その日も、俺たちは下層を慎重に移動していた。
岩陰から岩陰へ。
蜘蛛子が先行し、俺は少し後ろの影を移動する。
大型反応は避ける。
戦闘は最低限。
危険そうなら即逃走。
その方針は変わらない。
とはいえ、ずっと極限状態というわけでもなかった。
下層での移動や休息にも、少しずつ慣れてきていたからだ。
『……なんかさ』
蜘蛛子が岩陰から顔を出しながら念話を飛ばしてくる。
『最近ちょっとだけ下層に慣れてきた気がする』
『その台詞、死亡フラグっぽいからやめろ』
『えぇ……』
いや、本当に。
この世界、結構簡単に死ぬからな。
その辺り、蜘蛛子も理解してるとは思うんだが……。
『でも実際、最初よりはマシじゃない?』
『それは否定しない』
移動の仕方。
危険反応の避け方。
休憩場所の選定。
そういうものは確実に上達している。
蜘蛛子も、下層特有の立体地形にかなり慣れてきていた。
……まあ、普通に速すぎてたまに見失いそうになるけど。
『あと、影蛇の索敵便利』
『お前の機動力も助かってる』
『ふふーん』
ちょっと得意げだった。
そんなやり取りをしながら、俺たちは岩場を進んでいく。
下層は広い。
上層とは比較にならないほど。
巨大な空洞。
複雑な岩場。
見えない天井。
そして何より、空気そのものが重い。
強い魔物が普通に生息している空間特有の圧迫感がある。
だからこそ、油断はできない。
……そんなことを考えていた時だった。
『ん?』
蜘蛛子が足を止めた。
『どうした?』
『あそこ』
蜘蛛子が前方を示す。
岩場の向こう。
そこにいたのは。
――猿だった。
二メートル近い体格。
筋肉質な四肢。
岩肌へ爪を食い込ませながら、こちらを見下ろしている。
《アノグラッチ LV1
ステータス
HP:140/140(緑)
MP:30/30(青)
SP:100/100(黄)
:90/90(赤)
ステータスの鑑定に失敗しました》
その種族名を見た瞬間、嫌な記憶が脳裏を過った。
復讐猿。
原作でも、蜘蛛子を地獄へ叩き落した相手。
『猿?』
蜘蛛子はそこまで警戒していない。
まあ、無理もない。
単体でも強いが、そこまで理不尽な相手じゃない。
問題は、そこじゃない。
アノグラッチは、群れで来る。
しかも、仲間を殺した相手を執拗に追う。
原作知識が正しいなら、こいつを倒した後が本番だ。
『……影蛇?』
『なんだ?』
『なんか嫌な顔してない?』
『蛇の顔なんか分かるのか?』
『なんとなく』
鋭いなこいつ。
俺は猿から視線を外さないまま考える。
どうする。
避けられるなら避けたい。
だが、猿は既にこちらを見ていた。
しかも。
ゆっくりと、岩を拾い上げている。
『……避けたい?』
『できれば』
『でも向こう、やる気っぽいよ?』
『……みたいだな。それより、石に注意した方が良さそうだ』
『石?』
次の瞬間。
ガンッ!!
猿が近くの石を掴んで、投げた。
『うおっ!?』
蜘蛛子が飛び退く。
直後、さっきまでいた場所へ石が叩きつけられた。
『投石!? 狙い正確すぎない!?』
『次も来るぞ!』
二投目が来る。
今度は俺のいる影の近く。
影の中に潜っていたから直撃はしないが、岩の破片が飛び散り、反射的に身を縮める。
猿が岩場を蹴った。
速い。
そして、ただ突っ込んでくるだけじゃない。
こちらの動きを見て、投石で牽制しながら距離を詰めてくる。
単体でこれか。
『蜘蛛子、糸!』
『はいよ!』
蜘蛛子が糸を飛ばす。
猿は身体を捻って避けたが、完全には避けきれず、腕に絡む。
それでも、猿はそのまま腕を振り抜いた。
『うおっ、力強っ!?』
蜘蛛子の体がわずかに引っ張られる。
危ない。
力比べになったら不利だ。
『正面から止めるな! 一瞬でいい!』
『分かってる!』
猿がさらに石を掴もうとした。
その前に、俺は影から魔力を伸ばす。
『【不快】』
外道魔法が猿の感覚へ滑り込む。
火力はない。
精神を壊すほど強くもない。
ただ、ほんの一瞬。
猿の意識がぶれた。
「ギッ!?」
猿の足が岩肌を掴み損ねる。
『今だ!』
蜘蛛子が飛ぶ。
糸が猿の腕へ絡みついた。
さらに胴体、脚へと絡みつかせていく。
「ギィィッ!」
『ほんと力強いなこいつ!?』
『長くは止められない!』
『なら短期決戦!』
俺は影の中を滑る。
猿の足元へ、そして背後へ。
そして、影から飛び出し、毒牙を突き立てた。
ガッ!!
「GAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!」
猿が絶叫した。
耳を劈くような、凄まじい咆哮。
断末魔。
……だが。
俺には、それがただの断末魔には聞こえなかった。
『っ……』
『影蛇?』
『さっさと止めを刺すぞ!』
『う、うん』
猿が暴れる。
蜘蛛子がさらに糸を重ねる。
毒が回る。
動きが鈍る。
そして最後は、蜘蛛子の糸で完全に拘束された猿へ、俺が喉元へ、蜘蛛子が体へ毒牙を突き立てて終わった。
『……はぁっ……』
蜘蛛子が息を吐いた。
『怖っ! 普通に怖っ!』
『下層基準だとまだマシな方なんだろうな……』
『嫌すぎるんだけど!?』
全くだ。
猿の死体が転がる。
そして……何も起きない。
群れも来ない。
異変もない。
静かなままだ。
『……影蛇?』
『なんだ?』
『なんでそんな警戒してるの?』
蜘蛛子が猿の死体を見ながら聞いてくる。
『念のためだ』
『念のためにしては、かなり警戒してるように見えるけど』
鋭いな。
だが、ここで中途半端に説明する方が怪しまれる。
「こいつらは後で群れが来る」なんて断言すれば、何故そこまで知っているのかという話になる。
だから今は言えない。
言うべきじゃない。
『さっきの咆哮で敵が寄ってくるかもしれないからな。さっさと食べて、今日はもう休むぞ』
『え、まだ動けるけど?』
『休める時に休む』
『……まあ、確かに疲れたけど』
蜘蛛子もかなり消耗しているらしい。
俺たちは、そのまま休憩用の仮拠点を作ることにした。
場所は、巨大な岩柱の側面の高所。
地上から百メートル近い高さ。
下から見上げても、岩肌の凹凸と影に紛れてほとんど見えない位置。
普通の魔物なら、まず近づくことすら難しい。
『たっか……』
『安全第一ですので……うわ高っ、やっぱ怖っ』
蜘蛛子はそんな事を言いながら、さっそく糸を張り始めた。
まずは壁と天井の間へ粘着糸を網状に張り、外枠を作る。
その内側へ寝床用の糸を重ね、さらに周囲の岩肌へ糸を伸ばして固定していく。
だが、糸だけでは目立つ。
白い塊が高所に浮いていたら、いくら下層でも発見される危険がある。
『岩で偽装するのか?』
『そういうこと』
蜘蛛子は地上付近まで糸を垂らすと、近くの岩へ斬糸を巻きつけた。
そのまま糸を振動させ、岩を薄く削り出していく。
『……器用だな』
『ふふーん。マイホーム作りには自信がありますので』
切り出された岩を、蜘蛛子が糸で持ち上げようとして……少し止まった。
『……重い』
『流石に全部一人はきついか』
『影蛇、手伝える?』
『やってみる』
俺は影の中から魔力を練る。
使うのは【影魔法】。
最近覚えたばかりの応用だ。
『【変影】、【固影】』
【変影】で影の形を整え、【固影】でそれに硬さを持たせる。
足元から伸びた影が、ゆっくりと形を持つ。
液体みたいだった影が黒い板のように固まり、岩板の下へ潜り込んだ。
『おお……』
『まだ完全じゃないけどな』
固めた影へ、さらに魔力を流す。
『【操影】』
影が蠢く。
黒い腕みたいに伸びた影が、岩板を押し上げ始めた。
重い。
かなり重い。
だが、持ち上がる。
『うお、すご』
『お前も引け』
『はいよー!』
蜘蛛子が糸を巻き上げる。
俺は影で下から支える。
黒い影と白い糸で、巨大な岩板を少しずつ引き上げていく。
『右! もうちょい右!』
『お前、雑すぎるだろ!』
『細かいことは雰囲気で!』
『落ちたら終わるんだぞこれ!?』
『落とさなきゃいい!』
『理論が雑!』
グダグダだった。
それでも何とか岩板を引き上げ、蜘蛛子はホームの外側へ貼り付けていく。
白い糸の外殻が、少しずつ岩肌へ紛れていった。
外から見たホームは、岩壁の出っ張りにしか見えなくなった。
ぱっと見ただけなら、ただの岩の膨らみ。
よほど注意して見なければ、そこに蜘蛛の巣が隠れているとは分からないはずだ。
『完成!』
『かなり疲れたな……』
『安眠のための重労働って何なんだろうね……』
『考えたら負けだろ』
『だよねー』
今日は、アノグラッチを倒している。
俺の知っている流れが正しければ、あいつらは来る。
群れで、執拗に、こっちが死ぬまで追ってくる。
だったら、下手に逃げ回るよりは、迎え撃つ場所を決めた方がいい。
このホームは、休むための場所であると同時に、そのための防衛拠点でもあった。
地上百メートル近い高所。
限られた侵入経路。
蜘蛛子の糸を最大限活かせる立体地形。
正面から囲まれるよりは、よほどマシだ。
そして、もし包囲されても、蜘蛛子なら糸を使って高速離脱できる。
少なくとも、地上で囲まれるよりは遥かにマシだ。
……もちろん、原作通りなら、の話だが。
俺がいて、蜘蛛子と合流している。
移動経路も、戦闘位置も、休息場所も、既に細かくズレている。
それでも、何も知らずに動くよりはいい。
使える知識は使う。
疑うべきところは疑う。
今の俺にできるのは、その程度だ。
どちらにせよ、蜘蛛子は疲れていて、俺も魔力と体力をそれなりに消耗している。
休息は必要だった。
休まなければ、次に本当に群れが来た時、戦うことすらできない。
『じゃ、おやすみー……』
蜘蛛子がそう言って、ホームの中へ引っ込もうとする。
けれど、その途中で少しだけ動きを止めた。
『……影蛇は?』
『俺?』
『いや、その……一緒に作ったし』
蜘蛛子の念話が、少しだけ歯切れ悪くなる。
『完全に外っていうのも、なんか悪いかなーって』
どうしたのかと思ったら……。
そういうことか。
別に、俺を中に入れたいわけじゃない。
今でも、蜘蛛子にとってホームは自分の安全圏だ。
そこに俺が入ることへ、警戒が完全に消えたわけではないだろう。
けれど今回は、俺も作成を手伝った。
影で岩板を支え、蜘蛛子の糸と合わせて偽装ホームを完成させた。
だから、完成した瞬間に「じゃあ外で」と切り捨てるのは、少し気まずい。
そんなところだろう。
……変なところで律儀だな、こいつ。
『俺は外でいい』
『いいの?』
『その方が索敵しやすい。影にも潜れるしな』
『あー、確かに』
『それに、いつも通りだろ。お前が寝る時は俺が外。俺が休む時だけ、端を借りる』
『……まあ、そうだね』
『だから気にするな』
『むぅ』
蜘蛛子の気配が、少しだけ揺れた。
安心したような。
でも、それを素直に認めるのはちょっと悔しいような。
そんな感じだった。
『じゃあ、いつもの範囲までなら使っていいからね』
『分かってる。そこから先には入らない』
『毎回言ってるけど、一応確認ね』
『毎回言われてるから覚えてる』
『よろしい』
偉そうだった。
だが、そのくらいの方がいい。
変に気まずくなるよりは、いつもの軽口で済ませた方がお互いに楽だ。
『俺は近くの影か、岩壁の裂け目にいる。何か来たら起こす』
『見張り番?』
『そうだな』
『便利な悪い隣人だね』
『悪いは余計だ』
『でも否定はしないんだ』
『便利は否定しない』
『そこ?』
蜘蛛子が呆れたような気配を見せる。
それから、糸の奥へと引っ込んでいった。
『寝られる時に寝ておけ』
『はいはい。何か来たらちゃんと起こしてよ?』
『分かってる』
『勝手に一人で戦って死ぬのも禁止』
『それは善処する』
『そこは断言して!?』
『努力はする』
『言い換えても弱い!』
そんなやり取りを最後に、蜘蛛子はホームの中で丸くなった。
しばらくすると、気配が静かになる。
完全に眠ったかは分からない。
けれど、少なくとも休息には入ったらしい。
俺は壁の影を渡り、少し離れた岩壁の裂け目へ移動した。
蜘蛛子のホームから近すぎず、遠すぎない場所。
そこに落ちる影へ、体を半ば沈める。
俺が巣の中へ入るのは、蜘蛛子もまだ完全には落ち着かない。
だから、最近はこうして外側の影に潜むのが定位置になっていた。
蜘蛛子はホームの中。
俺は壁の裂け目の影。
互いに一定の距離を保ったまま休む。
仮同盟らしい距離感だった。
蜘蛛子の魂は、近くにあるだけで妙に落ち着く。
温かい。
なのに、死の匂いがする。
生きているのに、死がある。
死があるのに、濁っていない。
何度感じても、変な魂だ。
そして、危ない。
落ち着くからこそ、近づきすぎるのは危険だ。
蜘蛛子のためにも。
俺自身のためにも。
今は、この距離がちょうどいい。
俺は影の奥で意識を薄く広げる。
眠るわけじゃない。
完全に起きているわけでもない。
影に沈み、周囲の熱と魔力の揺れを拾い続ける。
熱。
魔力。
生体反応。
最初のうちは、何もなかった。
遠くで小型魔物が動く反応。
さらに遠くで、大型の何かがゆっくり移動する気配。
だが、こちらへ近づいてくるものはない。
静かだった。
あまりに静かで、逆に不気味なくらいだった。
……やっぱり、来るのか?
原作通りなら、来る。
アノグラッチの群れ。
蜘蛛子を追い詰めた、あの復讐猿たち。
だが、来ない可能性もある。
俺がいるせいで、原作からズレている。
蜘蛛子と一緒にいるせいで、戦闘場所もタイミングも変わっている。
そもそも、俺が知っている原作と同じ仕様とは限らない。
【復讐】の発動条件も、群れの規模も、どこまで同じか分からない。
逆に、もっと悪くなる可能性もある。
……嫌な考えだ。
影の中は静かだ。
冷たく、暗く、落ち着く。
落ち着きすぎる。
自分と影の境界が、少しずつ曖昧になるような感覚がある。
だから俺は、自分の輪郭を意識する。
俺は影じゃない。
黒巳怜士だ。
スモールグレイヴウンブラペント。
死に偏りかけているが、まだ生きている。
まだ、生きている。
そう言い聞かせる。
◇
どれくらい時間が経ったのかは分からない。
影の中で、意識が浅く沈んでいた。
蜘蛛子はまだ眠っている。
ホームの中から、静かな気配が伝わってくる。
俺は相変わらず、壁の裂け目の影に身を沈めたまま、周囲へ意識を広げていた。
その時。
遠くで、熱が揺れた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
岩場の下。
地上近く。
複数の熱反応が、こちらへ向かって移動している。
嫌な予感が、形になる。
来た。
やっぱり来た。
アノグラッチの群れ。
原作通りなら、ここから「地上100メートルの攻防戦」が始まる。
俺は即座に蜘蛛子へ念話を飛ばそうとして――。
止まった。
影を通して拾える熱反応が、さらに増える。
ひとつやふたつじゃない。
十。
二十。
三十。
その辺りならばまだ良い。
だが奥にも、まだまだいる。
岩柱の影。
地上の裂け目。
遠くの岩場。
そこから次々と、同じ熱が近づいてくる。
原作でも、蜘蛛子を囲んだ数はかなり多かったはずだ。
それは覚えている。
何度も押し寄せて、蜘蛛子を本気で殺しかけた。
だから、多いこと自体は想定していた。
していた、はずなのに。
これは。
これは、多すぎないか?
『蜘蛛子、起きろ!』
今度は迷わず念話を叩きつける。
『んぇ……? なに……?』
『下だ』
『下?』
『大量の猿が来たぞ!』
蜘蛛子の気配が一瞬で覚醒する。
ホームの中で、彼女が身を起こす気配。
俺は影の中から、迫ってくる熱反応を数えようとして――。
途中で諦めた。
数える意味がない。
多すぎる。
下からだけじゃない。
岩陰の奥から。
横の崖沿いから。
少し離れた岩場の向こうから。
次々と、猿の反応が増えていく。
原作でも、猿は多かった。
蜘蛛子を殺しかけるほどの群れだった。
それは覚えている。
けれど。
これは、少なくとも俺の記憶にある原作よりも、明らかに多すぎる。
……くそ。
なんだよこれ。
原作は一体、どこまで参考にしていいんだ。
TIPS:アノグラッチの群れ規模
アノグラッチは群れで行動する魔物であり、その危険性は単体性能ではなく「数」によって決定される。
また、【復讐】を持つ個体群であるため、仲間を殺害した対象へ執拗な追跡を行う性質を持つ。
ただし、群れの規模には大きな差がある。
蜘蛛子が本来遭遇した群れは、アノグラッチとしては最小規模だった。
主人公が知る「原作」は、上位世界で成立した物語である。
それが下位世界を観測した結果なのか、物語として描かれたことで下位世界へ影響を与えたのかは不明。
少なくとも、大筋はこの世界と強く重なっている。
しかし、細部まで完全に一致するとは限らない。
さらに今回は、
・主人公の介入
・移動ルートの変化
・戦闘位置の違い
・休息地点のズレ
といった差異が積み重なっている。
その結果、本来とは違う群れや、周辺のアノグラッチまで引き寄せてしまった可能性がある。
つまり。
原作知識は参考になる。
だが、攻略本にはなり得ない。