のあたりからは不思議な幾何学模様の立体パズルがぶら下がっていた。

「あ、あなた……ま、まさかプラズマ団の仲間じゃないでしょうね!」緑色の髪の青年は、静かに首を横に振った。「僕が何者であるかに、どんな意味があるというのかな」短く静かな沈黙が流れた。「君がポケモントレーナーであることは見れば分かる……立ち入ったことを聞いてすまないけれど、君のポケモンと話をさせてもらってもいいかい?」青年が尋ねた。

「ミ、ミジュマルと話をする……?」少女は今すぐにでもミジュマルを腕に抱き上げ、サトシやセレナのいる場所へと全速力で逃げ帰りたかった。二人のそばにいれば、絶対に安全なはずだった。しかし、全身を支配する恐怖のあまり、足が一歩も動かなかった。

そうしている間に、青年はラッコポケモンの前に膝をついた。相手に敵意がないことを敏感に感じ取ったミジュマルは、構えていたホタチをお腹の定位置へと静かに戻した。

「ミジュマルはこう言っているよ……」青年の口から出た言葉に、アニタは耳を疑った。ポケモンが言葉を話すだなんて、一体どういう冗談なのだろう。

「君が驚くのも無理はないね。僕は幼い頃からずっと、ポケモンたちの声に耳を傾けて言葉を交わしてきたんだ。人間たちの言葉よりも、ずっと深く彼らの心を理解できる」青年は流れるように話題を切り替えた。「君がトレーナーである以上、自らの望みを果たすために、これから何十匹ものポケモンをモンスターボールの中に閉じ込めていくのだろうね。僕もまたトレーナーではあるけれど、ポケモンたちが本当にそんな生き方を喜んでいるのか、疑問を拭い去ることができないんだ。このミジュマルが僕に語ってくれた言葉が真実なのかどうか、今ここで確かめさせてもらうよ」アニタの混乱は頂点に達した。この青年は、自分にバトルを挑もうとしているのだろうか。もし戦うことでこの場から無事に立ち去ることができるのなら、受けて立つしかなかった。少なくとも、抗う努力だけはしてみせるつもりだった。

「おいで、チョロネコ!」青年が繰り出したのは、しなやかな猫の姿をしたポケモンだった。緑色の大きな瞳の縁から耳の付け根にかけて鮮やかな紅紫色の模様が走り、体の大半は艶やかな紫色に包まれていた。口元、額、胸、背中、そして前後の足先には滑らかなクリーム色の斑点模様が浮かんでいた。全体が紫色に染まった尾の先端は、波打つように逆立っていた。

アニタはバッグからスマホロトムを取り出し、目の前の猫ポケモンを素早く読み込ませた。「チョロネコ、しょうあくポケモン。悪タイプ。オス。愛らしい仕草で油断させて相手を近づけ、突如として爪で引き裂き嘲笑う。覚えている技、でんこうせっか、シャドークロー、ひっかき」

アニタはスマホロトムを素早くバッグへと収めた。ミジュマルは、自分が決して出鱈目を言っていなかったことをこの謎めいた青年に証明しようと、全身に闘志をみなぎらせていた。

「僕たちから仕掛けさせてもらうよ。チョロネコ、でんこうせっかだ!」青年が指示を下した。猫ポケモンは地面を蹴り、目にも留まらぬ速さで相手へと突進した。どうすればいいの、とアニタは迫り来る脅威を前に思考を凍りつかせた。しっかりしなさい、サトシさんならこんな時どうするの。チョロネコはもはや目と鼻の先まで迫っていた。「お願い、躱して!」彼女は本能のままに叫んだ。並外れた反射神経を発揮したミジュマルは、衝突の寸前で左側へと体を鋭く捻り、突進してきた猫の爪に虚空を掴ませた。「これならどう……みずでっぽう!」ラッコの口から放たれた激しい水流は、至近距離という好条件も手伝って、無防備に晒された相手の脇腹を真っ向から捉えた。

「さあ、そのミジュマルの声を僕にもっと聞かせておくれ!チョロネコ、もう一度でんこうせっかだ!」少しも動じた様子を見せず、エヌは畳み掛けた。一撃を受けて四肢で着地したチョロネコは、態勢を立て直すや否や再び猛スピードで突進を開始した。だが今度のアニタは、先ほどのように狼狽えることはなかった。「アクアジェットで迎え撃って!」ミジュマルの全身が高圧の水流の衣で包まれ、彼自身が液体の弾丸へと変貌を遂げた。ミジュマルとチョロネコの激突はもはや避けられなかった。凝縮された衝撃力と激しく飛び散る水飛沫が炸裂し、両者は互いに大きく弾き飛ばされた。

手痛い衝撃を受けたにもかかわらず、ラッコのポケモンも猫のポケモンもすぐに身を起こし、体に付着した土煙を払った。ミジュマルは即座にお腹のホタチに手を添え、いつでも抜き放てる構えを取った。「どうやら、ミジュマルの言葉に嘘はなかったようだね……けれど、その子が君を守るために、どこまでの痛みに耐える覚悟があるのか、見極めさせてもらうよ」青年は、深い敬意とどこか物悲しい憂いを滲ませた声で静かに呟いた。

「チョロネコ、シャドークロー!」猫ポケモンの爪が大きく伸長し、不気味で禍々しい紫色の亡霊のようなオーラを宿しながら、最後の一撃を叩き込もうと跳躍した。

「負けないで!みずでっぽう、全力で!」新米トレーナーは心臓が口から飛び出しそうな緊張の中で叫んだ。ミジュマルは地面をしっかりと踏みしめ、その口から凄まじい勢いで奔流を放ち出した。凄まじい水圧の直撃を受けたチョロネコは空中で突進を完全にへし折られ、上方へと激しく弾き飛ばされた。意識を失った猫ポケモンが地面に落ちた時、このバトルの決着は誰の目にも明らかだった。チョロネコは力尽きていた。

青年は猫ポケモンをモンスターボールの中へと戻した。「がっかりさせてすまなかったね、チョロネコ」彼は心苦しそうに呟いた。敗北を悔やんだからではなく、単なる実験のためにポケモンを傷つけてしまったことを悔いていたのだ。

「けれど、忘れないでおくれ。ポケモンたちがモンスターボールの中に閉じ込められている限り、彼らが完全な存在になることは決してないんだ。彼らのため、僕の友達であるポケモンたちのために、この僕、エヌが世界を変革してみせる!」

青年は短く言葉を区切った。「でも、まずはこの子の手当てをしてあげるのが先決だね。君もそうした方がいい」

そう言い残すと、青年はポケモンセンターに向かって歩き出した。

アニタはミジュマルの傷を癒やすため、そしてサトシとセレナに再会できることを祈りながら、彼の後を追うことにした。

「あ、そこにいた!」ポケモンセンターのロビーに足を踏み入れた瞬間、アニタはその聞き覚えのある声をすぐに聞き分けた。

「すごく心配したんだからね!」セレナが駆け寄りながら声を張り上げた。アニタが振り返ると、そこにはまさに待ち望んでいた二人の姿があった。セレナ、サトシ、そしてピカチュウだ。「プラズマ団の連中に連れ去られたんじゃないかって肝を冷やしたぞ!」サトシが息を切らしながら言った。

「幸い、何事もありませんでした。私もミジュマルも無事です。ただ……」少女は口ごもった。

「ただ、何があったの?」二人は彼女の思い詰めた表情を見て尋ねた。

「ある男の子に会ったんです。トレーナーなんですけれど、外にいたあの人たちと同じように、ポケモンは人間から抑圧されているんだって主張していて」サトシとセレナは、男が今も声高にがなり立てている外の方へと反射的に視線を向けた。「どういうことだ?」二人は示し合わせたかのように声を揃え、セレナは不意に言葉が重なったことに少し頬を染めた。

サトシとセレナは怪訝そうに顔を見合わせた。「抑圧されているって、一体どういう意味なんだ?」サトシが尋ねた。

その問いの答えとばかりに、世界王者は腕を伸ばし、肩の上に乗った相棒の頭を優しく撫でた。「チャァ!」ピカチュウは幸せそうに声を上げ、自らトレーナーの手に頭をすり寄せた。

「ピカチュウが苦しそうに見えるかい?俺はこの子がいつでも最高の状態でいられるように全力を尽くしているし、手持ちの他の仲間たちに対しても同じ気持ちだ!」サトシは一点の曇りもない確信を込めて言い切った。

「私も全く同じ思いよ!」セレナも力強く頷いた。

「私もいつか、胸を張ってそう言えるようになれたらいいな……」アニタはミジュマルのモンスターボールを見つめながら呟いた。

「お前なら絶対にできるさ。いや、できるって俺が保証するよ!」サトシは持ち前の底抜けの明るさで彼女を励ました。だが次の瞬間、彼の表情は引き締まった。「もっとも、今はあのプラズマ団の連中のことを何とかするのが先決かもしれないけれどな」

「そう言っても、どうするつもりなの?過激な主張だとしても、自分の考えを街頭で口にするだけなら罪には問われないのよ、サトシ」サトシは言い返そうと口を開きかけたが、途中で押し黙った。セレナの言う通り、相手が言葉を並べているだけの段階では、こちらから手出しすることはできないのだと理解したからだ。

張り詰めていた空気が和らぎ、手当てを終えて元気を取り戻したミジュマルが少女の腕の中に戻ると、話題はより身近でありながらも、これからの旅立ちに欠かせない実際的な事柄へと移っていった。

「それで、お前の目指す目標はもう決まったのか?」サトシが純粋な好奇心から尋ねた。アニタは抱きかかえたポケモンの頭を撫でながら、しばらく口ごもった。「正直なところ……見当もつきません。もちろん、さっきのお二人のバトルは本当に素晴らしかったです。それに少し前、ポケモンの声が聞こえるって言っていたあの男の子とも戦いました」彼女は、エヌが残していった混迷した言葉を頭の中で整理するように間を置いた。「彼があれこれ言っていたこととは関係なく……認めざるを得ないんですけれど、バトルそのものはすごく楽しかったんです。胸の奥から不思議な力が湧いてくるような感覚がありました。でも、それが自分の進むべき本当の道なのかは、まだ自信が持てなくて」サトシはその気持ちを痛いほど理解し、優しく微笑みかけた。「焦る必要なんてないさ。自分が本当にやりたいことを見つけるには、それなりの時間がかかるものだからな」そこで、いつものように前向きなセレナが口を挟んだ。「ジム巡りから始めてみるのもいいんじゃないかしら。多くのトレーナーが、自分の腕試しと旅の目的を兼ねて、まずはポケモンリーグを目指すところから出発するわ」アニタは目を丸くして彼女を振り返った。「ポケモンリーグ……?私がそんな大舞台に挑戦できるなんて、本当に思っているんですか?」サトシの顔から笑みが消え、その表情は毅然とした厳格なものへと一変した。「最初からそんな弱気じゃ、絶対に手が届かないぞ」少年は決して突き放すのではなく、強い確信を込めた口調で諭した。「勝利を掴むための最初の鉄則は、自分ならできると信じ抜くことだ。お前が自分を信じてやれなくて、どうしてポケモンがお前を信じられるっていうんだ?」サトシの言葉は、突然吹き抜けた突風のようにアニタの胸を激しく揺さぶった。少女はミジュマルのモンスターボールをぎゅっと握りしめ、言葉もなく頷いた。彼の言う通りだった。けれど、その揺るぎない覚悟は、今の自分にはあまりにも遠い場所にあるように思えた。

「サトシ、あんまり最初から追い詰めちゃ駄目よ。あの子はまだスタートラインに立ったばかりなんだから」セレナは優しい笑みを浮かべ、少女の肩にそっと手を添えて宥めた。そして、調子を切り替えて現実的な話題へと進めた。

「何はともあれ、目標が決まっているかどうかにかかわらず、私たちと一緒に行くなら準備を整えなきゃね」アニタはきょとんとした。「準備、ですか?」

「そうよ。この手の本格的な旅に出るなら、食料の蓄えはもちろん、テントや寝袋だって揃えなきゃいけないわ」セレナは指折り数えながら、当たり前の日常のことのように淡々と説明した。「野宿をすることだって、しょっちゅうなんだから」

「テントで……寝るんですか?」アニタは驚きを隠せなかった。母親からは、旅にそんな過酷な側面があるなど一度も聞かされていなかった。彼女はてっきり、旅の間は各地のポケモンセンターに泊まるか、運が良ければ街のホテルに泊まるものだとばかり思い込んでいたのだ。まさか野宿だなんて露ほども考えていなかった。「当たり前だろ!それこそが旅の一番の醍醐味じゃないか!」サトシは先ほどの厳しさをすっかり忘れ去り、瞬時にいつもの無邪気な熱気を取り戻した。「どんなハプニングに出くわすか、どこで夜を明かすことになるか分からないのが最高なんだよ!」しかし、王者のこの底抜けの能天気さは、新しい仲間の不安の種をいたずらに増大させる結果にしかならなかった。

セレナはスマホロトムを取り出し、必要な道具を揃えられる店舗を検索し始めた。目当ての場所はすぐに見つかった。「運がいいわね。この街に本格的なアウトドア用品の専門店があるわ。そこからそう遠くない場所に食材店も揃っているみたい」彼女は二人に端末の画面を見せた。

ポケモンセンターを後にした三人は、最初の目的地へと歩みを進めた。先頭をセレナが歩き、サトシが続き、アニタがすぐ後ろを歩いた。最初に訪れたのはキャンプ用品の専門店だった。街の入り組んだ路地の一角に佇む、レンガ造りの集合住宅のグランドフロアに店舗を構えていた。広々とした陳列窓には、携帯用コンロ、アウトドア用ガス缶、頑丈な樹脂製の食器セットなど、取り扱い商品が整然と並べられていた。窓の反対側には寝袋が並び、設営時の参考写真とともに様々なテントの見本が展示されていた。吹き出しの形をした安売り広告の張り紙も目を引いた。二人用テントを二張りお買い上げで二張り目が半額、と誇らしげに記されていた。

三人は店内へと足を踏み入れた。「こんにちは!」一行は声をかけた。

「いらっしゃいませ!」店員が応対した。三十代とおぼしき橙色の髪に青い瞳の男性だった。緑のシャツの上に茶色いオーバーオールという店の制服を身に着けていた。「何かお探しですか?」彼は尋ねた。「ここにいらしたということは、ポケモンの旅に出るための装備をお探しですね。もっとも、世界王者のサトシ選手が、どうして駆け出しの初心者のような装備で旅をしたがるのかは不思議でなりませんが」余計な一言が口を突いて出た。サトシはあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。私生活にあれこれ詮索を入れられることを、彼は何よりも嫌った。自分の夢や目標を語ることは一向に構わないが、他人に品定めされるのは我慢ならなかったのだ。「本格的な旅に出られるのでしたら……」店員は商売用の声色へと切り替えた。「一通りの装備が必要になりますね。ですが運が良いですよ、当店では現在、破格の特売を行っておりますので。先ほどご覧になった二人用テントの半額セールの他にも、寝袋を三点お買い上げで四点目を無償進呈、さらにガス缶や食器セットもまとめ買いで大幅にお安くなります」男は事務的な調子で売り込みを並べ立てた。今日一日で何十人もの客を相手にしており、早く休憩に入りたくてたまらなかったのだ。同僚たちが一斉に休暇を取ってしまったせいで、広大な店内を一人きりで切り盛りさせられていた。彼は裏方で商品の補充や陳列棚の整理に没頭することを好み、接客対応を何よりも煩わしく感じていた。

あっという間に会計を済ませ、三人は必要な装備、そして明らかに不要な余剰品を抱えて店を出る羽目になった。一体どうして四つ目の寝袋など必要なのか。三人しかいない旅で、なぜ二人用テントが二張りもあるのか。サトシ一人なら、より軽量な一人用のテントで十二分だったはずだ。

おそらく、あの店員の苛立ち混じりの性急なペースに巻き込まれてしまったのだろう。理由がどうあれ、買ってしまったものは仕方がない。次の目的地は、そこから三百メートルほど離れた場所にある食料品店だった。店舗の看板にはプリスマートシティと掲げられていた。郊外に見られる一万五千平方メートル級の巨大店舗ではなく、近代的なビルのグランドフロアに収まった、三百平方メートルほどの小回りの利く地域密着型のスーパーだった。

足を踏み入れると、アニタは棚一面に几帳面に整頓された無数の商品を物珍しそうに見渡した。「ここでの買い物はすぐに終わりそうですね。荷物が重くならないように、最低限のものだけを選べばいいんですから」無邪気な調子で彼女が言った。「あなた、まだこの二人の胃袋の恐ろしさを知らないのね!」セレナはくすくすと笑いながら、少年とその相棒を指差した。「この二人は底なし沼なんだから。必要最低限なんて甘い買い方をしていたら、日が暮れる前に食糧危機になっちゃうわよ!」

「おいおい!セレナだってよく分かってるだろ!常に最高のパフォーマンスを発揮するためには、人一倍のエネルギー補給が絶対に欠かせないんだって!」サトシは必死に自己弁護し、肩の上のピカチュウも激しく頷いて、トレーナーの主張を全力で肯定してみせた。

買い物を終え、一人あたり二袋ずつ、あらゆる美味そうな食材でパンパンに膨れ上がった買い物袋を提げて店を出たその時、雷鳴のような轟音が響き渡り、アニタをぎょっとさせた。

「どうやらお昼ご飯の時間みたいね」セレナがおかしそうに微笑んだ。「この子たちのお腹は、どんな精密時計よりも正確なんだから」

パフォーマーの少女は再びスマホロトムを操作し、一行をファストフード店へと案内した。

街の真ん中で自炊を始めるわけにもいかず、まだポケモンセンターの宿泊手続きを済ませていないため、備え付けの調理場を借りることもできなかった。何より、サトシとピカチュウが空腹のあまり暴発する前に、予約なしで飛び込める一般の飲食店を見つけ出すのは至難の業だった。

その店はブリッツバーガーという名だった。イッシュ地方全域に展開する有名なチェーン店の一つで、店内は実に多彩な客層で賑わっていた。幼い子供を連れた家族連れ、放課後の学生たち、短い昼休みを終えてすぐに職場へ戻らなければならない会社員たち、そして彼らと同じように街を通過中の旅人たち。

満席に近い盛況ぶりにもかかわらず、店員たちの動きは極めて迅速で、注文待ちの列は淀みなく進んでいた。自分たちの順番が回ってくると、まずは少女たちが先に注文を済ませた。セレナはサクサクのハンバーガーに彩り野菜のサラダを添え、無糖のアイスティーを選んだ。続いてアニタの番となった。彼女は王道のチーズバーガーとフライドポテトを頼んだが、飲み物の選択で仲間たちを驚かせた。「それと……バッカチノーゼロを一本、持ち帰りの大瓶でお願いします」分け合うことを前提にした確信に満ちた口調で、彼女は店員に告げた。

「ふふ、これでお二人にも飲んでもらえますね。保証しますけれど、鉄でも溶かして消化できちゃうくらい胃がすっきりするんですよ」一行と合流して以来、アニタが軽口を叩いたのはこれが初めてだった。

そして最後にサトシの番がやってきた。少年は深く息を吸い込むと、まるで呪文でも詠唱するかのように商品名と番号を淀みなくまくし立て、連隊ひとつを賄えるほどの途方もない量を注文し、レジ係を驚愕と呆れで硬直させた。

空いている席を見つけて山積みのトレイを並べ終えると、好奇心の時間が訪れた。「なあ、それ一口飲んでみてもいいか?」サトシがアニタの前に置かれた黒ずんだ瓶を指差して尋ねた。

「聞いたこともない名前だな。それに……これだけの量を平らげるなら、胃袋の助けになってくれた方がありがたいし」少年は誇らしげに積み上げられた自分の食事を前にして笑った。

「もちろん!そのために大きいのを頼んだんですから!」サトシはその濃い色合いの炭酸飲料をコップに注ぎ、いつもの甘いコーラのような味を期待して勢いよく喉へと流し込んだ。次の瞬間、彼の顔面は筆舌に尽くしがたい形相へと歪み、目をぎゅっと細めて舌をべったりと突き出した。「うわっ、苦っ!なんだこれ、信じられないくらい苦いぞ!」彼は口の中の苦味を洗い流そうと、必死の形相で水を求めて手を伸ばした。

アニタは思わず吹き出した。サトシの見せた反応は、まさに彼女の思惑通りだった。彼女は落ち着き払った手つきで自分のグラスに黒い液体を注ぎ、心底満足そうな表情でそれを味わった。「これはバッカチノーの果実から抽出したエキスで作られているんです。とても苦味の強い木の実なんですよ」

サトシがまだ舌の上にこびりついた強烈な苦味を拭い去ろうともがいていると、その大騒ぎに興味を惹かれたセレナが口を挟んだ。「もう、サトシったら大げさなんだから!」少女は呆れたように首を振りながら優しくたしなめた。そしてアニタへと向き直った。

「私にも一口味見させてくれる?いくらなんでも、そこまで酷い味のはずがないもの」アニタは彼女のグラスにも黒い液体を注いだ。セレナは上品にグラスを口元へと運び、小さく一口含んで飲み込んだ。

刹那の間、彼女の表情は凍りついた。やがて背筋を冷たい悪寒が駆け抜け、口元に保っていた完璧な笑みの端がピキピキと引きつった。サトシのように叫び声を上げる無作法こそ晒さなかったものの、強烈すぎる苦味の衝撃にその瞳は大きく見開かれていた。「どうですか……?」アニタが悪戯っぽく尋ねた。「ええと……すごく……個性的なお味ね……」セレナはわずかに上ずった引きつり声で答え、口の中に居座る味を消し去ろうと、大急ぎで自分のアイスティーへと手を伸ばした。「なんというか、思っていたよりもずっと刺激的な風味だわ……」アニタは堪えきれずに笑い声を漏らした。「セレナさんはすごく穏やかで優しくて上品な方ですから……きっと気に入っていただけると思ったんですけれど」

だが、本当の宴が幕を開けたのは、彼らが手持ちのポケモンたちをボールから出し、彼らにも昼食を与え始めてからのことだった。サトシがそれぞれの器に山盛りのポケモンフーズを注ぎ込むと、彼のチームは凄まじい勢いで食事へと群がった。ゴウカザルは猛烈な闘志をそのまま食欲に変えたかのように大口で丸呑みし、ゲンガーは自慢の長い舌を器用に伸ばして自分の器を平らげるばかりか、隣の仲間の器にまで舌を這わせて意地悪そうにくすくすと笑っていた。ルカリオは最初のうちこそ誇り高く礼儀を保とうとしていたものの、数瞬の後には他の仲間たちと全く同じ猛スピードで器を空にしていた。

その壮絶な混沌に魅了されたアニタのミジュマルも先輩たちを見習って真似を試みたが、器の半分を派手にひっくり返して自分の顔中をソースで汚すという無様な結果に終わった。

しかし、その野性味あふれる饗宴の只中にあって、ただ一匹だけ明確な例外が存在していた。ツタージャだった。草蛇ポケモンは、まるで貴族のように優雅に、極めて落ち着き払った所作で食事を進めていた。自慢の二本のつるのムチを銀のフォークとナイフであるかのように器用に使って、一度に一粒ずつのドライフードを上品につまみ上げては口へと運び、一口食べるごとに口元を綺麗に拭っていた。アニタはその洗練された姿にすっかり見惚れていたが、同時にある明白な事実に気づかされた。この食事の作法に関して言えば、ツタージャは自らのトレーナーのチームよりも、マフォクシーやニンフィアといったセレナのポケモンたちと驚くほど気質が一致していたのだ。

ツタージャ自身もまた、この食事を通じて新しい主の友人が連れているポケモンたちの観察を進めていた。彼らからは荒々しい闘争の気配こそ感じられなかったが、だからといって魅力に欠けるわけでは決してなかった。少なくともマフォクシーやニンフィアからは、洗練された優美さと凛とした品格が漂っていた。

昼食を終えた三人は、肩の上にとどまるピカチュウを除くすべてのポケモンたちをモンスターボールへと戻し、店を後にした。

「立ち入ったことをお聞きしてもいいですか……」アニタが尋ねた。

「何でも聞いてくれよ」サトシが答えた。「どうしてピカチュウだけは、いつもモンスターボールの外に出しているんですか?」サトシは肩の上の相棒へと顔を向け、その頭を優しく撫でた。「こいつは、あの狭い空間の中に閉じ込められるのが大嫌いなんだよ。最初に出会ったあの日から、はっきりとそう主張してきたんだ。そうだろ、相棒?」ピカチュウは満面の笑みを浮かべ、明るく甲高い鳴き声でトレーナーの言葉を肯定してみせた。

新米トレーナーは、ミジュマルに外にいたいのかボールの中がいいのか尋ねることもせず、自分の判断だけで戻してしまったことが本当に正しかったのかと自問した。

アニタは物思いに耽りながらポケットの中のモンスターボールをそっと握りしめたが、その思考の波は世界王者の尽きることのない活力によって遮られた。

「腹ごしらえも済んだことだし、そろそろ出発しようぜ。次はどこへ向かうんだ?」待ちきれないといった様子でサトシが尋ねた。セレナはスマホロトムを取り出し、地図の画面を開いた。「一番近いジムはサンヨウシティにあるわ。ここからそう遠くない街よ」画面を指先で滑らせながら彼女は説明した。「でも、今すぐ出発したら、森の中でテントを張って夜を明かすことになりそうね。明日の朝早くに出発する手もあるけれど。ジムについての情報も調べておくわね。二人はどうしたい?」カロス出身の少女が問いかけた。「俺は明日出発でも全然いいと思うぞ」サトシは軽くあくびを噛み殺しながら答えた。

「私も賛成です」アニタも続けた。「もう一晩だけでも、ちゃんとしたベッドで眠りたいですから」

「そうね、二人とも言う通りかも。今日はいろいろなことがありすぎて胸がいっぱいだったもの……あ、ジムの情報が見つかったわよ。草タイプ、炎タイプ、水タイプをそれぞれ専門にしているみたいね」画面の文字を追いながらセレナが言った。

サトシは腑に落ちない様子で頭を掻いた。「三つの異なるタイプを専門にするジムなんて、どういうことだ?今まで俺が戦ってきたジムは、どこも一つのタイプに絞っていたのに」

その瞬間、少年の瞳の奥に激しい興奮の光が宿った。彼は勢いよくアニタの方へと向き直り、彼女の両肩を掴んだ。「それって、とんでもなく面白い挑戦になるってことじゃないか!いいかアニタ、お前はまだ始まったばかりだ。あそこに挑む前に、まずは特訓をしなきゃな!それに新しい仲間も絶対に捕まえる必要があるぞ!ミジュマルももちろん素晴らしい力を持っているけれど……それにしっかりとした作戦も要るし、とにかく……」

「サトシ!ちょっと、サトシってば落ち着いて!」セレナは思わず吹き出しながら彼の肩に手を置き、その暴走を制した。

「少し息をつかせてあげなさいよ。今日はゆっくり休もうって決めたばかりでしょ?特訓は明日からで十分よ」

「あ……うん、セレナの言う通りだな。ポケモンセンターに行って今夜の部屋を押さえるとするか」サトシは苦笑いしながら頷いた。

三人は午前中にアララギ博士を見送った、あの馴染みの施設へと足を運んだ。自動扉を抜けると、ジョーイさんが柔らかな笑みで出迎えてくれた。「こんにちは!どのようなご用件でしょうか?」

「こんにちは。もし空きがあれば、今夜の部屋を二部屋お願いしたいのですが」セレナが尋ねた。ジョーイさんは壁に掛けられた鍵掛けの板へと視線を向けた。「ちょうど運が良かったです。二人部屋と一人部屋がひとつずつ残っていますよ。こちらが鍵になります。緑の札が付いているのが一人部屋で、白い札が付いているのが二人部屋です」

ジョーイさんはセレナに鍵を手渡した。セレナは一人部屋の鍵をサトシに渡し、二人部屋の鍵は自分とアニタのために手元に残した。

「あの、ちょっとお聞きしたいんですけれど、裏のバトルフィールドをお借りしてもいいですか?」サトシが期待に胸を膨らませて尋ねた。

「ええ、構いませんよ。ご自由にお使いください」ジョーイさんは快く応じた。

「サトシ、さっき何て言ったか覚えている?」セレナは腕を組み、呆れたように彼を見つめた。

「ほんの少し、軽い運動をするだけだからさ!頼むよ!」

「もう、仕方ないわね!でも絶対に熱くなりすぎないこと。アニタさんはまだ今日始めたばかりの初心者なんだからね」

三人は建物の外へと出て、裏手のバトルフィールドへと回った。

敷地の右手に広がる、何の変哲もない土のコートだった。周囲の長辺には観戦者用のベンチが並び、向かい側には審判員のための立ち位置が白線で引かれていた。「あいつとすでに一度戦ったって言っていたよな?」サトシが尋ねた。歴戦のトレーナーにとって、アニタがすでに初陣を経験しているという事実は極めて大きな意味を持っていた。

「俺は理屈を並べるより、体を動かして覚える方が性に合っているんだ。お前さえ良ければ、早速始めようぜ」サトシは満面の笑みを浮かべ、腰のポーチからモンスターボールを取り出そうとした。

「よし!それならツタージャを出して、それで……」

「そこでお止まり!」セレナが両手を腰に当て、すかさず彼の前に立ちはだかった。

「ツタージャなんて絶対に駄目よ」サトシはポーチに手を突っ込んだまま、きょとんとした顔で彼女を見つめた。

「えっ?でも、さっき許可してくれたじゃないか!」

「私がいいって言ったのは、あくまで軽い手解きのことよ。ツタージャを出したら、草タイプと水タイプで最初から相手が不利じゃない。それにサトシのことだから、夢中になって歯止めが利かなくなるに決まっているわ」セレナは苦笑交じりに首を横に振ると、アニタの方へと向き直った。

「今回は、私が落ち着いて基本の動きを教えてあげる方がいいと思うの。サトシには審判と助言役に回ってもらいましょ。それでどうかしら?」

サトシは一瞬だけ口を尖らせたが、すぐに彼女の言う通りだと納得した。

「分かったよ。でも、優しく教えてやってくれよな!」アニタは胸を撫で下ろした。世界王者を相手にいきなり戦うのは荷が重すぎたが、セレナならずっと根気強く寄り添ってくれそうに思えたからだ。

二人の少女は、土のフィールドの両端へとそれぞれ向かい合って立った。「これは練習試合だからね。勝ち負けにこだわる必要はまったくないわ。大事なのは、自分のポケモンがどんなふうに動くのかを肌で覚えることよ」セレナが優しく説いた。アニタは緊張を滲ませながら、ミジュマルのボールを握りしめて頷いた。「はい、分かりました」

「ヤンチャム!出番よ!」セレナが繰り出したのは、小さなパンダの姿をしたポケモンだった。頭部と尻尾は上品な象牙色で、丸みを帯びた耳と胴体は艶やかな黒に覆われていた。口元には生意気そうに小さな笹の葉をくわえていた。

アニタは即座にスマホロトムを起動した。「ヤンチャム、わんぱくポケモン。格闘タイプ。オス。凄みのある目つきで相手を睨みつけるが、迫力不足で本気で怖がられることは少ない。主な技、れいとうパンチ、ストーンエッジ、つっぱり、あくのはどう」

アニタも覚悟を決め、相棒のミジュマルをフィールドへと送り出した。

「ヤンチャム、相手はまだ慣れていないんだからね。決してやりすぎちゃ駄目よ」パンダのポケモンは心得たように自らの胸を小さく叩いてみせた。「そちらからどうぞ、仕掛けてきて」セレナが促した。

「本当に、私からでいいんですか?」アニタは躊躇いがちに尋ねた。「さっき男の子と戦った時は、向こうから攻めてきたので」

「いいのよ。今回はこちらから動くけれど、公式戦では一瞬の躊躇が命取りになることもあるからね」セレナは凛とした構えを取りながら忠告した。「本当は、あなたたちのほうから思い切って飛び込んできてほしかったけれど」アニタは小さく頷き、その教えを真摯に受け止めた。

「行くわよ、ヤンチャム!まずはストーンエッジ!」パンダが力強く地面を殴りつけると、鋭利に尖った青い巨石の刃が地表を割り、凄まじい勢いでラッコポケモンへと迫った。「ミジュマル、避けて!それからたいあたり!」ミジュマルは右側へ鋭く跳躍して間一髪で岩の切っ先を躱し、そのまま相手の懐へと一直線に突進した。セレナは冷静に間合いを測り、絶妙な瞬間まで引きつけた。ミジュマルはもはや目前まで迫っていた。「ヤンチャム、つっぱり!」パンダの掌が白く発光した。ヤンチャムは突進してきたミジュマルの勢いを受け止めつつ、強烈で正確な張り手を胸元へと叩き込み、ラッコの体を数メートル後方へと弾き飛ばした。小さな体は土煙の中を転がり、苦しげな呻き声を漏らした。

「ヤンチャム!あんなに言ったのに!」打撃の激しさに肝を冷やしたセレナが叱責した。

「いや、あれでいいんだよ!」コートの脇からサトシが声を張り上げた。「口を挟むようで悪いけれど、本気でぶつかり合わなきゃ、本当のバトルの感覚なんて身につかないじゃないか!」セレナは不満げに眉をひそめて振り返った。

「じゃあどうしてサトシが戦わなかったのよ、そんなに手加減なしでやりたいなら!」

「俺はただ、バトルっていうのは真剣勝負なんだって肌で感じてほしかっただけで……」サトシは降参するように両手を挙げて弁解した。「セレナの邪魔をするつもりじゃなかったんだ」

「もう、分かったわよ」セレナは納得しきれない様子ながらも言葉を切った。

「ミジュマル、大丈夫……?」アニタは胸を締めつけられる思いで相棒を見つめた。視線を感じ取ったミジュマルは、痛みに耐えながらも力強い眼差しで立ち上がり、体に付いた砂埃を払い落とすと、ヤンチャムに向けて猛然と唸り声を上げた。

「ほら、見たか?」サトシが誇らしげに笑った。「ミジュマルだって、もっと本気でやり合いたいんだよ」

ミジュマルは気合の乗った鳴き声でそれに応えた。「よし、それなら行くわよ!」アニタも胸の奥から湧き上がる闘志を取り戻した。「アクアジェット!」ミジュマルの全身が高圧の水流の衣を纏い、勢いよく跳び上がって液体の弾丸と化し、パンダへと突進した。

「早く、れいとうパンチで受け止めて!」セレナが指示を飛ばした。ヤンチャムの拳が瞬時に分厚い氷の層で覆われた。ポケモンは衝突の刹那を見切り、ミジュマルの本体ではなく、周囲を渦巻く水流そのものへと拳を叩き込んだ。冷気は一瞬にして伝播した。激突の瞬間に技の水流がことごとく凍りつき、ミジュマルは歪な氷の檻に閉じ込められる形で空中に縫い止められてしまった。「今よ、つっぱりで壊してあげて!」動けない相手を痛めつけることを嫌ったセレナが即座に指示を出した。ヤンチャムの掌底が氷の塊を強打し、粉々に砕け散らせて相手を解放した。激しい冷気に震えながら、ミジュマルは周囲に散らばる氷の破片の中へと着地した。「まだ終わってないわ!もう一度アクアジェット!」アニタは無我夢中で叫んだ。ミジュマルの体が再び水流を纏ったが、極度に低下した周囲の温度と、渦巻く水流に巻き込まれた無数の氷の破片が作用し、放たれたアクアジェットは推進の最中にその場で凍結を始めた。幼いポケモンは、全身を覆う重厚で硬質な氷の鎧の重量を制御しようと、懸命に踏ん張った。

「そのまま突っ込めって指示を出すんだ!今すぐに!」何が起きているのかを瞬時に理解したサトシが叫んだ。「あ……はい!お願いミジュマル、そのままぶつかって!」ラッコのポケモンはありったけの力を振り絞って氷の砲弾と化した己の軌道を制御し、ヤンチャムの胴体へと真っ向から激突した。衝撃は凄まじく、氷の殻が粉々に砕け散ると同時にパンダの巨体が宙を舞い、地面へと叩きつけられた。

両者ともに地面に倒れ伏し、激しい息を乱していた。ヤンチャムは頭を押さえながらふらふらと身を起こし、ミジュマルも肩で息をしていた。「そこまで!ここまでにしましょう」セレナは戦いを止め、愛着を込めてポケモンをボールへと戻した。サトシが興奮を隠せない様子でコートの中央へと駆け寄ってきた。「二人とも本当にすごかったぞ!ヤンチャムもミジュマルも最高の戦いぶりだった!」アニタは信じられない思いだった。あの世界王者が、自分たちの泥臭い戦いを褒めちぎってくれたのだ。

「ミジュマル、初めてなのに見事な氷のアクアジェットを繰り出してみせたな!」サトシが言った。「氷のアクアジェット……?」二人の少女は声を揃えて目を丸くした。「ヒカリが編み出した技なんだ。ブイゼルのことを覚えているだろ?」サトシはセレナに向き直った。「あいつは元々ヒカリのポケモンだったんだけれど、コンテストよりもバトルを好んでいたし、俺のポケモンが戦うより魅せる演技に向いていたから……互いの相棒を交換したんだ。そうして俺とブイゼルで一緒にあの技を磨き上げたんだよ」懐かしむような響きを帯びた声でサトシは語った。「もしミジュマルが氷タイプの技を覚えたら、いつでも自分の意志で繰り出せるようになるはずだ。それに、適切な回転を加えれば……」

「はいはい、続きはまた今度ね」セレナは疲れたように微笑みながら彼の話を遮った。「今は私たちもポケモンたちもしっかり体を休めるのが先決よ」アニタは深く頷き、疲労で今にも倒れそうなミジュマルを優しく腕の中に抱き上げた。

翌朝、三人は朝日と共に起床し、朝食を済ませるとサンヨウシティを目指して歩みを進めた。

ポケモンセンターの玄関を出た直後、サトシやセレナと同世代に見える一人の少年が、イーブイを連れて彫像のように強張った足取りで歩いているのが目に入った。

青を基調とした上着に黒いズボン、黒と青のバッグを肩に掛け、赤い靴と衣服の色調に合わせた帽子を身に着けていた。

少年は三人と視線が交錯した瞬間、弾かれたように脇目も振らず走り出した。

「あいつ、一体どうしたんだ?」サトシが首を傾げた。

その疑問の答えは、ほんの数秒後に明らかとなった。前日に街頭で演説をぶっていたあの男と同じ制服に身を包んだ男女の二人組が、物凄い形相で少年の背中を追撃してきたのだ。

男のほうは、大股で走るたびに足に激しく打ちつけられる鞄の扱いに悪戦苦闘していた。

「あんな怪しげな連中に追われてるのを、見過ごすわけにはいかないだろ!」サトシは同行する二人に呼びかけた。

少年の真っ直ぐなお人好しぶりを熟知しているセレナと、あの逃亡者がかつての母親と同じ過ちに巻き込まれるのではないかと恐れを抱いたアニタは、迷うことなくその追跡に加わった。

プラズマ団の二人組に感づかれないよう慎重に距離を保ちながら、その走る先がどこへ通じているのかも見当がつかないまま、彼らの後を追った。

かなりの時間を走った末、三人は街の外れにある無機質な高層住宅街へと辿り着いた。

コンクリートとガラス、そして金属だけで構成された灰色の高層ビル群が立ち並んでいた。どれほど大金を積んだところで、一本の街路樹すら見当たらないような殺風景な場所だった。

「ここ、なんだか見ているだけで胸が締めつけられるくらい寒々しいわね」セレナが眉をひそめた。

「本当にそうですね……」アニタも同調した。

「スピードスター!」少年の鋭い叫び声が路地の奥から響き渡った。

三人の視線の先で、星の形をした無数のエネルギーの弾丸が路地の入り口へと目掛けて放たれるのが見えた。

その奥で、二人の団員が少年とイーブイを取り囲んで交戦していた。

「二人がかりで一人を追い詰めるなんて卑怯だぞ!」サトシが怒声を上げた。

だがサトシが割って入るよりも早く、星の光の弾幕に続いて濃密な煙の壁が立ち込めた。団員のポケモンがえんまくを放ったに違いなかった。

サトシと少女たちは戦いが起きていた路地へと駆け寄り、徐々に薄れ始めた灰色の煙を払いながら奥へと踏み込んだ。

「くそっ!間に合わなかったか!」サトシは悔しげに拳を握りしめた。

「まだ近くにいるかもしれないわ。そう遠くへは行けないはずよ」セレナが気遣わしげに声をかけた。

アニタは冷めた目で周囲を観察していた。足元を見渡しても地下へ通じるマンホールや昇降口は見当たらず、路地は完全な行き止まりだった。これほど瞬時に姿を消したとすれば、街のどこかへ瞬間移動でもしたと考える他なかった。

三人は周囲をくまなく探した。最初は手掛かりひとつ見つからなかったが……

「待ってください、何か落ちています」アニタが身をかがめ、地面から一つの帽子を拾い上げた。鍔が赤く、正面が白で、残りの部分が黒く染め抜かれていた。彼女はそれをすぐにセレナへと手渡した。

「さっきの男の子が被っていた帽子によく似ているわね」パフォーマーの少女はそれを指先で改めながら呟いた。「でも、これだけじゃ居場所までは突き止められないわ」

「俺たちを助けてくれる仲間に心当たりがあるんだ」サトシは気を取り直すように言った。「少しだけ時間をくれ」

少年はスマホロトムを取り出し、近くにあるポケモン転送機能付きの端末を探すための画面を開いた。

少しの検索の後、現在地から五百メートルほど離れた場所に利用可能な接続端末を見つけ出した。

転送を行う前に、彼は相手へ通信を繋いだ。ククイ博士だった。

ルガルガンの研ぎ澄まされた嗅覚があれば、追跡の大きな力になってくれるはずだった。サトシは端末の連絡先を探りながら、画面の向こうに現れるのが博士本人であって、その妻のバーネット博士ではないことを密かに祈っていた。

だが通信が繋がった瞬間、画面に映し出された顔にサトシは思わずたじろいだ。「やあサトシ、元気にしてるかい?ククイが出ると思ったんだろうけれど、残念だったわね。あなたもピカチュウも相変わらず元気そうで何よりだわ。ところで……その背景、どう見てもカントー地方じゃないわよね。もしかしてイッシュ地方にいるの?隣にいるのは……新しいガールフレンドかしら?」女性は楽しげに問い詰めてきた。サトシは慌てて両手を振って話を制した。

「その話はまた後にしてくれないか?今、すごく大変なことが起きているんだ」女性の表情が一変し、からかいの笑みは真剣な憂慮へと塗り替えられた。「一体何があったの?」彼女は切迫した声で尋ねた。

「さっき、人間とポケモンは別々に暮らすべきだって主張しているプラズマ団の下っ端たちが、一人の男の子を連れ去るのを見たんだ。だから、ルガルガンを送ってもらえないかと思って。あいつの鋭い嗅覚があれば、すぐに居場所を突き止められるはずだから」

女性は微笑んだ。「もちろん構わないわよ。誰か預けるポケモンをこちらに転送するのね?」彼女は尋ねた。

「うん、今手持ちが六匹いるから。一匹にあっちで少し羽根を伸ばしてきてもらうよ!」サトシは答えた。少年は端末にククイ研究所の転送装置の座標を入力し、バーネット博士もサトシ側の転送装置の座標を入力した。ルガルガンを迎え入れるため、サトシは一時的にルカリオを預けることにした。

転送を済ませて博士に礼を告げると、サトシはセレナとアニタの元へと駆け戻った。「待たせて悪かったな」少年は小さく頭を下げて詫びた。「でもこれで、力になってくれる仲間が来てくれたぞ。出てこい、ルガルガン!」世界王者のモンスターボールから姿を現したのは、堂々たる佇まいを誇る橙色と白の毛並みを持つ狼に似たポケモンだった。首の周りには尖った四つの黒っぽい岩石の首飾りのような突起を纏っていた。豊かな純白の鬣とふさふさとした尾が、その体をより雄々しく勇猛に見せていた。その瞳は美しいエメラルドグリーンに輝いていた。

好奇心と同時に少しの気後れを抱いたアニタは、思わずスマホロトムを向けて調べた。「ルガルガン、オオカミポケモン。たそがれのすがた。岩タイプ。オス。夕暮れ時にのみ進化する極めて稀な姿。アローラ地方でも非常に珍しい個体。普段の穏やかさの裏に、激しい闘志を秘めている。覚えている技、ストーンエッジ、カウンター、かみくだく、アクセルロック」

サトシとルガルガンはセレナのそばへと歩み寄った。「よし。その帽子に、あいつの匂いが残っているはずだ」サトシはセレナに帽子を差し出すよう促した。セレナは狼の目の高さまで身を屈め、その前に帽子を差し出した。

「あの子の匂い、辿れそうかしら?」セレナが尋ねた。狼のポケモンは短く鋭い遠吠えを上げてそれに応え、アニタを思わず直立不動にさせた。匂いを記憶に焼き付けた狼は、すぐさま足跡を追って走り出した。サトシ、セレナ、アニタの三人はルガルガンの後に続いたが、何度か周囲を巡った末、狼が彼らを導いたのは、なんと昨晩自分たちが泊まったまさにあのポケモンセンターの前だった。広場に辿り着いた瞬間、耳慣れた怒声が彼らの耳に飛び込んできた。「カラクサタウンの市民の皆さん……ゲーチス様が行動を呼びかけておられます!」プラズマ団の下っ端がテーブルの上に仁王立ちになり、トレーナーたちを糾弾する演説をがなり立てていた。ルガルガンは牙を剥き出しにして唸り声を上げながら突進した。三人は大急ぎで男の元へと詰め寄った。「なんだお前たち、俺に何の用だ!」男は鬱陶しそうに叫んだ。

「お前と仲間の一人が男の子を攫ったな。あいつをどこへ連れて行ったのか吐け!」サトシが真っ向から詰め寄った。

「チャンピオンだろうと、俺たちの崇高な変革を邪魔させるわけにはいかないね!それで、どうする気だ?俺に暴力を振るうとでも言うのか?」サトシは即座に言い放った。「俺は手を出さないかもしれないけれど、こいつは別だ!」その言葉を合図に、ルガルガンが男めがけて跳躍し、テーブルの上から容赦なく突き落とした。

机は狼の体重と男が倒れ込んだ衝撃で真っ逆さまにひっくり返り、散らばっていた宣伝用の紙が一斉に宙へと舞い上がった。狼は下っ端を完全に地面へ組み敷き、瞳に血走った光を宿しながら口元から泡を飛ばしていた。まるで今すぐにでも男を一飲みに噛み砕いてしまいそうな気迫だった。

「いいか、よく聞け」サトシはいつになく声を低く尖らせて迫った。本来の彼の気性には全く合わないやり方だったが、背に腹は代えられない状況だった。「お前と仲間が連れ去った男の子がいるはずだ。あいつをどこへやった?」

顔面を今にも噛み千切られそうな極限状態に追い詰められた男は、完全に青ざめていた。このポケモンの凄まじい逆鱗を鎮めるには、知っていることを話す他に道がないと悟ったのだ。「わ、分かった、話す!確かにあのガキを攫ったのは俺たちだ!別の仲間たちに引き渡してワゴン車に押し込んじまったから、どこへ向かったかまでは本当に知らないんだ!」男は息も絶え絶えに白状した。アニタは机が倒れた拍子に宙を舞っていた宣伝用の紙を空中で掴み取った。「今夜十時ちょうど、真なる啓示をその目に焼き付けよ……」彼女は小声で読み上げた。「おい、この啓示ってのは何のことだ?」サトシは少女の言葉を即座に拾い上げ、険しい表情を崩さずに問い詰めた。「お前たちのような連中に話す義理はないね!」男は最後の抵抗を試みた。ルガルガンはさらに獰猛な唸り声を上げ、男の鼻先へと鋭い牙を突き出した。先ほどを遥かに凌駕する殺気が空気を震わせた。「ひいっ、分かった、言うから!やめてくれ!」生への執着に屈した男が叫んだ。「啓示の正体なんて俺たち末端には知らされていないんだ!さっき言った通り、あのガキがどこへ連れて行かれたかも本当に知らない!だがな、あいつがトレーナーだっていうなら、自業自得の報いを受けることになるのは間違いないね!」男はそう吐き捨てた。

下っ端が白状している間に、セレナは足元に散らばった残りの紙を素早く回収していた。

その間に、サトシはルガルガンをモンスターボールの中へと戻した。男から引き出せるだけの情報は手に入ったからだ。

ポケモンセンターへ戻る足取りの中で、世界王者は自らの判断について少し考えを巡らせた。もしルカリオではなくゲンガーかゴウカザルを預けていれば、ルカリオの波導の力を使って真実を見抜いたり、少年の痕跡を感知したりできたかもしれない。しかし、結果としてルガルガンの嗅覚が決定的な働きをしてくれたのだから、この判断に悔いはなかった。

いずれにせよ、下っ端の男はすでに逃走してしまっていた。サトシと少女たちは、追走の疲労を抜き、尋問の張り詰めた緊張を解くために、休憩所のソファーへと腰を落ち着けた。「これからどうすればいいと思う?」サトシが深刻な面持ちで尋ねた。「あいつはプラズマ団の魔の手に落ちてしまったんだ。このままじゃ恐ろしい目に遭わされるかもしれない!」言葉を重ねるごとに、少年の焦燥感は募っていった。

一息ついたセレナとアニタは、拾い集めた宣伝用の紙をじっくりと調べ始めた。表面には例の啓示を告げる扇情的な文句が並んでいたが、パフォーマーの少女がその紙を裏返した時、予期せぬ発見があった。「見て!」彼女は二人に声をかけた。「裏側に、何かの図面のようなものが印刷されているわ」彼女は裏面を差し出して見せた。「地図だって?」サトシは身を乗り出して覗き込んだ。「もしかして、その啓示とやらが行われる場所なんじゃないか?」少しの間考え込んだ後、少年は推測を口にした。

「ここに、全体の地図があります」アニタの声はあまりにも小さく、危うく聞き逃されそうだった。邪魔をしてしまったり、的外れなことを言ってしまったりするのではないかという恐怖が、まだ完全に拭い去れていなかったのだ。「何か言った?」セレナが優しく顔を向けた。「あ、あの……あっちの掲示板に、この街全体の案内図が貼ってあったのを見かけたんです」アニタは少し離れた場所にある大きなカラクサタウンの地図を指差した。「さすがだな、アニタ!すごくよく気がついたじゃないか!」サトシは彼女を力づけるように笑いかけた。「それと見比べなきゃ、場所の特定なんてできなかったんだから!」

「本当にありがとう、アニタ」セレナも柔らかく微笑んで感謝を伝えた。

三人は立ち上がり、掲示板の前へと移動した。セレナは手元の紙を掲げ、街の全体図の中から裏面に描かれた断片的な線画と合致する区画を探し始めた。数秒間の照合の後、彼女の指先が一つの地点を正確に捉えた。紙片の輪郭を街の地図と頭の中で重ね合わせ、目印となる施設を手掛かりにして、カロス出身の少女と世界王者は集会の行われる標的地点を完璧に割り出した。「あったぞ!」サトシが歓声を上げた。

「集まる場所は分かったけれど、このまま向かうわけにはいかないわね」セレナは即座に重大な障壁を指摘した。「私たちの顔はあまりにも知られすぎているわ。服を着替えたところで、すぐに正体がばれてしまうもの」サトシは腕を組んで考え込んだ。セレナの言う通りだった。自分は世界王者であり、彼女は高名なパフォーマーだ。何よりピカチュウを連れて歩けば、一瞬で身元が割れてしまう。大至急、何かしらの手を打たなければならなかった。

そう考えている間に、セレナはすでに次の一手を組み立てていた。「マフラーと帽子を買って、少し大人びた服を選んで背伸びしてみせましょう。化粧とカラーコンタクトの手配なら、私に任せて」彼女は頼もしく提案した。

「セレナ、やっぱり天才だな!」機転の利く提案にサトシは感嘆の声を上げた。「でも、ピカチュウはどうする?帽子の中に隠すわけにもいかないだろ」少年たちは、この相棒がボールの中に閉じ込められることをどれほど嫌っているかを知り尽くしていたし、潜入任務の最中に連れて歩くのはあまりにも危険すぎた。

カロス出身の少女は、電気ネズミの目線まで腰を落とした。「ピカチュウ、少しの間だけアニタさんと一緒にお留守番していてくれるかしら?もしあの子がここで悪い連中に狙われたら、あなたが用心棒として守ってあげてほしいの」優しく、しかし真剣な眼差しで頼み込んだ。

「ピカ?」黄色いポケモンは小首を傾げて考え込んだ。新米トレーナーの守り役を務めるか、それともボールの中に押し込められるか。自分に選ぶ余地など最初から存在しなかった。もっとも、あの少女に対して悪い印象を抱いていたわけでは決してなかった。直感的に、根の良い人間だということは分かっていた。まだ出会って間もない間柄ではあったが、長い旅路の経験を通じて、サトシが受け入れた仲間は遅かれ早かれ家族同然の存在になるのだとピカチュウは知っていた。ならば、今から絆を深めておくのも悪くないはずだ。「ピカチュウ!」誇らしげに胸を小さく叩き、力強く頷いてみせた。

二人は、今も地図を見つめながら誇らしげにしていたアニタの元へと戻った。

「いいか、アニタ、よく聞いてくれ」サトシは真剣な面持ちで口を開いた。「この作戦はかなり危険だ。俺たちはその啓示の現場に潜り込まなきゃいけないから、絶対に目立つわけにはいかない。お前が地図を見つけてくれたのは大手柄だったけれど、今回は安全のためにここでお留守番をしていてほしいんだ」

アニタはもっと力になりたかったという思いから、口を開いて食い下がろうとした。「だけど、お前にしか頼めないすごく大きなお願いがあるんだ」

サトシは彼女の言葉を遮り、自らの相棒を指し示した。「ピカチュウを連れて行くと、一発で俺だとばれちまう。だから、こいつのことをお前に預けたいんだ……そしてピカチュウもお前を守ってくれる。頼まれてくれるかい?」

アニタは世界王者を見つめ、それから頼もしく自分を見上げてくる黄色い相棒へと視線を落とした。自分は足手まといとして除外されたのではない。サトシにとって世界で一番大切な宝物を託されたのだ。「分かりました、サトシさん」少女は背筋を正して答えた。「責任を持って、この子をお預かりします」

約束の夜十時まではまだ何時間も残されていたが、与えられた猶予は決して多くなかった。街の中心部の店で変装用の品々を揃えること自体はすぐに済んだが、問題はその後に控える準備の数々だった。ポケモンセンターの部屋へ戻ると、ベッドの上でアニタがピカチュウと打ち解け始める傍らで、二人は急ピッチで作業に取り掛かった。

サトシの料理の腕前が惨憺たるものであることを知り尽くしていたセレナは、まず手早く夕食の支度を整えた。世界王者はいつもの凄まじい勢いで食事を平らげたが、本当の難関はその後に待ち構えていた。

夜の八時を回る頃、セレナは部屋の狭い浴室を即席の化粧室へと仕立て上げた。

「動いちゃ駄目よ、サトシ。じっとしていないと線が歪んで、大人の男性どころかピエロみたいになっちゃうんだから」少年が寝室から運び込んだ椅子に腰掛ける中、彼女は優しく窘めながら、薄く下地を塗り、陰影をつけて骨格の線を大人びて鋭く見せるための化粧を施していった。サトシは身動きもできずに固まっていたが、少女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるくすぐったい時間を、内心では満更でもなく受け止めていた。だが、穏やかな時間は長くは続かなかった。

「よし、ここからが本番よ」密閉された小箱を取り出しながら、セレナが宣告した。「カラーコンタクトレンズよ。これであなたの瞳を綺麗な青色に変えるの」サトシはその小さな容器を、まるで不発弾でも受け取るかのように恐る恐る手に取った。ただの柔らかい小さな膜じゃないか、一体これのどこが難しいっていうんだ、と彼は思った。

 

それから五分後。

 

「うわあっ!駄目だ、また閉じちゃった!」サトシは鏡の前に突っ立ち、右目を真っ赤に充血させて大粒の涙を流していた。人差し指の先にはレンズが乗っていたが、瞳に近づけようとするたびに、まるで仕掛け罠のように瞼が勝手に跳ね上がって固く閉じてしまうのだ。「おかしいだろ……俺は今まで数々の伝説のポケモンと渡り合ってきたし、ルギアやラティオスたちの背中に乗って空を飛んだし、世界大会で頂点にだって立ったんだぞ……どうしてこんな二ミリの薄っぺらい膜一枚に完敗しなきゃいけないんだ!?」洗面台の中に三度目の落下を果たしたレンズを見つめ、彼は悔しさに打ち震えた。

自分用の濃い茶色のレンズを何の手間もなく装着し終えていたセレナは、浴室の扉の枠に寄りかかりながら、吹き出しそうな笑いを必死に押し殺していた。「サトシがこれをバトルのように力ずくでねじ伏せようとするからよ。もっとコンテストの舞台に立つような気持ちで、優しく向き合ってみなさいな」彼女はからかった。「笑い事じゃないって!自分で自分の目を指で突っつきにいっているみたいで、どう考えたって不自然すぎるだろ!」少年は文句を並べ立てながら、レンズを拾い上げて保存液で洗い直した。

彼は再び挑戦した。両手の指で目を無理やり見開き、ホラー映画の怪物のようにおぞましい形相を作った。震える指が近づいていく。ピチャッ。接触するほんの一瞬前に瞼が閉じ、レンズは虚しく睫毛に張り付いた。「もう無理だ、降参!サングラスをかけていくよ!」少年は頭を後ろに投げ出して不貞腐れた。

セレナは呆れたように微笑みながら首を横に振った。彼女は少年に歩み寄り、その指先からレンズを優しくつまみ上げた。「もう、強情なんだから。私に任せなさい」彼女は少年の間近に立ち、真っ直ぐに自分を見つめさせた。突然の距離の近さに、サトシは目の奥の痛痒さすら一瞬で忘れ去ってしまった。「上を見て……そう、じっとしていてね」セレナは囁いた。片方の手で少年の上瞼をしっかりと、しかし決して痛ませない柔らかな力加減で固定し、もう片方の手で、淀みのない滑らかな動きでレンズを瞳の上へと滑り込ませた。サトシは反射的に目を閉じようとしたが、少女の細い指先がそれを穏やかに押し留めた。「入ったわ。ゆっくり瞬きしてみて」サトシは言われるがままに目をしばたたかせた。一瞬だけ視界が白く霞んだが、すぐに異物感を伴いながらも鮮明な視界が戻ってきた。「すげえ……」そのあまりにも繊細で巧みな手さばきに、彼は思わず感嘆の声を漏らした。「ほらね?力任せじゃなくて、優しい手つきが必要だったのよ」セレナは少しだけ頬を染め、満足そうに微笑みながら体を引いた。「さあ、次はもう片方の目よ。今度は泣かないように我慢してね、世界チャンピオンさん」

「夜遅くにお出かけになって十一時を過ぎるようでしたら、これをお持ちになってくださいね」二人が宿舎の玄関を出ようとした間際、ジョーイさんが声をかけて呼び止めた。

二人が受付カウンターへ戻ると、女性はペンを手に取り、付箋の上に手早くいくつかの数字を書き留めた。「こちらは、十一時以降に正面玄関を開けるための暗証番号です」ジョーイさんは説明した。「十一時を回りますと私の勤務時間が終了し、夜間の当直医に引き継がれます。今夜は救急外来の担当者も不在ですので、最低限の人員体制となっております。ですがご心配には及びません、入り口の操作盤にこの番号を打ち込んでいただければ鍵が開きますからね」

セレナは受け取った付箋を上着のポケットへと大切にしまい込んだ。そしてサトシと共に、アニタの元へと最後の挨拶に向かった。「それじゃあ、行ってくるわね。何時間かかるかは分からないけれど、心配しないで。私たちなら絶対に大丈夫だから」しかしその励ましは、望んでいた効果とは正反対の結果をもたらした。ただでさえ落ち着かない気持ちでいたアニタの不安は、その言葉によってさらに増幅されてしまったのだ。

手に入れた地図が指し示していた目的地は、街の中でも最も古く、荒廃が進んだ区画の一角に位置していた。セレナがカロス地方で親しんできた、石畳の小道や花壇で彩られた窓辺、古き良き情緒が漂う歴史的な街並みとは似ても似つかない場所だった。このカラクサタウンの片隅に広がる一帯は、産業の衰退が残した無惨な爪痕そのものだった。塗装の剥げ落ちた雑居ビルと打ち捨てられた倉庫が延々と連なり、シャッターは赤錆に侵され、窓ガラスは分厚い煤煙と埃の層に覆い尽くされていた。

周囲を照らす照明が、その陰鬱な空気をさらに不気味なものへと仕立て上げていた。カロス地方の古い街並みでは、暖かみのある黄金色の街灯が灯り、まるで我が家の暖炉のように行き交う人々を優しく包み込んでいた。たとえ省電力のLED灯であっても、昔ながらの白熱灯を思わせる柔らかな色合いが保たれていたのだ。

しかしこの場所の街灯は、蛍光灯のように冷たく青白い光を無機質に投げかけていた。それはまるで、手術室や刑務所の冷厳な中庭を照らす光のように無味乾燥で非情だった。通行人を迎え入れるような温もりなど微塵も存在しなかった。それどころか、見る者に言い知れぬ居心地の悪さと不安を植え付けていた。その光は漆黒の鋭い影を路地に落とし、すべての辻を何かが潜む危険な死角へと変貌させ、すれ違う人々の顔から人間味を帯びた生気を根こそぎ奪い去っていた。

夜の闇に沈むその一帯は、本能的な恐怖を呼び起こすのに十分だった。セレナの胃のあたりから、重苦しい不安の波が競り上がってきた。凍てつくような街の冷気の中で、彼女は無意識のうちに、唯一の温もりと安心の源を求めていた。サトシだった。彼女は少年の腕にしっかりとすがりつき、両手でその腕を抱きしめるようにして、亡霊のような街灯の光から逃れるように彼の肩へと頭を預けた。

上着越しに伝わってくるサトシの引き締まった二の腕の確かな力強さと、コンクリートの迷宮にあっても一歩の迷いも見せないその揺るぎない足取りが、彼女の乱れた心を瞬時に鎮めてくれた。セレナにとって、サトシという存在はこの薄暗い場所の対極にあるものだった。彼は生気に満ち、温かく、決して揺らぐことのない絶対的な道標だった。この腕に掴まり続けている限り、どんな冷酷な青い闇であっても自分に指一本触れることはできないのだと、彼女は確信していた。

「すごい人の数だな」建物の入り口の前に群がる大勢の群衆を目にして、サトシは低く声を漏らした。「こんなにたくさんの人たちが同じ考えを持っているなんて、想像もしていなかったわ」セレナは驚きを隠せない様子で答えた。そうしている間にも、少女はサトシの体にさらにぴったりと身を寄せていた。今にも彼の腕の中に飛び込みかねないほどの密着ぶりだった。「こうしていたほうが、怪しまれずに済むでしょ」彼女はほんのりと頬を染めながら、言い訳するように呟いた。

二人は人々の列へと加わった。その群衆は人数が多いだけでなく、実に多彩な顔ぶれで構成されていた。若い男女から働き盛りの世代、果てはそれなりの年配者に至るまで様々だった。誰一人としてプラズマ団の下っ端のような制服を身に着けておらず、全員が平服ながらも、夜の宴席ほどではないにせよ少し改まった身なりをしていた。列の流れは速く、二人の番が回ってくるまでに大して時間はかからなかった。

二人の前に立ちはだかったのは、一人の大男だった。身長二メートルを優に超え、逞しい肩幅と筋肉に覆われた威圧感あふれる体躯を誇っていた。立派な口髭を蓄えている以外は、顎も頬も綺麗に剃り上げられていた。「招待状は?」男は地響きのような低い声で問いただした。「招待状?」サトシは驚きと狼狽の入り混じった調子でオウム返しにした。潜入作戦は、足を踏み入れる前に頓挫する危機に瀕した。「これのことかしら?」セレナが機転を利かせて割って入り、午前中に拾い集めておいた例の紙を巨漢の前に差し出した。男は険しい目つきで数秒間それを検分した。「啓示は人間とポケモンを救うであろう。お入りなさい、我が兄弟、我が姉妹よ」男はそう告げると、脇へ退いて二人を通した。

建物の中に入ると、群衆の密度はさらに膨れ上がり、息が詰まるほどの人の波が広がっていた。「こんなに大勢集まっているなんて思わなかったぞ……」あまりの熱気に圧倒され、サトシは呟いた。だが、彼の声はすぐに全体の地鳴りのような叫び声にかき消された。「ゲーチス!ゲーチス!ゲーチス!」集まった全員が、狂信的な合唱となってその名を連呼していた。何千もの喉から放たれる声は、一つのおぞましい怪物のような唸り声となって空間を支配していた。サトシとセレナが舞台の方へ視線を向けると、十人ほどのプラズマ団員たちが直立不動の兵士のように縁に整列し、虚空を冷たく見つめていた。彼らの背後にはプラズマ団の紋章が刻まれた三枚の巨大な旗が掲げられ、古の中世の幕のように天井から威風堂々と垂れ下がっていた。

不意に、場内のすべての照明が一斉に落ちた。訪れた漆黒の闇はほんの刹那だけで、直後に複数の追尾式スポットライトが一斉に点灯し、舞台のちょうど中央で眩い白色の光条を交差させた。それと同時に、大型スピーカーによって増幅された影アナウンスが空気を震わせ、聴衆の意識を釘付けにした。「この世界に新たなる均衡をもたらすお方を、万雷の拍手でお迎えください!我らが解放者!ゲーチス様です!」

機械的な低い作動音とともに、舞台中央の昇降口が開いた。濛々たる白煙が勢いよく吹き上がり、照明の光を乱反射させて人工の濃霧を作り出し、下からせり上がってくる影の輪郭を一瞬の間覆い隠した。煙が静かに晴れていくと、一人の圧倒的な威容を誇る人物が群衆の前に姿を現した。

二メートルほどの長身を誇り、堂々たる体躯と犯しがたい気品を纏った男だった。灰色へと淡く移ろう淡緑色の波打つ豊かな長髪が、その冷徹な顔立ちを縁取っていた。その装束は、聖職者の祭服と王族の式服を融合させたかのような異彩を放っていた。純白の長い下衣の上に、右側が紫、左側が黄色に染め分けられた重厚な羽織を重ねていた。その布地には不気味な瞳の意匠があしらわれ、紫の側には黄色い目が、黄色の側には紫の目が描かれ、まるで聴衆を睥睨しているかのようだった。しかし何よりも異彩を放っていたのは、頭の後ろにまで高くそびえ立つ衣服の襟だった。難攻不落の城塞の銃眼のように幾何学的な切れ込みが刻まれ、彼に絶対的な権威と近づきがたい威圧感を与えていた。

ゲーチスは両腕を悠然と広げ、群衆の狂乱を至極当然の権利であるかのように一身に浴びた。

その姿を観察していられた時間は、実のところ極めて短かった。男はやがて左手にマイクを握り、舞台の上をゆっくりと練り歩きながら語り始めた。「私の名前はゲーチス。プラズマ団の首領を務める者です。本日、ここに集われた皆さんに、ポケモンの解放について語りかけたいと思います!私たち人間は、太古の昔よりポケモンたちと肩を並べて生きてきました。互いを求め合い、互いを必要としている。それは多くの人々にとって疑いようのない共通認識のように思われています。しかし、現実は本当にそうなのでしょうか?それは私たち人間が、都合よくそう思い込んでいるだけにすぎないのではないですか?皆さんは一度でも、そのことを真剣に考えたことがありますか?真実は全く異なるのです!ポケモントレーナーどもはポケモンたちを隷属させ、自らの身勝手な欲望のままに従属させているのです!」その扇動に応じるように、聴衆は狂乱の叫びを上げた。「奴隷使いのトレーナーどもめ!恥を知れ!恥を知れ!」怒号が収まり、男が演説を再開できるようになるまでに少しの時間を要した。

「彼らはあらゆる我欲のためにポケモンたちを悪用しています。ここにいる誰一人として、それが嘘偽りだと否定できる者がいるでしょうか?よく聞きなさい!ポケモンは私たち人間とは全く異なる存在であり、未知なる可能性を無限に秘めているのです。私たちが彼らから学ぶべきことは数え切れません。ならば、私たち人間にできる唯一の正しい報いとは何でしょうか?そうです!彼らを解き放つことです!そして私は今宵、この不届きな奴隷使いたちの手から彼らを解放してみせましょう!しかし、私という人間は!」男は自らを指す言葉を殊更に強く強調した。「極めて寛大な男です。彼らが全員罪深い存在であることに変わりはありませんが、私自らが彼らに弁明の機会を与えましょう。私と一対一のポケモン勝負をするのです。もし彼らが私に勝つことができたなら、手持ちのポケモンを連れ帰ることを許しましょう」会場から凄まじい罵声が巻き起こった。「帰れ!許すな!引っ込め!」

「ですが、もしこの私が勝利したならば、そのポケモンたちが享受すべき真の自由を、この私の手で授けることとします!」その言葉に、聴衆の狂乱は賛同の歓声へと一転した。「ゲーチス様万歳!プラズマ団に栄光あれ!」迎えた時と同じ熱狂的な怒号が館内を満たした。

演説の最中に姿を消していた団員たちが、ちょうどその歓声に合わせるようにして舞台へと戻ってきた。彼らはそれぞれ、後ろ手に縛られた人間を一人ずつ取り押さえていた。サトシとセレナが目を凝らして見つめると、探していたあの少年は四人の列の一番最後に立たされていた。

「お前から始めよう」ゲーチスは最も左側にいた男へと向き直った。四十代前後の男で、お世辞にも堅気の暮らしを送っているようには見えない風貌だった。顔中には無数の生々しい古傷が刻まれ、片方の眉毛は完全に削ぎ落とされ、右耳には三つのピアスが光っていた。「よろしい」ゲーチスは冷徹に言い放った。「お前が最初だ。ポケモンを繰り出すがいい」

拘束を解かれた男は、引きつった笑みを浮かべながら従った。「ドクロッグ!お前の出番だ!」

男が繰り出したのは、濃い青と青緑色の皮膚を持つ、毒蛙を連想させる二足歩行のポケモンだった。頭頂部はツンと尖って上を向き、蛇のように細い瞳孔を持つ黄金色の瞳がプラズマ団の首領を鋭く睨み据えていた。喉元には鮮やかな紅色の鳴き袋が膨らみ、両手の甲には大きな赤い毒針が突き出していた。「ほう」ゲーチスは眉一つ動かさずに呟いた。「いつでも始めるがいい」

男は指示を出せず、呆然と立ち尽くした。「どうした、仕掛けてこないのか?」首領が冷ややかに問うた。「私がただの生身の人間にすぎないから、身を守る術を持たないとでも侮ったか?私自身が攻撃し、防ぐ力を持っているのだ!」男は声を荒らげて挑発した。「その身で確かめてみるかね?」

刹那、ゲーチスの双眸が青白い燐光を放った。彼が片腕をわずかに薙ぎ払った、ただそれだけで、目に見えない強烈な衝撃波が巻き起こり、相手のドクロッグを舞台の外へと凄まじい力で吹き飛ばした。毒蛙ポケモンは床の上を無様に転がり、そのまま意識を失った。すかさず二人の団員がトレーナーを取り押さえ、ドクロッグを打ち倒したあの不可解な念動力が、今度は男のポケットに残されていた三つのモンスターボールを包み込んだ。

「今こそ解き放たれる時だ!」ゲーチスが吼えた。男の上着から吸い出された三つのボールが虚空に静止した。見えない力の引き金が引かれると同時にボールが一斉に開き、ミルホッグ、ハトーボー、レパルダスが瞬時に外へと解き放たれた。

続く二人のトレーナーも、全く同じ無慈悲な結末を辿った。「次はあの男の子の番だ……」サトシは奥歯をギリリと噛み締めた。世界王者はここまで必死に怒りを押し殺してきた。しかし、彼の堪忍袋の緒はもはや限界に達していた。それまでの三人がいかに怪しげな風貌の持ち主であろうと関係なかった。今まさに、あの無力な少年が犠牲になろうとしているのだ。これ以上、黙って見過ごすことなど絶対にできなかった。

少年自身も、先んじて仲間を奪われた三人の姿を目の当たりにしており、自らの身に何が起ころうとしているのかを痛いほど理解していた。

「イーブイ!これが俺たちの正念場だ!絶対に負けるわけにはいかない!でんこうせっかから行くぞ!」少年が決死の指示を飛ばした。フィールドに飛び出したイーブイは、猛然と敵へと突進した。小さな狐のようなポケモンは、場内に渦巻く得体の知れない気配を誰よりも鋭く感じ取っていたが、大好きなトレーナーの言葉に背くことなど毛頭考えていなかった。離れ離れになることだけは絶対に拒絶したかったからこそ、恐怖を押し殺して駆け抜けたのだ。

ゲーチスは前の戦いと同様に、あの青白い不気味な力で幼いポケモンの体を空中で押し留めた。イーブイは必死にその重圧に抗おうとした。歯を食いしばり、一歩でも前へ進もうともがいた。全身に千倍もの重荷を背負わされているかのような過酷な抵抗だった。

その時、ポケモンの体が眩い青い閃光に包まれた。耳が長く伸び、胴体はしなやかで力強い筋肉を纏っていった。尾と鼻先が鋭く研ぎ澄まされていく。光が霧散した時、その瞳は深紅に染まり、全身は艶やかな漆黒の毛並みへと変わり、闇の中で神秘的な金色の輪の模様が静かに発光していた。「ブラッキーに進化した……!」サトシが息を呑んで囁いた。

「たかが進化ひとつで、この私の計画が狂うとでも思ったか!」ゲーチスは苛立ちを取り繕うように怒声を上げた。突如として巨大な煙幕が男の全身を包み込んだ。白煙が引いた後、首領の傍らに姿を現したのは、神話の九頭竜を思わせる凶悪な怪物だった。三つの頭部を持ち、中心の主頭は濃い青色の皮膚に赤褐色の瞳を光らせ、両腕の代わりとなる左右の頭部は表情を持たない黒い瞳を宿していた。背中からは漆黒の翼が広がり、首元には赤紫色の襟巻きのような器官が咲き誇っていた。「サザンドラ……」舞台の上の少年は絶望に顔を蒼白にした。「我が自由の戦士と相見える栄誉を授けてやろう!」男は冷酷に言い放った。「サザンドラ、りゅうのはどう!」

怪物の三つの顎から放たれた紫色のエネルギー弾は、虚空を進むにつれて荒れ狂う竜の幻影へと姿を変えて襲いかかった。「ブラッキー、避けてスピードスター!」げっこうポケモンは右へと鋭く身を翻し、壊滅的な直撃を間一髪で回避した。そのまま宙へと跳び上がり、鋭利な星形の光弾を相手へ浴びせかけた。しかし、完璧な命中精度であったにもかかわらず、凶暴な巨竜はその一撃を身じろぎひとつせずに受け止めた。両者の力の隔たりは、あまりにも絶望的だった。

「あいつが耐えられるのも時間の問題だ。俺たちが出るしかない」サトシがセレナの耳元に唇を寄せて囁き、少女の背筋に心地よい震えを走らせた。「どうするつもりなの?」彼女は不安そうに問い返した。

「セレナのポケモンであのゲーチスを引きつけてくれ……その隙に、俺があいつを助け出す。何とかしてな」セレナは眉をひそめて少年を見つめた。サトシを信頼してはいたものの、あまりにも行き当たりばったりな無謀さに心臓が縮み上がる思いだった。

その時、サザンドラの非情な一撃が炸裂した。

「これで全員片付いたようだが、まだこの私に刃向かおうという命知らずはいるかね?」ゲーチスは意識を失って倒れ伏したブラッキーを指差し、嘲笑うように会場へ問いかけた。

「ええ、ここにいるわ!」セレナが凛とした声で叫んだ。サトシはすでにその場を離れ、彼自身の頭の中にしかない作戦を実行に移すべく、気配を消して闇の中へと滑り込んでいた。セレナに分かっていたのは、サザンドラを足止めしなければならないということだけだった。そしてあの竜を完璧に封じ込められるのは、ニンフィアしかいなかった。

セレナは人混みを強引に掻き分けて進んだ。群衆の多くは彼女の行く手を阻もうと肩を寄せ合い、冷たい敵意の眼差しを向けてきた。この小娘は、自分たちの偉大なる指導者に盾突くつもりなのかと、憎悪を露わにしていた。

彼女は押しのけられながらも不屈の意志で前に進み、ついに舞台の上へと駆け上がると、傲慢な巨漢とそのサザンドラの前に立ちはだかった。

「ほう、それほどの蛮勇を見せてくれるとはね……」ゲーチスは嘲りの笑みを浮かべ、新たな挑戦者を見下ろした。「そして私は慈悲深い男だ、一つ取引をしようではないか。もしお前が勝利したなら、あの少年にポケモンを返してやろう。だが、この私が勝利した暁には、お前のポケモンも例外なく解放してもらうぞ」

パフォーマーの少女に迷いはなかった。彼女はモンスターボールに指を添え、無言のまま力強く頷いて勝負を受諾した。

「サトシ、早くしてね……」彼女は心の中で呟いた。「ニンフィア、お願い!ようせいのかぜ!」ボールから飛び出したニンフィアは、現れると同時に淡い桜色の突風を巻き起こし、圧倒的な力で巨竜を呑み込んだ。「サザンドラ、りゅうのはどうで消し飛ばせ!」男が吠えた。怪物の三つの口から紫の竜の奔流が放たれた。しかし、その光弾はニンフィアの柔らかな体に触れた瞬間、何の手応えも残さずに霧散してしまった。

「馬鹿な、なぜ効かんのだ!?」男は狼狽を露わにした。「もう一度だ!」結果は同じだった。桃色と純白の愛らしいポケモンには、竜の猛威が一切通用しなかった。それどころか、ニンフィアが放つ鋭利な桜色の星々が、巨竜の分厚い皮膚を刃のように切り裂いて深手を負わせていた。

瞬く間に、ゲーチスは追いつめられた。信者たちの前でこの狂言を保ち続ける以上、手持ちの他のポケモンを無暗に繰り出して自らの嘘を暴くわけにはいかなかったのだ。

セレナが舞台上で時間を稼いでいる間に、サトシは会場の正面入り口へと戻っていた。周囲に人影がないことを素早く確認すると、少年は即座に行動を起こした。

腰のポーチから取り出したのは、ドガースの顔を模した小さな煙幕弾だった。シトロンがかつて発明した道具だった。サンペイから学んだ忍術の技法に着想を得た無害な発煙装置で、ずっと持ち歩いていたものの、長らく出番がなかった品だった。かつてロケット団がピカチュウを狙って仕掛けてきた、あの最後の一連の騒動以来のことだった。あの三人組が姿を消す直前のことだ。

少年はその煙幕弾を地面へと力任せに投げつけた。球体は炸裂し、重く立ち込める黒煙を大量に吐き出し、それがゆっくりと場内へと流れ込み始めた。「もっと勢いよく流し込まなきゃ駄目だ!オンバーン、力を貸してくれ!」サトシはおんぱポケモンのボールを開いた。「よし、オンバーン、この扉の奥へ向けて煙を思いっきり送り込むんだ!」

世界王者の指示を受け、巨大な蝙蝠は両翼を凄まじい力で羽ばたかせ、強烈な突風を巻き起こして黒煙の濁流を会場の奥へと一気に押し流した。サトシは煙の勢いを保つために手持ちの煙幕弾を惜しみなく投げ続け、ついにすべてを使い切った。オンバーンの風に乗った暗黒の煙は、瞬く間に広大な会場全体を完全に呑み込んでいった。「サンキュー、シトロン!科学の力ってすげー!」サトシは会心の笑みを浮かべた。

場内の空気は一瞬にして闇に閉ざされ、息もできないほどの煙が充満した。鼻先の一寸先すら見えない暗闇の中で、群衆は激しく咳き込みながら逃げ惑い、完璧な大混乱が巻き起こった。「オンバーン、超音波だ!俺の目になって、舞台までの道を案内してくれ!」ポケモンは人には聞こえない超音波を放ち、広間の構造と人の配置を一瞬で把握した。首を振って安全な進路を示す相棒に従い、サトシは腕で口元を覆いながら黒煙の海へと飛び込んだ。竜の正確な誘導を受け、右往左往する群衆に一度も接触することなく、少年は闇の中を軽やかに駆け抜けた。

わずか十数秒で、彼は舞台の上へと辿り着いた。立ち込める濃煙の向こうに、セレナとニンフィア、そしてあの少年が身を寄せ合っている姿がぼんやりと見えた。

少し離れた場所にはゲーチスと団員たちの影があり、足元には傷つき倒れたサザンドラが横たわっていた。

「やはりトレーナーなど信用するべきではなかったのだ!貴様らはどいつもこいつも同じだ!」男は怒声を張り上げた。「捕らえろ!」ゲーチスが命じた。「ですが首領……」下っ端の一人が戸惑いながら口を挟んだ。「勝負の取り決めとしては、あの娘さんの勝ちということになりますが……」

濃煙の中にあっても、団員はその首領の放つ凍てつくような眼光の重圧を肌身で感じ取った。寛大さを謳っていたあの演説が、ただのまやかしにすぎなかったのだと悟るには、その冷酷な一瞥だけで十分だった。

首領の命ずるままに、あの二人を始末しなければならなかった。しかし一歩を踏み出すよりも早く、凄まじい突風が男の体を吹き飛ばし、壁面へと叩きつけた。あまりにも激しい衝撃に、男はそのまま意識を手放した。

「よし、逃げるぞ!」聞き慣れた声がセレナを促した。サトシだった。背後にオンバーンの影を従え、少年は舞台の上へと駆け寄ってきた。二人はオンバーンの超音波による先導を受けながら、舞台を駆け下り始めた。セレナもまたサトシと同じように、上着の袖で口と鼻をしっかりと覆っていた。

その場から離脱するために必要な数歩を踏み出した時、サトシはあの少年が付いてきていないことに気づいた。少年は舞台の上に立ち尽くし、石のように硬直していた。選択の余地はなく、世界王者は踵を返してブラッキーのトレーナーの腕を力任せに引いた。「分かった、行くよ!だけど後でどうして僕を助けたのか、ちゃんと説明してもらうからね!」

サトシは無言を貫いた。とにかく助け出すことだけを考えていたのだ。説明などしている余裕は微塵もなかった。それにセレナは、民衆の目の前で首領に泥を塗った張本人として、今にもあの狂乱の群衆に袋叩きにされかねない危険に晒されていた。

いくつかの冷や汗をかかされながらも、事態は幸いにして好転した。三人は長い時間をかけて走り抜け、やがて群衆を完全に振り切り、街外れを離れて人通りのある安全な地域へと辿り着いた。

「助けてくれたことには感謝するけれど……」少年は肩で息をしながら礼を口にした。「君たちは一体誰なんだ?どうして見ず知らずの僕なんかのために危険を冒したんだい?僕だって、さっきの奴らみたいに後ろ暗い人間だったかもしれないのに、君たちは一切躊躇わずに飛び込んできたじゃないか」サトシとセレナは互いに顔を見合わせた。

「今の格好じゃ、誰だか分からないのも無理はないわね」セレナが言った。意図を汲み取ったサトシは、巻いていたマフラーと深く被っていた帽子を外した。セレナも同じように身に着けていたものを脱ぎ捨てた。

「まだカラーコンタクトをつけたままですみません……」セレナは自分の目を指差した。「本当は私の瞳が青色で、サトシの瞳が茶色なんですけれど……」彼女は言葉を添えた。

少年は自分の目を疑い、耳をも疑った。「嘘だろ、君たち……あの世界王者と、数々のグランドフェスティバルで決勝まで上り詰めたトップパフォーマーなのか!?信じられない!」少年は疲れの色を滲ませる二人の顔を凝視し、驚愕に目を見張った。

「それで、お前は誰なんだ?」サトシは単刀直入に尋ねた。

「あ、初めまして。僕はカルロス、サンヨウシティでジムリーダーを務めているんだ」少年は背筋を伸ばし、威厳を取り繕うように名乗った。「だけど、やっぱり納得がいかないよ。どうして僕を助けてくれたんだ?君たちにとって、僕は縁もゆかりもない赤の他人のはずなのに」

少年はその一点に頑なにこだわり続けた。それが自らの誇りに関わる重大な問題であるかのように思えた。

サトシは、今すぐにでも横になって眠りたいと言わんばかりの表情で彼へ向き直った。「プラズマ団の下っ端に追われている男の子を見かけたんだ。それでルガルガンの力を借りて連れ去った奴を突き止めて、乗り込んだだけさ。それ以上の理由なんてないよ」カルロスは依然として信じられないといった面持ちながらも、納得したように頷いた。

「そうだったのか。でも……教えてくれないかい、どうしてイッシュ地方にやって来たんだ?」少年は場を繋ぐように会話を続けた。「現地の警察のお手伝いでもしに来たのかい?」おどけたように言って引きつった笑みを浮かべてみせたが、その冗談は虚しく空振りに終わった。サトシとセレナは、相槌の笑みを返す気力すら残っていないほど疲弊しきっていたのだ。

「本当の意味でポケモンマスターになりたいなら、他の誰かが夢を掴む手助けをしなきゃいけないんだって気づいたんだ」サトシは真剣な眼差しで答えた。「今朝トレーナーになったばかりの女の子がいてね、その子の力になるためにここまで来たんだ」

「なるほどね」カルロスの表情が引き締まった。「それなら、僕も近いうちにその子と会うことになりそうだ」

「たぶんそうなるだろうな」サトシは言葉を短く切った。

「それじゃあ、僕もそろそろ引き上げるよ」会話が潮時を迎えたことを察し、カルロスは別れを切り出した。「友達の家に泊まる手筈になっていたから、今頃きっと血相を変えて心配しているはずだしね」

「気をつけてな」二人は見送り、夜の闇へと遠ざかる少年の背中に声をかけた。

サトシとセレナはポケモンセンターへと戻った。日付はすでに深夜を回っており、セレナは正面扉を開けるために例の暗証番号を操作盤に打ち込まなければならなかった。建物に入る前、彼女は唇に人差し指を当て、サトシに静粛を保つよう合図を送った。

サトシは忍び足で自室へと向かった。セレナもまた、すやすやと寝息を立てるアニタを起こさないよう細心の注意を払いながら部屋へと滑り込んだ。ピカチュウは少女のベッドの片隅に丸くなって眠っており、セレナは彼を起こさないよう息を潜めて横たわった。黄色い相棒がそこにいてくれることは、彼女にとって心底喜ばしいことだった。サトシの言葉を信じるなら、彼女は歴代の仲間たちの中で唯一、一度も故意に電撃を浴びせられたことがない特別な存在なのだから。

翌朝、二人は早い時間に目を覚まさなければならなかった。

サトシとセレナの顔には、昨夜の過酷な修羅場の爪痕と、落としきれなかった化粧の残滓が濃く焼き付いていた。

昨夜は寝床に潜り込む前、煙幕で赤く痛む目を擦りながら、歯を磨いてカラーコンタクトを外すのが精一杯だったのだ。二人は疲れ果てていた。身も心も疲れ切り、深く傷ついていた。

朝食の席に着いた瞬間から、アニタとピカチュウは二人の沈鬱な空気を敏感に察知した。「なんだか酷く思い詰めているみたいですけれど、大丈夫ですか?」やつれた顔を見つめながら、アニタが尋ねた。「プラズマ団の連中……」セレナが口を開いた。「私たちの想像を絶するほど恐ろしい組織だったわ」彼女は懸命に説明を試みた。「トレーナーたちに無理やりポケモンを手放させていたの。確かに怪しげな人たちも混ざってはいたけれど……犠牲者の中には、サンヨウシティのジムリーダーまでいたのよ」

「少なくとも、あいつ一人だけはどうにか連れ戻せたけれどな」サトシはカップの底に残った泡を見つめながら、重々しい声で呟いた。

「それなら、そんなに気を落とす必要はないんじゃないでしょうか。誰か一人を確実に救い出せたんですから!」昨晩自分を支えてくれた二人に恩を返そうと、アニタは力づけるように言った。しかし、二人は静かに首を横に振った。

「何人助けられたかとか、これから先どれだけの被害が出るかという次元の話じゃないんだ」サトシは苦渋に満ちた声で語った。「問題なのは、あのプラズマ団という連中が底知れず危険だということだ。ロケット団なんかよりも、ずっとたちが悪い」

「そういえば、あの三人組は今頃どうしているのかしらね」セレナがふと物思いに耽るように呟いた。

アニタは話の筋が見えずに困惑した。二人にとっては語り尽くされた昔話であっても、彼女にとっては耳慣れない単語ばかりだった。「その、ロケット団っていうのは何なんですか?」アニタが尋ねた。

「かつて……いや、長いこと姿を見ていないけれど今でも暗躍しているはずの悪党たちさ。トレーナーのポケモンを強奪しては裏社会で売り捌いて金儲けを企む組織なんだ。俺たちとピカチュウは、嫌というほど煮え湯を飲まされてきたからな」サトシがセレナとピカチュウに同意を求めるように言った。

「私には、ロケット団もプラズマ団も大差ないように思えます」アニタが率直な思いを口にした。「どちらもトレーナーとポケモンの絆を土足で踏みにじっていることに変わりはありませんもの。私だって、トレーナーになったばかりですけれど……ミジュマルのいない生活なんて、もう考えられません。まだ出会ってから一日も経っていないのに」少女は、旅の仲間たちのポケモンと一緒に仲良く朝食を頬張る相棒を見つめながら微笑んだ。

食事が終わり、場の空気も幾分か和らいだところで、三人は宿舎を後にして街道へと歩み出した。「あの……ちょっとお聞きしてもいいですか」アニタは少し打ち解けた様子で、自分を奮い立たせるように尋ねた。「サンヨウシティのジムリーダーって、一体どんな方なんですか?」

「それは着いてからのお楽しみにしておこうぜ」少女に新鮮な驚きを味わわせたいサトシは、悪戯っぽく笑って答えを濁した。そうこうしているうちに、三人は街の境界を越え、人工の建造物が途切れて広々とした田園風景が広がる郊外へと足を踏み入れていた。

「そういえばさ……アニタはまだ始めたばかりで、手持ちはミジュマル一匹だけだろ。そろそろ新しい仲間を増やした方がいいんじゃないか?」サトシが提案した。

「私なんかに、本当に野生のポケモンを捕まえることができるでしょうか……」アニタは自信なさそうに呟いた。

「やってみなくちゃ始まらないわよ」セレナが優しく背中を押した。

サトシはスマホロトムを取り出し、ポケモン図鑑の生息地検索を開いた。手早く操作を終えると、画面をアニタの目の前に差し出した。「ほら、この辺りに生息しているポケモンたちだ。きっといい相棒が見つかるはずだぞ」画面上には、図鑑番号と名前を添えて様々なポケモンの姿がずらりと表示されていた。

「ええと……メリープ、リオル、ヨーテリー、ミネズミ、マメパト、ルリリ、チョロネコ……本当にたくさんいるんですね」視線を巡らせるたびに、図鑑に載っていた種類はもちろん、それ以外の無数の野生のポケモンたちの気配が三人の視界をかすめた。

しかし、一行が少しでも歩み寄ろうとした瞬間、野生のポケモンたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。地中へ潜る者、生い茂る木々の葉の隙間へ隠れる者、朽ちた空洞の幹へ滑り込む者。鳥ポケモンたちは彼らの手が到底届かない梢の先へと羽ばたいていった。

「ポケモンに近づくのって、思っていた以上に難しいんですね……」アニタは息を潜めながら零した。「多くの野生ポケモンはとても臆病だからな」サトシが教えた。

「気配を殺して慎重に近づかなきゃいけないのよ」セレナが言葉を添えた。

「ありがとうございます……でも、私たちが一歩近づくだけで、みんな雲の子を散らすように消えてしまって」

サトシは彼女を気遣いながら、穏やかな口調で諭した。「焦っちゃ駄目だ。向こうから近づいてきてくれるのを待つことだってあるんだからさ」

三人はカラクサタウンとサンヨウシティを繋ぐ街道を歩み続けたが、アニタの図鑑は一向に更新されないままだった。

その時、道端の生い茂る草むらの中から、薄茶色の毛並みを持つ小さな子犬の姿をしたポケモンがひょっこりと顔を出した。大きな楕円形の茶色い瞳と、赤い鼻先。顔周りは豊かなクリーム色の毛で覆われ、先端の尖った大きな耳の根元には愛らしい房毛が蓄えられていた。背中には揺らめく炎を連想させる濃紺の体毛が走り、尻尾は綿毛のように短く丸まっていた。

アニタはすかさずスマホロトムを向けて詳細を読み込ませた。「ヨーテリー、こいぬポケモン。ノーマルタイプ。メス。どんなに強大な相手であっても勇敢に立ち向かうが、不利を悟ると瞬時に身を引く聡明さを併せ持つ。覚えている技、たいあたり、かみつく」子犬のポケモンはちょこんと腰を下ろし、後ろ足で耳の後ろを器用に掻き始めた。

すごく落ち着いている子だな……あの子を捕まえてみるべきなのかな……でも、お母さんの最初の相棒もヨーテリーだったし。だからこそポカブを選ぶのを躊躇って、結局あのイヴァンに取られて……ツタージャはサトシさんの仲間になれたから良かったけれど……もしこの子が私の仲間になってくれるなら、今度こそ大切に育ててあげたい。挑戦してみる価値はあるはず、とアニタは心の中で自問自答した。

「どうかしたのか?」立ち止まって虚空を見つめるアニタに気づき、サトシが声をかけた。

「あのヨーテリーを捕まえてみたいんです。でも、うまくいくかどうか自信がなくて……」野生のポケモンを警戒させないよう、アニタは声を殺して囁いた。「大丈夫、思い切ってぶつかってみろよ!お前なら絶対にやれるって!」サトシが力強く励ました。

「はい!モンスターボール、お願い!」アニタはバッグから勢いよくボールを取り出したが、投擲の動作に入る寸前でセレナが制止した。「駄目よ、そのまま投げちゃ。野生のポケモンを捕まえたいなら、まずバトルをして相手の体力を削らなきゃいけないの。少し理不尽に思えるかもしれないけれど、弱らせてからじゃないとボールには収まってくれないわ」

アニタは空のボールを引っ込め、ミジュマルのボールを握り直した。「頼むわよ、相棒」アニタはミジュマルを外へ呼び出した。「あそこにいるヨーテリーが見える?仲間になってほしいの。あなたの力を貸して」

「ミジュ?」ラッコのポケモンは首を傾げ、半信半疑といった声を漏らした。

「あなたならきっと戦えるわ。でも急がなくちゃ、いつ逃げ出してしまうか分からないもの」彼女は手短に状況を伝えた。

「行くわよ!たいあたり!」ミジュマルは地面を蹴り、呑気に寛いでいた相手へと一直線に突進した。間合いが十分に詰まった瞬間、ヨーテリーは耳の後ろを掻くのをやめて俊敏に跳び起き、迎え撃つように自らもたいあたりを繰り出した。ミジュマルとヨーテリーの正面衝突は激しい衝撃波を生み、両者は土煙を巻き上げながら数メートル後方へと弾き飛ばされた。

「ミジュマル、アクアジェット!」ミジュマルの全身が高圧の水流の衣を纏い、瞬時に液体の砲弾と化した。「お願い、相手の目を回すように変幻自在に飛び回って!」アニタの指示を受け、ミジュマルは縦横無尽に軌道を変えながら突進した。ヨーテリーは飛び跳ねて迎撃の隙を伺おうとしたが、その予測不能な動きを捉えきることができなかった。

激突は不可避だった。強烈な衝撃を受けて吹き飛ばされたヨーテリーは、地面に転がって目を回してへたり込んだ。「今だぞ、投げろ!」サトシの鋭い檄が飛んだ。

アニタは言われるがままにバッグから空のボールを取り出し、拡大ボタンを押してヨーテリーめがけて投げ放った。放たれた赤い光線が子犬の体を瞬時に包み込み、光の粒子へと変換して内部へと吸い込んだ。ボールはカチリと音を立てて地面に落ちると、左右に小刻みに揺れ始めた。

アニタ、サトシ、セレナの三人は固唾を呑んでその行方を見守った。サトシとセレナにとって誰かの捕獲劇を見届けることなど日常茶飯事のはずだったが、この独特の静寂と緊張感はいつ見ても胸を締めつけるものがあった。やがてボールの揺れが止まり、カチリと心地よい完了音が静かな平原に響き渡った。

「さあ、拾いに行ってやれよ」サトシが破顔して促した。

「あ……はい……そうですね!」アニタは駆け寄ってボールを拾い上げた。「やった……生まれて初めてのポケモンを捕まえたわ!」彼女が歓喜の声を上げると、ミジュマルも我がことのように飛び跳ねて喜んだ。

「出ておいで、ヨーテリー!」アニタが解放ボタンを押すと、捕獲されたばかりの子犬が姿を現した。ポケモンは新米トレーナーの足元へ自ら駆け寄り、足首にすり寄りながら物珍しそうに匂いを嗅ぎ始めた。「お前のことをもっと知りたいみたいだな!」サトシが相好を崩した。

折りたたみ式の食卓や小型コンロ、椅子を広げて簡素な野外の昼食を済ませた後、三人は再びサンヨウシティを目指して歩き始めた。

地図のおかげで道に迷う心配は皆無だった。肌を撫でる冷気も、時折木々の合間を吹き抜ける涼やかな風の悪戯にすぎなかった。

そんな穏やかな道中を切り裂くように、金髪にスポーツウェアを身に纏った見覚えのある少年が三人の前に立ちはだかった。「やあ、イヴァン!」彼らは声をかけた。

「……チッ、なんだよ」少年は露骨に不機嫌な声を絞り出した。その横柄極まりない態度にセレナは激しい憤りを覚え、隠すこともせずに眉をひそめて不快感を露わにした。

「お前がここまで野垂れ死にもせずに生き残ってるとは思わなかったぜ」少年はアニタを見下し、冷たく嘲笑った。「それとも何かい?その偉大な二人組のお守り役に必死になって尻尾でも振ってたのか?」言われっぱなしの屈辱に耐えかねたアニタが今にも飛びかかりそうになり、サトシとセレナが慌てて両脇から取り押さえた。

「口で言い合うより、ポケモンバトルで白黒つけたらどうだ?」アニタの興奮が収まったのを見届けて、サトシが提案した。「望むところだ」イヴァンは鼻を鳴らした。「三対三でいいんだな?」

「あの……実は私、まだ二匹しか……」アニタが口ごもった。

「ケッ、使えねえな……いいぜ、二対二だ」イヴァンは吐き捨てるように言った。

程よい広さの草地の広場を即席のフィールドに見立て、二人のトレーナーは相対する位置へと陣取った。

「よければ、俺が審判を務めさせてもらうよ」サトシが進み出た。

「好きにしな」苛立ちを隠そうともしないイヴァンが乱暴に言い放った。

「アニタ対イヴァンのバトルを始める。ルールは二対二。相手のポケモン二匹を先に倒した方の勝ちだ」規則の説明が終わると、二人のトレーナーはそれぞれの相棒をフィールドへと繰り出した。

「ミジュマル、お願い!」アニタが最初の相棒を送り出した。イヴァンも同じように、ポカブの入ったモンスターボールを放った。

「こっちから行くぜ!」イヴァンが好戦的に先手を打った。「ニトロチャージ!」ポカブの全身が紅蓮の炎に包まれ、子豚のポケモンはミジュマルめがけて全速力で突進した。

「負けないで!アクアジェットで迎え撃って!」アニタが叫んだ。ミジュマルの全身が高圧の水流の衣を纏って宙へと跳び上がった。渦巻く水の軌跡を描きながら、それはまるで猛り狂う液体の砲弾のように見えた。

ミジュマルとポカブはフィールドのちょうど中央で真っ向から激突した。衝撃は凄まじかった。中心で水蒸気と火花が派手に炸裂し、激突の反動で両者は後方へと大きく吹き飛ばされた。水タイプに弱いポカブのほうが明らかに深い痛手を負っていたが、それでも子豚は膝を屈することを拒んだ。トレーナーになってまだ日は浅いものの、この少年がどれほど荒々しいやり方をする人間であるかを、その身で痛感していたからだった。

「たいあたりだ!」イヴァンは息つく暇も与えずに命じた。ポカブは再び相手へと駆け出した。アニタは動じることなく、好機をじっと待った。ポカブの間合いが危険な距離まで詰まっていく。「今よ!躱して、至近距離からみずでっぽう!」アニタが刹那の瞬間に叫んだ。ミジュマルは横へと鋭く身を翻して突進をすり抜け、その口から放たれた強烈な水流が、完全に無防備となったポカブの脇腹を真正面から打ち据えて宙へと跳ね上げた。

数秒の後、子豚は鈍い音を立てて地面へと叩きつけられた。「おい!何突っ立ってんだよ!さっさと立って攻撃しろ!ニトロチャージだ!」相棒の苦痛など眼中にない様子で、イヴァンが怒声を浴びせた。ポカブの体は再び炎に包まれ、相手に向かって走り出した。だが今度は、受けた傷の深さのせいで、その足取りは重く引きずるように乱れていた。

「ミジュマル、アクアジェット!」ラッコのポケモンが再び激しい水流を纏った。これほど緩慢になった標的を前にして、狙いを外す心配など微塵もなかった。液体のミサイルと化したミジュマルは相手の懐へと一直線に突き刺さり、ポカブの体を再び宙へと吹き飛ばした。地面に落ちた時、勝負の決着は誰の目にも明らかだった。ポカブは手足を投げ出し、ピクリとも動かずに気絶していた。

「ポカブ戦闘不能、ミジュマルの勝ち!」サトシはアニタの方へと右手を掲げて宣言した。

「次はもっとまともな動きをしやがれ」イヴァンは倒れたポカブを無造作にボールへと戻した。サトシはその顔面に一発拳を叩き込みたい衝動を、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。

「あいつは持てる力を全部出し切って戦ったぞ。お前がそんな態度を続けるなら、俺はこのバトルの審判を降りる」イヴァンは挑発的な視線でサトシを睨み返した。「審判なんて最初から頼んじゃいねえよ。それに俺の手持ちだ、どう扱おうと俺の勝手だろ!」イヴァンは吐き捨てるように怒鳴った。

「さっさと片付けるぞ!マメパト、出番だ!」イヴァンのボールから姿を現したのは、灰色の羽毛を持つ鳩のようなポケモンだった。幅の広い大きな黄金色の瞳を持ち、丸い頭頂部には三叉の小さな冠羽が立っていた。黒いくちばしの根元には小さなピンク色の鼻孔があり、腹部には周囲より明るい色合いの愛らしいハート模様が浮かんでいた。首の後ろには黒い筋が走り、黒い翼には一本の灰色の帯が際立っていた。足先はピンク色で、鋭い三本の爪を備えていた。

アニタはすかさずスマホロトムを起動した。「マメパト、こばとポケモン。ノーマル・飛行タイプ。オス。街中で暮らすことが多い。人懐っこい性格で、公園や広場などでよく見かけられる。覚えている技、かぜおこし、でんこうせっか、エアカッター」アニタは端末をバッグへと戻した。

「よしマメパト、エアカッターだ!」鳩ポケモンは両翼を強く羽ばたかせ、鋭利な空気の刃を連続で放ち出した。寸分の狂いもない正確さで標的へと迫る。ミジュマルは必死に回避を試みたものの、刃は胸元を直撃した。深手を負ったことに加え、これまでの疲労が一気に押し寄せ、ラッコのポケモンは力尽きてその場に倒れ込んだ。「ミジュマル戦闘不能!」サトシが告げた。

「よく頑張ってくれたわ、ありがとう。ゆっくり休んでね」アニタは優しく労った。

「負けた相手にヘラヘラ感謝の言葉をかけるなんて、弱さの証拠だな」イヴァンが冷ややかに嘲笑った。アニタは言い返すことなく、静かに相棒をボールへと収めた。

「ヨーテリー、お願い!」アニタはバッグから二匹目のボールを取り出した。ボタンを押して繰り出すと、現れたヨーテリーは敵を見据えて低く喉を鳴らし、即座に威嚇の姿勢をとった。

「ケッ、ヨーテリーかよ!芸がねえな!」イヴァンは退屈そうに鼻を鳴らした。アニタは怒りを押し殺した。捕まえてからまだ数時間しか経っていなかったが、すでに確かな絆が芽生え始めており、その相棒を愚弄されることなど到底許せなかった。「ヨーテリー、たいあたり!」彼女が命じた。子犬は相手を捉えようと果敢に地を蹴った。

「おい、躱せ」イヴァンは声を荒らげることすらせずに呟いた。マメパトは軽く翼を羽ばたかせて宙へと舞い上がり、間一髪のところで突進を軽々と躱した。「そのままエアカッターだ!」

鳥ポケモンの両翼から放たれた鋭利な風の刃が、子犬の体を真っ向から切り裂いた。その一撃はあまりにも致命的だった。「こいつの特性はきょううんよ。急所に当たりやすいんだ。もしきけんよちやはとむねだったら、捕まえもせずに捨て置いていたところだぜ」もうもうと立ち込める土煙が晴れ、力尽きたヨーテリーの姿が露わになる中、イヴァンは億劫そうに解説した。

「これで俺の勝ちだな。おい審判、さっさと勝者の名乗りを上げたらどうなんだ?」サトシは拳を硬く握りしめ、射抜くような鋭い視線で彼を睨みつけた。「ヨーテリー戦闘不能、イヴァンの勝ちだ」奥歯を噛み締めながら、少年は絞り出すように告げた。

勝者はマメパトに目もくれず、無言でボールの中へと引き戻した。「次はもっと手応えのある相手になってくれよな。それとも退屈しのぎに、今度はサトシ、あんたと戦ってみるか?」サトシは何も答えず、冷ややかに無視を貫いた。尊大に振る舞いたかったわけではない。目の前の少年という人間が、心の底から気に食わなかったからだ。ツタージャがあの時、なぜこの男を断固として拒絶したのか、その理由が今になって痛いほど理解できた。

数秒の後、イヴァンは背負い袋を担ぎ直すと、背を向けて足早に立ち去っていった。「俺たちの意見が一致するかは分からないけれど、俺はあいつのやり方が大嫌いだ」サトシが吐き捨てるように呟いた。

「同感だわ。自分のポケモンにあんな酷い接し方をするなんて、絶対に許せない。実際に戦ってみて、アニタさんはどう……」セレナが振り返りながら問いかけたが、返答はなかった。「アニタさん?」心配そうに重ねて呼びかけたが、辺りには不気味なほどの静寂が広がるばかりだった。

セレナが慌てて周囲を見回すと、少女の姿がどこにも見当たらないことに気がついた。彼女はサトシの腕を引っ張って足を止めさせ、来た道を引き返させた。

数十メートルほど後戻りしたところで、二人は木陰に腰を下ろしている少女の背中を見つけ出した。彼女は両手の中に顔を埋め、背中を幹に預けて小さく丸まっていた。全身から、自分自身に対する深い失意と落胆の気配が漂っていた。

セレナは手で合図を送り、サトシにその場に留まるよう促した。自分が話を聞くべきだと考えたからだ。パフォーマーの気配を察知したアニタは、合わせる顔がないといった様子で顔を背けた。「そんなふうに塞ぎ込んでいても、何も始まらないわよ」セレナが優しく語りかけた。

「一度の負けくらいで、そんなに自分を追い詰めるなよ」アニタの沈み込む姿を見て居ても立ってもいられなくなったサトシが、制止を振り切って口を挟んだ。

「お二人には分からないんです!サトシさんは頂点に立つ世界王者なんですから!負けることがどれほど惨めなことか、知るはずもありません!私にはトレーナーになる資格なんてないんです!あの子たちの信頼に応える器じゃない!それどころか、ポケモンを持つことすら許されない人間なんです!」少女は堰を切ったように涙を流しながら叫んだ。

サトシとセレナは彼女の前に腰を下ろした。「違うよ、そんなことを言っちゃ駄目だ。もし一度負けただけで資格を失うのだとしたら、この世界にトレーナーなんて一人も残らない。どんなに偉大なチャンピオンだって、数え切れないほどの敗北を経験してきているんだ。例外なんて誰一人としていないよ」ピカチュウも相棒の言葉を後押しするように、力強く鳴いてみせた。

「それはコンテストやトライポカロンの世界だって全く同じよ」セレナが柔らかく微笑んだ。

「大切なのは、倒れるたびに何度でも立ち上がって、そこから何かを学び取ることなんだ」サトシは少女の心に届くよう、真摯に言葉を紡いだ。

「私……まだあの子たちに信じてもらえるでしょうか……」アニタはミジュマルとヨーテリーのボールを胸の前に抱え込み、縋るように見つめた。

「出してみれば分かるさ」サトシが穏やかに促した。「もっとふさわしいパートナーがいるのかどうか、直接あの子たちに聞いてごらんよ」

アニタは一瞬だけ躊躇ったが、意を決して二つのボタンを押した。眩い光とともに、ミジュマルとヨーテリーが目の前に姿を現した。涙で目を腫らした主の姿を見るや否や、二匹は敗北の悔しさなど欠片も思い出さない様子で一斉に飛びついてきた。ミジュマルは胸元にぎゅっと抱きつき、ヨーテリーは顔じゅうを温かい舌で一心不乱に舐め回した。二匹にとって、何も変わってはいなかった。目の前の少女こそが、かけがえのない大好きなトレーナーだったのだ。

「ほらな?」サトシが顔をほころばせた。「あの子たちはお前を勝ち負けで品定めしたりしない。どれだけ大切にしてくれているかで見てくれているんだ。そしてお前は、心から愛情を注いでいるじゃないか」サトシは地面にあぐらをかき、懐かしむように語り始めた。「俺の言葉を信じてくれよ。カントー地方でタケシに初めて挑んだニビジムの試合なんて、目も当てられない大惨敗だったんだからな。負け方が酷すぎて、あの街から永遠に出られないんじゃないかって絶望したくらいだ」ピカチュウは当時の記憶を思い起こし、大袈裟に頷いてみせた。「惨めな思いをしたのは俺だけじゃないぞ」サトシは表情を引き締めて続けた。「シンオウ地方を一緒に旅したヒカリっていう友達がいるんだけれど……彼女はトップコーディネーターを目指していたんだ。ある時、一次審査で二大会連続で落とされて、バトルに進むことすらできなかった。あの時の彼女は完全に打ちのめされて、自分の演技を見失って自分には何の価値もないって泣き崩れていた……ちょうど今のお前みたいにな。でも彼女は絶対に諦めなかった。そして最後には、誰もが認める最高のコーディネーターになったんだ」

温かな空気が満ちる中、不意にいつもより少しだけ甲高い声が静寂を切り裂いた。「ヒカリ、さん?」セレナの肩がほんのわずかに強張っていた。その声音は穏やかさを保ちつつも、隠しきれない探るような響きを帯びていた。「そのヒカリさんって、一体どんな方なのかしら?今まであなたの口から、そんなお友達の名前を聞いた覚えがないのだけれど。私の勘違いかしら?」彼女は底知れない笑みを口元に張り付けながら、サトシを真っ直ぐに見つめた。

サトシは瞬きを繰り返し、部屋の空気が一瞬で氷点下へと急降下したことに手遅れになってから気づいた。「えっ?ああ、いや……友達だよ!シンオウ地方でタケシと一緒に旅をした仲間さ。ブイゼルの最初のトレーナーだった子で……」少年は頬を掻きながら、助けを求めるように相棒へと視線を泳がせたが、ピカチュウは知らぬ存ぜぬとばかりに口笛を吹く真似をして明後日の方向を眺めていた。「ただのお友達、なのね?」セレナは腕を組み、畳み掛けるように追及した。「もちろん!最高の仲間だよ!あの旅は本当に毎日が楽しくてさ!」セレナは目を細め、後でじっくり問い詰めてやるから覚悟なさい、とでも言いたげに唇を微かに動かした。

伝説のドラゴンポケモンではなく、隣に立つ少女の静かな嫉妬によって完全に逃げ場を失った世界王者の滑稽な姿に、アニタは堪えきれずに吹き出した。「お二人って、本当に面白いですね」少女は指先で最後の涙を拭い取った。「ありがとうございます。私、大切なことが分かったような気がします」

「さあ、いつまでも油断していると日が暮れて野宿になっちゃうわよ」セレナが居住まいを正して促した。

三人は再び街道へと足を踏み出し、静かな歩みを再開した。「なあ、ピカチュウ……」サトシは少女たちに聞こえないよう、肩の上の相棒に小声で囁きかけた。「ピカ?」黄色い相棒が耳を澄ませた。「イヴァンのやつ、どこかシンジに似ていると思わないか?」少年が言った。

「立ち入ったことを聞いて申し訳ないんですけれど、そのシンジさんってどんな方なんですか?」聞き耳を立てるつもりはなかったものの、アニタが気後れがちに尋ねた。「シンジさ。オートバイの選手じゃないぞ。まあ……シンオウ地方を旅していた時の手強いライバルの一人だったんだ。確かに強かったし、実力は疑いようもなかったけれど、手持ちに対するあの冷徹な接し方だけはどうしても受け入れられなかったな。まあ、その話はまたの機会にしよう。本人がいないところで悪口みたいにあれこれ言うのは好きじゃないからさ」サトシが説明した。

そうこうしているうちに、三人はサンヨウシティの境界、その外縁部へと差しかかっていた。遥か彼方に、ガラスと鋼鉄をふんだんに用いた多種多様な高層建築の尖塔群が夕闇の中に聳え立っているのが見えた。街道を進むにつれて、整備された住宅街や庭付きのテラスハウスが姿を現し、庭先では幼い子供たちがガーディやヨーテリー、ワンパチといった親しみやすいポケモンたちと無邪気に戯れていた。

地平線の彼方へと太陽が沈みかけており、一年のこの時期におけるイッシュ地方の黄昏時は、日没後に歩き回るにはあまりにも風が冷たすぎた。

果てしなく広がる道路網の中で方角を確かめながら、三人は街路樹の続く大通りをしばらく進んだ。幸運なことに、彼らはほどなくしてサンヨウ交通、通称LTPが運営する路線バスの停留所へと行き当たった。

それは決して大層な設備ではなく、日差しに晒されて少し色褪せた鮮やかなオレンジ色の金属支柱に、長方形の標識板が固定されているだけの簡素なものだった。板面には路線番号と主要な経由地が幾重にも並び、街の要所を示す地名が細かく網羅されていた。下部にはQRコードが印字され、リアルタイムの運行状況の確認や、デジタル乗車券の購入を促す公式案内の文面が添えられていた。

セレナが手早く操作し、三名分の乗車券を購入した。五百二十ポケドル。街角の喫茶店でコーヒーを三杯頼むのと大差ない手頃な代金だった。待つ時間はほとんどなかった。行き交う車の走行音の合間から重厚で一定の唸り声が響き始め、やがて直前の角を曲がって巨大な金属の車体が姿を現した。

LTPの誇る路線車両、アモン・アーバンリンクM型だった。車両の先端部には事業者の紋章が厳粛な威厳を漂わせて誇らしげに掲げられていた。黒地の盾に浮かび上がる純白の意匠が、車両に高度な信頼性と洗練された機能美を与えていた。白とオレンジ色を基調とした塗装は、遠目からでも一目でそれと分かる存在感を放っていた。

圧縮空気の抜ける低い音とともに、前方の乗車扉が内側へと滑らかに回転して開いた。風防ガラスの上部に備えられた白色LED表示器には、彼らが目指す終着地が鮮明に浮かび上がっていた。C系統、サンヨウシティ中央広場行き。

三人はオレンジ色の停留所を背にして車内へと足を踏み入れ、新しい樹脂の匂いと温められた空気が満ちる客室へと滑り込んだ。

三十分ほど揺られた末、バスはC系統の終点である街の中央広場へと到着した。

西の空から太陽の光は完全に消え去り、頭上には深い紺色の夜空が広がっていた。

幸いにも、広場から歩いてすぐの場所に街の主要なポケモンセンターが佇んでいた。今夜の宿となるその施設は、広大な敷地に堂々と建つ二階建ての近代建築だった。正面玄関は広場に面し、敷地の右手には公式規格のバトルフィールドが整備されていた。街の中枢に位置していながらも敷地は豊かな木々に囲まれ、カラクサタウンの無機質な施設と比べると格段に温もりを感じさせる佇まいだった。

すでに夕食の時刻を迎えていた。サトシのお腹が虫の音を立て始めていたものの、まずは夜を明かすための部屋を確保するのが先決だった。この施設はまさに理想的な拠点だった。

宿泊の手続きを済ませ、手持ちのポケモンたちの健康診断を預けた後、三人は夕食を摂るために街の飲食店街へと繰り出した。これまでの行程で手持ちの食料は底をついており、今から買い出しをして自炊を始めるにはあまりにも時間が足りなかった。端末を操作した結果、手頃な店がすぐに見つかった。ピザ専門店だった。

地図の案内画面を確認したセレナによれば、その店には無数の好意的な評価が寄せられており、街で屈指の名店として推薦する声も少なくなかった。

店内は多くの客で賑わっており、三人は辛うじて空いていた一つの食卓を確保するのが精一杯だった。もっとも、ポケモンたちにとっては幸都合だった。居合わせた客の大半が非トレーナーの一般市民だったため、専用の待機区画はほとんど貸し切り状態だったのだ。この店ではポケモン専用に焼き上げられた特製ピザも提供されており、人間用のものとは配合を変え、彼らの消化器に負担をかけないよう配慮された工夫が凝らされていた。

席について間もなく、若い給仕の女性が注文を取りに現れた。長い金髪を清潔感のあるポニーテールにまとめ、落ち着いた榛色の瞳をしていた。白いシャツの上に黒いベストを重ね、膝丈ほどの同色のスカートを上品に着こなしていた。左手にはロトムタブレットを携え、右手には感圧式のペンを構えて注文を記録する態勢を整えていた。

「いらっしゃいませ、ラ・テラッツァへようこそ。ご注文がお決まりでしたらどうぞ」彼女は洗練された物腰で、柔らかく微笑みかけた。

サトシは女性陣を優先するよう手振りで促した。

セレナが口火を切った。「私は、生ハムとルッコラのピザをお願いします」店員の手元でペンが滑らかに踊った。

「お飲み物はいかがなさいますか?」「冷たいお茶をお願いします」「お連れのポケモンたちにはどうされますか?」給仕の女性が続けて尋ねた。「あの子たちの分は……お任せしてもよろしいですか」セレナが答えた。このような趣向の店を訪れるのは初めてだった。普段なら自分の料理を仲間たちと分け合っていたため、いざ選ぶ立場になると、どう決めるべきか見当がつかなかったのだ。

店員は手慣れた眼差しでマフォクシー、ヤンチャム、ニンフィアの三匹を観察し、マフォクシーにはクラボのみの特製ピザ、ヤンチャムには歯ごたえのある野菜のピザ、そしてニンフィアにはリンゴの花と果実をあしらった繊細なピザを選び出した。

続いてアニタの番となり、彼女は自分用に辛口サラミのピザと、缶入りのバッカチノーを頼んだ。ミジュマルの分は店員の知見に委ね、海の幸をふんだんに使ったピザが選ばれ、ヨーテリーには肉を贅沢に乗せたピザが用意された。この肉のピザという選択肢は、サトシも自身のルガルガンのために採用した。

サトシはいつもの調子を崩さなかった。フランクフルト、ハム、キノコ、ソーセージ、そしてフライドポテトを山盛りに乗せた特大ピザに、コーラを添えて注文した。

手持ちの仲間たちへの配慮も極めて的確だった。ピカチュウにはポテトとトマトケチャップのピザ、ツタージャには新鮮な野菜のピザ、ゲンガーにはキノコと紫色の特製ソースのピザ、ゴウカザルにはイチゴのピザ、そしてオンバーンには南国の果実を散りばめたピザを注文した。

注文の品が手元に届くと、全員がそれぞれの流儀で食事を始めた。ツタージャを除くサトシと彼のポケモンたちは、我先にと料理に飛びついた。少女たちと彼女たちのポケモンは落ち着いた様子で食事を進め、昼間の失敗で懲りたミジュマルでさえ、今回は必死に礼儀を保とうと努めていた。

しかし、その場の一番の注目をさらったのはツタージャだった。自慢の二本のつるのムチを器用に使って自分のピザを食べやすい一口大に美しく切り分け、さらにマフォクシーとニンフィアのピザにも同じように刃を入れて整えてみせたのだ。そして紙ナプキンでつるを綺麗に拭うと、切り分けた小さな欠片をつるでつまみ上げ、一口ずつ気品あふれる所作で口へと運んでいった。

人間用とポケモン用の特製アイスクリームまで平らげて夕食を終えると、サトシは会計のために足早に勘定台へと向かった。

光沢のある金属と重厚な黒御影石で設えられた勘定台の上には、会計機と明瞭な料金表が据えられていた。内側には整えられた薄い髭と茶色い髪を持つ青年が立ち、給仕たちと同じ仕立ての良い白シャツに暗い色調のベストを着こなしていた。

「すみません、五番テーブルの会計をお願いします。人間三人、ポケモン十一匹です」サトシはいつもの調子で自然に告げた。

台の向こうの青年は端末に目を落としながら、驚きを隠せない様子でわずかに目を見開いた。今夜案内した客の中でも、人間に対するポケモンの比率が際立って高い卓だった。サンヨウシティの飲食店がポケモン連れに慣れているとはいえ、三人のトレーナーに対して十一匹の同伴というのは、このピザ屋の基準からしても圧巻の規模だった。

「五番テーブルですね……はい、出ました!」青年は営業用の笑みを取り繕って応対した。「ちょうど三万五千ポケドルになります」サトシは財布からカードを取り出し、迷うことなく決済しようとした。少なくとも、本人はそのつもりだった。自分で決めたはずの暗証番号を、まだ頭の中で完全に思い出せなかったのだ。

些細な手続きの手間をどうにか解決し、少年は領収書を受け取って仲間たちと手持ちのポケモンたちの元へ戻った。

食事を終えた三人は宿舎のポケモンセンターへと戻り、夜間の施錠時刻の数分前に滑り込んだ。

アニタはサトシやセレナから幾度となく励まされたものの、まだジムに挑む覚悟を決めかねていた。

互いに夜の挨拶を交わしてそれぞれの部屋に引き取った後、打ち解け始めた少女たちは、打ち明け話に花を咲かせていた。

一方のサトシは、マスターズ・エイトの一員として果たすべき極めて重大な職務にようやく集中することができた。彼のスマホロトムには、ダンデ、シロナ、カルネ、ダイゴ、ワタル、アラン、アイリスの端末と同様に、暗号化通信を介して世界最強の八人のトレーナーと国際警察などの治安機関を直結する極秘連絡網、8 LINKが導入されていた。

高度な暗号処理と極秘情報の性質上、その通信手段の利用は最高度の緊急事態のみに厳格に制限されていた。そして今、まさにその緊急事態が起きていた。

少年は迷うことなくスマホロトムを操作し、連絡網を開いた。文章は簡潔でありながら明確でなければならなかった。通信費用の問題ではなく、悪意ある傍受の隙を徹底的に排除するためだった。画面の構成は極限まで無駄が削ぎ落とされており、他のマスターズ・エイトの名筋と、国際警察を示す簡潔な文字だけが並んでいた。

個別の宛先を画面上で触れ、サトシは送り先を確定させた。承認を終えると、文字入力の画面が現れた。画像も絵文字も一切存在しない、文字だけの画面だった。前者は即時の暗号処理に負荷がかかりすぎ、後者は公的な通信としてあまりにも軽薄だったからだ。

サトシはここ数日間の出来事を頭の中で反芻した。民衆を煽動していたプラズマ団の下っ端との遭遇から始まり、あの少年の拉致、そして何よりもあの啓示の狂乱。上部の宛先欄には、他の七名の王者たちと国際警察の名が手際よく整列していた。

件名の欄には、カラクサタウンにおけるプラズマ団の動向・緊急、と打ち込んだ。

少年は推敲を重ね、幾度も書き直した末に、ようやく最終的な文面を完成させた。

 

カラクサタウンで起きている事態を至急報告します。イッシュ地方全体に波及する恐れがあります。プラズマ団と名乗る集団が、民衆を煽動してトレーナー敵視の感情を植え付けています。トレーナーはポケモンを隷属させており即刻解放すべきだと主張し、市民の多くがそれを信じ込んでいます。

単なる街頭演説の域に留まりません。

街中でトレーナーを拉致し、啓示と称する集会へ連行しています。

首領のゲーチスは聴衆の面前で捕らえた者に私闘を挑みます。男は異様な力を振るい、ポケモンを使わずに生身でドクロッグを戦闘不能に追い込みました。

敗北した者からボールを強制的に奪い取り、抵抗できない相手の手持ちを一方的に解放しています。

私とセレナは変装して現場に潜入し、少年とブラッキーの救出を行いました。セレナが相手のサザンドラを足止めし、その隙に煙幕で混乱を引き起こして脱出させました。ゲーチスは極めて危険であり、大衆を巧みに統制しています。男の異能は本物であり、人々は彼を英雄として崇拝しています。

今後の対応について指示を求めます。サトシ

 

表現の細部に迷いを残しつつも、世界王者は送信の操作を行った。刹那の間、組み込まれた機能が明確な文章を読み解き不可能な電子の塊へと変換した。

すべての文字が即座に無作為な記号や数字の羅列へと置き換えられ、規則性など欠片も残されていなかった。

伝送の安全性は通信の設計によって鉄壁に守られていた。単に文字を置き換えるだけでなく、僅かな容量ごとに情報の順序をかき乱し、暗号の形式を絶え間なく変異させていたのだ。

その電脳の暗号は通信網を駆け抜け、受信者の保護端末に届いた瞬間、固有の復号機能によって元の明確な文章へと瞬時に復元される仕組みだった。

翌朝、夜勤を担当していた当直医からジョーイさんへ交代が行われていた頃、サトシの端末に返答が届いた。

数時間前の少年の通信と同様に、その返信もまた幾重もの防壁を潜り抜けて届いていた。強力な振動音が、深く眠り込んでいた少年の意識を叩き起こした。昨晩の緊急報告に対する回答だった。

 

報告を受領し記録した。提供された情報に深く感謝する。啓示の実態およびプラズマ団の戦力情報は最重要事項として扱う。

国際警察はすでに現地への特別捜査官の潜入手続きを開始した。事態の重大性に鑑み、貴殿および他のマスターズ・エイトの構成員に対し、作戦行動の厳秘を命ずる。

王者の身分を行使した介入、およびプラズマ団に関する一切の公的発言を固く禁ずる。王者たちの露見行動は潜入捜査を水泡に帰し、組織中枢に不必要な警戒を抱かせる恐れがある。警戒を維持し、次なる指示まで暗号通信の受信体制を確保せよ。

 

悔しさを滲ませながら、サトシは端末を腰のポーチへとしまい、ピカチュウや少女たちと共に朝食の広間へと向かった。

三人がまだ夢の中にいた頃、建物の正面扉を激しく叩き、中へ通すよう懇願する一人の若者の姿があった。異変に気づいたジョーイさんが解錠の操作を行った。一般の利用時間前だったが、その少年の切迫した勢いに圧されたのだ。

扉が開くと思っていなかった若者は、前のめりに倒れ込みそうになった。「あら……カルロスさん、どうされたの?」ジョーイさんが声をかけた。「こんなに早くから、一体どうしたの?」

「プラズマ団の手から僕を救い出してくれた英雄たちがここにいるって分かったんだ。セレナさんがポケリンクに投稿した写真で、近くのピザ屋にいたのを見かけて……どうしても礼が言いたくてね」少年が答えた。

「利用者の個人情報を明かすことはできません。でも、宿泊者用の朝食会場ならご案内できますよ。中で何か召し上がって待っていてはいかがですか?」女性が提案した。

カルロスはその案に従い、指定された部屋へと向かって食卓のひとつに腰を下ろした。室内は静まり返っていた。金属と木材を組み合わせた食卓には、紫の筋が入った白い布が敷かれていた。売店の自動販売機を使えば軽食を口にすることはできたが、調理場はまだ動いていなかった。給仕係が姿を現すまでには三十分を要し、彼が待ち望んでいた一行が現れるまでには、さらに三十分の時間を待たねばならなかった。

「さっきも言ったけれど、まだジムに挑む自信がないなら、一緒に練習すればいいさ。ツタージャとなら手合わせしやすいだろ。あいつも俺の元に来たばかりだし、ちょうどいい運動になるはずだ」少年たちは今日の行動予定を話し合っていた。より正確に言えば、サトシが次々と提案を口にし、少女たちがそれに歩調を合わせようとしていたのだ。

朝食の会場に入ると、三人は空いている食卓を探した。広場に面した窓際の席がちょうど空いていた。

彼らの姿を認めるや否や、カルロスは立ち上がった。配膳の列に加わり、温かい飲み物と焼き菓子を確保すると、三人が腰を下ろしたばかりの食卓へと盆を運んで歩み寄った。

他人の時間を奪うことは本意ではなかったし、相手がサトシやセレナのような著名人であれば尚更だったが、彼らに命を救われた事実は重かった。「昨夜は僕を助けてくれて、本当にありがとう」少年が口火を切った。

アニタは突然現れた少年に、怪訝そうな眼差しを向けた。

セレナは少女の困惑の理由をすぐに察した。昨夜の濃煙のせいで、アニタはこの少年の顔をしっかりと確認できていなかったのだ。

幸いにも、少女の戸惑いに気づいたのはセレナだけではなかった。「あ……ええとね。昨夜、プラズマ団から助けてもらった者なんだ。どうしても直接お礼が言いたくて」カルロスはアニタの無言の視線に応えるように言った。「逃げ出す時に一言礼は言ったけれど、すぐに別れてしまったからね。落ち着いた場所で、もう一度感謝を伝えたかったんだ」

アニタは何か言葉を返そうと唇を動かしたが、適切な言葉が見つからずに口ごもった。

「失礼、名乗りが遅れてしまったね」少年は仕切り直した。「僕はカルロス、サンヨウジムのジムリーダーを務めているんだ。仲間内からはチャーリーとかポッドとか呼ばれているけれど、好きなように呼んでくれて構わないよ」

サトシは不思議そうに眉を寄せた。「カルロスっていう本名があるのに、どうしてそんなに呼び名がたくさんあるんだ?」

「あなただってサトシなのに、海外ではアッシュって呼ばれているじゃない」セレナが間髪を入れずに突っ込んだ。他愛のない掛け合いを横目に、カルロスは本題へと戻った。「君は、僕に挑戦するためにこの街へ来たんだろう?」彼はアニタへと向き直った。

「ああ、その通りだぜ!」サトシが横から即答し、アニタを驚かせた。

「ちょっと、本人の口から言わせてあげなさいよ」セレナがサトシを窘めた。

「いいんです、気にしないでください」アニタはサトシを否定することを避けた。「ただ、自分でもまだ確信が持てないんです。挑戦してみたい気持ちはあるんですけれど、負けるのが怖くて。皆さんが負けた時の受け止め方をあんなに真剣に教えてくれたのに、また期待を裏切ってしまうんじゃないかって。何より、自分のポケモンたちを失望させたくないんです」

真摯な告白に、サトシとセレナは温かな眼差しを向けた。「お前が俺たちを失望させることなんて絶対にないよ、アニタ。勝敗がどうあれ、俺たちはいつだってお前の力になるからさ」サトシが背中を押すように微笑んだ。「その通りよ。いつも勝ち続けることだけがすべてじゃないわ。失敗から学んで立ち上がることこそが大切なの」セレナも少女の肩に優しく手を添えた。

三人の間に流れる強い絆に胸を打たれ、カルロスは自ら提案を持ちかけた。「出過ぎた真似かもしれないけれど、腕慣らしがしたいなら……僕も手合わせに加わってもいいかい?」

「もちろん大歓迎だ!」サトシが持ち前の快活さで即答した。「ジムリーダー直々の手解きなら、思わぬ秘策が飛び出してくるかもしれないしな!」世界王者のおどけた言葉に、カルロスは思わず苦笑いを浮かべた。

食事を終えた四人は、敷地内にある裏手のバトルフィールドへと移動した。右手に広がる土のコートで、長辺には見学者用の長椅子が並び、向かい側には審判の定位置が整えられていた。

「ひとつ思いついたんだ」カルロスが切り出し、三人の関心を引きつけた。「アニタさんはまだ始めたばかりだから、少し経験のある者同士の実戦を見てもらう方が、動きを掴みやすいんじゃないかな?」

「とても勉強になりそうです。ぜひ見せてください」アニタが頷いた。

少女の同意を得て、二人のトレーナーはフィールドの両端へと立ち、ポケモンを繰り出す構えを取った。「ブラッキー、少し体を動かそうか!」カルロスが相棒を呼び出した。アニタはすかさずスマホロトムを向けた。「ブラッキー、げっこうポケモン。悪タイプ。オス。夜行性のポケモン。闇の中でも獲物の姿を正確に捉えることができる。覚えている技、スピードスター、でんこうせっか、シャドーボール、あくのはどう」アニタが画面に見入る中、サトシはピカチュウをフィールドへと送り出した。

相手の実力を測りかねていたため、最も信頼のおける相棒を選んだのだ。ツタージャを育てる腹積もりではあったが、怪我をさせる危険を避けたかった。

「準備がいいなら、いつでも始めようぜ」サトシが声を張った。

「望むところだ!」カルロスが力強く応じた。ブラッキーも主の言葉に呼応するように、気迫のこもった鳴き声を上げた。「君と手合わせできるなんて光栄だよ」

「前置きは抜きだ!ピカチュウ、まずはでんこうせっか!」ピカチュウは鋭く地を蹴り、左右へ目にも留まらぬ速さで身を翻しながら純白の光の筋となって対戦相手へと突進した。

「こっちもでんこうせっかで迎え撃て!」ブラッキーも敵めがけて駆け出し、相手の軌道をなぞるように身を翻したが、電撃の相棒が繰り出す凄まじい速度に食らいつき続けることはできなかった。二匹はフィールドの真ん中で正面から激突した。相手よりも体が軽いピカチュウは、その反動で宙へと大きく跳ね上げられた。

「その高さを活かせ!アイアンテール!」サトシの鋭い指示が飛んだ。ピカチュウの尾の質感が瞬時に鋼の輝きを宿し、研ぎ澄まされた刃へと変貌を遂げた。落下によって生じた爆発的な推進力が加わり、その一撃は途方もない運動エネルギーを帯びた。回避を試みたブラッキーだったが、鋼鉄の尾は容赦なくその頭上を直撃した。

 

「練習としては、これくらいで十分だな」カルロスが試合の中断を告げた。ごく短い攻防であったが、少なくともブラッキーにとっては息もつけないほど濃密な時間だった。「これが王者の戦いぶりってわけか。もし試合を止めていなかったらと思うと冷や汗が出るよ……君たちの高みに追いつくには、まだまだ修行が足りないみたいだ」カルロスは息を整えながら微笑んだ。「さっきアニタさんと練習するって話していたのに、僕の我儘に付き合わせちゃって悪かったね」彼は言葉を添えた。

「いえ……気になさらないでください!」アニタが慌てて手を振った。「その……お二人の戦いぶりを間近で見られて、すごく勉強になりました。私もサトシさんの足を引っ張らないように頑張らなくちゃ」

「そんなふうに気負う必要はないさ。これはお前のポケモンにとっても、ツタージャにとっても、互いを高め合うための練習試合なんだからな」サトシが温かく返した。

アニタは小さく頷いて納得を示した。二人はフィールドの両端へとそれぞれ分かれて位置についた。「練習だからといって手加減はなしだ。全力でぶつかってきてくれよな!」サトシが励ました。

「はい、全力でぶつかります!ミジュマル、出番よ!」アニタが最初の相棒をフィールドへ送り出した。それと呼吸を合わせるように、サトシもツタージャを繰り出した。「そっちから仕掛けてきていいぞ!」サトシが促した。

「それじゃあ、遠慮なく!ミジュマル、アクアジェット!」アニタが決断を下した。

ミジュマルの全身が高圧の水流に包まれ、弾丸となって草蛇ポケモンへと一直線に射出された。今にも相手の懐へと突き刺さらんばかりの猛烈な勢いだった。

「ツタージャ、跳んで躱せ!そのままつるで捕まえるんだ!」サトシの指示が飛んだ。

小さな草蛇は、水流の切っ先が触れる刹那の瞬間にふわりと宙へと跳躍した。同時に、背中の突起からしなやかに伸びた二本のつるが、突進の余勢を駆るミジュマルの胴体を正確に捕らえて締め上げた。

「よし、そのまま投げ飛ばせ!」サトシが命じた。ツタージャは二本のつるをしならせ、捕らえた獲物を容赦なく地面へと叩き落とした。ミジュマルは勢いよく頭から地面へと激突した。

痛烈な打撃を受けたものの、ラッコのポケモンは懸命に手をついて身を起こした。

「まだ戦える?」アニタが気遣わしげに尋ねた。ミジュマルはお腹のホタチにそっと手を触れ、自らを奮い立たせるように力強く頷いてみせた。

近距離での肉弾戦ばかりに頼っていては駄目だと、サトシさんは教えてくれようとしているのかもしれない、とアニタは思考を巡らせた。

「やってみよう。みずでっぽう!」ミジュマルの口から勢いよく水流が放たれ、対戦相手へと向かって一直線に伸びた。しかし、先ほど頭部を強打した時の衝撃が抜けきっておらず、狙いはわずかに狂って地面を叩き、周囲に泥と土煙を撒き散らすだけに終わってしまった。

「ツタージャ、グラスミキサーだ!」サトシが畳み掛けた。

ツタージャは宙へと身を躍らせ、刃のように鋭利な無数の木の葉の嵐を巻き起こした。激しい葉の突風は相手の水流を真正面から切り裂き、そのままミジュマルの元へと押し戻した。駄目だわ、遠距離からの攻撃すら通じないなんて、とアニタは焦燥に駆られた。サトシが自分を試し、導こうとしてくれていることは痛いほど分かっていたが、手詰まりの壁はあまりにも厚かった。それなら、サトシさんが見せてくれたあの戦い方を真似してみたらどうだろう。ええい、思い切ってやってみよう。「ミジュマル、もう一度アクアジェット!」アニタの唇に微かな笑みが浮かんだのを見逃さず、サトシもまた快活に口元を綻ばせた。

ミジュマルは微動だにしないツタージャの目前まで一気に距離を詰めた。「今よ、れんぞくぎり!」アニタの鋭い叫びが響き、サトシの笑みは白い歯を輝かせる満面の笑顔へと変わった。「つるで受け止めろ!」サトシが指示を出した。

二本のつるを交差させて構えたツタージャは、相手の猛攻の勢いを辛うじて削ぎ落としたものの、強烈な推進力をすべて受け流すことはできなかった。ミジュマルとツタージャは勢い余って互いの上に重なり合うように崩れ落ちた。不躾な接触に不快感を覚えたのか、ツタージャはすぐさまつるを使ってミジュマルを横へ押し退け、何食わぬ顔で素早く立ち上がった。

「練習としては上出来だな!」サトシが満足そうに締めくくった。「お前、ものすごい素質を秘めているぞ!」アニタに向けて手放しの称賛を送った。

「本当ですか……?」新米トレーナーは信じられない様子で目を瞬かせた。

「嘘なんてつくもんか」サトシは胸を張って答えた。

カルロスもまた、二人の熱戦をじっと見つめていた。サトシ君は世界王者という頂点に立ちながら、経験の浅い初心者の長所を引き出すことにもこれほど長けているのか、彼ならあるいは……と少年は思いを巡らせた。その思考の連鎖は、不意に歩み寄ってきたアニタの気配によって断ち切られた。少女は彼の目の前、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離に立っていた。「あ、あのね……カ、カルロスさん……」アニタは顔を真っ赤にして縮こまっていた。

「うん、何だい?」カルロスが優しく促した。

「あ、明日でよければ……ジ、ジム戦をお願いできないでしょうか!」彼女は意を決して言葉を紡ぎ出した。

「もちろん大歓迎だよ!新しい挑戦者を迎え撃つのは、いつだって僕の役目だからね!」少年は誇らしげに胸を叩いた。

「それじゃあ、また明日!」三人はカルロスに別れを告げた。セレナは口元に柔らかな笑みをたたえていたが、その瞳の奥には決して笑っていない冷たい光が宿っていた。胸の内に、言葉にできない違和感が燻っていたのだ。

あの少年は、一地方のジムリーダーにしてはあまりにも立ち振る舞いがぎこちなく、不自然に身構えすぎているように見えてならなかった。

 




この章を書きながら、ポケモンシリーズに登場するさまざまな悪の組織が物語の中でどのように構築されているのかについて改めて考えました。
その中でも、プラズマ団は特に分析しがいのある存在だと思っています。ゲームでの描かれ方だけでなく、この二次創作を書くうえで多くの物語的な可能性を与えてくれるからです。

アニタの家族の物語に深く関わっていることや、ゲーチス率いる組織として他のキャラクターたちの人生にも大きな影響を与えることだけが理由ではありません。プラズマ団は、悪の組織でありながら「荒唐無稽な目的」や「世界規模の野望」を掲げていない点が非常に興味深いのです。

彼らの理念である「ポケモンを人間から解放する」という考え方は、ゲームの時点で一貫性があり、現実味のある形で描かれています。この信憑性こそが彼らを描くうえでの魅力であり、目的を達成するためにどのような計画を立てるのか想像するのがとても刺激的です。

ロケット団も方向性はまったく異なりますが、物語的な説得力という点では同じです。彼らは神を呼び覚ますわけでも世界を変えようとするわけでもなく、ただ汚い金を稼ごうとするだけの存在です。現実にも存在するタイプの犯罪組織であり、その分かりやすさが物語としての強みになっています。こちらもまた、目的のためにどんな計画を立てるのか想像するのが楽しい相手です。

こうした理由から、私は具体的で理解しやすい動機を持つ敵役を書くことに強い魅力を感じています。
彼らが正しいからではなく、物語として非常に堅実だからです。

この作品を読み始めよう(または興味を持とう)と思った一番のきっかけは何ですか?

  • ​18歳の成熟したサトシ
  • イッシュ地方の独自の解釈
  • サトセレの関係性と旅路
  • 導き手としてのサトシの姿
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。