視界の奥で、何かが開いた。
岩の輪郭。
影の流れ。
魔力の脈。
蜘蛛子という存在の輪郭。
そして、その奥に重なる何か。
今まで見えていたものが、平面だったとすれば。
今は、その奥行きまで見えている。
情報量が多い。
【探知】のように、周囲の情報が一気に押し寄せる感覚とは違う。
視界に入ったものの深さが増えている。
岩はただの岩じゃない。
熱を含んだ層があり、魔力の通りやすい筋があり、崩れやすい境目がある。
影はただの暗がりじゃない。
濃淡があり、流れがあり、魔力を通せる道がある。
蜘蛛子は、ただそこにいる魔物じゃない。
外殻。
魔力。
スキルの気配。
そして、その奥にある魂の輪郭。
そこまで見えかけて、慌てて意識を逸らす。
瞬間、頭の奥で情報が整理された。
見ているもの。
見ない方がいいもの。
今必要なもの。
後回しにするべきもの。
それらが、勝手に整列していく。
これが【思考の極み】か。
なら、今見えたものを読み解く方は【万象演算】だろう。
俺は、まず自分の中に増えたものを確認した。
《慧眼:神へと至らんとするn%の力。視界に収めた対象の情報を、上位管理者Dの許可範囲内(最低、閲覧レベル1)で取得可能にし、魂まで見通す。また、Wのシステムを凌駕し、MA領域への干渉権を得る》
最初に目に入った一文で、背筋が冷えた。
上位管理者Dの許可範囲内。
つまり、俺が自由に見ているわけではない。
Dが許した範囲を、俺に見せている。
最低でも閲覧レベル1は見える。
それ以上はDの許可次第。
ただの強化じゃない。
これは、Dが俺に見せたいものを見せるための窓でもある。
試しに、軽く自分の表示も確認してみる。
リーメン・ヴェイン。
名前なし。
そして、黒巳怜士。
……やっぱり出るか。
原作でも、【叡智】なら転生者の前世名まで見えていた。
なら、同じ閲覧レベル1の情報を取得できる【慧眼】で見えてもおかしくない。
通常の【鑑定LV10】では届かなかった情報。
それが、今は見えている。
【慧眼】がどこまで見えるのか。
それは、後で改めて確認する必要があるだろう。
続けて、称号も確認する。
《慧眼の支配者:取得スキル【思考の極み】【万象演算】:取得条件【慧眼】の獲得:効果:MP、魔法、抵抗の各能力上昇。全スキル解禁。支配者階級特権を獲得:説明:慧眼を支配せし者に贈られる称号》
全スキル解禁。
……さらっと書いてあるけど、かなり大きい。
条件を満たさなければ候補に出ないスキル。
種族が違えば、本来なら取得できないスキル。
そういうものまで、取得候補として見えるようになる。
それだけじゃない。
候補として見えるなら、【強欲】で奪う対象としても認識できる可能性がある。
例えば、今まで【強欲】では奪えなかった【火竜】のような種族限定スキル。
今までは、殺した相手の魂にそれが残っていても、俺には奪うものとして捉えきれなかった。
けれど、【慧眼】で見えて、全スキル解禁で取得可能な枠に入るなら話は変わる。
スキルポイントで取ることもできる。
殺した相手から、【強欲】で奪うこともできる。
もちろん、制限は残る。
スキルポイントで取るならポイントが必要。
【強欲】で奪うなら相手を殺す必要がある。
奪ったスキルは基本LV1から。
取ったところで、使いこなせるかは別問題。
種族限定スキルなら、俺の体に合わないかもしれない。
けれど、意味はある。
神になった後。
システムの補助を失った時。
スキルや魔法の仕組みを、魔術として自分で組み立てなければならなくなった時。
そうなった時のために、俺は【自己理解】を足場に、スキルの仕組みを学ぶつもりだった。
そこに、種族限定スキルの構造まで加わる。
これは、戦うためだけの解禁じゃない。
学ぶための解禁でもある。
次に、取得した二つのスキルを確認する。
《思考の極み:思考系スキルの極致。思考速度、並列処理能力、記憶整理能力、状況判断能力に大幅な補正がかかる》
《万象演算:取得した情報を演算するための解析スキルの極致。観測情報から最も可能性の高い結果を導き出す》
鑑定で分かる説明は、それだけだった。
けれど、実際の感覚はもう少し広い。
【慧眼】で見る。
【思考の極み】で、見えた情報を受け止め、記憶し、整理する。
【万象演算】で、その情報をどう繋げれば形になるのかを組み立てる。
未来予知じゃない。
答えが勝手に降ってくるわけでもない。
観測した情報から、最も可能性の高い流れを導き出す。
敵が次にどう動くか。
どこを崩せば魔力の流れが乱れるか。
どのスキルを奪えば、今の俺に一番意味があるか。
そして多分、それだけじゃない。
魔法の流れ。
スキルの構造。
魂に根付いた力の形。
それらを見て、整理して、使える形に組み直す。
いつかシステムの補助を失った時、魔法を魔術として扱うための足場にもなる。
そう直感できた。
もちろん、今すぐ何でもできるわけじゃない。
知らないものは組めない。
見間違えれば、演算結果も間違う。
Dみたいな存在が相手なら、そもそも見せられている情報自体を疑わなきゃいけない。
それでも、これは大きい。
今まで感覚任せだった部分が、形になる。
【強欲】もそうだ。
殺した相手の魂に残る力の流れが見える。
スキルなのか。
能力値なのか。
MPなのか。
見えてさえいれば、選べる。
何を奪うか。
それを、ほぼ完全に自分で選べる。
偶然奪うんじゃない。
欲しいものを見て、選んで、奪う。
【慧眼】は、【強欲】の使い方まで変える。
『影蛇?』
蜘蛛子の声で、意識が戻る。
『大丈夫? 急に黙ったけど』
『……大丈夫だ』
『いや、大丈夫な声じゃないんだけど』
『俺にも来た』
『何が?』
『【慧眼】と、【慧眼の支配者】』
『慧眼?』
『見る力だな。【鑑定】と、視覚系のスキルが統合された』
『へー。私の【叡智】みたいなやつ?』
『似てる部分はあると思う。ただ、違う部分もあるだろう』
『そっちはどんな感じなの?』
『俺のは、視界に入れたものを深く見る方に寄ってる』
『あー。私のはなんか、知りたいことを探せる感じなんだよね。情報量も多いし、意味分かんない単語も多いけど』
『なら、やっぱり違うな』
『ふーん。じゃあ、ちょっと見てもいい? 【叡智】で確認できるかも』
『いいぞ。俺も【慧眼】で蜘蛛子の方を確認していいか?』
『いいよ』
そういえば、こうして真正面からお互いを鑑定するのは久しぶりかもしれない。
これまでも、必要な時に種族やスキルを確認することはあった。
けれど、今みたいに細かい情報までまとめて見ることはなかった。
蜘蛛子が俺を見る。
俺も、蜘蛛子を見る。
その瞬間、また情報が流れ込んでくる。
ステータス。
スキル。
称号。
耐性。
熟練度。
未取得スキル。
進化先。
鑑定の延長で見える情報は、俺の【慧眼】でも確認できるらしい。
ただ、見え方は違うはずだ。
蜘蛛子の【叡智】は、広く拾い、探し、整理する。
俺の【慧眼】は、視界に収めた対象を深く見る。
同じ情報に触れていても、感覚は別物だと思う。
『見えた』
先に言ったのは蜘蛛子だった。
『うわ、スキル多っ』
『そっちも多いだろ』
『いや、私も多いけど、あんたも大概だよこれ。魔法多すぎない?』
『使い勝手がいいものから伸ばしてたからな』
『あとステータス。やっぱり魔法能力高いね。分かってたけど、数字で見るとすごい』
『進化先も戦い方も、ずっとそっち寄りだからな』
蜘蛛子はそこで一度黙った。
多分、見えている情報を順番に確認している。
『……詳細も見えるし、熟練度も見えるし、進化先まで見えるんだけど』
『こっちでも見えるな』
『便利すぎない?』
『便利だな』
『これ、眺めてたら一日潰れるやつだよ』
『やめろ。ここは中層だ』
『分かってますー。今は後回し。使えるものから使う』
蜘蛛子らしい判断だ。
その一方で、俺も蜘蛛子の情報を確認する。
《ゾア・エレ LV3 名前 なし》
やっぱり、名前はない。
俺には、黒巳怜士という前の名前が見えた。
前世の名前は、閲覧レベル1で届く情報だった。
なら、普通の転生者なら、そこに前世の名前が出るはずだ。
けれど、出ているのは名前なし。
それだけ。
……ここは、原作通りだ。
この時点の蜘蛛子は、自分を若葉姫色だと思っている。
けれど、実際には違う。
若葉姫色の記憶を持った、教室にいた蜘蛛。
それが、俺の知っている蜘蛛子の正体だ。
もちろん、それを今言うわけにはいかない。
言えば、蜘蛛子の根幹を壊す。
それに、Dが絡んでいる以上、下手に踏み込めば何が起こるか分からない。
だから、俺は見なかったことにする。
少なくとも、今は。
そして、蜘蛛子のステータスは明らかに跳ね上がっていた。
特にMP、魔法能力、抵抗能力。
【叡智の支配者】。
【魔導の極み】。
【星魔】。
これらの影響だろう。
これなら、魔法もすぐ使えるようになるはずだ。
少なくとも、普通の魔法なら使えない方がおかしい。
『蜘蛛子は魔法方面が一気に伸びてるな』
『ついに私も魔法使いデビュー?』
『多分、すぐ使える』
『お、言い切るね』
『スキル構成的に、使えない方がおかしい』
『つまり、マジカル蜘蛛子』
『名前はともかく、魔法は使えると思う』
『よし。あとで試す』
『今はやめろよ』
『分かってるって』
軽口を返しながら、俺はさらに確認する。
【並列意思】。
【叡智】。
【呪いの邪眼】。
【外道無効】。
【忍耐】。
【傲慢】。
見れば見るほど、便利で、危ういスキルが揃っている。
蜘蛛子が強くなっていく。
自分で探せる。
自分で判断できる。
自分で戦える。
いいことだ。
分かっている。
けれど、胸の奥が少しだけざわつく。
置いていかれたくない。
その感情が、まだ消えていない。
『影蛇?』
『……何でもない』
『本当に?』
『ああ』
『怪しい』
『今は、まだ整理できてないだけだ』
『……そっか』
『何だ?』
『いや。無理に聞かないけど、変な感じはしたから』
『……分かるのか?』
『相棒なので!』
蜘蛛子が軽く言う。
その調子に、少しだけ救われる。
『それでさ』
『何だ?』
『あんたの【慧眼】なんだけど――』
来たか。
上位管理者Dなんて文言が直接入ってるんだ。
気にならないはずがないだろう。
と思っていたが……。
『閲覧レベル1とか、MA領域への干渉権とか、その辺は私の【叡智】にも近い感じかな。でも魂まで見通すってなんかすごそう』
俺は、内心で息を止めた。
蜘蛛子は「上位管理者Dの許可範囲内」という部分には反応しなかった。
俺に見えている説明には、はっきりと書かれていた。
Dの許可範囲内。
最低、閲覧レベル1。
けれど、蜘蛛子はそこに触れない。
見えていないのか。
それとも、見せられていないのか。
閲覧レベルというものの細かい仕組みは分からない。
原作知識でも、そこまで詳しい説明はなかったはずだ。
だから、これは推測でしかない。
蜘蛛子に見えていない情報は、閲覧レベル1では届かない場所にある。
あるいは、Dが見せないようにしている。
そのどちらか。
少なくとも、蜘蛛子の【叡智】が弱いから見えない、という話ではないと思う。
そこで俺は、自分の称号を思い出す。
【異例な魂】。
【神希望】。
どう考えても普通じゃない。
Dの介入や、俺の魂の異常性に直結する称号。
蜘蛛子が、それに反応しない。
【強欲】には気づいている。
【慈悲】にも気づいているはずだ。
【強欲の支配者】や【慈悲の支配者】も、見えている可能性が高い。
けれど、【異例な魂】や【神希望】には触れない。
つまり、それらは見えていない可能性が高い。
俺の核心に近い情報は、閲覧レベル1では届かない場所にあるのか。
それとも、Dが意図的に伏せているのか。
どちらにしても、蜘蛛子に見える情報と、俺に見えている情報は同じじゃない。
そう思っただけで、背筋が冷えた。
『影蛇?』
『……悪い。少し考え込んだ』
『大丈夫?』
『ああ。今は問題ない』
『今は?』
『ただの言葉の綾だ』
『怪しいけど、まあいいや。今すぐ困るやつじゃないんでしょ?』
『ああ』
『じゃあ後回し』
『助かる』
蜘蛛子はあっさり流した。
今はそれでいい。
下手に触れれば、蜘蛛子は間違いなく食いつく。
そして、Dの隠した部分へ近づく。
それは、多分よくない。
少なくとも、今はまだ。
『……あとさ』
『何だ?』
『まず、何その名前?』
『名前?』
『なんで名前がダブってんの? 名前なしと一緒に、黒巳怜士って見えるんだけど』
黒巳怜士。
この世界に来てから、誰にも呼ばれていない名前。
俺が、俺だった時の名前。
『それ、あんたの前の名前?』
『……ああ』
『ふーん』
蜘蛛子は、それ以上すぐには聞いてこなかった。
ただ、少しだけ声の調子が変わる。
『じゃあ、影蛇じゃなくて、怜士?』
『今は影蛇でいい』
『そっか』
軽い返事。
けれど、茶化す感じではなかった。
『じゃ、必要な時だけそっちで呼ぶ』
『……好きにしろ』
『了解、影蛇』
結局そう呼ぶのか。
少しだけ力が抜けた。
『こっちは?』
『名前なしだった』
『ふーん。じゃあ、私の方でも見てみるか』
蜘蛛子が少しだけ黙る。
『……私から見ても名前なしだ』
『そうか』
『あんたの方は、名前なしと一緒に黒巳怜士って出てるし、じゃあ私も、前の名前とか出るのかなーって思ったんだけど』
『出なかったのか?』
『出なかった。名前なしだけ』
蜘蛛子はそう言ってから、すぐに軽く続けた。
『まあ、今は蜘蛛だしね。名前なしでも変じゃないか』
その軽さに、少しだけ救われる。
けれど、胸の奥は軽くならなかった。
今ここで踏み込まれたら、俺は何も答えられない。
だから俺は、蜘蛛子が流してくれたことに甘える。
この違和感の本当の意味に蜘蛛子自身が辿り着くのは、まだ先でいい。
今はまだ、そこじゃない。
『それにしても、またn%とかWのシステムとかMA領域って出てる』
『【強欲】や【慈悲】、蜘蛛子の場合は【傲慢】や【忍耐】にもあったやつだな』
『そうそれ。相変わらず意味分かんないんだけど』
『今考えても答えは出ないだろうな』
『だよねー。管理者とかDとかも意味分かんないし』
『今どうにかできる相手じゃない』
『じゃあ後回し』
『切り替えが早いな』
『考えても仕方ないことは考えない。私の長所』
『たまに短所だな』
『うるさいよ』
声は一つ。
情報担当だろう。
『で、影蛇』
『何だ?』
『【思考の極み】と【万象演算】、実際使ってみてどんな感じ?』
『【思考の極み】は、見えた情報を整理する感じだな』
『うん』
『【万象演算】は、その情報から一番ありそうな結果を予測する感じだ』
『未来予知?』
『そこまで便利じゃない。観測した情報から予測してるだけだ』
『それでも十分やばくない?』
『否定はしない』
実際、否定できない。
ただ、【叡智】のように答えを探して引き出す力とは違う。
【慧眼】は見える。
そこから読み解くのは俺自身だ。
便利ではある。
けれど、間違える余地もある。
だからこそ、注意しなければならない。
見えるものにも。
見えないものにも。
『じゃあ、そろそろ行くよ』
『ああ』
『早く来ないと置いていくよー』
軽い声。
けれど、その言葉が少しだけ刺さる。
今言っている言葉が、そういう意味じゃないのは分かっている。
けれど俺は、置いていかれたくない。
その感情は、まだある。
だからこそ、その感情がDに拾われた。
見えなければならない。
置いていかれたくない。
その願いを。
蜘蛛子が自分の中で完結していくとしても。
俺にしか見えない境目がある。
なら、まだ隣にいられる。
少なくとも、今は。
『すぐ行く』
俺は影を滑るように進む。
【叡智】を得た蜘蛛。
【慧眼】を得た蛇。
管理者Dが何を考えているのかは分からない。
分からないが、俺たちはもう、ただ流されるだけの存在ではなくなり始めているのは確かだ。
……多分。
◇
『ていうか、さっき見えたんだけど』
『何が?』
『【慈悲】って何? あと【慈悲の支配者】って何?』
『中層に入る前に取った回復系の保険だ』
『いやいやいや!? 名前が重すぎるんだけど!?』
『蜘蛛子だって【忍耐】を取ってるだろ』
『私は言ったじゃん! そっちは言ってない!』
『回復系の保険を取ったとは言った』
『それで説明したつもり!?』
『嘘は言ってない』
『嘘はないけど情報が足りない! ……まあ、今さらか』
『そうだな』
『お互い、変なスキル持ちってことで』
『雑なまとめ方だな』
『じゃあ、変なスキル仲間?』
『それも嫌だな』
『わがままな蛇だなー』
『蜘蛛子にだけは言われたくない』
『何をー!』
TIPS:【叡智】と【慧眼】
【叡智】と【慧眼】は、どちらも上位管理者Dの干渉によって生まれた支配者スキルである。
どちらも【鑑定LV10】を含むため、ステータス、スキル、称号、耐性、熟練度、未取得スキル、進化先など、鑑定の延長で確認できる情報はかなり重なっている。
ただし、方向性は異なる。
【叡智】は、知覚範囲内の情報を広く取得し、探し、整理することに優れる。
【鑑定】と【探知】が統合されたような性質を持ち、知りたい情報へ辿り着く力が強い。
一方、【慧眼】は、視界に収めた対象を深く見ることに特化している。
対象の情報だけでなく、魂、境界、魔力の流れなどを観測する方向に強い。
広く探す【叡智】。
深く見る【慧眼】。
似ているようで、得意分野は大きく異なる。
また、【叡智】には「閲覧レベル1までの情報を取得可能」とあり、【慧眼】には「上位管理者Dの許可範囲内(最低、閲覧レベル1)で取得可能」とある。
ただし、閲覧レベルそのものの詳しい仕組みは不明である。
そのため、同じ対象を見ていても、蜘蛛子に見えている情報と影蛇に見えている情報が完全に同じとは限らない。