火龍レンドの死体は、岩場の上に転がっていた。
さっきまで俺たちを焼き殺そうとしていた龍。マザーに半壊させられてなお、火竜とは比べものにならない圧を放っていた化け物。深淵魔法の直撃を受けてもなお生き残り、最後の最後までこちらを殺そうとしてきた相手。
それが、今は動かない。
巨体からはまだ熱が立ち上り、火炎纏が消えたはずの空気すら肌を焼きそうな熱気が残っているが……。
勝った。生き残ったんだ。俺たちは、あの火龍レンドを倒した。
そう頭で理解しても、実感が追いついてくるのは少し遅れてからだった。
あれは、まともにぶつかって勝てる相手じゃなかった。
毒弾は火炎纏に焼かれる。邪眼は状態異常耐性に弾かれる。糸は速攻で燃える。近づけば火で削られ、魔法も鱗と逆鱗のせいで通りが悪い。
だから深淵魔法を使うしかなかった。地獄門で削り、火炎纏を乱し、最後に蜘蛛子の腐蝕を乗せた一撃を叩き込んだ。
それでも、条件が揃っていたから勝てたにすぎない。
マザーに半壊させられていたこと。片翼も潰れていたこと。HPも最初から半分以上削れていたこと。怒りで視野が狭くなっていたこと。
その上で、蜘蛛子の深淵魔法があり、俺が外から盤面を読み通した。
蜘蛛子の【叡智】が広く拾った情報を、俺の【慧眼】で深く読み直し、必要な答えだけを返した。
逃げ道を見た。火の流れを見た。ブレスの前兆を見た。足場を作った。重魔法で一瞬だけ軌道をずらした。
俺は、役に立てた。……うん、たぶんこれは自信を持っていいはずだ。
火竜戦でもそうだった。火龍戦でもそうだ。
蜘蛛子一匹なら、もっと危なかったし、俺一匹なら、勝負にすらならなかった。二匹だったから、ここまで来られた。
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
蜘蛛子の隣で戦えた。影に潜んで、あいつの動きを支えられた。俺が返した情報で蜘蛛子が跳び、俺が蜘蛛子の動きを見て次を読む。
怖いくらい噛み合っていた。嬉しいし、安心したし、なにより誇らしかった。
『おーい、生きてる?』
ふいに、蜘蛛子の声が聞こえた。
『……生きてるよ』
『返事遅い。魂抜けた?』
『抜けてたら返事できないだろ』
『まあそれもそう』
蜘蛛子は火龍の死体をじっと見ていた。
視線は完全に食料を見るそれである。
『で、これ食べられる?』
第一声がそれかよ。実に蜘蛛子らしくて、思わず力が抜ける。
『たぶんな』
『たぶん!? 火龍だよ!? 龍だよ!? そこは美味しいって断言してよ!』
『食べたことないものを断言できるか』
『夢がない!』
『火竜肉で夢は一回砕けただろ』
『言わないで!?』
蜘蛛子が前肢をわたわたさせる。
実際、火竜肉は期待ほどではなかった。不味くはないが、ナマズや鰻と比べると明らかに落ちた。だからこそ、この火龍肉に期待しているのだろう。
まあ、俺も気にならないと言えば嘘になる。この世界でも上位に位置する、間違いなく大物の肉だからな。
『でも、火竜よりは期待できるよね?』
『火龍だしな』
『だよね! 火龍だもんね!』
『ただし、中層で調理器具なしだぞ。火竜の件もあるし、素直に美味いかは分からない』
『また夢を壊す!』
『期待しすぎると落差が大きいぞ』
『でも期待する! 龍だし!』
蜘蛛子がうきうきと火龍の鱗へ近づく。その間に、俺は自分のステータスを確認することにした。
【慧眼】を自分へ向ける。
レベルは15に上がっていた。火龍レンドの経験値は、やはり破格だったらしい。
そして、スキルには【天命LV1】と【龍力LV1】、称号欄には【龍殺し】が追加されていた。
スキルポイントは——四四二五か。
火龍レンドから【強欲】で奪ったポイントは三〇〇五。
火龍戦前に【空間魔法】【氷魔法】【重魔法】を取って一気に減った分が、むしろ大幅なプラスになって戻ってきた形だ。
多い。かなり多いぞ。
これだけあれば、色々取れる。これから先の未知の事態に備えられるし、足りない手札を補える。
けれど、軽率に使い切る気にはなれなかった。
火龍戦でよく分かった。必要なスキルを必要な時に持っていることは、めちゃくちゃ大きい。【重魔法】は本当に取っておいてよかった。あの一瞬、軌道をずらせたことは無駄じゃなかったんだ。
だが、何でも取ればいいわけじゃない。
次に何が必要になるか。何を取れば生き残れるか。何を取れば、蜘蛛子の役に立てるか。考えることは山積みだ。
『何か増えた?』
蜘蛛子が聞いてくる。
『レベルが上がってる。称号は【龍殺し】。あと【天命】と【龍力】がある。スキルポイントもかなり増えたな』
『私も【龍殺し】ゲットした! 相変わらず称号名の圧がすごいね』
龍殺し。
達成感と同時に、どこか不穏な響きを持つ称号。
龍を殺すということ。この世界で龍種を殺すということ。原作を知っている俺には、その意味がまったく分からないわけじゃない。
そして、知っているからこそ、頭の片隅でずっと警戒していた。
黒が来る。
管理者ギュリエディストディエス。原作では、龍種の死を感知し、蜘蛛子の前に現れた黒い管理者。
覚悟はしていた。だが、知識として知っていることと、実際に相対することはまるで違っていた。
『とりあえず、鱗の割れ目から——』
蜘蛛子が火龍肉へ取りかかろうとした、まさにその時だった。
空間が、歪んだ。
最初に反応したのは、蜘蛛子の【叡智】に含まれる探知、その中の空間感知だった。
『……何これ』
蜘蛛子の声が低くなる。俺も遅れて、影の奥からその違和感を拾った。
熱でも魔力でもない。そこにあるはずの空間そのものが、薄く捻じれている。
転移。そう判断するまでに、ほとんど時間はかからなかった。
細かく、複雑で、圧倒的な速度の魔法構築。知性と明確な意思を持つ何かが、火龍を殺した俺たちを狙って来ようとしている。
『蜘蛛子』
『うん。来る』
蜘蛛子が体勢を低くし、逃げ道を模索する。俺も影の奥で身を潜め、魔力の流れを読む。だが、空間の歪みは止められない。
——空間が割れた。
そこから、一人の男が姿を現した。
黒。
そうとしか言いようがない存在だった。
黒い鎧のような服、黒い髪、浅黒い肌、そして異様な赤い目。
見た瞬間、理解した。勝てない。
火竜とは違う。マザーとも違う。強いとか弱いとか、そういう数値の尺度で測る相手じゃない。次元が違うんだ。
知っていたはずだ。黒が来ることも、管理者がどういう存在かも。だが、目の前に現れた本物の威圧感は文字の知識なんて一瞬で吹き飛ばした。知っているから大丈夫、なんてことはない。知っていても怖いものは怖い。知っているからこそ、余計に恐ろしいんだ。
反射的に【慧眼】を向けた。見てはいけないと分かっていたのに、見てしまった。
《鑑定不能》
返ってきたのは、それだけ。名前も、ステータスも、スキルも、称号もない。
見えないのではない。見るための情報そのものがシステムの中に存在しない。システムの外側にいる存在——管理者ギュリエディストディエス。
原作知識の中にある名前が、頭の中で警報みたいに鳴る。……やっぱり、来てしまった。
『……何あれ』
蜘蛛子が小さく怯えたように言う。
『敵対はするなよ』
『それは見れば分かる』
『変に刺激するな』
『刺激する気ないけど、向こうから来たんですけど?』
蜘蛛子も反射的に鑑定したのだろう。動きがわずかに固まっている。
二人とも『鑑定不能』の表示に冷や汗を流すしかなかった。
黒は冷ややかな視線を俺たちに向け——口を開く。
「****************?」
言葉が分からない。異世界語だ。
『何て?』
『分からない。言葉が通じてないな』
黒は眉をひそめた。こちらに言葉が通じていないことを察したらしい。
何とも言えない沈黙が流れる。
逃げるのも、戦うのも論外。重苦しい沈黙が流れる中、ぽとり、と何かが落ちた。
俺と蜘蛛子と黒の間。岩の上に、不自然なほど軽い音を立てて落ちたのは——スマホだった。
『は?』
蜘蛛子の声が、完全に素に戻る。
分かる。俺も同じ気持ちだ。だが、俺はその意味を知っている。
D……!
ついに来たか!
画面が光り、通話状態の表示が浮かび、声が聞こえた。
『
女性の声だった。透き通るように綺麗で、どこか平坦で、聞いているだけで背筋に冷や汗が吹き出すような、底知れぬ声。
蜘蛛子が固まり、黒もまた、表情を激変させた。
「*******!?」
黒が怒号のような言葉を吐く。
明らかに動揺しているような……いや、怒っているのかもしれない。
『はいDです。蜘蛛さんたちはちょっと待っていてください』
『え、待つの?』
『待てって言われたな』
蜘蛛子がパニックを起こしている間にも、スマホから発せられる言語は切り替わっていた。日本語ではなく、おそらく黒が使っていたあの異世界語へ。
Dと黒が話している。
内容は分からない。だが、黒の表情がわずかに険しくなっていくのは分かった。大きく感情を出しているわけではないが、眉間に皺が寄っている。
対するDは淡々とどこか楽しそうに話していて、黒はそれを不快そうに聞いている。
しばらくして、黒が深く息を吐いた。そして、俺たちを一度見た。
けれど、黒はそれ以上何も言わなかった。空間が再び歪み、黒の姿が消える。
転移。あまりにもあっけない去り際。残されたのは俺たちと、火龍の死体と、謎のスマホ。
『お待たせしました』
スマホから、再び日本語の声が聞こえる。
『彼には話をしておきましたので、今後しばらくは、あなたたちに自ら関わることはないでしょう』
『あ、そうですか』
蜘蛛子が完全に呆然としている。
すると蜘蛛子が頭の中で何か考えているのか、見透かしたようにDからの返答が聞こえた。
『Dです。はい。あなたは基本的に無口ですから、一時的な措置です。普段は心までは読みませんよ』
そんな話を聞いていた直後、スマホから聞こえる声が遠のいた。
蜘蛛子の反応は見えているし、音も聞こえているのに、意味が膜の向こうへ押しやられたように届かなくなった。代わりに、俺の意識の奥へ直接声が滑り込んできた。
『あなたには、これからの説明は不要でしょう?』
スマホからではない。蜘蛛子には届いていない、俺だけに向けられたDの声。影の奥が冷たく凍りつく。
『ある程度知っているようですから。ネタバレ済みの観客に同じ解説を聞かせても、少々退屈ですし』
返事はできなかった。
表では、Dが蜘蛛子へ何かを説明している。蜘蛛子は混乱し、時々怒ったように反応している。だが、俺にはその内容が膜の向こう側に押しやられたように届かない。聞かせる気がないのだ。
『初めは見るつもりは無かったのですが、暇つぶしにあなたの記憶にある物語を、少し覗いてしまいまして』
Dは楽しそうに続けた。
『驚きましたよ。私の身代わりとして放り込んだ蜘蛛が、神にまで至るらしいじゃないですか』
全身の血が引く感覚がした。
身代わりの蜘蛛。神にまで至る。
その言葉だけで、十分すぎるほど伝わった。
Dは、読んだのだ。俺が知っている物語を。蜘蛛子がこの先どうなるのかを。
知識として持っていたものを、本人に突きつけられる。自分の身代わりとして転生させた、教室にいただけの蜘蛛が、いずれ神へ至るという結末を。
『そこに、あなたが混ざった。火竜も火龍も、あなたはよく役に立ちました。そこは否定しません』
胸の奥が、わずかに揺れた。
否定されなかった。俺は役に立てたんだ。火竜戦でも。火龍戦でも。
蜘蛛子の死角を補った。足場を作った。攻撃の前兆を読んだ。逃げ道を渡した。蜘蛛子が深淵魔法に集中するための余裕を作った。
それは、間違いじゃなかった。
『ですが——それはあなたが神へ至ることと同じではありませんよ』
言葉が出なかった。
『彼女が神になる未来を、あなたは知っている。だからこそ、その隣にいることで、自分も前へ進んでいるような気になっていませんか?』
違う。そう言いたかった。けれど、言葉が出ない。
『それに、あなたが答えを渡し続けた彼女は、本当に同じ場所まで至れるのでしょうか。死にかけて、壊れて、それでも進む。そういう経験まであなたが先回りして取り除いてしまったら?』
呼吸が止まった。
『彼女も、あなたの補助に慣れる。あなたも、彼女の影に慣れる。それは共闘でしょうか。依存でしょうか』
分からない。分からないからこそ、鋭く胸を抉る。
『どちらも神へ至るかもしれない。なのに、互いに甘えて鈍るのは、少し勿体ない』
Dは笑っている。
心配なんかじゃない。善意でもない。ただ、面白い可能性が鈍るのを惜しんでいる。
それが分かる。分かるからこそ、無性に腹が立つ。けれど、言い返せない。
俺は、神を目指すと決めた。
死にたくない。もう二度と、道半ばで終わりたくない。だから、神を目指す。そう決めたはずだった。
なのに。
いつの間にか、俺は蜘蛛子の影にいる安心を、神へ至る道より優先していなかったか?
蜘蛛子の役に立つこと。蜘蛛子に必要とされること。蜘蛛子の影にいていいと思えること。それが、俺の目的になりかけていなかったか?
いや、違う。守りたいのは本当だ。役に立ちたいのも本当だ。蜘蛛子を利用しているつもりなんてない。
でも。
置いていかれたくない。離れたくない。影にいたい。それも、本当だ。
それだけじゃない。
俺が先に危険を見て、先に道を選んで、先に答えを渡し続けることで——蜘蛛子が本来ぶつかるはずだったものまで、俺が避けさせてしまっていないか?
それは、助けなのか?
蜘蛛子のためなのか?
それとも、俺が蜘蛛子を失いたくないだけなのか?
『命令はしませんよ』
Dの声が遠ざかっていく。
『あなたが最初の目標を捨てて、彼女の影に居場所を見つけるなら、それはそれで興味深い』
ぞっとした。
『けれど、あなた自身が神へ至るところも見てみたい。ですから、少し惜しいと思っただけです』
笑っている。楽しんでいる。
俺が苦しむことも、選ぶことも、間違えることも。全部、面白がっている。
『どちらの展開になっても、私は楽しめます。選ぶのは、あなたです』
その言葉を最後に、裏の声は途切れた。
スマホから聞こえる音が戻ってくる。けれど、表の会話はすでに終わりかけていた。
『——まあ、今すぐすべてを理解しなくても大丈夫ですよ。あなたはあなたらしく、精々生き残ってください』
『好き勝手言って!』
蜘蛛子が怒る。Dはまったく気にしていない。
蜘蛛子の声はいつもの調子に近い。けれど、明らかに混乱していた。無理もない。
今、何を聞かされたのか。どこまで聞かされたのか。俺には全部は分からない。たぶん、俺の知っている流れに近い話なのだろう。けれど、実際に何を聞かされたのかまでは分からない。
さっきDから聞いた言葉が、やけに俺の中に残っていた。
『では、私はそろそろ失礼しましょうか』
『待て待て待て! まだ聞きたいこと山ほどあるんだけど!?』
『答えすぎるとつまらないので』
『こいつ本当に最悪だ!』
『それでは』
スマホの画面が淡く光る。その瞬間、Dの声が、もう一度だけ俺の奥へ届いた。
『よく考えてくださいね』
そして、スマホが消えた。
空間の揺らぎも、魔法の構築も感じなかった。探知にも引っかからない。最初からそこになかったみたいに、ただ消えた。
残されたのは、俺と蜘蛛子、火龍の死体。そして重すぎる情報。
しばらく、どちらも何も言えなかった。
中層の熱が戻ってくる。マグマの音が聞こえる。岩の軋む音がする。
何も変わっていないようで、全部が変わってしまったような気がした。
『……何あれ』
先に口を開いたのは蜘蛛子だった。
『管理者D。邪神で、システムに関わってる存在』
『それは聞いた』
『……悪い。俺も整理できてない』
嘘ではない。
半分は本当だ。原作知識はあっても、自分自身の問いを突きつけられて頭が追いつかない。
『それで』
『何だ?』
『肉』
『……食うのか?』
『食べるでしょ! 重すぎる話を聞かされたんだよ!? 食べなきゃやってられないでしょ!』
『それは……そうか?』
『そう! それに火龍肉だよ!? 食べずに移動とか無理!』
蜘蛛子は火龍の死体へ向き直った。
混乱している。怒っている。たぶん、怖がってもいる。
それでも、食べる。
このあたりの切り替えの早さは、本当に蜘蛛子らしい。
いや、切り替えられているわけではないのかもしれない。重すぎる話を、真正面から全部受け止めきれない。
だから、とりあえず目の前の肉に向かう。
それはそれで、正しい生存戦略なのかもしれない。
蜘蛛子が糸を伸ばす。俺は影で鱗の隙間を探り、土魔法で足場を固定する。
火龍の鱗は硬い。死んでいるのに、まだ厄介だ。火炎纏がないだけマシだが、熱は残っているし、鱗の一枚一枚が岩みたいに重い。
『硬っ!?』
蜘蛛子が文句を言いながら、鎌を使って鱗を剥がす。俺も影で鱗の浮いた部分を押し上げる。
バキ、と音がした。
鱗が剥がれる。その下から、赤黒い肉が見えた。
『肉!』
『肉だな』
『火龍肉!』
蜘蛛子のテンションが上がる。さっきまで管理者と邪神に遭遇していたとは思えない。いや、思い出さないようにしているだけかもしれない。
『いただきます!』
蜘蛛子が火龍肉に噛みついた。
数秒。蜘蛛子の動きが止まる。
『どうだ?』
『……うん』
『うん?』
『火竜よりは、いい』
『そうか』
『火竜よりは』
大事なことなので二回言ったらしい。
『つまり?』
『期待値が高すぎた』
『なるほど』
『いや、不味くはない! 不味くはないんだよ! でも、なんというか、微妙!』
『火龍だからな』
『一言で済ませないでほしい!』
食べられる。火竜よりはいい。ただし、感動的な美味ではない。そんなところか。
俺も少しだけ肉に噛みつく。
熱い。硬い。味は濃い。確かに火竜よりはマシだ。
けれど、ナマズには勝てない。
『ナマズってすごかったんだな』
『それ今言う!? 火龍肉食べながら!?』
『思ったから』
『まあ、分かるけど!』
蜘蛛子は文句を言いながらも、二口目にいった。
食べる。食べている。さっきの話を飲み込めないまま、それでも火龍肉を飲み込んでいる。
俺も同じだ。
Dの言葉は消えない。黒の視線も忘れられない。蜘蛛子が何を聞かされたのかも気になる。身代わりの蜘蛛が神に至るという言葉が、ずっと胸の奥に刺さっている。
それでも、食べる。食べなければ進めない。進まなければ生き残れない。
この世界では、それが当たり前だ。
彼女が神になる未来を、俺は知っている。けれど、その隣にいることは、俺が神になることじゃない。
そんなことは分かっている。分かっているのに。
俺はその影の中にいると、どうしようもなく安心してしまう。
必要だからいるのか。離れたくないからいるのか。
共闘なのか。依存なのか。
分からない。
『行くよ、影蛇。食べたら上層目指す』
『ああ』
蜘蛛子が前を見る。俺はその影に沈む。
落ち着く。安心する。近くにいられる。守れる。
火竜戦で。火龍戦で。俺は確かに役に立てた。それは否定されなかった。Dでさえ、否定しなかった。
だからこそ、重い。
俺が近くにいれば、蜘蛛子は少し安全になるかもしれない。
でも、その安全が、蜘蛛子に必要な経験まで削ってしまうとしたら。
俺は何をしていることになるんだ。
どちらも神へ至るかもしれない。なのに、互いに甘えて鈍るのは勿体ない。
そんなDの言葉が、影の奥で何度も反響していた。
◇
火龍肉を食べ、俺たちは中層を進んだ。
赤い光。揺らめく熱気。足元を流れるマグマ。
最初にここへ来た時は、立っているだけで死ぬ場所だと思った。実際、蜘蛛子は数秒で撤退した。俺も、ここでまともに動けるようになるまで、何度も熱に削られた。
火竜と戦った。火龍と戦った。マザーの影を見た。黒が来た。Dと話した。
中層に入った時とは、何もかも違う。それでも、道は続いている。
『……熱、少し引いてきた?』
蜘蛛子が呟く。
『ああ』
空気が変わっていた。
焼けるような熱が薄れている。赤い光が遠ざかる。岩壁の色が、少しずつ黒へ戻っていく。
上り坂。中層へ入った時とは逆に、俺たちは赤い地獄から離れていく。
やがて、マグマの光が完全に背後へ消えた。
広がっていたのは、見慣れた暗い岩場。熱で揺らがない空気。蜘蛛子の糸が、燃えずに張れる場所。
エルロー大迷宮、上層。
『……戻ってきた』
蜘蛛子が、ぽつりと言った。その声は、最初は小さかった。
けれど、次の瞬間。
『戻ってきたぁぁぁぁぁ!』
蜘蛛子が跳ねた。
『上層! 上層だよ! 熱くない! 糸が燃えない! 足場が燃えない! 空気が熱くない! 最高! 上層最高!』
糸を出す。岩壁に貼る。燃えない。
それを確認した蜘蛛子が、さらにテンションを上げる。
『燃えない糸! 普通の足場! 普通の壁! ああ、素晴らしき上層! 私、上層のこと誤解してたかもしれない!』
『前は散々文句言ってただろ』
『下層や中層を経験した今なら分かる! 上層は優しかった!』
『魔物は普通にいるけどな』
『熱くないだけで優しい!』
蜘蛛子がぐるぐるとその場を歩き回る。嬉しそうに糸を張り、壁を蹴り、天井を見上げる。
その様子を見ていると、少しだけ胸の重さが薄れた。
黒。D。神。依存。選択。
頭の奥には、まだ全部残っている。けれど、今の蜘蛛子は本気で喜んでいた。
それが、少しだけ救いだった。
『じゃあ、行こう』
ひとしきり喜んだ後、蜘蛛子は前を向いた。
『ああ』
俺はいつものように、その影へ沈む。
落ち着く。安心する。近くにいられる。
けれど、その安心が今は重い。
中層は終わった。そして多分、ここから先は。
俺が、選ばなければならない。
TIPS:上位管理者の独り言
最初に何を目指していたのか。
今、どこに安心しているのか。
そのあたりを少し突いてみましたが、話しすぎましたかね。
まあ、いいでしょう。
彼が役に立っていることは、間違いではありません。
守りたいと思っていることも、間違いではありません。
だからこそ、なのですけれど。
まあ、あとは彼が勝手に考えるでしょう。
勝手に迷って、勝手に選んで、勝手に進む。
少し言葉で誘導したつもりですが。
どのように転がるでしょうか。
どう動くのか、まだまだ楽しませてくださいね。