一拍、遅れた。
たったそれだけで、蜘蛛子が死ぬと思った。
右か。
左か。
下か。
上か。
どこへ逃げればいいのか分からなくなった蜘蛛子の焦りが、念話越しに伝わってくる。
いつもなら、俺が先に言っていた。
右。
下。
石。
回り込み。
大猿の動き。
通常猿の位置。
糸を出せる場所。
危険な方向。
それを、蜘蛛子が迷う前に伝えていた。
なのに、今は遅れた。
分かっていたのに、声にするのが遅れた。
いや、声だけじゃない。
俺自身が、遅れている。
影の中に沈みすぎている。
岩壁の裂け目に潜んでいたはずの体が、もう半分以上、影と混ざりかけていた。
冷たい。
暗い。
落ち着く。
その感覚が、まずい。
逃げ込めば楽だと、影の奥が囁いてくる。
全部捨てて沈めばいい。
体も、痛みも、恐怖も、飢えも。
影になれば、考えなくて済む。
そんなはずがない。
俺は影じゃない。
黒巳怜士だ。
スモールグレイヴウンブラペントだ。
まだ、生きている。
そう言い聞かせる。
言い聞かせないと、自分の輪郭が崩れそうだった。
HPも、MPも、SPも、削れている。
消耗すればするほど、影へ沈みたい欲が強くなる。
魂を欲しがる声も大きくなる。
自分を自分として保つ力が、削れている。
さっきのレベルアップで一度戻ったはずなのに、また消耗してしまった。
猿どもは、蜘蛛子だけを狙っていたわけじゃない。
蜘蛛子には見えていなかっただろう。
そんな余裕はなかったはずだ。
けれど、俺のいる影にも石は飛んできていた。
最初は偶然かと思った。
ホームの近くを狙った投石が、たまたま俺の潜む裂け目に当たっただけだと。
でも違った。
何度もだ。
俺が【不快】を撃った直後。
【幻痛】を撃った直後。
影を固めて猿を押し出した直後。
影がわずかに揺れ、俺の気配が濃くなった瞬間。
そこへ石が飛んできた。
岩壁が砕ける。
影が薄れる。
潜んでいた裂け目が崩れる。
そのたびに、俺は別の影へ逃げ込んだ。
逃げると言っても、遠くへじゃない。
蜘蛛子の周囲にある影へ。
ホームの近くへ。
戦場の中へ。
離れすぎれば、蜘蛛子への警告が遅れる。
近づきすぎれば、猿の手が届く。
その中間を、影から影へ滑り続けていた。
それでも、猿は追ってきた。
影そのものを見ているわけじゃない。
だが、こちらが魔法を撃つ瞬間は読まれている。
俺も、復讐対象だ。
昨日の猿を殺したのは蜘蛛子だけじゃない。
俺も噛んで、殺した。
だから、猿どもは俺も見ている。
逃げられるなら、とっくに逃げている。
けれど、逃げたところで終わらない。
俺だけ遠くへ逃げても、猿の一部は俺を追う。
それで蜘蛛子への圧が減るかもしれない。
だが、その代わり、蜘蛛子から俺の索敵と警告が消える。
投石が来る。
回り込みが来る。
大猿が跳ぶ。
それを、あいつは一匹で全部捌くことになる。
無理だ。
今の蜘蛛子は、もう限界に近い。
俺も限界に近い。
それでも、二匹だからまだ持っている。
片方が抜けたら、終わる。
蜘蛛子も。
俺も。
だから、逃げるという選択肢はとっくに消えていた。
大猿が次の跳躍姿勢に入った。
通常猿が左右から回り込んでいる。
蜘蛛子は、ホームの外側、崩れた岩壁に半分張り付いて、半分ぶら下がるような体勢になっている。
糸は一本、右上の岩に引っかかっている。
数本の足は岩壁に触れている。
けれど、足場はない。
落ちてはいない。
だが、戻れてもいない。
判断を間違えれば掴まれる。
掴まれれば終わる。
外からでは、間に合わない。
影を伸ばしても、蜘蛛子が動くより一拍遅い。
声で伝えても、蜘蛛子が理解するより一拍遅い。
その一拍で死ぬ。
今は、そういう状況だった。
『影蛇!?』
蜘蛛子が俺を呼んだ。
警告が来ないからだ。
いつもなら飛ばしていたはずの声が、間に合わなかったからだ。
情けない。
呼ばれるまで、俺はまだ外からどうにかしようとしていた。
違う。
もう、それでは間に合わない。
外から支えるだけでは足りない。
なら。
影を伝って、中へ入るしかない。
蜘蛛子の影へ。
蜘蛛子の感覚へ。
あいつが動くより前に、危険を渡す。
言葉になるより前に、方向を渡す。
それしかない。
だが、勝手にはできない。
今の俺は、俺自身が信用できない。
蜘蛛子の魂は近すぎる。
あの魂に触れたら、俺が何を思うか分からない。
いや。
分かっている。
欲しいと思う。
だからこそ、許可がいる。
蜘蛛子が選ばなければならない。
『蜘蛛子、聞け』
『な、に!? 今それどころじゃ――』
『分かってる! 分かってるけど聞け!』
思ったより強い声が出た。
蜘蛛子が一瞬だけ黙る。
俺も、自分の声に少し驚いた。
落ち着け。
いや、落ち着いてる場合じゃない。
でも、伝えろ。
短く、間違えずに。
『【影憑】を使う』
『影憑?』
『お前の影を入口にして、感覚だけ重ねる。体は奪わない。動かさない』
『いやいやいや怖い怖い怖い!?』
『俺も怖い!』
『そっちも!?』
『当たり前だろ! 今の俺を一番信用してないのは俺だ!』
言ってしまった。
でも、嘘はつけなかった。
今の俺は、かなりまずい。
MPも削れている。
SPも削れている。
HPだって無傷じゃない。
消耗すればするほど、衝動が強くなる。
魂欲。
影へ沈みたい欲。
自分を保つ力が削られていく。
だから、蜘蛛子の影へ入るなんて、本当は最悪だ。
最悪だけど。
それでも、外から見ているだけでは間に合わない。
『拒否するならしない』
『この状況で!?』
『でも、このままだと死ぬ!』
猿の手が伸びる。
一本。
二本。
大猿が、次の跳躍に入ろうとしている。
もう猶予はない。
『選べ、蜘蛛子』
言いながらも、内心では「早くしろ!」と叫んでいた。
いや違う、急かすな。
怖いに決まってる。
影に入る?
感覚を繋げる?
そんなもの、普通に嫌だろ。
俺でも嫌だ。
でも、このままだと死ぬ。
『……勝手に動かしたら噛むからね!?』
蜘蛛子の声が返ってきた。
震えていた。
怒っているようで、怖がっている声だった。
でも、許可してくれた。
『噛める状態ならな!』
『むかつく! いいからやれ!』
その言葉を聞いた瞬間。
俺は影を伝った。
自分が潜んでいた岩壁の裂け目。
そこから、砕けた岩の影へ。
垂れた糸の影へ。
蜘蛛子の腹の下に落ちる影へ。
影から影へ、体をほどくように滑り込む。
外から近づくんじゃない。
影の内側を通って。
蜘蛛子が作る影の奥へ。
そこへ、俺は沈んだ。
いつもの影とは違う。
冷たい。
けれど、熱い。
暗い。
けれど、白い。
蜘蛛子の影。
蜘蛛子の足元。
蜘蛛子の感覚の裏側。
蜘蛛子の魂のすぐ近く。
近い。
近すぎる。
魂の匂いがした。
喉が鳴りそうになる。
牙を立てたくなる。
だが、そこに触れた瞬間、壁のようなものを感じた。
同意による【影憑】。
共存状態。
影を重ね、感覚を繋げるための形。
この状態では、相手の魂を喰えない。
喰うためには、この繋がりを壊し、共存を侵入に変えなければならない。
その理解が、本能みたいに流れ込んでくる。
喰えない。
喰ってはいけない。
それなのに、欲しい。
最悪だ。
喰えないのに、近い。
喰えないのに、匂う。
喰えないのに、落ち着く。
違う!
噛むな、喰うな。
触れるだけだ。
支えるだけだ。
俺は、蜘蛛子の影の底から、自分の感覚を押し上げた。
熱。
魔力。
生体反応。
猿の筋肉が動く予兆。
投石の角度。
大猿の重心。
伸びてくる腕の軌道。
蜘蛛子の糸がまだ届く場所。
切れかけた糸の張力。
言葉にする前に、感覚が蜘蛛子へ流れていく。
右。
下。
危ない。
そこじゃない。
今。
引け。
跳ぶな。
丸まれ。
俺がそう伝えるより先に、蜘蛛子の方へ意図が滲んでいく。
逆に、蜘蛛子の焦りも流れてきた。
どれが右!?
足多いんですけど!?
怖い。
痛い。
でも、動ける。
その感情が、言葉になる前に伝わってくる。
『うわっ!? なにこれ!?』
『喋るな、動け! 右の足、先に抜け!』
『右ってどれ!? 足多いんですけど!?』
『お前の右前から二本目!』
『細かい!』
蜘蛛子が動く。
俺が動かしているわけじゃない。
蜘蛛子が、自分で動いている。
俺は方向を示すだけ。
危険を流すだけ。
猿の手がどこから来るか。
どの糸がまだ使えるか。
どこへ体重を逃がせば千切れないか。
それらの情報を渡す。
『左、糸!』
『分かってる!』
蜘蛛子が糸を出す。
別の岩へ引っ掛ける。
体が少し持ち上がる。
猿の手が届く直前で空を掴む。
『下、毒!』
『はいよ!』
蜘蛛子が体を捻り、足元の猿へ毒を落とす。
一匹が落ちる。
その動きに、俺の影も重なる。
蜘蛛子が糸を出す瞬間、俺は影からわずかに力を流す。
蜘蛛子自身のSPが増えたわけじゃない。
けれど、俺のSPを影越しに重ねることで、糸を出す負担が少しだけ軽くなる。
蜘蛛子が体を捻る。
俺の感知が先に危険を渡す。
蜘蛛子の動きが無駄なくなる。
それだけで、消耗が少し減る。
『なんか、体が軽い!?』
『俺の分のSPも流してる! 長くは無理!』
『助かる! でもそれ先に言って!?』
『言う余裕がない!』
実際、余裕なんてない。
蜘蛛子の動きへMPとSPを流すたびに、俺の中身が削れていく。
蜘蛛子のステータスが増えたわけじゃない。
増えているのは、使える燃料だけだ。
しかも、俺の分。
予備のバッテリーを無理やり繋いでいるようなもの。
効率がいいわけがない。
流すたびに、俺の意識が影へ沈む。
影の奥が近くなる。
だが、これで蜘蛛子はまだ動ける。
なら、やるしかない。
『上だ! 体を丸めろ!』
『了解!』
蜘蛛子が体を丸める。
大猿の腕が、さっきまで蜘蛛子の胴があった場所を通り過ぎる。
風圧だけで糸が震える。
岩壁が砕ける。
直撃していたら、終わっていた。
『怖っ!?』
『怖がるのは後!』
『お前も声怖い!』
『こっちも怖いんだよ!』
叫びながら、俺は影を伸ばす。
蜘蛛子の影から、黒い棘のように。
大猿の腕を貫くほどの力はない。
だが、軌道をずらすくらいならできる。
影を固める。
押す。
重い。
ふざけるな。
重すぎる。
MPが削れる。
意識が沈む。
影の中が、さらに深くなる。
まだだ。
まだ沈むな。
今沈んだら、蜘蛛子ごと終わる。
蜘蛛子が毒で猿を殺す。
その瞬間、俺と蜘蛛子両方に経験値が流れ込んできた。
影と感覚が重なっているからか。
俺の感知も、俺の影も、蜘蛛子の攻撃に重なっているからか。
システムは、それを完全に別々の戦闘とは処理しなかったらしい。
だが、喜んでいる余裕はない。
まだ足りない。
レベルが上がるほどの経験値に達していない。
蜘蛛子を支えるために、俺のMPもSPも削れていく。
猿はまだいる。
大猿もまだいる。
このままでは、また止まる。
そして止まれば死ぬ。
何かが必要だった。
この状況を解決できそうなものは、一つしかなかった。
ずっと見なかったことにしていたスキル。
取得候補に表示されていた、七大罪スキル。
【強欲】。
殺した相手から、能力を奪う支配者スキル。
原作通りなら、奪えるものはランダムかもしれない。
ステータスか。
スキルか。
魔力か。
何が来るかは分からない。
でも。
俺は魂に触れる。
【影憑】もある。
【魂欲】もある。
【自己理解】もある。
希望的観測かもしれない。
でも、完全に選ぶのは無理でも、方向くらいは寄せられるかもしれない。
今欲しいのは、スキルじゃない。
攻撃力でもない。
魔力、そして体を動かすための力。
蜘蛛子を支え続けるための燃料。
この一手を繋ぐためのMPとSPだ。
でも、駄目だ。
あれは危険だ。
七大罪スキルは精神へ影響する。
俺には【外道無効】がある。
だから、外から魂や精神へ食い込む干渉なら、かなり弾けるはずだ。
だが、今の問題はそれだけじゃない。
【強欲】が呼び起こす欲望。
【魂欲】が求める魂。
影へ沈みたい衝動。
それらは外から押し付けられた状態異常というより、俺の中にある欲望そのものに近い。
【外道無効】で多少マシにはなるかもしれない。
でも、完全に消せるとは思えない。
しかも、今の俺には【魂欲】がある。
消耗のせいで、それを押し込める力も落ちている。
さらに今は、蜘蛛子の影の中だ。
蜘蛛子の魂が近すぎる。
こんな状態で【強欲】を取る?
馬鹿か。
正気じゃない。
絶対にまずい。
でも。
蜘蛛子の体が、また崩れかけた。
糸が一本切れる。
蜘蛛子の焦りが、声になる前にこっちへ流れてくる。
怖い。
動けない。
間に合わない。
怖い。
怖いけど。
今取らなければ死ぬ。
取っても、後で壊れるかもしれない。
なら、後で壊れる方がまだマシだ。
どうやらレベルアップによって、スキルポイントも増えていたらしい。
俺は、取得候補に意識を叩きつけた。
《現在所持スキルポイントは320です。
スキル【強欲】をスキルポイント100使用して取得可能です。
取得しますか?》
取得だ。
《スキル【強欲】を取得しました。残りスキルポイント220です》
《熟練度が一定に達しました。スキル【禁忌LV1】が【禁忌LV3】になりました》
《条件を満たしました。称号【強欲の支配者】を獲得しました》
《称号【強欲の支配者】の効果により、スキル【鑑定LV10】、【征服】を獲得しました》
《【鑑定LV8】が【鑑定LV10】に統合されました》
うるさい。
今は確認している暇がない。
ただ、何かが、魂の奥に嵌まったことだけは分かった。
理解できた。
分かってしまった。
【自己理解】が、今取ったばかりのスキルの輪郭を、恐ろしいほど早くなぞっていく。
殺した相手から、何かを奪う。
そう言えば簡単だが、本質はもっと悪い。
殺した相手の魂が崩れる瞬間、その一部を自分の魂へ貼り付ける。
縫い付ける。
継ぎ足す。
自分の魂の器を、無理やり大きくする。
だから、能力が増える。
だから、容量が増える。
だから、相手が持っていた何かが、自分の中に残る。
けれど、器が広がることと、その器を満たすだけの中身があることは別だ。
空いた場所は、満たされることを求める。
広がった器は、もっと欲しがる。
それが【強欲】。
奪えば奪うほど、強くなる。
強くなるほど、空白が増える。
空白が増えるほど、さらに欲しくなる。
本来はランダム。
何を奪えるかは分からない。
けれど、俺は魂へ触れられる。
完全に選べるわけじゃない。
だが、方向は寄せられる。
いや、寄せられるかもしれない。
その程度だ。
魔力を狙っても、スキルが来るかもしれない。
スキルポイントかもしれない。
ステータスかもしれない。
何もかも、いつも通りランダムに流れるかもしれない。
俺の魂への干渉は、まだそこまで精密じゃない。
それでも、何もしないよりはずっとマシだ。
蜘蛛子が毒で猿を殺す。
その瞬間を、俺は影の底から掴んだ。
俺が噛み殺したわけじゃない。
けれど今、俺は蜘蛛子の影にいる。
感覚を重ね、動きのタイミングを重ね、攻撃の瞬間に俺の影も触れている。
だから、届く。
崩れかけた魂へ、【強欲】を差し込む。
ランダムかもしれない。
外れるかもしれない。
でも、今は魔力だ。
寄越せ。
蜘蛛子を支えるためのMPを。
お前の中に残った魔力を。
魔力を巡らせる器の欠片を。
寄越せ!
《スキル【強欲】の効果により、対象からMPを奪取しました》
《MP最大値が微上昇しました》
戻る。
魔力が戻る。
枯れかけていた感覚に、青い火が流れ込む。
俺の中の魔力が、現在値ごと押し上げられる。
単に回復したわけじゃない。
最大値ごと、奪った分だけ増えた。
猿の魂の欠片が、俺の魂へ継ぎ足された。
器が、広がった。
動ける。
まだ動ける。
戻ったのは、俺のMPだ。
蜘蛛子のMPじゃない。
蜘蛛子のSPでもない。
増えたのは、俺の中身だ。
けれど、影憑で繋がっている今なら、それを蜘蛛子の動きへ流せる。
『まだ動ける!』
『私が!? 影蛇が!?』
『どっちもだ! 多分!』
『多分!?』
雑な返事しかできない。
でも、動ける。
まだ支えられる。
まだ死なせずに済む。
その代わり、喉が鳴った。
満たされたはずなのに、もっと欲しくなった。
魔力は戻った。
動くための力も戻った。
けれど、魂の空白は満たされていない。
今のは魂を喰ったわけじゃない。
相手の魂の一部を切り取って、俺の器を広げただけだ。
器が広がれば、そのぶん空白も増える。
そこを満たすには、本来なら経験値を積むか、魂のエネルギーを取り込むしかない。
魔力を奪った。
器を広げた。
なのに、その器を満たすだけのものはない。
腹が減る。
魂が欲しい。
もっと。
もっと。
すぐ近くに、蜘蛛子の魂がある。
温かくて。
死の気配があって。
綺麗で。
欲しくて。
だが、呑まれてはいない。
外から押し付けられた衝動なら、【外道無効】で弾ける。
俺の意思を塗り潰し、俺自身の思惑と違う行動をさせようとする干渉なら、かなり抑え込める。
けれど、これは完全な外部干渉じゃない。
【魂欲】は、足りない生の魂を補おうとする俺自身の性質だ。
影へ沈みたい衝動も、スキルに操られているというより、種族そのものに近い欲求だ。
【強欲】は、それらを外から無理やり植え付けるというより、俺の中にある欲を増幅してくる。
だから、完全には消せない。
ただ、呑まれにくくはなる。
【外道無効】が余計な干渉を削り、【自己理解】がそれを欲望として切り分ける。
だから、まだ耐えられる。
今選ぶべきものじゃないと、分かっていられる。
奪うなら、猿からだ。
『影蛇?』
蜘蛛子の困惑が流れ込んでくる。
何をしたのか。
影蛇は大丈夫なのか。
怖い。
でも、助かった。
そんな感情が、言葉となる前にこちらへ滲む。
その温度に、俺の中の空白が反応した。
違う。
そっちじゃない。
説明している余裕もない。
今、蜘蛛子の魂を意識したら駄目だ。
意識を向けるべきなのは、猿。
奪うなら、猿からだ。
『猿を見ろ! 動け!』
『どういうこと!?』
『説明は後! 今は動け!』
我ながら支離滅裂だった。
でも、これ以上、蜘蛛子の魂を意識したくなかった。
近すぎる。
甘すぎる。
落ち着きすぎる。
欲しくなりすぎる。
だから、戦闘へ意識を向ける。
猿。
猿だ。
猿を見ろ。
猿を殺せ。
蜘蛛子じゃない。
猿を。
『右、二匹! 上から大猿!』
『わ、分かった!』
蜘蛛子が動く。
俺の感覚を受け取って。
自分の意思で。
糸を出す。
体を捻る。
毒を落とす。
俺は影から猿の腕を弾く。
【幻痛】を入れる。
【不快】を重ねる。
そして、蜘蛛子が倒した猿の魂に【強欲】を差し込む。
奪う。
今度は魔力じゃない。
体を動かす力。
踏ん張る力。
糸を出す負担を肩代わりするためのSP。
寄越せ!
《スキル【強欲】の効果により、対象からSPを奪取しました》
《SP最大値が微上昇しました》
熱が戻る。
体の奥に、動くための余力が戻る。
これも蜘蛛子のSPじゃない。
増えたのは俺の中身だ。
けれど、影憑で繋がっている今なら、それを蜘蛛子の動きへ流せる。
それでも、次も狙い通りに来るとは限らない。
スキルかもしれない。
スキルポイントかもしれない。
ステータスかもしれない。
完全なランダムに戻るかもしれない。
けれど、無理やり魔力と活力の方向へ寄せるしかない。
頼むから、今は外れるな。
また少し、MPが増える。
また少し、SPが増える。
また少し、器が広がる。
また少し、飢えが増す。
最悪だ。
最悪のスキルだ。
でも。
動ける。
蜘蛛子を、まだ支えられる。
だったら今は、それでいい。
後で壊れるなら、後で考える。
今は。
今だけは。
死なせない。
死なない。
そのために、俺は奪う。
TIPS:支配者スキル【強欲】
【強欲】は、七大罪系支配者スキルの一つであり、殺害した対象から能力をランダムに奪う性質を持つ。
奪えるものは、ステータス、スキル、スキルポイント、魔力、生命力など多岐にわたり、通常は保持者自身にも正確な選択はできない。
その本質は、殺害した対象の魂の一部を、自身の魂へと継ぎ足すことに近い。
これにより保持者の魂の器は拡張され、能力や容量は増大する。
しかし、器が大きくなることと、その器を満たすだけのエネルギーがあることは別である。
魂の器が広がれば、そこに生じた空白を満たそうとする欲望もまた強まる。
そのため【強欲】は、単に力を奪うスキルではない。
奪うほどに強くなり、強くなるほどさらに欲しくなる。
その循環こそが、【強欲】の最も危険な性質である。
なお、称号【強欲の支配者】によって得られるスキルは【鑑定LV10】と【征服】。
【鑑定LV10】は、秘されていない全ての情報を鑑定可能にし、自身の欲望を満たす対象を見出す力となる。
【征服】は、征服者の威光によって味方を鼓舞する力であり、自身の欲望によって獲得した配下や戦力を活かす能力とも言える。
つまり【強欲】とは、奪う力であると同時に、奪ったものを抱え込み、従え、さらに欲するための支配者スキルである。