「ユキちゃん、大丈夫っ!?」
ここが屋内であることを忘れる勢いで病室に駆け込んできたメグさん。息を荒げ、緊急事態真っ最中といった様子の、切羽詰まった声で聞いてきた。
「ど、どうしたんですか、そんなに慌てて」
「だってっ、さっき出てきた人たちが怒ってた?みたいで、何かあったのかなって……。 ……ユキちゃん?」
「はい?」
「何でベッドに潜り込んでるの?」
「お気になさらず」
もぞもぞとシーツを押しのけて出てくると、メグさんがコンビニ袋を持った状態で、焦りというよりは困惑の表情を浮かべていた。微妙な空気を流してしまうために、何でもないですよという顔をして話し出す。
「お見舞いに来てくれた、んですよね。 夜なのにすみません」
「あ、ううん、いーの! 私も勝手に来ちゃってごめんね、ユキちゃん途中でいなくなったまま帰ってこないのが心配で……」
昨日もお休みだったし、と純粋に僕のことを気にしてくれているようだった。罪悪感がものすごい。向こうからしたら部活皆勤の同級生が、急に休んだり保健室行ったまま帰ってこなくなったようなもの。優しい心根ゆえに心配してしまうのは当然だ。それに僕がいなくても部は回るだろうが、急に抜けられると困るという活動上の不便もあったに違いない。
まだまだ根回し不足だな、と思って反省した。
「モモトーク入れとけば良かったですね……。 あれは~、その、サボっちゃっただけでして。 今日も大体そんな感じなんです」
まぁ二日連続サボりですね、ぴーすぴーすと体調良好であることをアピールした。
するとメグさん、ぱっちりお目目を二、三度ぱちくりさせてから言う。
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ、ユキちゃん、元気ってこと?」
「はい! むしろ寝過ぎて体力が余って仕方ないくらい」
セナさんの時にも似たようなこと喋ったなぁとか思いながら、腕をムキっとやるポーズをやった。メグさんはそれを見て口をぽっかり開けて唖然とする。そりゃそうだ、病欠かと思ったらサボりなんだから。
彼女は数秒固まった後、再起動した様子ではぁ〜〜〜っと息を吐いて、
「よかった〜〜〜!」
と言った。
「いっつもすっごく頑張ってくれてるから、体壊しちゃったんじゃないかって思って……!」
ユキちゃんが元気でよかった、安心した様子でそう繰り返すメグさんは、他には一切何も思っていなさそうだった。我が事のようにハラハラして、安堵する。この人のこういう所にはかなわないぁとしみじみ思う。
「……ユキちゃん?」
メグさんの純な仲間思いに感心する、ある意味いつものお決まりの流れ。ただ、違う所も何個かあった。
腕の上に二滴だけ、ポタ、ポタと生ぬるい水滴が落ちる。誰かの涙のようだった。真ん前のメグさんはびっくりした様子で固まっているけれど泣いてはおらず、だから消去法で僕の涙、ということになるんだろうけど。
落ちてきたのはそのたった二滴だけで、あとは何もなく。
2人で僕の腕を見つめる謎の時間があった。
「え、えっ!? ユキちゃん泣いてるっ!? なんで!?」
僕は滴った水の跡を、すっと指で拭ってから言う。
「泣いてないですけど?」
「泣いてたよっ!?」
「いや全く……」
「泣いてたって!!」
「まさかそんなぁ」
ちょっと間を置いて言った。
「マジックです。 なんちゃって」
あ、すごい。メグさんが少しながらもイラっとした表情浮かべてる、初めて見た。ゲヘナ史上でも初なんじゃないか?あのいつでも快活湿気ゼロの彼女に負の感情を抱かせたのって。顔つきが美人さんだから迫力があって結構ビビる。変な性癖に目覚めそう。
人生には誰しも必ず真剣にならないといけない瞬間が何度かあって、それがね、今だったみたい。
本当に二滴以降は何事もなく、僕も平常で過ごすのだが、メグさんは全く納得いってないからねという雰囲気を全身で醸し出していた。それは「ユキちゃん……」と言う声に含まれる、呆れに近いニュアンスからも読み取れた。
彼女はこれまた珍しい、ムッとした表情を浮かべて。
「……ふーん、そうなんだ。 いいけどね、ユキちゃんがそのつもりなら、私にだって考えがあるし」
「これ、お腹空いたときに食べてね」と不満顔でコンビニ袋をずいと押し付けられて、どういう温度感で反応したらいいか分からないままお礼を言うが、相も変わらず不服そう。中には何個か温泉まんじゅうと天然水、僕が時たま食べる間食の組み合わせ。
「ユキちゃん、元気なんだもんね?」
「は、はい」
「じゃあ、明日、待ってるからね。 モモトークもするから、見てね」
「えっと……?」
「絶対見てね! また連絡するから!!」
またね!!!と怒りながらもバイバイは忘れないメグさん、そのまま来た時に劣らぬ勢いで去っていった。
そしてぽつんと病室に取り残される僕。
以降は誰か来る様子もなかったから、モモトークに溜まった部員さん達からの心配のメッセージを捌いて、部屋を出たところでまだ話し合っていたセナさんたちに挨拶だけして、さっさと寮の方へと帰った。
帰りの夜道で思考を巡らせる。去り際のメグさん、発言の繋がりがいまいち掴めず、あれは何が言いたかったんだろうなぁ。
ぼんやりと考えていたら、メグさんからメッセージが飛んできた。
『18時くらい 指定の場所にて待つ』
えぇ……果たし状……?
指定の場所とは、と思っていると、直後に焦って誤字混じりで場所は明日送るねとの補足。すぐに口調が柔らかくなってしまう所を見ると怒るの慣れてないんだろうなぁと和む気持ちもありつつ、いやちゃんと明日が怖いなとも怯えながら、貰った饅頭をパクっとかじった。
我ながら思う、隠し事が下手すぎん……? 間違っても諜報員にはなれないな、だとしてもこの秘密は墓まで持っていかなければ自治区を越えた紛争が……なんてハラハラしながら、比較的遅くに自室へと帰るのであった。
◇
次の日の放課後、部長にチクられてたら嫌だなぁとか思いながら約束の場所に向かう。
ゲヘナ学園から歩いてそんなに離れてない所、街中の公園をさらに進んだ先にある小さな森林。近づいていく内に薄っすら湯気が見えた気がしてそちらへ行くと、やはりそこが目的地だった。
部長はいるのか、いないのか、どっちなのかとドキドキしながら木立を抜けると……待っていたのはメグさん一人だけ。
よかった、今日は何とかなるかもしれない、と一息つく。しかし同時に、彼女の様子がいつもと違うことにも気付く。
「浴衣……?」
「いらっしゃい、ユキちゃん。 待ってたよ」
メグさんはそう言った後、真っ直ぐ姿勢良く立ったままで動かない。
彼女が着用しているのは、健康ランドの備え付け浴衣よりはもういくらか、ちゃんとしてそうな生地のもの。いつも頭に装着しているゴーグルもなく、髪も下ろして、清楚かつ上品な印象が前に押し出されている。
普段の賑やかな様子は息を潜めて、僕が動き出すのを待っているようだった。
「一緒に入りますか……?」
一応聞いてはみたけれど、メグさんはううん、と首を振ってから言う。
「今日の私はおかみさんだから。 ユキちゃんはおもてなしされるんだよ」
あっ、そうなの……女将さん……。
よく似合ってますねと褒めるが、無表情でありがとうとだけ返ってきてそれっきり。怒ってるのか、女将のロールプレイなのか、即座の判断が難しく、藪蛇回避で黙っておく。
……。
……………。
こ、困った。
気まずさに負けてお茶濁しに「その服は?」と捻り出せば、「ウチの備品だよ」とメグさんが一言。へーそんなのあったんか、何に備えたものなんだろうなぁとか思いながら、あっという間に服をひっぺがされて温泉に放り込まれた。大家族の母もかくやという効率化された手捌きだった。
「あぁ~~~……」
「湯加減はどうかな?」
「いいかんじです……」
メグさんは「そっか、よかったよ」と言った後、すすっと僕の方にお盆を差し出した。その上には飲み物が入った器が一つ。興味深く思って眺めていると、彼女が紹介しだす。
「こちら、サービスのドリンクです」
「おお……? 初めて見ました。入りながら飲むんですね?」
「うん。 あんまり行儀が良いことじゃないって部長も言うから、身内の、それも一部でしかやらないんだけどね」
無言の期待を受けて、ゴクリと一口飲む。
部活終わりにもよく飲むスポーツドリンクだった。栄養ドリンクが混じった名物飲料でもなく、本当に純粋な単体のもの。これが、うまい。慣れた飲料も環境が違えば新鮮に感じるもので、それも温泉入浴中という身近ながら非日常極まった状況、そこで飲む甘味と水分補給を両立したドリンクは、心身を十二分に満たす満足度があった。思わず「うまっ……!」と声に出てしまう。隣のメグさんはまだ無表情だが、ドヤ顔的な雰囲気がはみ出ている。
「入りっぱなしだと水分なくなっちゃうから、その対策。 美味しいだけじゃないんだよ」
部長の受け売りだけどね、とメグさんは付け加える。その後、しばらくお互いに喋らずにいた。
放課後の夕暮れ時、同期の用意してくれたと思われる温泉に入ってもてなされる。なんだか申し訳ないくらいで、だけどそうしてくれるからには楽しむのがいいと思って、体験を全身で味わいに行った。ひとまず、飲み物をいただいてほっとして、その余韻に浸るところから。
息を吐いて、目を瞑る。木々のざわめく音、遠くで小さく羽ばたく鳥の音、土の匂い、硫黄系の成分由来な温泉の香り、肌を撫でる温い風。そして、隣のメグさんの気配。
黙っていると、彼女はぼそりと言う。
「……ユキちゃん、体調良くなった?」
「まぁ、良いと言いますか、昨日からずっと元気ですから」
「んー……それでも、急に呼んじゃってごめんね」
横を見れば、そこにはシュンとしたメグさん。眉を下げて気落ちしている様子が、身長差も相まって落ち込んでる大型犬のような愛嬌があり、撫でちゃいたい気持ちが湧き上がる。
「わっ、なになに?」
思ったら最後、撫でてしまうのが人間の性。タオルで手を拭き即座に実行される撫で、それに驚きながらも、ニコニコ笑顔でわしゃわしゃされるメグさんであった。
それからもメグさんは飲み物をくれたり、今日の温泉を準備するにあたって色々大変だったというある種の土産話、この源泉は長続きするものじゃないから今の内に楽しんでほしい等、そこからなんやかんやあって、やっぱり一緒に入る流れになった。というか入ってもらった。
普段の部活動でマネージャー的立ち回りをしている身としては、一方的にもてなされるのは据わりの悪さがある。こうしてもらった方がもっと楽しめる、そこまで言えば、メグさんも折れて隣に来てくれた。
やっぱり、対等な方が落ち着く。僕ら同期としてもね。
「ユキちゃんは、私のことメグさんって呼ぶよねぇ」
「そうですねぇ」
「なんでかな?」
「えー……? うーむ……考えたことなかったかもしれません。 理由、ないかも……」
並んで入浴、雑談中の一つの話題。今日くらいは会話がグダグダしてもいいかなと思って、喋りながら理由を探すが、やっぱり見つからなかった。同級生は全員さん付けで呼んでるから流れでそう言ってるだけ、なのかな。自分でもあまり分かってない気がする。
「メグ、とか、メグちゃん、じゃないもんね。 多分、ユキちゃんくらいなんだよね。私をさんつけて呼ぶのって」
チラチラッとこちらを伺い見るメグさん。
なるほど。同期のよしみだ、期待に応えるのもやぶさかでない。そう思って僕は言った。
「メグさん」
「ダメかぁ〜っ!」
いやメグちゃんて言わんのかい! という僕のベタな逆張り芸に、メグさんはたはは、と気持ちよく笑いながら大人しく引き下がる……いつもの彼女ならそうしそうなものだが、今日は違った。
笑った後、時間経過に伴って、徐々にムッとした表情に変化していくメグさん。昨日今日でよく見る顔だ。いつもニコニコしているから新鮮に感じる。コロコロ表情が変わるのが子供みたいで可愛いと思う。後ろから見守る親の気持ち。
「……やっぱり、たにんにょうぎ?だよ! 私たち同期でクラスメイトなのに、さんって、ユキちゃん!!」
「そ、そうですね?」
思うところがあったのか、「そもそもユキちゃんは分かってない!」とヒートアップしていく。際限なく声もデカくなっていく様はまさに酔っ払いで、変な物でも飲んだんじゃないかと周りを見ても何もない。当然彼女は素面だった。
「私、いっつもありがとうって思ってて、今日はお礼のつもりで用意したの。 ユキちゃん、いつもありがとうね」
「はい、こちらこそありがとうございます」
「ほら! すっごくサラッとしてる!!」
「私、頭は良くないけどそういうの分かるんだからね」とメグさんのジトっと見てくる。
いや、いやいや、気持ちは充分に伝わってますよと丁寧に言えば、逆に油を注ぐ結果を招いた。
本当に全く止まらない。「私はもーっとね、こーんなにありがとうって思ってるの! こーーーーんなに!!」とか言いながら腕を大きく広げた後、勢い余ってこっちに倒れてきた。「ユキちゃぁ〜〜〜〜ん……」なんて言ってぐにゃぐにゃになった彼女の頭を撫でてなだめる。日々の疲れが溜まってるのかもしれない。おいたわしや、メグさん。今日は存分に発散してほしい。同期のマネージャー、この僕塩谷ユキが全てを受け止めよう。
「って顔真っ赤じゃないですか。もしかしてのぼせてます?」
「違うよ~……私のぼせたことないもん……」
酔っ払いの酔ってない発言くらいの信用なさ。いったん上がるか、せめて水分取りましょと促して、傍によけてあったスポーツドリンクをごくごくと飲ませてあげた。
「ありがとぉ、ユキちゃん、ありがとねぇ……」
「いいですから。 ちょっと上がって夜風にあたったりとかしましょうね」
「うん……」
流れで自然にお開きの雰囲気かな……僕のそんな先行き予想は、結論から言えば全く役に立たなかった。
メグさんはお湯から上がらず、大きく息を吸って、空に向かって言う。
「ユキちゃん、ありがとーーーーーーーーっ!」
「なっ、なんだ……!?」
今日一番の大声でびっくりする僕、構わず声を張り上げ続けるメグさん。
「いつも頑張ってくれて、ありがとーーーーーーーーーーーーーっ!」
「ちょ、メ、メグさん……!」
森の中とはいえ周囲が気になる、加えて恥ずかしいやらなにやらで混乱してしまい、対処の順番の整理がつかない。いやそんなの明白だ、まずはメグさんを止めないと。
ただ、その前に一つ、やっておかないとな。
バシャっと、顔にお湯をかける。メグさんの顔に、そんなことはしない。僕の方にめがけてかける。
「ユキちゃん、何して……?」
「雑念を追い払ってます」
ひたすらバシャっとお湯をかける。心頭滅却。歪む視界のチューニング作業。
お湯をかける。視界が戻る。歪む。かける。やっぱり歪んでくるのでかける。それでも中々安定しないので、これを真っ先になんとかしなければならない。
僕も大きく息を吸う。ぽかんとしているメグさんを置いて、お湯の中に潜り込んだ。
時間差で「あーーーっ、ズルだっ!」と騒ぐメグさんの声が、直前に聞こえたような、そうでもないような。
湿っぽいのは、なんか、好まないのだ。
もっとずっと楽しくいたい。
悲しい顔をすればもっと悲しさは強まるし、裏を返せば楽しさも維持できる。気持ちは体に現れるものだが、体で気持ちを作ることだってできる。経験則、みたいなものだけど。
今日のメグさんは何だか変だ。
僕の知っている彼女はいつも朗らかで、明るく、ニコニコしていて、ちょっと強引。今日だってそれに該当しない訳ではないけれど、種類の違う強引さがあるというか。
お湯の中、メグさんの白い両手がこちらに伸びてくるのが見えた。とりあえず今は嫌だ、絶対に捕まらないぞ、そう意気込んで注意深く観察する。
彼女の両手はこちらを探るように動いて、近づいて、ゆっくりと距離を縮めてくる。
それからある時点で止まる。
ためらうように小さく揺れて、それを最後に動くのをやめた。
ゆるく、両手を広げた姿勢のまま、彼女はじっと待っている。
ただ、じっと待っている。
……別に、変じゃない。
彼女だって人間なんだ。切り貼りされた記号じゃない。笑顔が常に思えても、時には悲しみ、時には怒る。違う一面が見えたから人が変わったと思うのは早計で、見えていなかった側面が明らかになっただけ。
メグさんは変じゃない。本当におかしいのは、僕だ。
誰もが僕に配慮する。カヨコさんも、セナさんも、部活のみんなも──メグさんも。
いくら鈍いからといって、全く気付かないわけではない。どれだけ秘密にしようとしても、彼女らなりに察して気遣う。余計なお世話だなんて思わない。むしろ、素直に受け取れないことが申し訳ない。
恥ずかしいな、と思うことが増えた。
善意を受け取れない自分が恥ずかしい。疑ってしまう自分が恥ずかしい。負けた自分が恥ずかしい。恨む自分が恥ずかしい。強くない自分が恥ずかしい。守られたままでいる自分が、悔しい。
本当は悔しかったのだ。絶対にどこかで引き返せたし、一声でも抵抗したら変わったかもしれない。でも、やっぱり、もしかしたら。虚しい合理化の繰り返しで本心から遠ざかって、心がゆっくり死んでいく。そんなことだってどこかで分かっている。こうやってまた俯瞰したつもりになる。自分は一体どこにいるのか。
自分のことだから一番分かる、僕は自分が分かっていない。
だから、知りたい。
僕は僕のことが知りたい。どこから来たのか。どこに向かうのか。本当はどう思っているのか、これから一体どうなりたいのか。
分からないなりに知っていることが一つ、僕はこのままでいたくない。
……強く、ありたい。
皆から守られる自分だけじゃなくて、皆を守れる自分になりたい。今のままじゃ全然足りない。だからいっぱい間違えた。自分の気持ちにはまだ鈍感で、怖いかどうかも分からないけど、ただ、胸を張って、笑って毎日を過ごせるように。
変わりたいと思うから──メグさんの手を取った。
引き上げられて、現実に帰ってくる。自分の中にも潜ったせいで時間感覚はもう滅茶苦茶で、酸欠も重なりくらくらしながらいっぱいむせた。
すぐにメグさんが背中をさすってくれた。彼女が湯あたり気味なのは変わらなくて、元気な時と比べるといくらかぽやっとしている様子が続いている。
「あ~、ユキちゃん泣いてる〜……」
「泣いてませんけど」
目尻を拭う代わりにもう一度バシャっとお湯を顔にかけた。鼻に入ってまたむせるが、それが良い気付け薬になった。ふいと顔を横にそらしたまま言う。
「そろそろ上がりましょう。僕も頭ふわふわしてきましたし……今日は、本当に、色々とお世話になりました」
「ん〜……ユキちゃんも、いつもありがとうねぇ……」
「はい。こちらこそ、ありがとうございます」
忘れないように、もう一言だけ付け加えた。「メグちゃん」と。
気恥ずかしいから小声で呟いてお湯から上がって逃げたのに、すぐ後ろからメグ……ちゃんが「えーっ、なになにっ!? ユキちゃんなんて、ねぇユキちゃんっ!!」とか言いながらぐいぐい迫ってくっついてくる。ああすごい柔らかい、てか服着れないから一回離れてほしい、そう伝えたのにしばらくはそんな感じが続いたのであった。
改めてメグ……ちゃんに今日のお礼を言って、二人して並んで夜道を歩く。
交わす言葉が多いわけではなかったが、それからもやっぱりベタベタされて、まぁこれも悪くないか、なんて思ったり。今日の温泉から離れて、学園街まで戻ってきて、いつも部活帰りにも通る道をなぞってゆく。
いろんなものとすれ違う。多種多様な種族特徴を備えた人たち、獣人やアンドロイドに、角や尻尾を備えたゲヘナ学園の生徒たち。パトロールする風紀委員に、兵器と共に軍事パレードする生徒会、プロパガンダを垂れ流す飛行船、自治区の対立を煽る街頭の大きなディスプレイ。
きっとすぐには変わらない。複雑な問題も解決しない。でも、小さくてもいいから、変わろうと思って一歩踏み出すことが大事なんだと、僕はそう信じたい。だからまずは、出来ることから一つずつ。
そう思って、隣の彼女に話しかけるのである。
「メグちゃん」と。