三度目の生は蛇の姿で   作:鯱タクワン

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25.影の外へ

 上層に戻ってから、しばらく蜘蛛子は浮かれていた。

 

『糸が燃えない!』

 

 岩壁に貼り付いた糸を、蜘蛛子が引っ張る。

 

 蜘蛛子は本気で嬉しそうだった。

 

 中層では、ただそこにいるだけで削られた。

 空気は熱く、地面は焼け、糸は燃える。

 蜘蛛子の得意な動きも、あの場所ではかなり潰されていた。

 

 けれど、ここは上層だ。

 

 糸が燃えない。

 ただそれだけのことを、何度も確かめている。

 

『ああ、素晴らしき上層! 熱くないだけで最高!』

 

 黒。

 D。

 神。

 依存。

 選択。

 

 頭の奥には、まだ全部残っている。

 

 それでも、蜘蛛子が本気で喜んでいるのを見ると、少しだけ胸の重さが薄れた。

 

 魔物の気配はあった。

 

 けれど、近づいてこない。

 

 通路の奥にいた小型の魔物が、こちらに気づいた瞬間、身を翻して逃げた。

 別の気配も、蜘蛛子の進路から外れるように遠ざかっていく。

 

『……逃げたな』

 

『逃げたね』

 

『【恐怖を齎す者】の称号か』

 

『名前が嫌な称号、仕事してるね』

 

 蜘蛛子が微妙そうに言う。

 

『襲われないのは楽だけどさ。なんかこう、釈然としない』

 

『効果は便利だろ』

 

『便利かなー? レベル上げにもご飯にも魔物は必要だからなー』

 

 蜘蛛子らしい返事だった。

 

 上層は、中層よりずっと楽だ。

 少なくとも今は、そう見える。

 

 けれど、安全になったわけじゃない。

 

 地龍がいる。

 マザーがいる。

 もっと先には、魔王もいる。

 

 俺が知っている物語の先には、今の俺たちではどうにもならない相手がいくらでもいる。

 

 黒が来た。

 Dが来た。

 この世界の裏側が、少しだけ顔を出した。

 

 もう、ただ迷宮を進んでいるだけでは済まない。

 

 だから本当なら、離れる理由なんてない。

 

 蜘蛛子のそばにいた方がいい。

 影に潜っていた方がいい。

 危険を見つけて、道を選んで、逃げ道を確保して、必要な時に補助する。

 

 火竜戦でも、火龍戦でも、それは役に立った。

 

 俺は、役に立てた。

 

 それは事実だ。

 事実だからこそ……。

 

『影蛇』

 

『何だ?』

 

『また考えてる』

 

『そう見えるか?』

 

『見える』

 

 蜘蛛子が影を覗き込むように視線を落とした。

 

『管理者が出てきた後から、ずっと変でしょ?』

 

『変にもなるだろ』

 

『それはそうだけど』

 

 蜘蛛子はそれ以上、すぐには踏み込んでこなかった。

 

 蜘蛛子自身も、まだ整理できていないのだろう。

 

 Dに何を聞かされたのか。

 黒が何だったのか。

 管理者とは何なのか。

 自分が何に巻き込まれているのか。

 

 重すぎる話を聞かされて、理解しろと言われても無理がある。

 

 それでも蜘蛛子は進んでいる。

 文句を言いながら、糸を張りながら、足を動かしながら。

 

 俺も進まなければならない。

 

 そう思うのに、俺の意識はDの言葉へ戻る。

 

 Dは、俺だけに話した。

 

 蜘蛛子には聞こえないように。

 俺には、蜘蛛子へ話された内容が届かないように。

 

 絶対にわざとだ。

 

 蜘蛛子へ聞かせた話。

 俺へ聞かせた話。

 

 それぞれ別の場所を刺すために。

 

 腹が立つ。

 あいつの手の上で考えているみたいで、腹が立つ。

 

 でも、考えないわけにはいかなかった。

 

 蜘蛛子が神へ至る未来を、俺は知っている。

 そして、その方法も思い出していた。

 

 あれは、ただ強くなり続けた先に自然と届いたものではない。

 

 旧文明の兵器、UFO。

 Gフリート。

 

 そこにあった、暴走しそうになったGMA爆弾を、蜘蛛子は取り込んだ。

 その莫大なエネルギーを吸収した結果、神へ至った。

 

 けれど、あれは道と呼べるものじゃない。

 

 事故だ。

 奇跡だ。

 

 蜘蛛子だったから耐えた。

 蜘蛛子だったから呑み込めた。

 蜘蛛子だったから、神化という結果に繋がった。

 

 普通なら、吸収する前に消し飛ぶ。

 あのまま爆発して終わる。

 少なくとも、俺が真似していいものじゃない。

 

 それに、仮に同じことができたとしても、二度はない。

 

 あれほどのエネルギーを抱えた暴走兵器が、都合よく何個も転がっているわけがない。

 蜘蛛子がそれを取り込めば、それで終わり。

 俺が同じものを使う余地なんてない。

 

 当たり前だ。

 当たり前すぎる。

 

 なのに俺は、どこかで勘違いしていなかったか。

 

 蜘蛛子が神になる未来を知っている。

 その隣にいれば、自分も同じ場所へ近づける気がしていた。

 

 けれど、違う。

 

 蜘蛛子の道は、蜘蛛子だけのものだ。

 同じ影にいたところで、同じ奇跡を二匹で分け合えるわけじゃない。

 

 俺は、俺の道を探すしかない。

 

 Dの言葉を認めるのは癪だった。

 

 あいつに誘導されているようで、腹が立つ。

 盤面の上で、いいように転がされている気がする。

 

 けれど、この結論だけは否定できなかった。

 

 蜘蛛子の神化は、俺の神化ではない。

 

 そして、俺が蜘蛛子の影にいる限り、俺はどうしても蜘蛛子の未来を基準にしてしまう。

 

 蜘蛛子が進む未来。

 蜘蛛子が生き残る未来。

 蜘蛛子が神へ至る未来。

 

 その隣にいる自分を想像してしまう。

 

 自分で道を探す前に。

 自分で何かを掴む前に。

 

 蜘蛛子の影の中で、役に立つことに満足してしまいそうになる。

 

 それでは駄目だ。

 

 これから先、蜘蛛子はもっと危ない。

 俺ももっと危ない。

 

 だからこそ、ただの補助役のままでは足りない。

 

 いつか本当に並び立つためには。

 蜘蛛子の影にいるだけじゃなく、俺自身が進まなければならない。

 

 守りたい。

 失いたくない。

 それらの気持ちは本当だ。

 

 命を救いたいと思うのは、多分、【慈悲】の方へ傾いた俺の本心だ。

 けれど、離したくないと思うのは、【強欲】の方へ傾いた俺の本心でもある。

 

 どちらも嘘じゃない。

 どちらも俺だ。

 

 だから厄介だった。

 

 守りたい。

 失いたくない。

 必要とされたい。

 近くにいたい。

 

 どれも本当で、どれも欲だった。

 

 正しい理由も。

 醜い理由も。

 

 混ざって、区別がつかなくなる。

 

 けれど、そこで止まるのは違う。

 

 俺は、ただ蜘蛛子の影にしがみつきたいわけじゃない。

 

 蜘蛛子の隣にいたい。

 蜘蛛子の進む先に、俺もいたい。

 置いていかれたくない。

 守りたい相手を、守れるだけの自分が欲しい。

 

 欲しい。

 

 蜘蛛子の隣に立てる俺が欲しい。

 蜘蛛子に必要とされるだけじゃなく、蜘蛛子と並んで進めるだけの力が欲しい。

 

 影の中は心地いい。

 近くにいられる。守っている気になれる。役に立てる。

 

 でも、そこで満たされてしまったら、俺はずっと影の中にいる。

 蜘蛛子の未来に寄りかかったまま、自分の道を探さなくなる。

 

 それは嫌だ。

 

 俺は欲しい。

 だからこそ、取りに行かなきゃならない。

 蜘蛛子の影にいるだけじゃ手に入らないものを。

 

『影蛇』

 

 蜘蛛子の声が、さっきより低かった。

 

『何を考えてるの』

 

 逃げられない声だった。

 

 蜘蛛子は立ち止まっていた。

 上層の暗い通路。

 糸の張れる壁。

 燃えない足場。

 

 その中で、じっとこちらを見ている。

 

 言わなければいけない。

 

 ただ、説明できることと、できないことがある。

 

 神のこと。

 未来のこと。

 蜘蛛子がこれからどうなるのか。

 

 俺の中には理由がある。

 けれど、その理由の大部分は、今の蜘蛛子に言っていいものじゃない。

 

 それでも、何も言わずに離れるのは違う。

 だから、俺が口に出せる範囲だけを選ぶしかなかった。

 

『少し、別行動しよう』

 

 蜘蛛子が止まった。

 

『……は?』

 

 短い声だった。

 

 怒鳴ったわけではない。

 けれど、その一音で空気が冷えた。

 

『少しでいい。俺は、一度影の外で動くべきだと思う』

 

『誰が決めたの?』

 

『俺だ』

 

『私には相談なし?』

 

『……ああ』

 

『ふーん』

 

 蜘蛛子はそれきり黙った。

 

 怒鳴られるより、その沈黙の方が痛かった。

 

 当然だ。

 蜘蛛子から見れば、俺は何かを隠している。

 それも、おそらく蜘蛛子に関係することを。

 そのくせ、説明もせずに勝手に別行動を決めた。

 

 怒られて当然だった。

 

『Dに何か言われた?』

 

『きっかけはそうだ。でも、決めたのは俺だ』

 

『なにそれ言い訳?』

 

『否定はしない』

 

『説明は?』

 

『全部はできない』

 

『つまり、言えないことがあるってこと?』

 

『そうなるな』

 

『それ、私に関係ある?』

 

 答えられなかった。

 

 蜘蛛子は、じっと影を見ている。

 

『関係あるんだ』

 

『……ああ』

 

『勝手だね』

 

『そうだな』

 

 蜘蛛子は小さく息を吐いた。

 

 それ以上、すぐには責めてこなかった。

 責められない方が、きつかった。

 

『でも、言えることもある』

 

『何』

 

『火竜戦も、火龍戦も、俺たちは噛み合いすぎた』

 

『いいことじゃん』

 

『いいことだ』

 

 そこは否定しない。

 否定してはいけない。

 

『蜘蛛子は強い。俺も、役に立てた。二匹で動けば、できることは増える』

 

『なら』

 

『でも、このままだと頼りきりになる』

 

 蜘蛛子が黙る。

 

『蜘蛛子が俺の補助に慣れる。俺も、蜘蛛子の影にいることに慣れる。危ない時、まず一匹でどうするかじゃなく、相手に任せることを考えるようになるかもしれない』

 

『……』

 

『これから先、もっと危ない相手が出てくる。マザーもいる。地龍もいる。管理者なんてものまで出てきた』

 

『分かってる』

 

『だからこそ、一匹で動ける時間がほしい。お互いに』

 

『お互い?』

 

『ああ。蜘蛛子も俺も、自分だけで判断して、自分だけで動く時間が必要だと思う』

 

 それだけなら、まだ綺麗な理由だった。

 

 けれど、それだけじゃない。

 

『それと』

 

『まだあるの?』

 

『ある』

 

 影の中で、体が重くなる。

 

『俺の中の欲が、強くなってる』

 

 蜘蛛子の視線が変わった。

 

『魂欲?』

 

『近い。でも、喰いたいとか、そういうのじゃない』

 

『じゃあ何』

 

『近くにいたい。離れたくない。影にいたい。守りたい。必要とされたい』

 

 言葉にすると、ひどく生々しかった。

 

 けれど、もう誤魔化せなかった。

 

『置いていかれたくない。蜘蛛子の隣にいたい。お前が進む場所に、俺もいたい』

 

『……』

 

『欲しいんだと思う』

 

『何が』

 

『蜘蛛子の隣に立てる俺が』

 

 蜘蛛子は何も言わなかった。

 

『今のまま影にいれば、俺は多分満たされる。近くにいられる。役に立てる。守っている気になれる』

 

『……それの何が駄目なの』

 

『それで満足したら、俺はずっと影の中にいる』

 

 自分で言って、胸の奥が痛んだ。

 

『俺は、蜘蛛子の影に隠れていたいんじゃない。隣に立ちたい』

 

『……』

 

『だから一度、影の外で動きたい。蜘蛛子がいなくても考えて、選んで、戦えるようになりたい』

 

『それで離れる?』

 

『ああ』

 

『……本当に面倒くさい蛇』

 

『自覚はある』

 

『そこは否定してよ』

 

『できない』

 

 蜘蛛子は小さく地面を蹴った。

 

 責めるというより、納得できないものを足元へ落とすような動きだった。

 

『あんたは役に立った』

 

『……ああ』

 

『火竜も、火龍も、二匹で倒した』

 

『ああ』

 

『そこを勝手に否定するなよ?』

 

 その言葉に、息が詰まる。

 

 蜘蛛子は怒っている。

 けれど、ただ責めているわけではない。

 

 俺が役に立ったことまで、自分で汚すな。

 そう言われた気がした。

 

『否定はしてない』

 

『してるように見える』

 

『……そうか』

 

『そう』

 

 蜘蛛子は静かに言った。

 

『私は納得してないし、許してもない』

 

『ああ』

 

『でも、今のあんたがこのまま影にいても駄目そうなのは分かる』

 

 蜘蛛子は影を見た。

 

『だから、少しだけなら認める』

 

『……いいのか?』

 

『よくない』

 

 即答だった。

 

『よくないけど、止めても今のあんたはずっと変なままでしょ』

 

『……そうかもしれない』

 

『そこは否定してよ』

 

『できない』

 

 蜘蛛子はそっぽを向いた。

 

 怒っている。

 納得していない。

 それでも、拒絶ではなかった。

 

『少しって、どれくらい?』

 

『……分からない』

 

『そこは分かっとけよ』

 

『……すまん』

 

 蜘蛛子が小さく地面を蹴る。

 

 今度は、さっきより弱かった。

 

『じゃあ何? 別の道行くの?』

 

『そうなるな』

 

 上層の通路は、いくつも枝分かれしている。

 

 その一つ。

 細く、暗く、奥へ続く道。

 

 俺が一匹で進むには、ちょうどいい。

 

 その時、ふとスキル候補の中にある名前が頭をよぎった。

 

 【無限通話】

 

 転生者に与えられる固有スキルの一つ。

 念話の上位互換。

 面識のある相手なら、距離を無視して声を繋げられるスキル。

 

 必要スキルポイントは、5000。

 

 高い。

 

 今の俺には足りない。

 

 けれど、転生者の固有スキルとして見れば、これは明らかに安い。

 

 【慧眼】で取得候補を見れば分かる。

 転生者の固有スキルは、基本的にどれも必要ポイントが桁違いだ。

 本人の魂や適性に合わせて与えられる、ほとんど専用の力。

 それを後から取ろうとしている時点で、普通のスキルとは比べものにならない。

 

 その中で【無限通話】だけは、まだ現実的な数字として表示されている。

 

 遠話。

 念話。

 影を介した接続。

 蜘蛛子の影に潜り、表層で繋がり、時には深く情報を重ねる戦い方。

 

 ここまで積み重ねてきた俺の性質と、かなり噛み合っているのだろう。

 

 これだけ適性があって、それでも5000。

 

 なら、転生者の固有スキルというものは、それだけ個別性が強いのだ。

 本人のために作られた力を、別の魂が取るというのは、それほど重い。

 

 安い。

 安いはずなのに、今の俺には届かない。

 

 それを見て、少しだけ安心してしまった。

 

 足りないから、取れない。

 取れないから、今は繋がれない。

 

 離れると決めた直後に、繋がる手段を欲しがっている。

 

 そんな自分に、嫌気が差した。

 

 けれど、欲しいと思ったことまでは否定できない。

 今は取れない。

 今は取らない。

 

 それだけだ。

 

『影蛇?』

 

『何でもない』

 

『何でもない顔じゃない』

 

『蛇の顔色が分かるのか?』

 

『分かる。今のあんた、すごく嫌そうな気配がする』

 

『そうか』

 

『そう』

 

 蜘蛛子は不満そうに言った。

 

『危なくなったり、死にそうになったら?』

 

『逃げる』

 

『逃げられなかったら?』

 

『死なないようにする』

 

『答えになってない』

 

『蜘蛛子もな』

 

『私は死なないし』

 

『俺も死なない』

 

『言ったね?』

 

『そっちもな』

 

 少しだけ、空気が緩んだ。

 

『本当に行くの?』

 

『ああ』

 

『今ならまだ、やっぱりやめたって言えるけど』

 

 胸が詰まった。

 それは、効きすぎる。

 

『残りたい』

 

 思わず本音が出た。

 

 蜘蛛子が黙る。

 

『残りたい。影にいたい。近くにいたい。守りたい。必要とされたい。置いていかれたくない。隣にいたい』

 

 言葉が止まらなかった。

 

『全部欲しい』

 

 蜘蛛子の気配が、わずかに揺れた。

 

『だから、今は離れる』

 

『……意味分かんない』

 

『俺も、全部分かってるわけじゃない』

 

『じゃあ、分かってからにしなよ』

 

『分かるまでここにいたら、多分離れられない』

 

 それが一番怖かった。

 

 Dに言われたからじゃない。

 蜘蛛子のためだけでもない。

 

 俺自身が、もう分かっている。

 

 この影は心地いい。

 心地よすぎる。

 

 欲しいものに似たものが、ここにはある。

 近さも、役割も、安心も、全部ある。

 

 けれど、似ているだけだ。

 俺が本当に欲しいものとは違う。

 

『勝手に迷って、勝手に決めて、勝手に行くんだ』

 

『そうなる』

 

『最低』

 

『そうだな』

 

『反論しろよ』

 

『できない。けど、撤回もしない』

 

『ほんと……』

 

 蜘蛛子はそう言った。

 

 けれど、声は静かだった。

 

 納得したわけではない。

 許したわけでもない。

 

 ただ、俺が本気で言っていることだけは分かったのだろう。

 

 その沈黙の中で、蜘蛛子の視線が少しだけ鋭くなる。

 

 何かが触れたような気がした。

 

 糸ではない。

 魔法でもない。

 もっと薄い、視線の跡のようなもの。

 

 けれど、次の瞬間には分からなくなった。

 

『……何かしたか?』

 

『別に』

 

 蜘蛛子はぷいと前を向いた。

 

『今の間は何だ』

 

『別に』

 

『怪しいんだが』

 

『別にって言った』

 

『……そうか』

 

 追及する気力はなかった。

 

 蜘蛛子はそれ以上、何も言わなかった。

 

 ただ、どこか不機嫌そうに地面を蹴る。

 

『行けば』

 

『……ああ』

 

『ただし』

 

 蜘蛛子の声が、少しだけ低くなる。

 

『戻ってこい』

 

 その言葉に、体が止まった。

 

『勝手に離れるのは、少しだけ認める。でも、勝手に死ぬのは認めない』

 

『ああ』

 

『あんたは、私が認めたんだから』

 

 蜘蛛子は、こちらを見ないまま言った。

 

『私の影にいたんだから。私がいいって言うまで、勝手に死ぬな。勝手に消えるな』

 

 ひどく傲慢で。

 ひどく蜘蛛子らしい言葉だった。

 

『……分かった』

 

『本当に?』

 

『もちろん』

 

『戻ってきたら怒る』

 

『それは怒るのか』

 

『怒る。納得してないから』

 

『理不尽だな』

 

『理不尽で結構』

 

 そこで、少しだけいつもの調子が戻った。

 

 喧嘩ではない。

 納得でもない。

 

 ただ、蜘蛛子は俺を送り出すことにした。

 

 認めた相手が勝手に進むのは気に入らない。

 けれど、今ここで止めることも違うと分かってしまった。

 

 だから、条件を付けた。

 

 戻ってこい。

 勝手に死ぬな。

 勝手に消えるな。

 

 それだけを、俺に押し付けた。

 

 俺は影から出た。

 

 上層の岩場に、蛇の体を乗せる。

 蜘蛛子の影から離れる。

 

 ただそれだけのことなのに、体の奥が冷えた。

 

 いつもなら、すぐそばに蜘蛛子の気配があった。

 浅く重ねた感覚を通して、動きの癖や、視線の向きや、糸を張る直前の気配が伝わってきた。

 

 けれど、これから距離が開けば、それも薄れていく。

 届かなくなる。

 

 当たり前だ。

 離れるというのは、そういうことだ。

 

 静かになった。

 軽くなった。

 そして、ひどく心細くなった。

 

『影蛇』

 

『何だ?』

 

『勝手に分かった気になるなよ』

 

『……ああ』

 

『戻ってきたら、ちゃんと説明しろ』

 

『分かった』

 

『今よりちゃんと』

 

『分かった』

 

『どうせ今のあんた、うまく説明できないでしょ』

 

『そうだな』

 

『全く……』

 

『行ってくる』

 

『……行ってこい』

 

 蜘蛛子は、こちらを見ないまま言った。

 

『次会ったら、ちゃんと聞くから』

 

『……ああ。またな』

 

『うん。また』

 

 蜘蛛子はそれ以上何も言わなかった。

 

 俺も言わなかった。

 

 細い通路へ向かう。

 蜘蛛子とは別の道。

 暗く、狭く、先の見えない道。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 背後の気配が遠ざかる。

 

 蜘蛛子の影が遠くなる。

 その影に戻りたい衝動が、何度も俺を引き止める。

 

 けれど、戻らない。

 

 Dの思惑通りに動いているのかもしれない。

 それでも、これはDの命令じゃない。

 

 俺が選んだ。

 

 俺が間違える。

 俺が責任を持つ。

 

 蜘蛛子の道は、蜘蛛子のもの。

 俺の道は、俺が探す。

 

 俺が欲しいものは、蜘蛛子の影にいるだけじゃ手に入らない。

 だから、取りに行く。

 

 そうしなければ、多分俺は、いつまでもあの影の中で落ち着いてしまうから。

 

 上層の暗い道を、一匹で進む。

 

 火の熱はない。

 蜘蛛子の気配も、もう近くにはない。

 

 それなのに、胸の奥だけが、焼けるように痛かった。




TIPS:【傲慢】と【強欲】

支配者スキルは、誰でも同じように獲得できるものではない。
必要なスキルポイントは、魂の性質や適性によって大きく変わる。
少ないポイントで獲得できたということは、それだけその性質に深く噛み合っているということでもある。

【傲慢】に適性がある者は、自分を基準にして世界を見る。
認める。
認めない。
許す。
許さない。
その判断の中心には、常に自分がいる。
だから、自分が認めたものが勝手に失われることを許さない。
それは優しさや心配であると同時に、自分の判断を絶対のものとして扱う性質でもある。

【強欲】に適性がある者は、足りないものを求め続ける。
力が欲しい。
場所が欲しい。
隣に立つ資格が欲しい。
置いていかれない自分が欲しい。
その欲の中心には、常に満たされない自分がいる。
だから、自分が欲しいものを簡単には諦めない。
それは執着であると同時に、足りないものへ手を伸ばし続ける性質でもある。

【傲慢】は、自分が認めたものを勝手に失わせない。
【強欲】は、自分が欲しいものを諦めない。
似ているようで、向いている方向は違う。
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