鰻が沈黙した。
ついさっきまでマグマの中を泳ぎ回り、火球を吐き、こっちを焼き殺そうとしていた化け物だ。
それが今は、ただの死骸になっている。
勝った。
そして、俺たちは二匹とも進化可能になった。
『えー、ダブル進化なのに?』
『同時にはしないぞ』
蜘蛛子の声に、俺は即答した。
『片方が進化している間、片方が見張りだ』
『それはそう』
進化中は意識が落ちる。
つまり、完全に無防備になる。
ここは中層。
マグマだらけで、火属性の魔物がそこらにいる。
二匹揃って意識を失うとか、自殺志願にもほどがある。
『さて、どうするか』
俺と蜘蛛子は、鰻を見る。
長い。
でかい。
硬い。
食料としても魅力的だが、それだけで終わらせるには惜しい。
『これさ』
『何だ?』
『全部食べる前に、使えるんじゃない?』
蜘蛛子が鰻の死骸の周りを歩く。
『こいつ長いし、硬いし。丸めたら壁になりそうじゃない?』
その言葉に、俺は内心納得した。
ああ。
原作でも、そんな感じだった。
鰻の死骸を使って、安全を確保する。
進化中の無防備な時間を乗り切るために、こいつの体を壁代わりにする。
ただ、今回は蜘蛛子一匹じゃない。
俺もいる。
土魔法も使える。
なら、まったく同じ形にする必要はない。
『いけると思う』
『でしょ?』
『胴体を巻いて、内側に空間を作る。崩れそうな所は土で支える』
『おお。建築担当、頼んだ』
『発案者も手伝え』
『はいはい』
蜘蛛子が糸を飛ばす。
中層の熱で長くは保たない。
それでも、一瞬引っかけるだけなら使える。
俺は【土魔法】で足場を整え、鰻の体を支える。
胴体をとぐろのように巻き、隙間を土で塞ぐ。
最後に、蜘蛛子が鰻の頭を上へ動かし、蓋のように乗せた。
雑ではある。
けど、龍鱗は硬い。
下手な岩壁よりは、よほど頼りになる。
『完成?』
『完成、ということにしておこう』
『鰻シェルター』
『名前はそれでいいのか?』
『分かりやすいからよし』
完全な安全地帯とは言えない。
けど、ただ岩場で進化するよりは遥かにマシだ。
進化が終われば、残りも食べる。
そのためにも、まずは無事に進化を終わらせる必要がある。
『で、どっちから?』
『蜘蛛子が先でいい』
『いいの?』
『ああ。俺が見張る』
『じゃあ、お言葉に甘えまして』
蜘蛛子は軽く言った。
けど、その声に少しだけ緊張が混ざっているのが分かった。
特にここは中層。
進化する場所としては、かなり危ない。
『進化先は?』
『ゾア・エレ』
蜘蛛子が短く答える。
『小型で、戦闘能力と隠密性が高いらしい』
『蜘蛛子向きだな』
『でしょ? 小型高性能こそ正義』
『否定はしない』
巨大化すれば、単純な力は上がるだろう。
でも蜘蛛子の戦い方は回避と毒と奇襲が中心だ。
小型のまま強くなる進化先があるなら、そっちを選ぶのは自然だろう。
『じゃ、行くよ』
『ああ。周りは任せろ』
『変なことしたら進化後に毒漬けね』
『しない』
『よろしい』
蜘蛛子が鰻シェルターの中心へ入っていった。
◇
蜘蛛子の気配が、鰻シェルターの内側で静かになる。
進化が始まった。
俺はシェルターの外へ出て、入口に近すぎず、離れすぎない位置に体を置く。
蜘蛛子の進化を見張るのは、これが初めてじゃない。
猿戦の後も、俺は少し離れた場所で待っていた。
近づきすぎれば危ない。
離れすぎれば守れない。
遠すぎず、近すぎず。
それは今も変わらない。
ただ、ここは中層だ。
周囲はマグマ。
熱が感覚を狂わせ、敵は火球を撃ってくる。
俺は【探知】を広げる。
マグマの流れ。
岩場の陰。
火属性魔物の気配。
その中で、鰻シェルターの内側から蜘蛛子の気配がする。
静かで、無防備で、近い。
喉の奥が渇くような感覚は、まだある。
けど、今さら驚きはしない。
これは俺の中にある。
ないことにはできない。
なら、蜘蛛子に向かないように、別のもので満たすしかない。
しばらくして、マグマの中で何かが動いた。
俺は【影魔法】と【土魔法】で足場と影を作り、闇の槍と毒魔法を重ねる。
瀕死に追い込むまで、時間はかからなかった。
完全に死ぬ前に、【影憑】で干渉し、魂を喰らう。
蜘蛛子ではなく、敵で満たす。
今までもそうしてきた。
これからもそうする。
そう決めて、俺はまた周囲へ意識を戻した。
◇
どのくらい時間が経ったのかは分からない。
中層には昼も夜もない。
マグマの赤い光が、ずっと辺りを照らしている。
それでも、蜘蛛子の気配が変わったのは分かった。
鰻シェルターの内側で、蜘蛛子がぴくりと動く。
『……終わった?』
少しして、もぞもぞと蜘蛛子の体が動いた。
『終わったっぽい』
『無事か?』
『たぶん』
『たぶんは不安なんだが』
いつもの蜘蛛子の声だ。
俺は少しだけ力を抜く。
無事に目覚めた。
それだけで十分だった。
蜘蛛子が鰻シェルターの中から出てくる。
見た目が劇的に変わったわけではない。
けれど、一目で分かった。
強くなっている。
体の輪郭が、前より引き締まって見える。
脚の先は鋭さを増し、前足はまるで小さな鎌のようだった。
一目で、攻撃の鋭さが増していると分かる。
【鑑定】する。
しっかりゾア・エレになっていて、進化は成功していた。
蜘蛛子が軽く跳ねる。
その動きも、前より速い。
体の反応が明らかに違う。
『体の感じは?』
『軽い。あと、なんか強い』
『雑な感想だな』
『でも実際そんな感じ。あと、お腹すいた』
『進化直後だからな』
『めっちゃすいた。でも、動けないほどじゃないかな』
『【過食】か?』
『たぶん。【鑑定】で見た感じストックが減ってるから』
蜘蛛子が鰻の死骸を見る。
声が真剣だった。
『食べていい?』
『俺が進化している間、見張れるか?』
『食べながら?』
蜘蛛子が鰻を見る。
『……いや、すぐには無理っぽい。まず鱗剥がさないと食べられないやつだ、これ』
『なら、見張りながら準備してくれ』
『了解。鱗剥がししながら見張る』
『シェルターを全部崩すなよ』
『そこは分かってるって』
蜘蛛子は鰻の龍鱗へ前足を当てる。
進化したばかりの鎌みたいな前足が、硬い鱗の隙間に入った。
『お、前よりやりやすいかも』
『見張りも忘れるなよ』
『分かってるって。食べ物のためにも、ここで死ぬわけにはいかないし』
『理由はともかく、頼もしいな』
『でしょ?』
軽い声。
けど、蜘蛛子はすでに鰻シェルターの外側へ意識を向けていた。
進化直後で腹は減っている。
目の前には鰻がある。
鱗剥がしもしないといけない。
それでも、見張りはする。
なら、任せられる。
『じゃあ、次は俺の番だ』
『いってらー。変な進化先選ばないようにね』
『努力する』
『そこは断言して?』
断言できれば苦労はしない。
俺は鰻シェルターの内側へ入る。
外には蜘蛛子がいる。
鱗を剥がしながら、見張ってくれている。
それだけで、思ったよりも安心できた。
◇
さて。
進化先の確認だ。
俺は【鑑定】で、自分の進化候補を確認する。
《進化先の候補が複数あります。次の中からお選びください。
グレイヴウンブラペント
モルス・グレイヴ
リーメン・ヴェイン》
三つ。
まず、グレイヴウンブラペント。
《グレイヴウンブラペント:進化条件:スモールグレイヴウンブラペントLV10:説明:ウンブラペント種と呼ばれる蛇型の魔物の希少種の成体。影と魂への適性を持ちながらも比較的安定した戦闘能力を持つ》
これは普通の進化先だろう。
スモールが外れる。
幼体から成体になるような進化。
安定はしていそうだ。
けど、今の俺が抱えている問題を解決してくれる気はしない。
次に、モルス・グレイヴ。
《モルス・グレイヴ:進化条件:スモールグレイヴウンブラペントLV10、【影憑LV5】、【外道魔法LV5】:説明:グレイヴウンブラペント系の小型の魔物。影と外道魔法による魂干渉に優れ、対象の魂への干渉をより深く行える》
条件を見た時点で、少し嫌な予感がした。
【影憑】。
【外道魔法】。
これは、今の俺の種族をそのまま深くした進化に見える。
強くはなる。
間違いなく強くなると思う。
けど、今の俺がこれを選んだら、多分まずい。
蜘蛛子の魂を喰いたいという衝動が、今より強くなるかもしれない。
流石にこの状況では選べない。
最後に、リーメン・ヴェイン。
《リーメン・ヴェイン:進化条件:一定以上のステータスを持つ小型蛇型モンスター、治療系スキル、【影魔法】:説明:生と死の境界に棲むとも言われる、小型の蛇型の魔物。命を断つ力と繋ぐ力を併せ持ち、影を通して生命の流れに干渉する》
条件が、かなり違う。
リーメン・ヴェインは、スモールグレイヴウンブラペントから進化できる。
けれど、条件を見る限り、今の種族の性質をそのまま深める進化ではなさそうだった。
モルス・グレイヴに入っていた【影憑】や【外道魔法】が、条件にない。
必要なのは、治療系スキルと【影魔法】。
俺の場合、治療系スキルは【奇跡魔法】が該当したんだろう。
普通なら、毒や薬に関わるスキルと、【暗殺者】みたいな称号で得る【影魔法】が必要になるような進化なのだろう。
少なくとも、【魂欲】を強める方向の進化には見えない。
それだけで、少し期待してしまった。
この進化なら、今の俺にまとわりついている魂への飢えを、切り離せるんじゃないか。
ただ、不安もある。
モルス・グレイヴは、今の俺の種族をそのまま深める進化に見える。
危険ではあるが、戦闘能力だけなら間違いなく強くなるはずだ。
それに比べて、リーメン・ヴェインは横道だ。
特殊ではあるが、単純な強さに繋がるかは分からない。
中層で、強くなるかどうか分からない進化を選ぶのは怖い。
けど、モルス・グレイヴを選べば、俺は今よりもっと蜘蛛子の魂を欲しがるかもしれない。
それは駄目だ。
進化で消えるスキルもある。
原作で見たアノグラッチの進化系は、進化することで【復讐】が消えていたはずだ。
なら、【魂欲】も消えるかもしれない。
完全に消えないとしても、薄れるかもしれない。
期待しすぎるな。
そう思う。
けど、前例はある。
それなら、選ぶ理由になる。
『影蛇?』
外から蜘蛛子の声がする。
『大丈夫?』
『大丈夫だ』
『進化先、変なのあった?』
『まあ、少しな』
『やばそう?』
『やばそうなのもあった』
『選ばないよね?』
『選ばない』
『よろしい』
短い会話。
それだけで、少し落ち着いた。
俺は進化先を選ぶ。
リーメン・ヴェイン。
これにする。
《個体、スモールグレイヴウンブラペントがリーメン・ヴェインに進化します》
そう念じた瞬間、意識が沈んだ。
◇
《進化が完了しました》
《種族リーメン・ヴェインになりました》
《各種基礎能力値が上昇しました》
《スキル熟練度進化ボーナスを取得しました》
︙
《熟練度が一定に達しました。スキル【神性領域拡張LV5】が【神性領域拡張LV6】になりました》
《進化によりスキル【魂欲】が変質しました》
《進化によりスキル【境脈視LV1】を獲得しました》
《進化によりスキル【影流操作LV1】を獲得しました》
《スキルポイントを入手しました》
◇
意識が、ゆっくりと浮かび上がる。
最初に感じたのは、空腹だった。
けれど、限界というほどではない。
代わりに、【過食】に溜め込んでいたストックが大きく削られている感覚があった。
進化で持っていかれた分を、そっちが肩代わりしてくれたらしい。
蜘蛛子と同じで、ここでも【過食】がいい仕事をしたわけだ。
進化は終わっている。
けど、進化中の天の声は覚えていない。
眠っていたのだから、聞こえるわけがない。
だから、何が変わったのかは、自分で確かめるしかない。
【自己理解】で、自分の内側を確認する。
種族は、リーメン・ヴェイン。
新しくスキルが増えた感覚がある。
【境脈視】。
【影流操作】。
この二つだ。
そして、【魂欲】。
消えていない。
ただ、前と同じでもない。
……変質している。
消失じゃない。
削除でもない。
統合でもない。
【復讐】みたいに、進化で消えるスキルもある。
なら【魂欲】も消えるかもしれない。
そんな期待は、外れた。
けれど、何も変わらなかったわけでもない。
まずは増えたスキルの確認をしてみる。
鰻シェルターの内側が、さっきまでと違って見える。
いや、実際に見えているものは同じだ。
鰻の体。
土魔法で埋めた隙間。
外で揺れるマグマの赤い光。
けれど、それらの間に、細い筋のようなものが見えた。
影。
魔力。
肉体。
空気の熱。
それぞれの境目に、流れのようなものがある。
【探知】で確認するものとは違う感覚。
これが、【境脈視】か。
次に、影が動かしやすくなったことに気づいた。
岩場に落ちた影。
鰻の体が作った影。
自分の体の下にある影。
それらへ意識を向けると、今までよりも滑らかに魔力が通る。
【影流操作】。
名前の通り、影の流れを操作するスキルらしい。
まだLV1だ。
できることは多くない。
万能ではない。
それでも、表層接続や影への移動は、今までより安定しそうだった。
『影蛇? 起きた?』
外から蜘蛛子の声がする。
『起きた』
『おー。無事?』
『たぶん』
『たぶんは不安なんですけど?』
蜘蛛子が鰻シェルターの隙間から覗き込む。
進化後のゾア・エレ。
一目で強くなったと分かる姿。
小さな体はそのままなのに、前よりずっと危険な魔物に見えた。
その足元には、剥がされた龍鱗が何枚も転がっていた。
鰻の胴体には、すでに肉が見えている部分もある。
『……もう食べてるのか?』
『ちょっとだけ。ちゃんと見張ってたよ』
『本当だろうな』
『本当本当。あと、影蛇が進化してる間にスキルポイント確認してたら、【忍耐】が取れそうだったから取った』
『……【傲慢】と同じようなやつか?』
『たぶん。で、称号も来た』
『称号?』
『【忍耐の支配者】。それで【外道無効】と【断罪】も増えた』
『……しれっと何を取ってるんだ』
『保険は大事。あと、邪眼系スキルも解禁されたっぽい』
『邪眼?』
『名前からして強そうじゃない? 取りたい。すごく取りたい』
『取れるのか?』
『ポイントが足りない』
『だろうな』
『ぐぬぬ』
軽い調子で言っているが、内容は軽くない。
【忍耐】。
【忍耐の支配者】。
【外道無効】。
【断罪】。
そして、邪眼系スキルの解禁。
原作通りなら、それは蜘蛛子にとってかなり大きな転機になる。
俺の知っている流れなら、ここから蜘蛛子は【探知】も扱えるようになっていく。
さらに、邪眼系スキルを取れるようになったなら、攻撃手段の幅も増える。
蜘蛛子は蜘蛛子で、俺が進化している間にやれることをやっていたらしい。
鱗を剥がし、見張りをし、少し食べ、さらに【忍耐】まで取っている。
そして、蜘蛛子を見た瞬間、魂の奥で【魂欲】が動いた。
けれど、それは前と同じものではなかった。
喰いたい。
そういう衝動は、ほとんどない。
蜘蛛子の魂を喰らって満たしたい。
そういう、今まで俺の中にあった欲は、かなり薄れている。
代わりに残っているのは、もっと静かな感覚だった。
近くにいると、落ち着く。
蜘蛛子の魂が、俺の届く範囲にある。
気配が分かる。
繋がりが途切れていない。
それだけで、妙に安定する。
喰いたいわけじゃない。
取り込みたいわけでもない。
ただ、離れると落ち着かない。
影の届かない場所へ行かれると、妙に不安になる。
【強欲】の方は変わっていない。
奪って、広がった分を、エネルギーで満たしたい。
その欲は元からあった。
魂を喰うことで代用できていただけで、別に蜘蛛子の魂である必要はない。
けれど、【魂欲】は違う。
生へ戻るために魂を喰いたい。
そういう欲ではなくなった。
けど、魂に関する欲が消えたわけでもない。
魂の近くにいたい。
繋がっていたい。
離れると落ち着かない。
そういう方向へ、形を変えた。
蜘蛛子を喰いたい欲は、ほとんど消えた。
それは間違いない。
でも、欲しがり方が変わっただけでもある。
『影蛇?』
蜘蛛子の声で、意識が戻る。
『何か変』
『……進化直後だからな』
『そういう変じゃなくて』
蜘蛛子が近づいてくる。
近くにいると落ち着く。
そう感じた瞬間、無意識に影が蜘蛛子の方へ伸びかけた。
俺は、それを止める。
『今、影動いた?』
『……気のせいだろ』
『ふーん』
蜘蛛子は少しだけ俺を見る。
警戒、というほど強いものではない。
ただ、変化を確かめているような目だった。
『前みたいに、魂喰いたくなる感じは?』
『かなり薄い。ほとんどない』
『じゃあ、よくなったんじゃない?』
『……そう簡単に言っていいのか?』
『だって、喰われそうじゃないなら前よりマシでしょ』
蜘蛛子が軽く足を動かす。
『で、今のは?』
『……近くにいると落ち着く。離れると少し落ち着かない。そういう感じだ』
『うわ、面倒くさい』
『否定できないな』
『でもまあ、相棒が近くにいると落ち着くってことなら、別に変でもないんじゃない?』
蜘蛛子は、わりとあっさりそう言った。
俺の方が、少し言葉に詰まる。
『……そういうものか?』
『知らないけど。少なくとも、私を食べたいよりは全然いい』
『それはそうだな』
『ただし、勝手に奥まで入るのはなし!』
それで終わり、と言わんばかりに、蜘蛛子はそれ以上追及しなかった。
拍子抜けするくらい軽い。
けれど、その軽さに少し救われた。
前より安全になった部分はある。
でも、完全に安全になったわけじゃない。
表層だけ。
戦闘中だけ。
奥へは入らない。
その線を守る。
それだけだ。
『で』
蜘蛛子が、剥がした鱗の山を軽く押しやる。
『影蛇も起きたし、本格的に食べよう』
『しっかり残しておいてくれたんだろうな?』
『ちゃんと残してるって。ちょっとしか食べてないし』
『ちょっと、の基準が不安だな』
『進化後の空腹基準ではちょっと』
『余計に不安だ』
俺も腹は減っている。
進化で削れた【過食】のストックも戻しておきたい。
安全確保に使った食べ物の壁。
蜘蛛子が鱗を剥がしてくれたおかげで、ようやく本来の用途に戻せる。
◇
鰻は、普通に美味かった。
中層に入ってから、ナマズに続く当たり食材である。
熱くて硬くて強かった。
けど、美味い。
『うまっ』
蜘蛛子が分かりやすくテンションを上げる。
『やっぱり、うまっ』
『先に食べてただろ』
『美味いものは何度でも美味い』
『まあ、それはそうだが』
『ナマズも美味しかったけど、これもあり』
『苦労した甲斐はあったな』
『強い敵は美味しい。つまり強敵は食材』
『その理屈で突っ込むなよ』
『分かってるって』
本当に分かっているのか怪しい。
けど、食べることで【過食】のストックが戻っていく感覚はある。
進化で削られた分は、だいぶ埋まった。
蜘蛛子も同じだろう。
夢中で鰻を食べている。
俺も肉を飲み込む。
美味い。
ちゃんと美味い。
問題は、【魂欲】の方だ。
喰いたい欲はほとんど消えた。
けれど、近くにいると落ち着く。
離れると落ち着かない。
厄介だ。
けど、前よりは制御しやすい。
そう思うことにする。
『影蛇』
『何だ?』
『進化して、何できるようになったの?』
蜘蛛子が鰻を食べながら聞いてくる。
『まだ確認中だが、影の流れが前より見やすく、操作しやすくなった』
『影の流れ?』
『たぶん、表層接続は前より安定する』
『おお!』
蜘蛛子が一瞬だけ感心したような声を出す。
それから、すぐに釘を刺した。
『ただし、勝手に試すのは禁止』
『分かってる。戦闘中だけ。表層だけ。奥は禁止』
『よし』
『それで、蜘蛛子の方は?』
『私は、なんか軽い。あと攻撃しやすそう』
『鎌みたいになってるからな』
蜘蛛子が前足を軽く動かす。
その動きは、進化前より明らかに鋭い。
『それと【忍耐】か』
『そう。【傲慢】と同じ感じなら、たぶん役に立つはず』
『使い方には気をつけろよ』
『分かってるって』
まあ、蜘蛛子ならどうにかするだろう。
今の蜘蛛子にとって、耐える力が増えるのは悪いことじゃない。
蜘蛛子は糸と毒と回避。
俺は影と魔法。
中層での戦い方も、進化前よりずっと安定するはずだ。
もちろん、中層が楽になるわけではない。
マグマは熱い。
敵は火属性。
足場は悪い。
でも、進化した。
強くなった。
それだけは確かだ。
鰻シェルターだったものは、もうほとんど残っていない。
食べられない部分以外は、二匹でしっかり食べ尽くした。
進化で減った【過食】のストックも、ある程度は戻せた。
ここまで食べれば、すぐに倒れることはないだろう。
安全地帯としては、もう使えない。
けれど、食料としての役目は十分に果たした。
なら、ここに居続ける理由はない。
『行くか』
『中層攻略再開?』
『ああ』
『やだなー』
『同感だ』
『でもナマズは探す』
『目的を間違えるな』
『美味しいものは大事』
『否定はしないが、死なない範囲でな』
『分かってるって』
蜘蛛子が軽く跳ねる。
俺も影へ意識を向ける。
進化前より、影の境目が見える。
マグマの光で揺れる影も、どこまでなら通れるかが前より分かる。
まだ扱いきれない。
でも、使える。
俺たちは進化した。
蜘蛛子はゾア・エレに。
俺はリーメン・ヴェインに。
そして、俺の中の欲も変わった。
消えたわけじゃない。
解決したわけでもない。
ただ、形を変えた。
それだけなら、まだいい。
問題は、蜘蛛子の方だ。
ゾア・エレ。
【忍耐】。
そして、【外道無効】。
もう、ここまで来た。
原作通りなら、この先の蜘蛛子は一気に変わる。
俺の知っている流れなら、ここから蜘蛛子は【探知】も扱えるようになっていく。
少し先では【並列意思】が動き出し、連携を取る。
さらに【鑑定】と【探知】が極まれば、Dが【叡智】を渡す。
そうなれば、蜘蛛子は魔法の扱いでも一気に先へ行く。
今は俺の方が魔法を使えている。
けど、それも長くは続かない。
蜘蛛子が強くなるのはいい。
生き残れる可能性が上がるなら、喜ぶべきことだ。
でも、それは同時に、蜘蛛子が俺の知らない速度で遠くへ行くということでもある。
俺の影が届かない場所へ。
俺の魔法では追いつけない場所へ。
俺の理解より先へ。
……落ち着かないな。
喰いたいわけじゃない。
縛りたいわけでもない。
けれど、見失いたくない。
リーメン・ヴェインになって変わった【魂欲】が、静かにそう告げている。
近くにいたい。
繋がっていたい。
置いていかれたくない。
そんな感覚。
『影蛇』
『何だ?』
『置いてくよ』
蜘蛛子が先に走り出す。
軽い声。
いつもの調子。
けど、その一言に、少しだけ胸の奥がざわついた。
『すぐ追いつく』
『ならよし』
蜘蛛子は振り返らない。
俺はその少し後ろを進む。
近すぎず。
遠すぎず。
影の届く距離で。
けれど、その距離がいつまで届くのか。
それだけが、少し不安だった。
中層の赤い光の中、俺たちは再び歩き出した。
TIPS:スモールグレイヴウンブラペント進化先候補詳細
・『グレイヴウンブラペント』
進化条件:スモールグレイヴウンブラペントLV10
ウンブラペント種の希少種の成体。
幼体から成体へ移行する標準的な進化先。
小型ではなくなる分、身体能力と生存性が上昇する。
影や魂への適性は残るが、特殊な魂干渉に特化するというより、安定した戦闘能力を得る方向の進化。
モルス・グレイヴに至れるほど【影憑】や【外道魔法】を伸ばせなかった個体が、この進化先に進むことが多い。
・『モルス・グレイヴ』
進化条件:スモールグレイヴウンブラペントLV10、【影憑LV5】、【外道魔法LV5】
グレイヴウンブラペント系の小型特化進化。
スモールグレイヴウンブラペントの性質をそのまま深める進化先。
小型のまま機動力と隠密性を保ち、影と外道魔法による魂干渉に優れる。
ただし、【影憑】と【外道魔法】を条件に含むため、魂への干渉衝動が強まりやすい。
【魂欲】に振り回されている個体が進化した場合、自我や判断力をさらに削られる可能性が高い。
・『リーメン・ヴェイン』
進化条件:一定以上のステータスを持つ小型蛇型モンスター、治療系スキル、【影魔法】
生と死の境界に棲むとも言われる、小型の蛇型の魔物。
命を断つ力と繋ぐ力を併せ持ち、影を通して生命の流れに干渉する。
スモールグレイヴウンブラペント専用ではなく、条件を満たした小型蛇型魔物が到達しうる特殊進化。
通常は、【毒合成】から得られる【薬合成】と、称号【暗殺者】などで得られる【影魔法】が条件達成の鍵になる。
この進化に至る個体は【魂欲】を持たない場合が多く、【魂欲】が変質したのは異例な事態。
進化時、【境脈視LV1】、【影流操作LV1】を獲得する。