『待って待って待って!』
蜘蛛子が慌てて急停止した。
白い身体が岩陰へ飛び込み、そのまま周囲を警戒するように脚を動かす。
『どうした?』
『いや、どうしたじゃないからね!?』
蜘蛛子の念話には焦りが混じっていた。
『さっきの絶対ダメなやつだった!』
『まあ、俺もそう思う』
『なら止めてよ!?』
『突然走り出したお前を止められる気がしなかった』
『否定できない!』
蜘蛛子がぐぬぬみたいな気配を出した。
『いやだって、怖かったし!?』
『それは分かる』
『なんか気が抜けた反動というか、テンションおかしくなってたんだよ!』
『俺も少し気が緩んでた』
蜘蛛子と遭遇して。
会話が成立して。
仮とはいえ協力関係になった。
精神的にかなり大きかったのは事実だ。
だが、ここはエルロー大迷宮下層。
上層とは比較にならない危険地帯だ。
さっきみたいに走り回るのは、自分から化け物に居場所を教えるようなものだった。
『なので!』
蜘蛛子がビシッと言った。
『これからは慎重に行きます!』
『賛成だ』
本気で。
この辺りからは、下手をすると本当に一瞬で死ぬ。
蜘蛛子は原作でここを単独突破している。
だが、それは結果論だ。
それで安心できるほど、この場所は甘くないと思っている。
実際には何度も死にかけているし、運もかなり絡んでいた。
そして今は、原作には存在しなかった俺までいる。
変数が増えている以上、原作通りを期待する方が危険だろう。
『……というか』
蜘蛛子が小声みたいな念話を飛ばしてくる。
『ここ、なんか嫌な感じしない?』
『する』
空気が重い。
広い空間。
巨大な岩場。
響く振動。
上層より静かなのに、むしろ危険を感じる。
上層とは空気そのものが違う。
『なんかさ』
蜘蛛子が周囲を見回す。
『広くない?』
『上層よりずっとな』
『だよね?』
蜘蛛子が少し黙る。
『……大きい魔物がいるから、とか?』
『可能性は高い』
『うわぁ……』
蜘蛛子の気配が露骨に沈む。
『ないわぁー……』
『本当にな』
出来るだけ早く上層に帰りたいものだ。
だが、帰れない以上は進むしかない。
『とりあえず、岩陰沿いに移動する』
『オッケー』
『あと、強い反応が来たら即逃げ』
『異議なし』
『戦闘は最低限』
『むしろ避けたい』
『特に大型は絶対避ける』
『全力で逃げます』
よし。
ちゃんと危機感は共有できている。
蜘蛛子は基本的にノリが軽いが、死が近い場面ではちゃんと慎重になる。
そこは原作通りだった。
蜘蛛子がゆっくり動き始める。
今度はさっきみたいな高速移動じゃない。
岩陰から岩陰へ。
周囲を警戒しながら、足音を抑えて進んでいく。
……それでも普通に速いんだが。
『やっぱ速いな』
『ふふーん』
ちょっと得意げだった。
俺は少し距離を取りながら、影を中継して移動する。
近づきすぎない。
それくらいが丁度いい。
蜘蛛子も俺を警戒しているし、俺自身も【魂欲】を完全には信用していない。
だから今は、このくらいの距離感が安全だ。
影へ意識を沈める。
すると、周囲の影からぼんやりと情報が伝わってきた。
熱。
魔力。
生体反応。
完全に見えているわけじゃない。
だが、影同士が繋がっている範囲なら、ある程度の位置や動きが感覚的に伝わってくる。
……【熱感知】と【魔力感知】が、影を媒介に広がってる感じか?
まだ曖昧だ。
距離が遠いとぼやけるし、岩越しだとかなり分かりにくい。
だが、少なくとも近距離の索敵には使える。
【自己理解】のおかげか、その辺りの感覚も少しずつ把握できるようになってきていた。
『影蛇?』
『ん?』
『ちゃんといる?』
『いるぞ』
『なんか急に気配薄くなるから怖いんだけど』
『影の中だからな』
『それが怖いの!』
まあ、分からなくもない。
自分でも、影の中に潜っている感覚はかなり不気味だと思う。
【影憑】へ進化してからは特にだ。
影に潜るというより、自分の存在そのものが薄くなっている感覚がある。
長時間使い続けるのは危険かもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
《熟練度が一定に達しました。スキル【念話LV1】が【念話LV2】になりました》
『……ん?』
俺の【念話】のレベルが上がったタイミングで、蜘蛛子が急に足を止めた。
『どうした?』
『いや、なんかスキル取れた』
『スキル?』
『【念話LV1】』
ああ。
なるほど。
『あー……会話しまくってたからか?』
『え、そういうので取れるの?』
『多分な』
スキルは、行動や経験によって獲得できる。
今まで俺の【念話】に応答する形で会話していたから、その条件を満たしたのだろう。
『でもさ』
蜘蛛子が不思議そうな気配を出す。
『私、今まで普通に喋れてたよね?』
『多分、俺が先に繋いでたからだな』
『繋いでた?』
『多分、【念話】は持ってる側から会話を始めるスキルなんだと思う。相手は持ってなくても返せるけど、自分からは繋げない』
『え』
蜘蛛子が固まった。
『じゃあ私、今まで返事してただけ?』
『そうなるな』
『うわぁ……』
蜘蛛子がなんとも言えない気配を出す。
『じゃあ今まで、私からは話しかけられなかったってこと?』
『多分そうだ』
『なるほどねー』
蜘蛛子が少しだけ考える。
『じゃあ、これで私からも話しかけられる?』
『試してみるか?』
『お、実験』
『一回こっちから切るぞ』
『その言い方ちょっと怖いんだけど』
『そういうつもりじゃないんだが』
俺は意識的に念話の繋がりを緩める。
頭の中にあった蜘蛛子の気配が、少し遠くなった。
静かになる。
数秒後。
『あー、あー。聞こえますかー?』
蜘蛛子から念話が飛んできた。
『聞こえる』
『おおー! すごい! 自分から話しかけられた!』
蜘蛛子が少し嬉しそうな気配を出す。
『感覚は分かるのか?』
『なんとなく。相手に意識を伸ばす感じ?』
『俺も似たような感じだな』
『へー』
蜘蛛子が少しだけ感心したようだった。
『じゃあ、これからは私からも連絡できるんだ』
『索敵中とかは助かるな』
『確かに』
少しだけ空気が落ち着く。
だが、落ち着きすぎるのは危険だ。
俺たちはまだ、仮同盟。
蜘蛛子は俺を警戒しているし、俺も自分を信用していない。
そこだけは忘れるべきじゃない。
『何かいる?』
蜘蛛子が周囲を見ながら聞いてきた。
俺は意識を広げる。
小さい熱反応が、いくつか遠くで動いている。
そして、さらにその奥。
大きい反応が複数。
直接こちらへ向かってくる様子はない。
だが、近づきたくもない。
『前方に反応。小さいのがいくつか。その奥に大型がいる』
『大型?』
『今すぐこっちに来る感じじゃない。多分、別の魔物とやり合ってる』
『うわぁ……』
『確認だけするか。見つからない範囲で』
『できれば遠くからね。超遠くからね』
『同意』
岩陰から岩陰へ。
俺たちはさらに慎重に進む。
音を殺し、気配を薄くし、見つからないように。
そして。
『……いた』
蜘蛛子が岩陰からそっと覗く。
俺も影から顔を出し、前方の様子を探る。
《熟練度が一定に達しました。スキル【暗視LV9】が【暗視LV10】になりました》
《条件を満たしました。スキル【暗視LV10】からスキル【視覚領域拡張LV1】が派生しました》
視界がわずかに広がる。
その瞬間、見えた。
巨大な蟷螂型の魔物。
それを取り囲むように飛ぶ蜂型の魔物。
蜂も十分大きい。
だが、蟷螂はそれよりさらに大きい。
六本の鎌が、近づく蜂を次々に牽制している。
『なにあれ』
『蟷螂、だな』
『いや、蟷螂なのは分かるけどさ。でかくない?』
『でかいな』
『帰りたい』
『俺もだ』
蜂が一匹、空中から突っ込んだ。
だが、次の瞬間。
鎌が閃く。
蜂の体が、あっさり両断された。
『うわぁ……』
蜘蛛子の気配が引きつる。
『あれ、私の糸も切られそうなんですけど』
『多分切られるな』
『ですよねー』
蜘蛛子が震えるように身を縮めた。
『あれと戦うのは?』
『無理』
『即答だな』
『無理なものは無理!』
全く同意見だ。
あれは今戦う相手じゃない。
というか、関わるべきではない。
『鑑定してみる?』
『やめとけ。反応される可能性がある』
『あ、そっか。鑑定って不快なんだっけ』
『それに俺、鑑定が原因っぽいので地龍に追われたんだよ』
『え、こわ……』
『距離があるとはいえ、あのレベル相手に余計な刺激はしたくない』
『賢明!』
蜘蛛子が素直に引っ込む。
よし。
今の判断はありがたい。
前なら勢いで鑑定していたかもしれない。
そう思った瞬間。
蟷螂がまた蜂を斬った。
一撃。
本当に一撃だ。
『……この下、やばくない?』
『やばいな』
『あれで中堅とか言わないよね?』
言うんだよなぁ。
原作知識がある俺は、その答えを知っている。
だが、今ここで言う必要はない。
『……だといいんだけどな』
『言い方が不穏!』
その時だった。
蟷螂の背後。
岩陰から、さらに巨大な影が現れた。
蜘蛛だ。
巨大な蜘蛛型の魔物。
蟷螂よりもなお大きい。
『……は?』
蜘蛛子の気配が止まる。
巨大蜘蛛は、蟷螂へ牙を突き立てた。
蟷螂が暴れる。
だが遅い。
蜂を蹴散らしていたあの蟷螂が、今度は一方的に噛み砕かれていく。
『……え、なにあれ』
『蜘蛛……だな』
『いや見れば分かるよ!?』
蜘蛛子の念話が震えていた。
『私、ああなるの?』
『進化先としては、可能性あるんじゃないか?』
『マジかぁ……』
目の前の光景は、正直かなり衝撃的だった。
蜂を両断していた蟷螂。
その蟷螂を、さらに上位の蜘蛛が噛み砕く。
弱肉強食。
いや。
弱肉強食という言葉すら生ぬるい。
ここでは、強者ですら食われる。
『……移動しよう』
『賛成。超賛成』
俺たちは岩陰から静かに離れる。
蜘蛛子から、しばらく念話が飛んでこなかった。
それだけ、今の光景が効いたのだろう。
『……影蛇』
『なんだ?』
『ここ、絶対ヤバい場所だよね』
『ああ』
『上層と空気違いすぎない?』
『違うな』
『広いし、いる魔物もおかしいし……』
『少なくとも、上層より危険なのは間違いない』
『ないわー……』
蜘蛛子が本気で嫌そうな気配を出した。
気持ちは分かる。
俺だって嫌だ。
『……で、これからどうするの?』
『基本は隠密。勝てる相手だけ狩る。勝てない相手は避ける』
『うん』
『休む時も、派手な巣は作らない方がいい。目立つ』
『だよねー……』
蜘蛛子がしょんぼりする。
巣は安心できる場所なのだろう。
だが、ここで目立つ巣を作るのは危険すぎる。
『簡易巣ならありだと思う』
『ほんと?』
『見えにくい場所で、すぐ捨てられるくらいなら』
『なるほど。使い捨てホーム』
『そんな感じ』
蜘蛛子が少しだけ元気を取り戻す。
そして、岩陰から周囲を見回した。
『じゃあ、方針は決定だね』
『ああ』
『隠密第一。戦闘は選ぶ。休憩は簡易ホーム。ヤバいの来たら逃げる』
『完璧だ』
『完璧だけど内容が悲しい!』
それもそうだ。
だが、生き残るためにはそれしかない。
下層探検開始。
いや、探検なんて呑気なものじゃない。
これは、生き残るための隠密行動だ。
俺たちは互いに一定の距離を保ったまま、岩陰の奥へ静かに進んでいった。
TIPS:【念話】
【念話】は、対象へ直接思考を送信するスキルである。
ただし、念話による通信は、スキル保持者側からのみ接続を開始できる。
接続された側は、【念話】を保有していなくても会話へ応答すること自体は可能。
しかし、【念話】を所持していないと、自分から通信を開始することはできない。
そのため、一方のみが【念話】を保有している場合、会話の主導権は基本的に保持者側へ偏る。