蜘蛛子は進化したばかりの体で、岩場を駆けている。
ゾア・エレ。
小さな体はそのままなのに、さっきまでとは明らかに違う。
鎌のようになった前足。
低く構えた時の圧。
魔物として一段危険になったのが分かる。
俺も、リーメン・ヴェインに進化した。
体の大きさはそこまで変わっていない。
けれど、内側の感覚が違う。
鰻シェルターの内側で、すでに少しだけ体感していた。
影、魔力、肉体、空気の熱。
それぞれの境目に、細い筋のようなものが見えた。
あれが何だったのか。
改めて【鑑定】で確認する。
進化で得たスキル。
【境脈視LV1】と【影流操作LV1】。
《境脈視:存在の境界と、その境界を流れる力の脈を視るスキル。あらゆる境目を感知しやすくなる》
鑑定で分かるのは、このくらい。
けれど、【自己理解】で感覚をなぞれば、鰻シェルターの内側で見えたものと繋がる。
岩とマグマ。
熱と空気。
影と光。
魔力の流れ。
それらの境目が、前より分かりやすい。
そして多分、魂に近い境目も。
ただ、そこへ意識を向けすぎるのは危ない。
見えるからといって、見ていいわけじゃない。
《影流操作:影を媒介とする干渉の精度に補正がかかる。影の流れを感知し、操作することで、影の濃淡、形状、流動性をある程度変化させることが可能になる》
こっちも、説明は簡素だ。
ただ、影が前より扱いやすいのは分かる。
影へ魔力を通す感覚が滑らかになった。
表層接続や影への移動は、今までより安定しそうだった。
それと同時に、自分の欲の形も少し分かる。
前にあった、影へ沈みたい欲。
影と同化して、自分の境目を曖昧にしたい感覚。
それは消えていた。
いや、正確には単独では消えた、というべきか。
その欲は【魂欲】と混ざっていた。
そして【魂欲】の方も、喰いたい欲ではなくなっている。
蜘蛛子に言った通りだ。
喰いたいより、繋がっていたい。
影を介して近くにいたい。
戦闘中、表層で繋がっていると落ち着く。
【魂欲】は、影を介して繋がっていたい欲に変わっていた。
それが安全かどうかは、まだ分からない。
『どう?』
『【境脈視】は境目を見るスキル。【影流操作】は影を扱いやすくするスキルだな』
『便利そうじゃん』
『そうだな』
蜘蛛子はそれで納得したらしい。
次は蜘蛛子の番だ。
蜘蛛子の進化後確認で、一番大きいのはたぶん【探知】だ。
前は、使った瞬間に頭痛でまともに扱えなかった。
情報量も多すぎたし、外道属性っぽい負荷もあった。
けれど、今は違う。
蜘蛛子も【外道無効】を取っている。
なら、少なくとも頭痛の方はどうにかなるはずだ。
◇
『じゃ、私も試す』
『【探知】だな?』
『そうそう。今ならいけるでしょ』
『頭痛の方は、多分大丈夫だ』
『お、言い切るね』
『俺は最初から【外道無効】持ちだったから、【探知】で頭痛を起こしたことがない。あれが外道属性寄りの負荷なら、蜘蛛子も今なら平気なはずだ』
『やっぱり?』
『ああ。蜘蛛子も【外道無効】を取ったなら、前みたいな頭痛は出ない可能性が高い』
『よし。勝ったな』
『勝ってはいない。頭痛が消えても、情報量は別問題だ』
『そこは気合い』
『まあ、気合いと慣れだな』
『じゃ、常時オンで慣らす!』
『それが一番早いと思う。ただ、最初から全部拾おうとするなよ』
『はいはい。敵、地形、熱、魔力。必要なやつから拾う感じね』
『そうだ』
『よし、探知常時オン!』
蜘蛛子が【探知】を発動する。
すると蜘蛛子が、ぴたりと固まった。
『……おお』
『大丈夫か?』
『痛くない! 痛くはないけど、情報が多い!』
『やっぱりそこは残るか』
『でも、いける。痛くないならいける。うわ、これ慣れたらめちゃくちゃ強いわ』
『だろうな』
『よし。このまま行く』
『無理はするなよ』
『善処します』
蜘蛛子は【探知】を切らなかった。
最初は何度か足を止めた。
けれど、すぐに歩き出す。
入ってくる情報を全部処理するのではなく、必要なものだけを拾う。
それ以外は、頭の奥へ流す。
俺がやっていたのと同じやり方だ。
蜘蛛子は文句を言いながらも、少しずつそれに慣れていった。
そこからは、進みながら確認した。
蜘蛛子は【探知】を常時発動したまま、敵と地形を拾う。
俺も【探知】を回しつつ、【境脈視】と【影流操作】を試す。
岩場の脆い場所を見て、影の流れを整える。
蜘蛛子が前に出て、俺が後ろから支える。
進化前より、動きはかなり安定していた。
『右、火球』
『見えた』
『下に一匹。ナマズじゃない』
『残念そうだな』
『美味しくなさそう』
『戦闘前に味の評価をするな』
軽口を叩きながら、俺たちは中層を進んでいく。
◇
何度か戦闘をこなした後。
蜘蛛子が、ぴたりと動きを止めた。
『蜘蛛子?』
『増えた』
『増えた』
同じ声が、二つ重なって返ってきた。
『……何が?』
『私が増えた!』
『私が増えた!』
『二重に喋るな。頭の中が蜘蛛子で埋まる』
『えー!?』
『えー!?』
『その反応も二重にするな!』
『だって急に私が増えたんだよ!?』
『いや、私も私なんだけど!?』
『分かった。多分【並列意思】だ。それは分かったから、一回落ち着け』
『落ち着けるかー!?』
『こっちは今、私が二人いるんですけど!?』
『だから二匹同時に叫ぶな!』
うるさい。
【遠話】で頭の中に直接響いてくるから、逃げ場がない。
『いいか。片方ずつ喋れ』
『片方ずつって言われても』
『どっちも私だし』
『それを俺に聞くな。自分たちで決めろ』
『なるほど』
『脳内会議』
『今すぐやれ』
『はい』
『はいはい』
そこで、二つの声が途切れた。
……静かだ。
普通に戻っただけなのに、ものすごく平和に感じる。
◇
――蜘蛛子内部。
『というわけで、第一回私会議を始めます』
『わー』
『議題。影蛇と話す時、どっちが喋るか』
『はいはい、私がいいと思います』
『私も私がいいと思います』
『どっちも私じゃん』
『それな』
『このままだとまた怒られる』
『影蛇、頭抱えてたね』
『蛇なのにね』
『手、無いのにね』
『話が逸れてる』
『戻そう』
『体を動かすのは、どっちか一方の方がよさそう』
『じゃあ片方が体担当』
『もう片方が情報担当』
『おお、分かりやすい』
『体担当は回避とか攻撃』
『情報担当は【探知】とか【鑑定】とか、状況整理』
『あと、影蛇と喋る方?』
『そうだね。普段の会話は情報担当』
『戦闘中にとっさに動くのは体担当』
『完璧では?』
『私って超便利』
『ただし、びっくりした時は?』
『たぶん同時に出る』
『まあ、そこは仕方ない』
『仕方ないね』
『努力目標ということで』
『善処します』
『では、第一回私会議終了!』
『おつかれ私!』
『おつかれー!』
◇
『影蛇』
少しして、蜘蛛子の声が戻ってきた。
今度は一つだけだ。
『決まったのか?』
『決まった。基本的に、あんたと喋るのは情報担当の私』
『情報担当』
『【探知】とか【鑑定】とか、情報整理する方』
『もう片方は?』
『体担当。戦闘中に動く方』
『分かりやすいな』
『でしょ? 私、賢いので』
『二匹に増えて最初にやったことが二重発声だったけどな』
『それは事故』
『事故か』
『事故です』
蜘蛛子はきっぱり言い切った。
『ただ、びっくりした時とかは同時に喋るかも』
『直せないのか?』
『努力はする』
『つまり直らない可能性が高いと』
『善処します』
『便利な言葉だな』
『便利な私は便利な言葉も使いこなす』
蜘蛛子が二つになっても、蜘蛛子は蜘蛛子らしい。
それは少し安心する。
けれど、便利なのは間違いない。
体担当が動く。
情報担当が探す。
俺が外から支える。
これが噛み合えば、蜘蛛子はもっと強くなる。
『でさ、影蛇』
『何だ?』
『あんたは?』
『俺?』
『【並列意思】。あんた、【並列思考】高かったよね? 進化しないの?』
聞かれるとは思っていた。
『進化しそうになったことはある』
『あるんだ』
『けど、折りたたんだ』
『折りたたんだ?』
『独立した意思になる前に、ただの並列思考として処理した。俺の場合、増やすと危ない』
『危ないって?』
『俺には【魂欲】がある。【強欲】もある。【影憑】もある。もう一人の俺が独立して、そいつが蜘蛛子の魂を欲しがったらどうする?』
『……うわ』
『だろ? 俺自身でも制御に気を使ってるものを、もう一つ増やしたくない』
『なるほどねー』
蜘蛛子の声が少し静かになる。
『便利そうだから、取ればいいってものでもないんだ』
『少なくとも、俺にはな』
『ふーん』
『何だ?』
『いや、ちゃんと考えてんだなって』
『失礼だな』
『褒めてる褒めてる。半分くらい』
『半分か』
『まあ、影蛇が増えて二匹同時に重くなられても困るしね』
『重くない』
『いや、重いでしょ』
『重くない』
『そこは否定するんだ』
否定する。
だって別に重くないだろ?
……たぶん。
◇
【並列意思】を得た蜘蛛子の動きは、明らかに変わった。
それだけじゃない。
途中でレベルが上がり、蜘蛛子は念願の邪眼も手に入れていた。
選んだのは【呪いの邪眼】。
視界に入れた相手の力をじわじわ削る、かなり嫌な攻撃手段だ。
【探知】で敵を拾い、情報担当が位置を整理し、体担当が動く。
そこへ邪眼まで加わる。
俺の補助がなくても、蜘蛛子だけで索敵、判断、妨害、攻撃まで回せるようになってきている。
『蜘蛛子、右から火球』
『了解っと』
蜘蛛子の体が跳ぶ。
判断と動きの間に、ほとんど遅れがない。
『影蛇、左の岩場崩せる?』
『やる』
【境脈視】で岩場の脆い部分を見て、【影流操作】で影の流れを整える。
そこへ魔法を当てると、前より安定して岩場が崩れた。
敵の体勢が崩れる。
そこへ蜘蛛子が飛び込む。
前より戦闘の流れが速い。
便利だ。
強い。
だからこそ、少しだけ胸の奥がざわつく。
蜘蛛子が自分の中で完結していく。
俺の補助がなくても。
俺の表層接続がなくても。
自分で探し、自分で判断し、自分で動けるようになっていく。
それはいいことだ。
蜘蛛子が生き残るためには必要な力だ。
分かっている。
分かっているが、完全に何も思わないわけではなかった。
◇
さらに少し進んだところで、蜘蛛子がまた足を止めた。
『来た!』
『何が?』
『鑑定様カンスト!』
『おめでとう』
『ついに! 石と壁しか分からなかった鑑定様が、ここまで立派に!』
『苦労したんだな』
『したよ!』
蜘蛛子がしみじみしている。
その直後、少し不満そうに続けた。
『でも、進化とか派生はなしかー。鑑定様なら、もっとすごい何かになってもおかしくないと思ったんだけどなー。叡智を司る感じの?』
その言葉に、俺の体が固まる。
もっとすごい何か。
ここか。
来る。
そう思った瞬間、周囲の空気が変わった。
音ではない。
声でもない。
けれど、何かが割り込んできたような感覚。
『何これ?』
蜘蛛子の声が硬くなる。
蜘蛛子にも、何かが聞こえている。
だが、それは蜘蛛子に向けられたものだ。
俺には、蜘蛛子の通知は聞こえない。
だから、蜘蛛子側で何が流れたのかは分からない。
ただ、その直後。
蜘蛛子の気配が変わった。
『……は?』
『蜘蛛子?』
『何か来た』
『何が?』
『【叡智】』
蜘蛛子の声が固い。
『あと、称号。【叡智の支配者】』
来た。
Dの干渉。
【叡智】。
原作で見た流れ。
けれど、俺がここでDや【叡智】のことを前から知っていると悟られるわけにはいかない。
そう思ったのに。
それとは別に、俺の中で、どうしようもなく浮かんでしまった考えがあった。
蜘蛛子には【叡智】が来た。
なら、俺は?
同じものが欲しいわけじゃない。
【叡智】を求めているわけでもない。
けれど、置いていかれたくなかった。
蜘蛛子がこれから見るものを、俺だけが見えないままでいたくない。
蜘蛛子が届いていく場所に、俺だけが届かないままでいたくない。
それに、見えなければならない。
蜘蛛子がこれから得る力を。
俺自身の中にある、危うい欲を。
Dが見せようとしているものと、隠そうとしているものを。
見えなければ、選べない。
選べなければ、隣に立てない。
そんなものは、要請と呼べるほど形になった願いではなかった。
ただ、そう思ってしまっただけだ。
けれど。
《ザ、……ザー、…ザ、ザー、ザー、……》
《ザー、要請、ザー、…上位管理者権限かく、ザー、……》
《ザー、…理者サリ………ザー、…却下、ザー》
《ザー、ピン!》
別のノイズが、俺の中へ割り込んできた。
蜘蛛子のものではない。
俺自身へ向けられた、別口の接続。
おい、嘘だろ……!
俺の中に、通知が流れ込んできた。
《追加要請を上位管理者Dが受諾しました》
《スキル【慧眼】を構築中です》
《構築が完了しました》
《条件を満たしました。スキル【慧眼】を獲得しました》
《【鑑定LV10】が【慧眼】に統合されました》
《【視覚強化LV5】が【慧眼】に統合されました》
《【暗視LV10】が【慧眼】に統合されました》
《【視覚領域拡張LV1】が【慧眼】に統合されました》
《【境脈視LV1】が【慧眼】に統合されました》
《熟練度が一定に達しました。スキル【禁忌LV6】が【禁忌LV8】になりました》
《条件を満たしました。称号【慧眼の支配者】を獲得しました》
《称号【慧眼の支配者】の効果により、スキル【思考の極み】【万象演算】を獲得しました》
《【集中LV10】が【思考の極み】に統合されました》
《【思考加速LV2】が【思考の極み】に統合されました》
《【並列思考LV10】が【思考の極み】に統合されました》
《【記録LV7】が【思考の極み】に統合されました》
《【高速演算LV3】が【万象演算】に統合されました》
《【予測LV8】が【万象演算】に統合されました》
……は?
追加要請?
今、そう聞こえた。
俺は、何を要請した?
いや、違う。
要請したつもりなんてない。
ただ、思っただけだ。
見えなければならない、と。
置いていかれたくない、と。
それを、Dが拾った。
拾って、受諾した。
その瞬間、視界の奥で何かが開いた。
岩の輪郭。
影の流れ。
魔力の脈。
蜘蛛子という存在の境界。
そして、その奥に重なる何か。
見える。
今まで見えなかった深さまで、見えてしまう。
俺は、何を見せられているんだ?
TIPS:【慧眼】と【慧眼の支配者】
【慧眼】は、黒巳怜士が上位管理者Dの干渉によって獲得した支配者スキルである。
【鑑定LV10】、【視覚強化LV5】、【暗視LV10】、【視覚領域拡張LV1】、【境脈視LV1】が統合されることで構築された。
また、【慧眼】は「見る」という行為そのものに特化したスキルであるため、【望遠】などの視覚補助系スキルも統合対象となる。
ただし、邪眼や魔眼は統合対象ではない。
邪眼や魔眼は、視覚そのものを補助するスキルではなく、視線を媒介にして対象へ効果を発動する攻撃・干渉系スキルであるため、【慧眼】とは別系統として扱われる。
《慧眼:神へと至らんとするn%の力。視界に収めた対象の情報を、上位管理者Dの許可範囲内(最低、閲覧レベル1)で取得可能にし、魂まで見通す。また、Wのシステムを凌駕し、MA領域への干渉権を得る》
【慧眼の支配者】
取得スキル:【思考の極み】【万象演算】
取得条件:【慧眼】の獲得
効果:MP、魔法、抵抗の各能力上昇。全スキル解禁。支配者階級特権を獲得
説明:慧眼を支配せし者に贈られる称号
《思考の極み:思考系スキルの極致。思考速度、並列処理能力、記憶整理能力、状況判断能力に大幅な補正がかかる》
《万象演算:取得した情報を演算するための解析スキルの極致。観測情報から最も可能性の高い結果を導き出す》