中層の訓練は、地味だった。
少し入る。
削られる。
戻る。
回復する。
また入る。
また削られる。
また戻る。
字にすると夢がない。
実際にやっても夢がない。
いや、夢がないどころではない。
熱い。
痛い。
しんどい。
ついでに成果が見えない。
最悪の四点セットである。
『熱い! 無理! でもやる! 熱い!』
蜘蛛子が文句を言いながら、中層の入口へ足を踏み入れる。
少し進む。
HPの減り具合を見る。
糸を出して、どれくらい焦げるか確かめる。
毒を作って、熱で感覚が狂わないか確認する。
そして、限界が来る前に戻ってくる。
『はい無理! 次!』
『切り替えが早い』
『切り替えないと心が死ぬ』
『それはそう』
戻ってきた蜘蛛子は、張っておいた糸の上に転がった。
俺も近くの岩陰で体を丸める。
ただし、休んでいるだけではない。
影に沈んだ時と、実体でいる時の熱の通り方を比べる。
熱で集中が乱れた状態でも、魔力を動かせるか確かめる。
魔法の発動感覚を忘れないように、無理のない範囲で小さく試す。
影へ沈みすぎた時、自分の輪郭がどれくらい曖昧になるかも確認する。
……いや、最後の確認はかなり嫌だな。
影の中は楽だ。
暗くて、冷たくて、落ち着く。
けれど、今の俺にとっては、それが一番危ない。
気を抜けば、体の輪郭だけではなく、自分自身の境目まで薄くなる気がする。
『影蛇ー?』
『なんだ』
『今、影に沈みかけてた』
『気のせいだ』
『ほんとに?』
『……少し』
『少しは沈みかけてたんじゃん』
蜘蛛子がじとっとした気配を向けてくる。
すごい圧を感じる……。
『戻ってこられる?』
『今はな』
『今は、って言い方やめて?』
『努力する』
『それ絶対怪しいやつ』
まあ、怪しい。
自分でもそう思う。
だからこそ、訓練する。
火への慣れ。
影との距離感。
魔力の確認。
魔法の感覚。
魂欲の抑制。
やることが多い。
多すぎる。
これもう修行というより、タスク管理では?
いや、命がかかっている時点で修行よりひどいか。
◇
次に、拠点を整えた。
簡易拠点のまま中層前に居座るのは怖い。
なので、下層と中層の境目にある高所へ移動し、蜘蛛子が糸でホームを作ることになった。
中層の熱が直接流れ込みにくい場所を選び、糸を何重にも重ねる。
足場。
休憩場所。
逃げ道。
猿戦の反省を生かして、最低限そこは意識する。
『よし、完成! 中層前ホーム!』
『仕事が早いな』
『拠点は大事だからね』
『同感だ』
これで、しばらくの拠点はできた。
ここを中心に、中層へ入っては戻り、回復し、スキルを鍛える。
そういう生活が始まった。
◇
訓練は、火耐性だけではない。
蜘蛛子は【鑑定】で自分のスキルを確認しながら、未取得スキルの候補と、今あるスキルの伸ばし方を見比べていた。
新しく取れそうなものは狙う。
すでに持っているものは鍛える。
中層で使えなさそうなものは、使い方を変える。
やることは多い。
『候補はあるんだけどさー』
『取れそうなのか?』
『分かんない。説明が足りない。鑑定様、取得方法まで書いて?』
『それは便利すぎるだろ』
『便利でいいんだよ! 命かかってるんだから!』
蜘蛛子は文句を言いながら、また中層へ向かう。
糸を張る。
熱で焦げる。
張り方を変える。
毒を作る。
感覚が狂わないか確認する。
少し動いて、すぐ戻る。
未取得スキルを狙いながら、今ある手札も鍛え直す。
ただ焼かれているわけではない。
中層で生きるために、今の戦い方そのものを調整しているのだ。
俺も同じだ。
【鑑定】で自分の状態を見直し、猿戦の内容を整理する。
【強欲】で奪ったもの。
【影憑】で蜘蛛子と重なった感覚。
【魂欲】の悪化。
影へ沈みたい欲。
増えたスキル。
変化したスキル。
放置すると、普通に事故る。
そこで、地味に大きな変化に気づいた。
【記憶】スキルがない。
いや、消えたわけではない。
【記録】になっている。
猿戦中の通知のどこかで進化していたらしい。
あの通知の嵐の中で気づけという方が無理である。
効果は、ただ覚えるだけではない。
出来事を分類する。
順序立てる。
必要な時に引き出しやすく保存する。
戦闘記録も、原作知識も、スキルの変化も、頭の中で棚に並んでいくような感覚がある。
これはかなり便利だ。
俺がここでやるべきことも見えてくる。
魔力の流れを確認する。
魔法の発動感覚を忘れないようにする。
影に頼りすぎない。
【魂欲】に引っ張られすぎない。
熱の中でも、自分の戦い方を崩さない。
魔法も、持っているからといって便利に使えるわけではない。
今は、発動の手順を確認する程度。
熱で集中が乱れても、魔力の流れを見失わないための練習だ。
地味。
とても地味。
だが、今の俺には必要だった。
『何してるの?』
蜘蛛子が糸を編み直しながら聞いてきた。
『猿戦後の整理と、戦い方の見直し』
『真面目』
『真面目にやらないと死ぬ』
『それはそう』
『蜘蛛子は?』
『未取得スキル狙いと、今あるスキルの鍛え直し。中層だと勝手が違いすぎる』
『大変そうだな』
『影蛇もでしょ』
『まあな』
蜘蛛子がまた中層へ突っ込む。
俺も続く。
熱い。
痛い。
戻る。
何か取れないかと期待する。
なかなか取れない。
『火耐性、来た?』
『来てない』
『こっちも!』
『渋いな』
『熟練度くん、そこは空気読んで?』
『この熱気の中で空気を読めは酷だろ』
『そういう意味じゃない!』
こうして、しばらく中層前ホームでの修行生活が続いた。
◇
何度目かの突入と撤退を繰り返した後。
俺は、取得候補のひとつを見ていた。
【探知】。
便利なのは間違いない。
むしろ、便利すぎるのが問題だ。
高性能すぎて、扱いを間違えると情報に意識を持っていかれる。
ただ、今の俺には材料がある。
【演算処理LV8】。
【記録LV2】。
【並列思考LV10】。
【自己理解】。
【外道無効】。
【思考加速LV2】も、多少は役に立つかもしれない。
それに、【熱感知】や【魔力感知】はもう常に使っている。
その二つはすでにLV10。
もう伸びしろがない。
だからこそ、より上位の感知が必要になる。
迷宮で生きるなら、感知は呼吸みたいなものだ。
いや、蛇の呼吸がどうなっているのかは置いておく。
とにかく、感知は常時使う。
必要なのは、使わないことではなく、使いながら潰れないことだ。
《現在所持スキルポイントは620です。
スキル【探知LV1】をスキルポイント100使用して取得可能です。
取得しますか?》
迷う。
かなり迷う。
原作知識が警告を鳴らしている。
けれど、猿戦の記録も言っている。
見えない攻撃は死ぬ。
遅れた判断も死ぬ。
情報不足も死ぬ。
つまり、死ぬ。
死ぬ選択肢、多すぎないか?
結論、死にたくないなら取るしかない。
よし、やっぱり取ろう!
取得します!
《スキル【探知LV1】を取得しました。残りスキルポイント520です》
《【魔力感知LV10】が【探知LV1】に統合されました》
《【熱感知LV10】が【探知LV1】に統合されました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【探知LV1】が【探知LV5】になりました》
……なんか一気にレベルが上がったな。
まあ、常時使っていた感知系が統合されたなら、そうなるか。
ちょっと不安だが、早速使ってみるか。
ってことで発動!
瞬間。
世界が増えた。
熱。
音。
空気の流れ。
震動。
魔力。
地形。
影。
蜘蛛子の位置。
蜘蛛子の糸の張り。
中層側から流れてくる熱気。
近くの岩の形。
遠くで動く微かな気配。
自分の体の角度。
鱗に触れる熱。
様々な情報が一気に押し寄せてくる。
多い。
多すぎる。
だが。
『……うわ』
痛みより先に、そんな声が漏れた。
すごい。
マジですごい。
今まで【熱感知】や【魔力感知】で拾っていたものが点や線だったとするなら、これは空間そのものだった。
俺の認識できる範囲、その全体が一気に頭の中へ流れ込んでくる。
頭は少し熱い。
けれど、それは頭を使いすぎた時の知恵熱みたいなものだ。
嫌な痛みはほとんどない。
【外道無効】が、ちゃんと仕事をしている。
外道無効、とてもえらい。
原作で蜘蛛子が感動していたのも分かる。
正直、大袈裟だなと思っていたが、これなら納得だ。
《熟練度が一定に達しました。スキル【探知LV5】が【探知LV6】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【演算処理LV8】が【演算処理LV9】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【苦痛耐性LV7】が【苦痛耐性LV8】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【探知LV6】が【探知LV7】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【演算処理LV9】が【演算処理LV10】になりました》
《条件を満たしました。スキル【演算処理LV10】が【高速演算LV1】に進化しました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【苦痛耐性LV8】が【苦痛耐性LV9】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【予測LV5】が【予測LV6】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【記録LV2】が【記録LV3】になりました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【神性領域拡張LV4】が【神性領域拡張LV5】になりました》
うるさい。
いや、ありがたい。
ありがたいけど、今ちょっと感動してるんだ。
空気を読んでほしい。
まあ、無理か。
しかし、これだけ一気にレベルが上がるということは、それだけ負荷が高いということでもある。
それでも、耐えられる。
苦しいというより、圧倒される。
世界の輪郭が濃くなる。
自分の認識の狭さと、広がった視界のすごさを同時に思い知らされる。
これは、軽く全能感すら湧きそうになる。
危ない。
便利すぎるものは、それだけで危ない。
俺は一度、意識の前面から【探知】を少し下げた。
切るわけではない。
完全に切るのは惜しいし、どうせ今後は常時使うつもりだ。
情報は入ってくる。
全部、勝手に入ってくる。
なら、前に出す情報を選ぶ。
まずは一旦、必要そうな情報だけを捉え、その他の情報は後ろへ流す。
常に聞こえている雑音の中から、必要な声だけを拾うように。
常に見えている景色の中から、動くものだけを追うように。
そんな感じ。
『影蛇?』
『【探知】取った』
『え? 大丈夫?』
『使っても痛みはほぼない。少し頭が熱いくらいだ』
『それ大丈夫なやつ?』
『今のところはな』
『どんな感じなの?』
どんな感じ。
そう聞かれて、少し考える。
言葉にするのが難しい。
難しいが、強いて言うなら。
『世界が増えた感じだ』
『世界が増えた』
『熱、音、空気の流れ、震動、魔力、地形、影。そういうのが、まとめて頭に流れ込んでくる』
『うわ、情報量すごそう』
『すごい。蜘蛛子の位置も分かるし、糸の張り方も分かる。中層側の熱の流れも、岩場の形も、今までよりずっと拾える』
『なにそれ便利』
『便利だな。ただ、全部を意識の前に出すと邪魔になる。だから、必要な情報だけ前に出して、他は後ろへ流す感じにしてる』
『へー。いいなー。私もちゃんと使えるようになったらなー』
『なら先に、使いこなせるようになっておく。何か分かったら共有する』
『お、先輩面?』
『取得したてだが使えるようになったのは先だからな』
蜘蛛子の軽口に、少しだけ肩の力が抜ける。
これは使える。
使い続けた方がいい。
俺は【探知】を切らなかった。
◇
【探知】を常時動かしながらの修行生活は、さらに忙しくなった。
中層に焼かれ、戻って回復する。
その間に蜘蛛子は未取得スキルを狙いつつ、今ある手札を中層用に鍛え直していく。
俺は探知の情報を後ろへ流しながら、魔力を動かし、影への沈み方を調整し、魔法の発動感覚を確かめる。
詳しい応用はまだ無理だ。
けれど、熱で集中が乱れても、手順を崩さないようにはできる。
そんな中で、もう一つだけ見逃せない候補があった。
【慈悲】。
必要ポイント、500。
七美徳スキル。
死者蘇生に関わる支配者スキル。
効果は知っている。
【慈悲】は、死者蘇生。
取得時に得られる【奇跡魔法】は、死んでいなければどんな状態からでも治してみせるような上位回復魔法。
そして【安寧】は、死者の魂をシステム外の正常な輪廻へ送るためのスキル。
どれも、命と魂に関わる。
ただし、安い安全装置ではない。
使えば、ただのMP消費だけでは済まない。
魂に関わるコストもいる。
普通に使えば、自分の魂の領域を削ることになる。
限界まで削れば、当然ただでは済まない。
そこまでは知っている。
問題は、俺の場合だ。
【強欲】。
殺した相手の魂の一部を、自分の魂へ継ぎ足す力。
猿戦で、俺はそれを使った。
その結果、俺の魂には、俺本来の核とは別に、継ぎ足された余剰のような部分がある。
もし【慈悲】の魂コストを、その部分で肩代わりできるなら。
蘇生に必要な魂コストを、いきなり俺自身の核から限界まで削らなくてもいい。
奪ったものを、救うために使う。
できるかどうかは、まだ分からない。
けれど、可能性はある。
危ない考えだとは思う。
【慈悲】で救うために【強欲】で奪えばいい、なんて発想は最悪だ。
それでも、猿戦で蜘蛛子が落ちかけた時、俺には保険がなかった。
次も間に合うとは限らない。
影に入れるとは限らない。
糸が切れないとは限らない。
蜘蛛子が死なないとは限らない。
その時に、手がないのは嫌だ。
これは綺麗な善意ではない。
生存欲だ。
保護欲だ。
所有欲に近いものも、たぶん混ざっている。
失いたくないから奪うのが【強欲】。
失いたくないから救うのが【慈悲】。
根は同じ。
違うのは、使い方だ。
……嫌な自己分析だな。
《現在所持スキルポイントは520です。
スキル【慈悲】をスキルポイント500使用して取得可能です。
取得しますか?》
残りは二十になる。
ほぼ使い切り。
重い。
だが、軽い選択なら意味がない。
魂資源を使えるかは、まだ分からない。
それでも、保険は欲しい。
なら、取る。
俺が選ぶ。
俺の欲で。
俺の意思で。
取得する。
《スキル【慈悲】を取得しました。残りスキルポイント20です》
《熟練度が一定に達しました。スキル【禁忌LV4】が【禁忌LV6】になりました》
《条件を満たしました。称号【慈悲の支配者】を獲得しました》
《称号【慈悲の支配者】の効果により、スキル【奇跡魔法LV1】、【安寧】を獲得しました》
取得した。
……したのだが。
【無慈悲】持ちの【慈悲の支配者】とはこれいかに。
無慈悲なのか慈悲深いのか、どっちなんだ俺は。
いや、どっちもか。
敵には無慈悲。
手の届く相手には慈悲。
……嫌な納得の仕方をしてしまった。
瞬間、【自己理解】が、取得したばかりのスキルの輪郭をなぞる。
やっぱり使える。
【強欲】で継ぎ足した分。
俺本来の魂ではない、余剰として増えた領域。
その魂資源を、【慈悲】の燃料に回せる。
もちろん、無限ではない。
使えば減る。
使いすぎれば、結局は俺自身の魂へ食い込む。
だが、一度使えば即座に自滅、というわけではない。
予想は当たった。
当たってしまった。
最悪の噛み合い方だと思う。
けれど、猿戦の時のような最悪に対して、今度は手札がある。
それだけで十分だった。
同時に、自分の内側も確認する。
【強欲】を取った時のように、欲望が膨らむ感覚はない。
もっと救いたい、何もかも救いたい、という衝動を押し付けられる感じもない。
心を善良に作り替えられた感覚もない。
七美徳だから安全、なんて軽い話ではない。
禁忌や魂コストの危険はある。
けれど、少なくともこれは、俺の心を外から捻じ曲げる類のものではなさそうだった。
そして、【安寧】。
死者の魂を、システム外の正常な輪廻へ送る。
できることは、おそらくそれだけだ。
それだけ、なのだが。
この世界では、その「それだけ」が重い。
いつか、人間を相手にした時、たぶん必要になる。
この世界の人間の魂がどれだけ哀れな扱いを受けているのか、俺は知っている。
その時、人間の魂を丸ごと喰うような真似はしたくない。
敵なら殺すことはあるかもしれない。
【強欲】で一部を奪うこともあるかもしれない。
けれど、残ったものまで喰い尽くすのは違う。
奪うのではなく、送る。
【安寧】は、そのための手札になる。
……まあ、全部まだ先の話だ。
まずは自分が死なないこと。
次に、蜘蛛子を死なせないこと。
それで精一杯である。
『影蛇?』
『ん?』
『また固まってる』
『スキル取った』
『また? 何取ったの?』
少し迷う。
だが、全部話す必要はない。
『回復系の保険だ』
『回復?』
『猿戦みたいなことがあった時に、手札が増える』
『おお、いいじゃん』
『使わないで済むのが一番だけどな』
『それはそう。保険ってそういうものだし』
『だな』
『じゃあ、私はその保険を使わせないように頑張る』
『頼もしいな』
『もっと褒めてもいいよ?』
『調子に乗るな』
『褒める流れだったじゃん!』
いつもの軽口。
重いスキルを取った直後でも、蜘蛛子にまでその重さを背負わせる必要はない。
◇
それから、ある程度の時間が過ぎた。
俺たちはホームを拠点に、中層前での修行を続けた。
中層に入って削られたら戻る。
その間に別の訓練をする。
また中層へ入る。
蜘蛛子は未取得スキルを狙いつつ、糸や毒、動き方を中層用に調整していた。
俺は【探知】を常時動かしながら、魔力、影、魔法の感覚、魂欲の制御を確認する。
それに加えて、【奇跡魔法】も少しずつ試した。
中層の熱で焼けた鱗。
岩場で擦った小さな傷。
熱気に削られたHP。
そこへ魔法を流す。
すると、すぐに傷が塞がる。
……すごいな、これ。
ただし、軽くはない。
小さな傷を治すだけでも、魔力の持っていかれ方が大きい。
調子に乗って使えば、今度はMP切れで動けなくなる。
【慈悲の支配者】のおかげでMPが大量に増えたとはいえ、有限なのには違いないからな。
『影蛇、それ何?』
『【奇跡魔法】。さっき取った回復系のやつだ』
『治る?』
『めっちゃ治る。けどMPが重い』
『便利だけど燃費悪い系か』
『そんな感じだな』
蜘蛛子が少し考え込む。
『じゃあ、それ使えば火耐性訓練、もうちょっと粘れる?』
『粘れる。たぶん』
『おお』
『ただし、やりすぎたらMPが先に死ぬ』
『世知辛い』
『命も魔力も有限だからな』
【奇跡魔法】で回復しながら、火耐性を鍛える。
それなら、今までより少しだけ中層に留まれる。
少しだけ限界を伸ばせる。
死んでから救うのではなく、死ぬ前に引き戻す。
俺がまず慣れるべきなのは、たぶんそっちだ。
熱で集中が乱れても発動できるように。
魔力を流しすぎないように。
必要な分だけ治して、すぐ動けるように。
そんな訓練も、修行生活に混ぜることにした。
火耐性は、相変わらず渋い。
だが、完全に無駄ではなかった。
蜘蛛子の動きは、熱の中でも少しずつ乱れにくくなった。
俺も、探知の情報量に振り回される時間が減ってきた。
ホームも、少しずつ拠点らしくなっていた。
蜘蛛子が糸を張り直し、俺はそこで探知と魔法の感覚を整える。
中層前での生活は、思ったより形になり始めていた。
そして、何度目かの中層突入。
いつも通り、熱が体を焼いた。
HPが削れる。
SPも減る。
戻りたい。
けれど、もう少しだけ粘る。
蜘蛛子も隣で同じように耐えていた。
『熱い! でも、もうちょい!』
『無茶はするなよ』
『そっちもね!』
もう少し。
あと少し。
そう思った瞬間。
《熟練度が一定に達しました。スキル【火耐性LV1】を獲得しました》
来た。
ようやく来た!
遅い。
遅すぎる。
けど、来た。
『火耐性、取れた!』
『え!? あ、こっちも今取れた!』
『やっとか』
『やっとだよ! どれだけ焼かせる気だったの!?』
蜘蛛子は文句を言いながらも、どこか嬉しそうだった。
俺も同じだ。
たかがLV1。
されどLV1。
中層攻略の入り口に、ようやく指先がかかった気がした。
その瞬間。
嫌な記録が、頭の棚から滑り落ちた。
火耐性、LV1。
原作で地龍が来た時、蜘蛛子の火耐性もその程度だったはずだ。
なら、ここで喜んでいる場合じゃない。
LV1になった時点で、警戒するべきだった。
そう思った直後、探知に大きな反応が引っかかった。
中層全体の熱とは違う。
動いている。
大きい。
速い。
強い。
来た!
『蜘蛛子!』
『え、なに!?』
『逃げるぞ! 中層だ!』
『は!? いきなり!?』
答えるより先に、空気が揺れた。
次の瞬間。
轟音。
ホームが吹き飛んだ。
『はああああ!?』
蜘蛛子の悲鳴が跳ねる。
俺も反射で身を翻した。
さっきまで俺たちがいた場所に、巨大な一撃が叩き込まれる。
岩が砕ける。
糸が千切れる。
熱風が巻き上がる。
探知が拾う。
巨大な体。
高い熱。
濃い魔力。
圧倒的な存在感。
鑑定も走らせる。
《地龍カグナ LV26》
やっぱり来た。
中層準備を終わらせる、最悪のトリガー。
『地龍だ!』
『なんで!?』
『知らん! でも来た! 走れ!』
『了解!』
蜘蛛子が糸を飛ばして跳ぶ。
速い。
普通に速い。
こっちがまともに走って並べる速度じゃない。
俺は影へ深く沈んで逃げる。
危険なのは分かっている。
だが、今は安全な逃げ方を選んでいる余裕がない。
蜘蛛子の影を踏むように、ぎりぎりで追う。
完全に並ぶのは無理だ。
だが、探知で逃げ道を拾うことはできる。
『右、足場ある!』
『助かる!』
蜘蛛子が糸を引っかけ、岩場を蹴って跳ぶ。
俺はその後ろを、影と岩陰を繋ぐように滑り込む。
せっかく準備していた。
火耐性も、ようやく取れたばかりだった。
糸も毒も、動きも回復も、少しずつ形になっていた。
俺も、探知と慈悲を取り、奇跡魔法の扱いも確かめ始めていた。
それを、地龍が一撃で台無しにした。
来る可能性は知っていた。
分かっていた。
分かっていたなら、火耐性を取った時点で警戒するべきだった。
クソが。
ようやく火耐性を取ったばかりだぞ。
『中層! このまま入る!』
『最悪なんだけど!?』
『同意する!』
背後から地龍の圧が迫る。
前には赤く揺れる中層。
熱。
マグマ。
苦手な火の地獄。
けれど、止まれば死ぬ。
蜘蛛子が先に飛び込む。
俺はその影を追って、中層へ滑り込んだ。
準備不足。
火耐性はまだLV1。
ホームも壊れた。
何もかも予定より早い。
だが、もう始めるしかない。
今度こそ、中層攻略開始だ。
TIPS:【無慈悲】と【慈悲】
【無慈悲】は、罪悪感や躊躇を鈍らせる称号である。
通常なら、この称号を得た時点で、誰かを救いたい、命を引き戻したいという方向の適性は大きく削られる。
つまり、【慈悲】へ至る道はほぼ閉ざされる。
しかし、影蛇は【自己理解】によって、自分の欲望と、スキルや称号によって外から与えられる感情の変化を切り分けることに慣れていた。
【魂欲】。
【影憑】。
【強欲】。
それらに振り回されながらも、影蛇は「これは自分自身の欲なのか」「それともスキルやシステムによって生じた衝動なのか」を見分けようとしてきた。
そのため、【無慈悲】の影響も完全には染み込まなかった。
敵を殺すことへの躊躇は薄くなった。
それでも、手の届く相手を失いたくないという欲だけは残った。
故に、影蛇には【慈悲】へ至る余地があった。