火龍が、こちらへ向かって動き出した。
片翼は潰れ、体のあちこちが傷つき、HPは、半分以上削られている。それでも、火竜とは比べものにならない圧があった。
火龍レンド。マザーに敗れた、生き残り。その果てしない怒りが、今、俺たちに向けられていた。
『逃げるぞ、と言いたいが……』
『分かってる。無理そうだよね』
返ってくる蜘蛛子の声はいつも通り軽い。けれど、本当に余裕があるわけじゃないのは伝わってきた。
あれは本来、戦っていい相手じゃない。エルローゲネソーカも強かった。統率で周囲の魔物を動かし、火球で逃げ場を潰し、【逆鱗】で魔法を阻害してきた。それでも、まだ戦闘にはなった。
だが、あいつは火竜ではなく、火龍だ。
字が一つ違うだけ、その一文字の差があまりにも大きい。
俺の知っている流れでも、蜘蛛子を追い詰めた化け物。マザーに半壊させられてなお、蜘蛛子を殺しかけた相手。普通に挑んで勝てるわけない。
『状態異常耐性がある』
『うげ』
『抵抗も高い。お前の毒も邪眼も、かなり通りにくいぞ』
『私と相性悪すぎない!?』
『そうだな』
『そこは否定してほしかったなぁ!』
否定できる材料が一つもないんだから仕方ない。
蜘蛛子の強みは毒、腐蝕、邪眼、そして糸での拘束からのスリップダメージといった、状態異常に寄った戦い方だ。けれど、レンドにはそれがことごとく通りにくい。
その上、全身を包む火炎纏のせいで近づくだけで糸も毒も焼かれ、触れればこちらが削られる。極めつけに龍種の鱗と【逆鱗】が魔法の通りまで悪くしていた。
毒も、邪眼も、魔法もダメ。近接戦なんて論外。相性が悪いどころの話じゃない。
だが、勝ち筋がゼロなわけじゃない。綺麗に勝つのは諦めるとして、えげつない手なら一つある。
そう、原作で蜘蛛子がレンドに勝利するために使った……。
『蜘蛛子』
『何?』
『深淵魔法を使う』
『……は?』
蜘蛛子の声が一瞬低くなった。
『ここで?』
『ここで』
『いやいやいやいや。あれ、試し撃ちすらしてないんだけど!?』
『知ってる』
『知ってるなら言わないでほしい!』
そう言いたくなる気持ちは分かる。
【深淵魔法LV1】、地獄門。気軽に使っていい魔法じゃない。LV1であっても、地形ごと呑み込む規模の大魔法だ。ここは地下迷宮。使い方を間違えれば、火龍を倒す前に俺たちも崩落に巻き込まれて全滅するかもしれない。
だが、それ以外にこの化け物を削り切る手段がないのも事実だった。
『正面から削り切るのは無理だ』
『それは見れば分かるけど!』
『だから、深淵魔法を使う。撃つ瞬間と逃げ道は俺が完璧に見るから』
『……大丈夫じゃないよね? でも、使わなきゃ勝てないやつだよね?』
『最悪の二択だがな。俺に任せろ』
『あーもう、仕方ないか! そこは任せたよ!』
『任された』
事前に撃つ隙を作る余裕なんてない。必要なのは撃つ瞬間を間違えないことと、蜘蛛子が巻き込まれない退避ルートを先に見つけておくことだ。
地獄門は、開けば周囲ごと呑み込む。なら、開く前に逃げ道を作ればいい。腹を括った俺たちの前で、レンドの巨大な口内に恐ろしいほどの火が収束し始めた。
『ブレス来るぞ!』
『いきなり!?』
『右上!』
『りょ!』
蜘蛛子が糸を撃ち、岩壁へ跳ぶ。俺は土魔法で壁から突起を押し出し、取得したばかりの重魔法で崩落を抑えこんだ。一瞬でいい、蜘蛛子が蹴るまで保ってくれ!
蜘蛛子の脚が岩を蹴ると同時に、直後、獄炎が空間を削り取っていった。
炎というより、もはや災害だった。岩が溶け、空気が焼き尽くされ、さっきまでいた足場が赤く抉れた穴になる。
『ないわー!』
『同感だ』
『火竜の時よりヤバいんだけど!?』
『火龍だからな』
『一文字の違いが大きすぎる!』
蜘蛛子が叫びながらも必死に動き、糸を張り、岩壁を蹴って熱風を避ける。俺はその影に潜ったまま、意識を深く沈めた。
共存接続。
影憑越しに蜘蛛子の感覚が流れ込んでくる。地形、足場、マグマの流れ、火龍の位置、ブレスの前兆、そして逃げ道。
【叡智】が拾った盤面を、俺が受け取る。それを【慧眼】で読み、【思考の極み】で受け止め、【万象演算】で最適解へと組み直す。
余計な情報は捨て、必要な攻略ルートだけを蜘蛛子へフィードバックした。蜘蛛子の中へは入らず、並列意思にも混ざらず、ただ外から完璧に戦場をサポートする。
『火龍の動きは俺が見る。情報担当も深淵魔法に回してくれ』
『簡単に言ってくれるじゃん!』
『簡単じゃないのは知ってるだろ?』
『知ってる!』
蜘蛛子の内側で、黒く重い魔力が爆発的に収束し始めた。
魔法担当二号が地獄門の構築に入り、そこへ情報担当も合流する。俺が戦場全体を肩代わりして読む分、蜘蛛子は多くのリソースを深淵魔法へと回せる。そのおかげで、地獄門の構築は早い。
原作より、少しだけ余裕があると思う。
それでも、相手は火龍だ。油断できるほど余裕がある相手じゃない。
火球、尾撃、巨大な爪、強烈な体当たり、そしてブレス。火龍の攻撃はどれも即死級で、避けたはずの余波だけでも岩が砕け、熱が肌を焼く。
けれど、当たらない。
蜘蛛子が【叡智】で拾った地形と、俺が【慧眼】で読んだ火龍の行動の前兆。その二つを影憑越しに重ねることで、逃げ道だけは見えていた。
右。下。上ではなく、横。火が薄い場所。崩れる前の足場。糸を張れる岩壁。
言葉にする必要もない情報を、感覚だけで返す。蜘蛛子はそれに合わせて跳び、俺は足場と影で動きを支える。
攻撃が来てから避けるんじゃない。来る前に、逃げる場所へ移動している。潰される前に、通れる道が見えている。
それでも、火龍は火龍だった。
毒弾は火炎纏に焼かれ、邪眼は状態異常耐性に弾かれ、魔法は逆鱗に削られ、近づけば火で削られる。蜘蛛子の得意な手札がことごとく潰されていたが、だからこその切り札だ。
『ほんと、相性悪すぎ』
『だから深淵魔法だろ?』
『分かってる!』
撃つ瞬間を間違えれば終わる。
迷宮ごと崩れても困るし、避けられても巻き込まれても終わる。待つべきは、火龍の火が大きく乱れる瞬間。レンドの意識が一瞬だけこちらから外れ、地獄門を開いても蜘蛛子が逃げ切れる唯一のタイミングだ。
途中で一度、幻夢を差し込んだが、まともには通らない。火龍の状態異常耐性は高く、精神干渉にも抵抗してくる。
それでも、ブレス直後の隙に一瞬だけ誤認させることはできた。
蜘蛛子が焼かれた幻、逃げ損ねた幻。
その一瞬に、蜘蛛子は巨大な毒塊を火龍の口内へ叩き込む。
毒で殺すためじゃない。火炎纏を乱し、内側の火の流れを荒らし、地獄門を確実に叩き込む一瞬を作るためだ。
火龍が苦悶の声を上げ、炎が大きく乱れる。蜘蛛子はその隙に、腐蝕を乗せた前肢を首元へ叩き込む。
浅い!
火龍の肉を裂くには、命に届くには足りない。けれど、火の流れはさらに乱れた。
レンドが激痛により大きく踏み込む。
潰れた片翼側へ重心が傾く。口内の毒を焼き潰そうと火の魔力が内側へ向いた。
さっきまでこちらを追っていた意識が、一瞬だけ内側へ向いた。
足元、火の流れ、退避ルートの確保、全てヨシ!
全部、見えている。今しかない!
『今だ撃て!』
《深淵魔法LV1 地獄門》
黒が開いた。
マグマの赤も、火龍の炎も、足元の岩盤すらもまとめて闇の底へ呑み込まれていく。
地獄の門。
そう呼ぶしかないものが、この世に開き、火龍レンドを丸ごと呑み込んだ。
蜘蛛子は迷わず跳ぶ。
地獄門が開いてから逃げたんじゃない。逃げ道を完璧に決めてから、地獄門を開いたのだ。
だから間に合う。
闇が封じられるように消えた後、そこにはボロボロになった火龍が残っていた。
鱗は砕け、肉は焼け、片翼はさらに崩れている。もはやHPもMPもSPも風前の灯だ。
——だが、それでも生きていた。
確かに原作でも生き残っていた。
それでも、実際に地獄門を見た後だと、あれに耐えることが信じられない。
俺も蜘蛛子も戦慄していた。お互い満身創痍だが、まだ動ける。原作ほど極限まで追い詰められてはいない。地獄門の消耗で蜘蛛子のMPは底をつきかけているが動きは落ちておらず、俺も補助を続ける余力はある。
それでも、次で決まる。
レンドが動いた。奴が選んだのは火でも魔法でもなく、ただの体当たりだった。
巨体、重量、圧倒的なステータス。満身創痍の状態で取れる一番原始的で、一番確実な物理攻撃。相手が蜘蛛子でなければ、それが正解だった。
『糸』
『分かってる』
蜘蛛子が火耐性を乗せた万能糸を放つ。中層で火龍相手に長く保つはずがなく、火炎纏が剥がれているとはいえ糸はすぐに焦げていく。だが、一瞬でいい。
レンドの巨体が、糸にかかり、ほんのわずかに速度が落ちた。俺はそこへ【重魔法】を重ね、突進の軌道を斜め下へ叩き落とす!
火龍の突進が、わずかに沈む。蜘蛛子はもう動いていた。
片方の前肢は、さっきの攻撃でまともに動かないが、もう片方は残っている。火炎纏が剥がれ、地獄門で抉れて守りが乱れた場所。
そこへ、蜘蛛子の鎌が振り下ろされた。
毒でも邪眼でも魔法でもない。蜘蛛子自身の、渾身の腐蝕の一撃。
火龍の体が、切り裂かれた。
巨体が崩れ、岩場が揺れ、マグマが跳ねる。熱風が吹き抜ける。
そして、今度こそ。
火龍レンドは、動かなかった。
《スキル【強欲】の効果により、対象からスキルポイントを奪取しました》
遅れて、俺の魂の奥へと膨大な力が流れ込む。次に必要になるもののために、奪う先をスキルポイントへ絞った。火龍から奪えた分は破格だ。
これでようやく……本当に終わった。
◇
《経験値が一定に達しました。個体、リーメン・ヴェインがLV14からLV15になりました》
《スキル熟練度レベルアップボーナスを取得しました》
《各種基礎能力値が上昇しました》
《スキルポイントを入手しました》
《条件を満たしました。称号【龍殺し】を獲得しました》
《称号【龍殺し】の効果により、スキル【天命LV1】【龍力LV1】を獲得しました》
《【身命LV1】が【天命LV1】に統合されました》
《【竜力LV2】が【龍力LV1】に統合されました》
脳内に天の声が響く。レベル、スキル、称号……次々と告げられるログが、すぐには頭に入ってこない。
生き残ったんだ。
マザーがレンドを半壊させていなければ無理だった。
片翼が潰れていなければ無理だった。
怒りで視野が狭くなっていなければ無理だった。
地獄門を撃つ瞬間を間違えていれば無理だった。
蜘蛛子の深淵魔法がなければ、絶対に無理だった。
ただ、知っている流れよりは、ずっと整っていた。
蜘蛛子が盤面を預けてくれたから。俺がそこに返せたから。
だから、二匹で生き残れた。
『……生きてる?』
『ああ、なんとかな』
蜘蛛子が、倒れた火龍を見つめる。
『龍って、やばいね』
『ああ、文字通り格が違った』
『竜いけたなら龍もいけるんじゃ、とか思った少し前の私を殴りたいわ』
『やめておけ。怪我が増える』
『本当にそうだわ』
蜘蛛子はそう言って、疲れ切った様子で笑った。生きている実感がこもった笑いだった。
俺も、影の中で肩の力を抜く。
まだ危険は残っている。
マザーは近くにいる。中層の熱も消えていない。火龍が倒れた場所も、近づけば何が起きるか分からない。
それでも、今だけは息を吐いてもいいかも。
——と思った、まさにその瞬間。足元の岩盤が嫌な音を立てて赤く揺れた。
地獄門で抉れた岩盤の隙間から、大量のマグマが激流となって流れ込んできているのだ!
『……休憩終了!』
『早くない!?』
『マグマが来てる!』
『見えてる! すごく見えてる!』
蜘蛛子が慌てて飛び起きる。逃げるのは当然だが、この火龍の死体をマグマに呑ませるわけにはいかない。
『死体、引き上げるぞ!』
『だよね! あれ置いてくのはないよね!』
『急げ! すぐ沈むぞ!』
『分かってるってば!』
蜘蛛子が火耐性を乗せた糸を放つ。火龍の残熱とマグマで次々に焦げ落ちるが、構わず体に絡めて引っ張る。
『重っ!?』
『この巨体じゃそうだろうな!』
俺も影を伸ばして火龍の下へ滑り込ませ、土魔法で崩れかけた岩を押さえ、重魔法で沈み込む勢いを殺した。
『右、引け』
『りょ!』
『次は上。そこで一回止める』
『注文多い!』
『落としたら終わりだぞ!』
『それは困るー!』
蜘蛛子が必死に糸を引く。火龍の巨体がズルズルと岩を削りながら動いた。マグマがすぐ足元を舐め、空気が激しく歪む。糸が切れ、張り直し、また切れる。
俺は土魔法で足場を固め、影で糸を支え、重魔法で重量を殺し続けた。
ようやく、火龍の死体がマグマの流れから離れた。
『よし、さらに上に運ぶぞ!』
『まだやるの!?』
『ここに置いても結局焼けるぞ!』
『ですよねー!』
蜘蛛子が悲鳴を上げながら糸を張り、俺も影を総動員する。
死闘を制した余韻に浸る暇も、ログをゆっくり確認する余裕もない。二匹がかりで必死に死体を引きずり、マグマから完全に離れた安全な岩場へ引き上げたところで、俺たちは今度こそ完全に動きを止めた。
荒い息を吐きながら、蜘蛛子が火龍の肉を見つめる。
『……これ、食べられるよね?』
『たぶんな』
『たぶん!?』
『火龍だからな……』
『そこは美味しいって言ってほしかった!』
文句を言いながらも、蜘蛛子は満足そうだった。
今度こそ。
今度こそ、本当に。
少しだけ、息を吐いてもいい気がした。
◇
1体の龍の消滅が、管理者の感覚に引っかかった。
場所は、エルロー大迷宮の中層。黒い管理者は、静かに考える。
真っ先にとある存在を疑ったが、奴とは不戦の暗黙の了解がある。少なくとも、奴自身が直接手を下すような真似はしないはずだ。ならば、何が龍を殺した。
管理者権限を通し、彼は情報を拾い上げ——そして、沈黙した。
あまりにも異常な数の支配者の気配がある。
【傲慢】、【忍耐】。それだけに留まらず、【強欲】、【慈悲】。
さらに、彼にすら見慣れないスキル——【叡智】と【慧眼】。
ありえない。
支配者スキルは、軽々しく増えていいものではない。ましてや彼の把握していない名を持つものなど、本来ならば存在しない。
こんなことをする存在など、限られている。
D。
その名が思考に浮かぶ。
何を考えている。何を見ている。何を起こすつもりだ。
黒い管理者は、火龍の滅んだ迷宮の奥深くへと視線を注ぐ。
そこにいたのは、一匹の蜘蛛の魔物。そして、その影に深く寄り添うように潜む、一匹の蛇の魔物。
ただの魔物ではない。確かめる必要がありそうだ。
彼は静かにそう判断し、行動を起こした。
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龍が死にましたか。
本来なら、もう少し違う形だったはずですが……。
まあ、結果が同じなら些細な違いでしょうか。
知っているからこそ選べた手。
知らないからこそ踏み込めた一歩。
そして、知っていてもなお間違えるかもしれない選択。
ふふ。
見えているものが多いというのは、便利なようで不便なものです。
見えない方が幸せなこともありますし、見えてしまったからこそ選ばされることもある。
さて。
ではそろそろ、こちらの番でしょうか。