火龍レンドの死体は、岩場の上に転がっていた。
さっきまで俺たちを焼き殺そうとしていた龍。
マザーに半壊させられ、それでもなお火竜とは比べものにならない圧を放っていた化け物。
深淵魔法を受けても生き残り、最後の最後までこちらを殺そうとしてきた相手。
それが、今は動かない。
巨大な体からは、まだ熱が立ち上っている。
火炎纏は消えているはずなのに、近づくだけで肌を焼かれそうな熱気が残っていた。
マグマの熱とは別の、火龍そのものが持っていた熱。
勝った。
生き残った。
火龍レンドを倒した。
そう思っても、実感は遅れてやってくる。
あれは、まともにぶつかって勝てる相手じゃなかった。
毒弾は火炎纏に焼かれた。
邪眼は状態異常耐性に弾かれた。
糸は焼ける。
近づけば火で削られる。
魔法も鱗と逆鱗で通りが悪い。
蜘蛛子の得意な手札が、ことごとく相性負けしていた。
だから深淵魔法を使った。
地獄門で抉り、火炎纏を乱し、最後に蜘蛛子の腐蝕を乗せた一撃を叩き込んだ。
それでも、条件が揃っていたから勝てたにすぎない。
マザーに半壊させられていた。
片翼も潰れていた。
HPも半分以上削れていた。
怒りで視野も狭くなっていた。
その上で、蜘蛛子の深淵魔法があった。
俺が外から盤面を見ていた。
蜘蛛子の【叡智】が広く拾った情報を、俺の【慧眼】で深く読み直し、必要なものだけ返した。
逃げ道を見た。
火の流れを見た。
ブレスの前兆を見た。
足場を作った。
重魔法で一瞬だけ軌道をずらした。
俺は、役に立てた。
それは、たぶん事実だ。
火竜戦でもそうだった。
火龍戦でもそうだった。
蜘蛛子一匹なら、もっと危なかった。
俺一匹なら、そもそも勝負にすらならなかった。
二匹だったから、ここまで来られた。
そう思うと、胸の奥が熱くなる。
蜘蛛子の隣で戦えた。
蜘蛛子の影にいて、蜘蛛子の動きを支えられた。
蜘蛛子が俺の返した情報で動き、俺が蜘蛛子の動きを見て次を読む。
それは、怖いくらい噛み合っていた。
嬉しい。
安心する。
誇らしい。
『おーい、生きてる?』
蜘蛛子の声が聞こえた。
『生きてる』
『返事遅い。魂抜けた?』
『抜けてたら返事できないだろ』
『まあそれもそう』
蜘蛛子は火龍の死体をじっと見ていた。
視線は完全に食料を見るそれである。
『で、これ食べられる?』
第一声がそれなのは、実に蜘蛛子らしい。
『たぶんな』
『たぶん!? 火龍だよ!? 龍だよ!? そこは美味しいって断言してよ!』
『食べたことないものを断言できるか』
『夢がない!』
『火竜肉で夢は一回砕けただろ』
『言わないで!?』
蜘蛛子が前肢をわたわたさせる。
火竜肉は、期待ほどではなかった。
食べられないわけじゃない。
不味いと断言するほどでもない。
ただ、ナマズや鰻と比べると明らかに落ちた。
だからこそ、火龍肉には期待しているのだろう。
まあ、俺も気にならないと言えば嘘になる。
火龍。
竜ではなく、龍。
この世界でも上位に位置する魔物の肉。
味はともかく、間違いなく大物だ。
『でも、火竜よりは期待できるよね?』
『火龍だしな』
『だよね! 火龍だもんね!』
『ただし、中層で調理器具なし。火竜の事もあるし、素直に美味いかは分からない』
『また夢を壊す!』
『期待しすぎると落差が大きいぞ』
『でも期待する! 龍だし!』
蜘蛛子が火龍の鱗へ近づく。
その前に、俺は自分の状態を確認することにした。
戦闘中に、いろいろと天の声は流れていた。
けれど、あれは流れて消える。
後から一覧を開いて見返せるわけじゃない。
だから、自分で見るしかない。
慧眼を自分へ向ける。
ステータスを確認する。
レベルは15に上がっている。
火龍レンドの経験値は、やはり大きかったらしい。
そして、スキルと称号。
ステータスには【天命LV1】と【龍力LV1】が追加され、称号欄には【龍殺し】が追加されていた。
スキルポイントも確認する。
四四二五。
火龍レンドから、【強欲】でスキルポイントを奪った。
数値は三〇〇五。
火龍戦前に【空間魔法】【氷魔法】【重魔法】を取って一気に減った分が、むしろ大きく増えて戻ってきた形になる。
多い。
かなり多い。
これだけあれば、いろいろ取れる。
これから先に備えられる。
足りない手札を補える。
けれど、軽率に使い切る気にはなれなかった。
火龍戦で分かった。
必要なスキルを必要な時に持っていることは大きい。
【重魔法】は取っておいてよかった。
あの一瞬、軌道をずらせたことは無駄じゃなかった。
だが、何でも取ればいいわけじゃない。
次に何が必要になるか。
何を取れば生き残れるか。
何を取れば、蜘蛛子の役に立てるか。
考えることは多い。
『何か増えた?』
蜘蛛子が聞いてくる。
『レベルが上がってる。称号は【龍殺し】。あと【天命】と【龍力】がある。スキルポイントもかなり増えた』
『私も【龍殺し】ゲットした! 相変わらず称号名の圧がすごいね』
龍殺し。
その響きは、達成感と同時に、別の何かを呼び寄せそうな不穏さもあった。
龍を殺すということ。
この世界で龍種を殺すということ。
原作を知っている俺には、その意味がまったく分からないわけじゃない。
そして、知っているからこそ、頭の片隅にあった。
黒が来る。
管理者ギュリエディストディエス。
龍種の死を感知し、蜘蛛子の前に現れる黒い管理者。
原作では、ここで黒が来た。
だから、可能性は考えていた。
むしろ、来ない方がおかしいとすら思っていた。
だが、原作知識として知っていることと、実際に相対することは違う。
それを、この後すぐに思い知らされることになる。
『とりあえず、鱗の割れ目から――』
蜘蛛子が火龍肉へ取りかかろうとした。
その時だった。
空間が、歪んだ。
最初に反応したのは、たぶん蜘蛛子の叡智に含まれる探知、その中の空間感知だった。
『……何これ』
蜘蛛子の声が低くなる。
俺も遅れて、影の奥からその違和感を拾った。
熱でもない。
魔力の流れだけでもない。
そこにあるはずの空間そのものが、薄く捻じれている。
転移。
そう判断するまでに、ほとんど時間はかからなかった。
何かが、ここへ来ようとしている。
しかも、ただの移動じゃない。
空間を繋げるための魔法構築が、こちらの感知に引っかかっている。
細かい。
複雑。
そして、速い。
この規模の空間操作を、迷いなく組み上げている。
それはつまり、魔法を扱うだけの知性と、明確な意思を持つ相手が、こちらに来ようとしているということだ。
偶然ここに飛んでくる、なんて都合のいい話じゃない。
目的は、俺たち。
火龍を殺した俺たちだ。
『蜘蛛子』
『うん。来る』
蜘蛛子の体勢が低くなる。
糸が張られ、逃げ道へ意識が向く。
俺は影の中で身を沈めた。
逃げ道を探す。
足場を見る。
魔力の流れを読む。
けれど、空間の歪みは止められない。
空間が割れる。
そこから、一人の男が姿を現した。
黒。
そうとしか言いようがない存在だった。
黒い鎧のような服。
黒い髪。
浅黒い肌。
そして、異様な赤い目。
見た瞬間、理解した。
勝てない。
火龍とは違う。
マザーとも違う。
強いとか弱いとか、そういう尺度で測る相手じゃない。
次元が違う。
知っていた。
黒が来ることは、知っていた。
管理者がどういう存在なのかも、知識としては知っていた。
原作で見た。
展開として覚えていた。
けれど、実際に目の前へ現れたそれは、文字で知っていたものとはまるで違った。
知っているから大丈夫、なんてことはない。
知っていても、怖いものは怖い。
知っているからこそ、余計に怖い。
反射的に、【慧眼】が動いた。
見てはいけない。
そう思ったのに、つい見てしまった。
《鑑定不能》
返ってきたのは、それだけだった。
名前もない。
ステータスもない。
スキルもない。
称号もない。
何も見えない。
いや、違う。
見えないんじゃない。
見るための情報そのものが、システムの中にない。
【叡智】や【慧眼】は、システムの内側にあるものなら格上でも見通せる。
だが、こいつは違う。
システムの外側にいる。
管理者。
黒。
ギュリエディストディエス。
原作知識の中にある名前が、頭の中で鳴る。
やはり、来た。
『……何あれ』
蜘蛛子が小さく言う。
『敵対はするな』
『それは見れば分かる』
『変に刺激するな』
『刺激する気ないけど、向こうから来たんですけど?』
『それはそう』
蜘蛛子も反射的に見たのだろう。
動きがわずかに固まっている。
『見えた?』
『鑑定不能』
『私も』
『なら、余計にまずい』
『分かってる』
黒は、俺たちを見ていた。
正確には、蜘蛛子と、その影にいる俺を見ていた。
視線が重い。
黒が口を開いた。
「****************?」
言葉が分からない。
異世界語。
原作通りなら、蜘蛛子には通じない。
俺にも、意味は分からなかった。
『何て?』
『分からない』
黒は眉をひそめた。
こちらに言葉が通じていないことを察したのかもしれない。
何とも言えない沈黙が流れる。
逃げるべきか。
いや、逃げても無駄だ。
戦うべきか。
論外。
黙っているべきか。
それしかない。
それにもう少しで状況が動くはずだ。
そんな空気の中で。
ぽとり、と何かが落ちた。
俺と蜘蛛子と黒の間。
岩の上に、不自然なほど軽い音を立てて、それは現れた。
スマホだった。
地球の機械。
この世界にあるはずのないもの。
それが、何の前触れもなく、俺たちの前に落ちていた。
『は?』
蜘蛛子の声が、完全に素になった。
分かる。
俺も同じ気持ちだ。
ただ、俺はそれが何なのかを知っている。
知ってしまっている。
D。
ついに来た。
画面が光る。
通話状態のような表示が浮かぶ。
そして、声が聞こえた。
『もしもし。こちら管理者Dです』
女の声。
綺麗で、平坦で、聞いているだけで背筋が冷える声。
蜘蛛子が固まる。
黒もまた、表情を変えた。
「*******!?」
黒が何かを言う。
驚いている。
いや、怒っているのかもしれない。
『はいDです。蜘蛛さんたちはちょっと待っていてください』
『え、待つの?』
『待てって言われたな』
蜘蛛子が混乱している間にも、スマホから聞こえる声は変わっていた。
日本語とは違う言語。
おそらく、黒が使っていた言語。
Dと黒が話している。
内容は分からない。
だが、黒の表情がわずかに険しくなるのは分かった。
大きく感情を出しているわけではない。
それでも、眉間に皺が寄り、赤い目が細められる。
Dは淡々と、楽しそうに話している。
黒は、それを不快そうに聞いている。
しばらくして、黒が深く息を吐いた。
そして、俺たちを一度見た。
けれど、黒はそれ以上何も言わなかった。
空間が再び歪み、黒の姿が消える。
転移。
あまりにもあっさりと、管理者は去っていった。
残されたのは、俺と蜘蛛子。
火龍の死体。
そして、謎のスマホ。
『お待たせしました』
スマホから、再び日本語の声が聞こえる。
『彼には話をしておきましたので、今後しばらくは、あなたたちに自ら関わることはないでしょう』
『あ、そうですか』
蜘蛛子が呆然としてる。
すると蜘蛛子が何か考えているのか、Dからの返答が聞こえた。
『Dです。はい。あなたは基本的に無口ですから、一時的な措置です。普段は心までは読みません』
そんな話を聞いていた直後。
スマホから聞こえる声が、遠のいた。
いや、音は聞こえている。
蜘蛛子の反応も見えている。
Dが何かを話していることも分かる。
けれど、意味が膜の向こうへ押しやられたように届かなくなった。
代わりに、俺の意識の奥へ、別の声が滑り込んでくる。
『あなたには、これからの説明は不要でしょう?』
音ではない。
スマホから聞こえている声でもない。
蜘蛛子には届いていない。
俺だけに向けられた声。
Dの声。
影の奥が、冷たく固まる。
『ある程度、知っているようですから。ネタバレ済みの観客に同じ解説を聞かせても、少々退屈ですし』
返事はできなかった。
表では、Dが蜘蛛子へ何かを説明している。
蜘蛛子は混乱し、時々怒ったように反応している。
だが、俺にはその内容が膜の向こう側に押しやられたように届かない。
聞かせる気がないのだ。
『初めは見るつもりは無かったのですが、暇つぶしにあなたの記憶にある物語を、少し覗いてしまいまして』
Dは、楽しそうに言った。
『驚きましたよ。私の身代わりとして放り込んだ蜘蛛が、神にまで至るらしいじゃないですか』
体が震えた。
身代わりの蜘蛛。
神にまで至る。
その言葉だけで、十分だった。
Dは、読んだのだ。
俺が知っている物語を。
蜘蛛子がこの先どうなるのかを。
そして、知ってしまった。
自分の身代わりとして転生させた、教室にいただけの蜘蛛が、いずれ神へ至ることを。
『そこに、あなたが混ざった』
Dの声が、俺の奥へ落ちる。
『火竜も、火龍も、あなたはよく役に立ちました。そこは否定しません』
胸の奥が、わずかに揺れる。
否定されなかった。
俺は役に立てた。
火竜戦でも。
火龍戦でも。
蜘蛛子の死角を補った。
足場を作った。
攻撃の前兆を読んだ。
逃げ道を渡した。
蜘蛛子が深淵魔法に集中するための余裕を作った。
それは、間違いじゃない。
『ですが、それはあなたが神へ至ることと同じではありませんよ』
言葉が出なかった。
『彼女が神になる未来を、あなたは知っている。だからこそ、その隣にいることで、自分も前へ進んでいるような気になっていませんか?』
違う。
そう言いたかった。
けれど、言葉が出ない。
『それに、あなたが答えを渡し続けた彼女は、本当に同じ場所まで至れるのでしょうか』
息が止まった。
『死にかけて、壊れて、それでも進む。そういう経験まで、あなたが先回りして取り除いてしまったら?』
Dの声は、淡々としていた。
『彼女も、あなたの補助に慣れる。あなたも、彼女の影に慣れる』
やめろ。
『それは共闘でしょうか。依存でしょうか』
分からない。
分からないから、刺さった。
『どちらも神へ至るかもしれない。なのに、互いに甘えて鈍るのは、少し勿体ない』
Dは笑っている。
心配ではない。
善意でもない。
ただ、面白い可能性が鈍るのを惜しんでいる。
それが分かる。
分かるからこそ、腹が立つ。
けれど、言い返せない。
俺は、神を目指すと決めた。
死にたくない。
もう二度と、道半ばで終わりたくない。
だから、神を目指す。
そう決めたはずだった。
なのに。
いつの間にか、俺は蜘蛛子の影にいる安心を、神へ至る道より優先していなかったか?
蜘蛛子の役に立つこと。
蜘蛛子に必要とされること。
蜘蛛子の影にいていいと思えること。
それが、俺の目的になりかけていなかったか?
いや、違う。
守りたいのは本当だ。
役に立ちたいのも本当だ。
蜘蛛子を利用しているつもりなんてない。
でも。
置いていかれたくない。
離れたくない。
影にいたい。
それも、本当だ。
それだけじゃない。
俺が先に危険を見て、先に道を選んで、先に答えを渡し続けることで。
蜘蛛子が本来ぶつかるはずだったものまで、俺が避けさせてしまっていないか?
それは、助けなのか?
蜘蛛子のためなのか?
それとも、俺が蜘蛛子を失いたくないだけなのか?
『命令はしませんよ』
Dの声が遠ざかる。
『あなたが最初の目標を捨てて、彼女の影に居場所を見つけるなら、それはそれで興味深い』
ぞっとした。
『けれど、あなた自身が神へ至るところも見てみたい。ですから、少し惜しいと思っただけです』
笑っている。
楽しんでいる。
俺が苦しむことも、選ぶことも、間違えることも。
全部、面白がっている。
『どちらの展開になっても、私は楽しめます』
Dは、最後にそう言った。
『選ぶのは、あなたです』
その言葉を最後に、裏の声は途切れた。
スマホから聞こえる音が戻る。
けれど、表の会話はもう終わりかけていた。
『――まあ、今すぐすべてを理解しなくても大丈夫ですよ。あなたはあなたらしく、精々生き残ってください』
『好き勝手言って!』
蜘蛛子が怒る。
Dはまったく気にしていない。
蜘蛛子の声はいつもの調子に近い。
けれど、明らかに混乱していた。
無理もない。
今、何を聞かされたのか。
どこまで聞かされたのか。
俺には全部は分からない。
たぶん、俺の知っている流れに近い話なのだろう。
けれど、実際に何を聞かされたのかまでは分からない。
さっきDから聞いた言葉が、やけに俺の中に残っていた。
『では、私はそろそろ失礼しましょうか』
『待て待て待て! まだ聞きたいこと山ほどあるんだけど!?』
『答えすぎるとつまらないので』
『こいつ本当に最悪だ!』
『それでは』
スマホの画面が淡く光る。
その瞬間、Dの声が、もう一度だけ俺の奥へ届いた。
『よく考えてくださいね』
そして、スマホが消えた。
空間の揺らぎも、魔法の構築も感じなかった。
探知にも引っかからない。
最初からそこになかったみたいに、ただ消えた。
残されたのは、俺と蜘蛛子。
火龍の死体。
そして、重すぎる情報。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
中層の熱が戻ってくる。
マグマの音が聞こえる。
岩の軋む音がする。
何も変わっていないようで、全部が変わってしまったような気がした。
『……何あれ』
先に口を開いたのは蜘蛛子だった。
『管理者D』
『それは聞いた』
『邪神』
『それも聞いた』
『天の声とかシステムとか、その辺に関わってる存在』
『それも聞いた』
『……悪い。俺も整理できてない』
嘘ではない。
知っていたことはある。
原作知識で、ある程度は分かっていた。
けれど、実際にDと話して分からなくなったこともある。
特に、俺自身のこと。
『それで』
『何だ?』
『肉』
『……食うのか?』
『食べるでしょ』
蜘蛛子の返事は即答だった。
『今の流れで?』
『今の流れだからこそ! 管理者とかシステムとか邪神とか、重すぎる話を聞かされたんだよ!? 食べなきゃやってられないでしょ!』
『それは……そうか?』
『そう! それに火龍肉だよ!? 食べずに移動とか無理!』
蜘蛛子は火龍の死体へ向き直った。
混乱している。
怒っている。
たぶん、怖がってもいる。
それでも、食べる。
このあたりの切り替えの早さは、本当に蜘蛛子らしい。
いや、切り替えられているわけではないのかもしれない。
重すぎる話を、真正面から全部受け止めきれない。
だから、とりあえず目の前の肉に向かう。
それはそれで、正しい生存戦略なのかもしれない。
蜘蛛子が糸を伸ばす。
俺は影で鱗の隙間を探り、土魔法で足場を固定する。
火龍の鱗は硬い。
死んでいるのに、まだ厄介だ。
火炎纏がないだけマシだが、熱は残っているし、鱗の一枚一枚が岩みたいに重い。
『硬っ!?』
蜘蛛子が文句を言いながら、鎌を使って鱗を剥がす。
俺も影で鱗の浮いた部分を押し上げる。
バキ、と嫌な音がした。
鱗が剥がれる。
その下から、赤黒い肉が見えた。
『肉!』
『肉だな』
『火龍肉!』
蜘蛛子のテンションが上がる。
さっきまで管理者と邪神に遭遇していたとは思えない。
いや、思い出さないようにしているだけかもしれない。
『いただきます!』
蜘蛛子が火龍肉に噛みついた。
数秒。
蜘蛛子の動きが止まる。
『どうだ?』
『……うん』
『うん?』
『火竜よりは、いい』
『そうか』
『火竜よりは』
大事なことなので二回言ったらしい。
『つまり?』
『期待値が高すぎた』
『なるほど』
『いや、不味くはない! 不味くはないんだよ! でも、なんというか、微妙!』
『火龍だからな』
『一言で済ませないでほしい!』
食べられる。
火竜よりはいい。
ただし、感動的な美味ではない。
そんなところか。
俺も少しだけ肉に噛みつく。
熱い。
硬い。
味は濃い。
確かに火竜よりはマシだ。
けれど、ナマズには勝てない。
『ナマズってすごかったんだな』
『それ今言う!? 火龍肉食べながら!?』
『思ったから』
『まあ、分かるけど!』
蜘蛛子は文句を言いながらも、二口目にいった。
食べる。
食べている。
さっきの話を飲み込めないまま、それでも火龍肉を飲み込んでいる。
俺も同じだ。
Dの言葉は消えない。
黒の視線も忘れられない。
蜘蛛子が何を聞かされたのかも気になる。
身代わりの蜘蛛が神に至るという言葉が、ずっと胸の奥に刺さっている。
それでも、食べる。
食べなければ進めない。
進まなければ生き残れない。
この世界では、それが当たり前だ。
彼女が神になる未来を、俺は知っている。
けれど、その隣にいることは、俺が神になることじゃない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに。
俺はその影の中にいると、どうしようもなく安心してしまう。
必要だからいるのか。
離れたくないからいるのか。
共闘なのか。
依存なのか。
分からない。
『行くよ、影蛇。食べたら上層目指す』
『ああ』
蜘蛛子が前を見る。
俺はその影に沈む。
落ち着く。
安心する。
近くにいられる。
守れる。
火竜戦で。
火龍戦で。
俺は確かに役に立てた。
それは否定されなかった。
Dでさえ、否定しなかった。
だからこそ、重い。
俺が近くにいれば、蜘蛛子は少し安全になるかもしれない。
でも、その安全が、蜘蛛子に必要な経験まで削ってしまうとしたら。
俺は何をしていることになるんだ。
どちらも神へ至るかもしれない。なのに、互いに甘えて鈍るのは勿体ない。
そんなDの言葉が、影の奥で何度も反響していた。
◇
火龍肉を食べ、俺たちは中層を進んだ。
赤い光。
揺らめく熱気。
足元を流れるマグマ。
最初にここへ来た時は、立っているだけで死ぬ場所だと思った。
実際、蜘蛛子は数秒で撤退した。
俺も、ここでまともに動けるようになるまで、何度も熱に削られた。
火竜と戦った。
火龍と戦った。
マザーの影を見た。
黒が来た。
Dと話した。
中層に入った時とは、何もかも違う。
それでも、道は続いている。
『……熱、少し引いてきた?』
蜘蛛子が呟く。
『ああ』
空気が変わっていた。
焼けるような熱が薄れている。
赤い光が遠ざかる。
岩壁の色が、少しずつ黒へ戻っていく。
上り坂。
中層へ入った時とは逆に、俺たちは赤い地獄から離れていく。
やがて、マグマの光が完全に背後へ消えた。
広がっていたのは、見慣れた暗い岩場。
熱で揺らがない空気。
蜘蛛子の糸が、燃えずに張れる場所。
上層。
エルロー大迷宮、上層。
『……戻ってきた』
蜘蛛子が、ぽつりと言った。
その声は、最初は小さかった。
けれど、次の瞬間。
『戻ってきたぁぁぁぁぁ!』
蜘蛛子が跳ねた。
『上層! 上層だよ! 熱くない! 糸が燃えない! 足場が燃えない! 空気が熱くない! 最高! 上層最高!』
糸を出す。
岩壁に貼る。
燃えない。
それを確認した蜘蛛子が、さらにテンションを上げる。
『燃えない糸! 普通の足場! 普通の壁! ああ、素晴らしき上層! 私、上層のこと誤解してたかもしれない!』
『前は散々文句言ってただろ』
『下層や中層を経験した今なら分かる! 上層は優しかった!』
『魔物は普通にいるけどな』
『熱くないだけで優しい!』
蜘蛛子がぐるぐるとその場を歩き回る。
嬉しそうに糸を張り、壁を蹴り、天井を見上げる。
その様子を見ていると、少しだけ胸の重さが薄れた。
黒。
D。
神。
依存。
選択。
頭の奥には、まだ全部残っている。
けれど、今の蜘蛛子は本気で喜んでいた。
それが、少しだけ救いだった。
『じゃあ、行こう』
ひとしきり喜んだ後、蜘蛛子は前を向いた。
『ああ』
俺はいつものように、その影へ沈む。
落ち着く。
安心する。
近くにいられる。
けれど、その安心が今は重い。
中層は終わった。
そして多分、ここから先は。
俺が、選ばなければならない。
TIPS:上位管理者の独り言
最初に何を目指していたのか。
今、どこに安心しているのか。
そのあたりを少し突いてみましたが、話しすぎましたかね。
まあ、いいでしょう。
彼が役に立っていることは、間違いではありません。
守りたいと思っていることも、間違いではありません。
だからこそ、なのですけれど。
まあ、あとは彼が勝手に考えるでしょう。
勝手に迷って、勝手に選んで、勝手に進む。
少し言葉で誘導したつもりですが。
どのように転がるでしょうか。
どう動くのか、まだまだ楽しませてくださいね。