三度目の生は蛇の姿で   作:鯱タクワン

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25.影の外へ

 上層に戻ってから、しばらく蜘蛛子は浮かれていた。

 

『糸が燃えない!』

 

 岩壁にペタリと貼り付けた糸を、蜘蛛子が力任せに引っ張ってみせる。本気で、心底嬉しそうだった。

 

 中層ではただそこに存在するだけで命を削られた。空気は焼けつくように熱く、地面は焦げ、糸は一瞬で灰になる。蜘蛛子が最も得意とする機動も仕掛けも、あの環境では大半が潰されていたのだ。

 

 けれど、ここは上層だ。

 糸が燃えない。ただそれだけの当たり前を、彼女は何度も愛おしそうに確かめている。

 

『ああ、素晴らしき上層! 熱くないだけで、もう最高だよ!』

 

 黒。D。神。依存。そして、選択。

 俺の頭の奥底には、あの暗い課題が重くのしかかったままだ。それでも、こうして蜘蛛子が本気で喜んでいる姿を見ていると、胸の澱がほんの少しだけ薄れる気がした。

 

 道中、当然のように魔物の気配はあった。けれど、一匹たりとも近づいてこない。

 通路の奥から覗いていた小型の魔物が、こちらの存在に気づいた瞬間、身を翻して逃げていく。別の気配も、俺たちの進路を避けるように大きく迂回していった。

 

『……露骨に逃げたな』

 

『逃げたねぇ』

 

『【恐怖を齎す者】の称号か』

 

『名前が嫌な称号だけど、しっかり仕事してるね』

 

 蜘蛛子が微妙そうに言う。

 

『襲われないのは楽だけどさ。なんかこう、釈然としないんだよね』

 

『効果は便利だろ』

 

『便利かなー? レベル上げにもご飯にも魔物は必須だからなぁ』

 

 実に蜘蛛子らしい、現金な文句だった。

 

 中層に比べれば、上層は圧倒的に楽だ。少なくとも今は、そう見える。

 けれど、決して安全になったわけじゃない。

 地龍がいて、マザーがいて、その先には魔王まで控えている。俺の知っている原作の未来には、今の俺たちでは逆立ちしても勝てない化け物がいくらでも転がっているのだ。

 

 黒が現れ、Dが介入してきた。この世界の裏側が、ついにその顔を覗かせ始めた。もうただ迷宮を進むだけでは済まされない段階に来ている。

 

 だから本当なら、俺が蜘蛛子から離れる理由なんてどこにもないはずだった。

 ずっと蜘蛛子のそばにいた方がいい。影の中に深く潜んで、危険をいち早く察知し、ルートを選び、逃げ道を確保し、必要な時に補助する。

 火竜戦でも、火龍戦でも、それは確かに役に立った。俺は、ちゃんと役に立てたのだ。

 

 それは動かぬ事実だ。

 事実だからこそ……。

 

『影蛇』

 

『何だ?』

 

『また考えてる』

 

『そう見えるか?』

 

『見える』

 

 蜘蛛子がこちらの影を覗き込むように、じっと視線を落としてくる。

 

『管理者が出てきた後から、ずっと変でしょ?』

 

『そりゃ、あんなの出てきたら変にもなるだろ』

 

『それはそうだけどさ』

 

 蜘蛛子はそれ以上、すぐには踏み込んできなかった。彼女自身、まだ思考の整理が追いついていないのだろう。

 Dから何を聞かされたのか。黒とは何だったのか。管理者とは、自分がいったい何に巻き込まれているのか。重すぎる世界の真実を突きつけられて、すぐに理解しろという方が無理な話だ。

 

 それでも蜘蛛子は足を止めない。文句を言いながら、糸を張りながら、足を動かしながら。

 なら、俺だって止まっているわけにはいかないはずだ。

 

 そう思えば思うほど、俺の思考はDの言葉へと逆戻りしてしまう。

 

 Dは、あの話を俺だけに話した。蜘蛛子には聞こえないように遮断し、俺には蜘蛛子へ向けられた言葉が届かないように仕組んで。

 

 絶対にわざとだ。

 

 蜘蛛子へ聞かせた話。俺へ聞かせた話。

 それぞれ別の場所を刺すために。

 腹が立つ。あいつの掌の上で右往左往させられていると思うと猛烈に腹が立つ。けれど、突きつけられた問いから目を背けることはできなかった。

 

 蜘蛛子がいつか神に至る未来を、俺は知っている。そして、その具体的な方法も思い出していた。

 

 あれは、ただ愚直にレベルを上げて強くなった延長線上で届いたものじゃない。

 

 旧文明の残した超兵器であるUFO——Gフリート。そこにあった暴走寸前のGMA爆弾を、蜘蛛子が丸ごと取り込んだのだ。その莫大なエネルギーを吸収した結果、彼女は神化を果たした。

 

 だが、あんなものは道と呼べるようなものじゃない。奇跡的な事故だ。

 蜘蛛子だったから耐えきれた。蜘蛛子だったから呑み込めた。蜘蛛子だったからこそ神化という奇跡に繋がっただけだ。普通なら吸収する前に魂ごと消し飛んで終わる。

 少なくとも、俺が真似していいものじゃない。

 

 それに、仮に俺が同じ危険を冒そうとしたところで、二度目はないのだ。

 あれほどの膨大なエネルギーを秘めた危険兵器が、都合よく何個も転がっているはずがない。蜘蛛子がそれを取り込んでしまえば、そこで打ち止めだ。俺が同じ手段で神に至る余地なんて最初から存在しない。

 

 当たり前だ。当たり前すぎる。

 なのに俺は、どこかで勘違いしていなかったか?

 

 蜘蛛子が神になる未来を知っている。だからその影に潜んで隣にいれば、自分も自然と同じ高みへ引き上げられるような気がしていた。

 けれど、違う。蜘蛛子の辿る道は、蜘蛛子だけのものだ。同じ影に潜んでいたところで、たった一つの奇跡を二匹で山分けできるわけがない。

 

 俺は、俺だけの道を探すしかないのだ。

 

 Dの思い通りに誘導されるのは死ぬほど癪だった。あいつの盤面の上で躍らされていると思うと苛立ちが収まらない。けれど、この結論だけはどれだけ足掻いても否定できなかった。

 

 蜘蛛子の神化は、俺の神化ではない。

 

 そして、俺が蜘蛛子の影に安住している限り、俺はどうしてもあいつの未来を自分の基準にしてしまう。

 蜘蛛子が進む未来。蜘蛛子が生き残る未来。蜘蛛子が神へ至る未来。その隣で「役に立っている自分」に満足し、自分自身の足で道を探すことをやめてしまう。

 

 それでは、ダメだ。

 これから先、立ちふさがる脅威はどんどん跳ね上がる。補助役のままで満足していたら、いつか本当に置いていかれる。

 いつか対等に並び立つためには、蜘蛛子の影にいるだけじゃなく、俺自身が強くなければならないのだ。

 

 あいつを守りたい。失いたくない。その感情に嘘はない。

 命を救いたいと思うのは、多分、【慈悲】の方へ傾いた俺の本心。

 けれど、離したくない、独占したいと執着するのは間違いなく【強欲】の方へ傾いた俺の本音だ。

 

 どちらも嘘じゃない。どちらも俺の欲望だ。

 だからこそ厄介だった。

 

 守りたい、失いたくない、必要とされたい、隣にいたい。

 綺麗な理由も、醜い執着も、すべてがドロドロに混ざり合って区別がつかなくなっている。

 

 けれど、だからといってここで立ち止まるのは違う。

 俺はただ蜘蛛子の影にしがみついて甘えたいわけじゃない。俺は、あいつの隣に立ちたいんだ。あいつが進む未来のその先に、俺も対等な存在として居続けたい。置いていかれたくない。守りたい相手を、自分の力で守り切れる強さが欲しい。

 

 欲しい。

 蜘蛛子の隣に胸を張って立てる俺自身が欲しい。

 影で役に立つだけじゃなく、蜘蛛子と並んで歩けるだけの力が欲しい。

 

 影の中はあまりにも心地よかった。近くにいられて、守っている気になれて、必要とされている実感がある。

 けれど、そこで満たされてしまえば、俺はずっとあいつの影法師のままだ。蜘蛛子の未来に寄生したまま、自分の足で立つことを忘れてしまう。

 

 それは、絶対に嫌だ。

 

 俺は自分の欲しいものを、自分で取りに行かなきゃならない。蜘蛛子の影に隠れているだけじゃ、永久に手に入らないものを。

 

『影蛇』

 

 不意に落ちてきた蜘蛛子の声は、さっきまでの軽やかさが消え、低く引き締まっていた。

 

『さっきから何を考えてるの』

 

 逃げ場を塞ぐような、冷たい問いかけだった。

 

 蜘蛛子は立ち止まっていた。

 上層の薄暗い通路。糸の張れる壁。燃えない足場。その真ん中で、じっとこちらの影を見つめている。

 

 言わなければいけない。

 ただ、説明できることと、できないことがある。

 

 神化のこと。未来の展開のこと。蜘蛛子がこれから辿る運命のこと。

 俺の中には明確な理由がある。けれどその大部分は、今の蜘蛛子に明かしていい情報ではないのだ。

 

 それでも、何も語らずに姿を消すことだけはできなかった。だから俺は、いまの俺が口にできる限りの言葉を選ぶしかなかった。

 

『……少し、別行動しよう』

 

 蜘蛛子の動きが、ピタリと止まった。

 

『……は?』

 

 短く、低い声だった。

 怒鳴り散らされたわけじゃない。けれど、そのたった一言で周囲の空気ごと凍りついたような気がした。

 

『少しでいい。俺は一度、影の外で動くべきだと思ってる』

 

『……誰が決めたの?』

 

『俺だ』

 

『私には、相談なしで?』

 

『……ああ』

 

『ふーん……』

 

 蜘蛛子はそれきり黙り込んだ。

 感情的に怒鳴られるよりも、その静かな沈黙の方が痛烈に胸に刺さる。

 

 当たり前だ。蜘蛛子からしてみれば、俺が何か重大な隠し事をしているのは丸わかりで、それも自分に関係することだと察している。そのくせ何の説明もなしに、勝手に別行動を告げてきたのだから。怒られて当然だった。

 

『……Dに、何か言われたの?』

 

『きっかけはそうだ。でも、決めたのは俺自身の意思だ』

 

『なにそれ、言い訳?』

 

『否定はしない』

 

『説明は?』

 

『全部は言えない』

 

『つまり、私に言えない隠し事があるってこと?』

 

『そうなるな』

 

『それ、私に関係ある話?』

 

 答えられなかった。

 蜘蛛子はじっと、俺が潜む影の輪郭を見つめている。

 

『……関係あるんだ』

 

『……ああ』

 

『勝手だね』

 

『そうだな』

 

 蜘蛛子は小さく息を吐いた。

 

 それ以上、すぐには責めてこなかった。

 ……責められない方が、きつかった。

 

『……でも、言えることもある』

 

『何』

 

『火竜戦も、火龍戦も、俺たちは噛み合いすぎていた』

 

『それの何が悪いの。いいことじゃん』

 

『いいことだ。そこは絶対に否定しない』

 

 それだけは絶対に否定してはいけない。

 

『蜘蛛子は強いし、俺も確かに役に立てた。二匹で動けば、打開できる局面は間違いなく増える』

 

『なら——』

 

『でも、このままだとお互いに頼りきりになる』

 

 蜘蛛子が口を閉ざす。

 

『お前が俺の補助に慣れる。俺もお前の影に潜む安心感に慣れていく。土壇場になった時、まず一匹でどう切り抜けるかじゃなく、無意識に相手に任せることを考えるようになるかもしれない』

 

『……』

 

『これから先、もっとヤバい相手が出てくる。マザーもいるし、地龍もいる。管理者なんて理不尽まで出てきたんだ』

 

『……分かってるよ、そんなこと』

 

『だからこそ、一匹で思考して、一匹で動く時間が欲しいんだ。お互いに』

 

『お互い、ねぇ』

 

『ああ。蜘蛛子もお前自身で判断して動く時間が必要だし、俺もそうだ』

 

 そこまでなら、まだ綺麗事で済む理由だった。けれど、それだけじゃない。

 

『それと……』

 

『まだあるの?』

 

『ある』

 

 影の中で、体が重くなる。

 

『俺の中の欲が、強くなってる』

 

 蜘蛛子の視線が変わった。

 

『……魂欲?』

 

『似てるけど違う。喰いたいとか、そういう欲じゃない』

 

『じゃあ、何なのさ』

 

『……近くにいたい。離れたくない。影にいたい。守りたい。必要とされたい』

 

 言葉として吐き出すと、反吐が出るほど生々しかった。けれど、もう誤魔化せなかった。

 

『置いていかれたくない。蜘蛛子の隣にいたい。お前が進む未来に、俺もいたいんだ』

 

『……』

 

『……欲しいんだと思う』

 

『何が』

 

『お前の隣に胸を張って立てるだけの、俺自身が』

 

 蜘蛛子は何も言わなかった。

 

『今のままお前の影にいれば、俺の欲は多分満たされる。近くにいられて、役に立てて、守っている気になれる』

 

『……それの何がダメなのさ』

 

『それで満足してしまったら、俺はずっとお前の影のままだ』

 

 自分で言って、胸の奥が痛んだ。

 

『俺はお前の影に隠れていたいんじゃない。隣に立ちたいんだ』

 

『……』

 

『だから一度、影の外に出る。お前がいなくても、自分一匹で考えて、選んで、戦えるようになりたい』

 

『……それで、離れるんだ?』

 

『ああ』

 

『……本当に面倒くさい蛇だね』

 

『自覚はある』

 

『そこは否定しなよ』

 

『できない』

 

 蜘蛛子は小さく地面を蹴った。

 

 蜘蛛子が苛立ったように、小さく地面を蹴りつけた。責めるというより、行き場のない不満を足元へ叩きつけるような動作だった。

 

『あんたは役に立った』

 

『……ああ』

 

『火竜も、火龍も、二匹で倒した』

 

『ああ』

 

『そこを、あんた自身が勝手に否定するなよ……!』

 

 その言葉に、息が詰まる。

 蜘蛛子は怒っている。けれど、ただ自分勝手な俺を責めているわけじゃなかった。

 自分が役に立ったことまで、卑下して汚すな——そう言われた気がした。

 

『否定はしてないつもりなんだが……』

 

『してるように見えるんだよ!』

 

『……そうか』

 

『そうだよ!』

 

 蜘蛛子は、どこか感情を押し殺したように言った。

 

『私は、全然納得してないし、許してもいないから』

 

『ああ』

 

『でも、今のあんたがこのまま影に居座り続けても、ダメそうなのは分かる』

 

 蜘蛛子が、じっと影の輪郭を見つめた。

 

『だから、少しだけなら認めてあげる』

 

『……いいのか?』

 

『よくない!』

 

 即答だった。

 

『よくないけど! ここで止めたって、今のあんたはずっと変なままでしょ』

 

『……そうかもしれない』

 

『そこは否定しなよ!』

 

『できないからな』

 

 蜘蛛子がぷいっと横を向いた。怒っている。全然後絶していない。それでも、拒絶ではなかった。

 

『少しって、具体的にどれくらい?』

 

『……分からない』

 

『そこは分かっときなよ!』

 

『……すまん』

 

 蜘蛛子が再び地面を小さく蹴る。今度の衝撃は、さっきよりずっと弱かった。

 

『じゃあ何? 別の道行くの?』

 

『そうなるな』

 

 上層の通路は、複雑に枝分かれしている。

 

 その一つ——細く、薄暗く、奥へ続く脇道。

 俺が一匹で進むには、ちょうどいい大きさだ。

 

 その時、ふとスキル候補の中にある名前が頭をよぎった。

 

 【無限通話】。

 

 転生者に与えられる固有スキルの一つ。念話の上位互換であり、面識のある相手なら距離を完全に無視して声を繋ぐことができる力。

 必要スキルポイントは、5000。

 

 高い。今の俺の所持ポイントでは微妙に足りない。

 けれど、転生者の固有スキルとして見れば、これは明らかに安い設定だった。

 

 【慧眼】で一覧を見れば分かる。転生者の固有スキルは、本来なら必要ポイントが桁違いに跳ね上がるのだ。本人の魂の素質に合わせて与えられたほぼ専用の権能だからこそ、それを後から取ろうとすると普通のスキルとは比べものにならないポイントが必要となる。

 その中で【無限通話】だけは、まだ現実的な数字として表示されている。

 

 遠話、念話、影を介した接続。蜘蛛子の影に潜み、意識の表層で繋がり、時に深く感覚を重ねてきた俺の戦い方。ここまで積み上げてきた俺の魂の性質が、このスキルと強く適合している証拠だろう。

 それほど適合していてなお、5000ポイント。

 

 なら、転生者の固有スキルというものは、それだけ個別性が強いのだ。

 本人のために作られた力を、別の魂が取るというのは、それほど重い。

 

 ポイントが足りないから、取れない。取れないから、今は通信を繋げない——離れると決めた直後に、まだ繋がるための言い訳を欲しがっている自分に、反吐が出そうだった。

 

 けれど、欲しいと願ってしまった本心だけは消せない。今は取れない。今は取らない。それだけだ。

 

『影蛇?』

 

『……何でもない』

 

『何でもない顔じゃない』

 

『蛇の顔色が分かるのか?』

 

『分かる。今のあんた、すごく嫌そうな気配がする』

 

『そうか』

 

『そう』

 

 蜘蛛子が不満を隠そうともせずに吐き捨てる。

 

『危なくなったり、死にそうになったら?』

 

『逃げる』

 

『逃げられなかったら?』

 

『死なないように足掻く』

 

『答えになってないじゃん』

 

『蜘蛛子もな』

 

『私は死なないし!』

 

『俺も死なない』

 

『言ったね?』

 

『そっちもな』

 

 ピンと張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

『……本当に行くの?』

 

『ああ』

 

『今ならまだ、やっぱりやめたって言えるけど』

 

 胸が詰まった。

 それは、効きすぎる。

 

『……残りたいよ』

 

 思わず、本音が零れ落ちていた。

 

 蜘蛛子が息を呑む。

 

『残りたい。影にいたい。近くにいたい。お前を守りたい。必要とされたい。置いていかれたくない。ずっと隣にいたい』

 

 一度漏れ出た言葉は、もう止まらなかった。

 

『全部、欲しい』

 

 蜘蛛子の雰囲気が、わずかに揺れた。

 

『……だから、今は離れる』

 

『……ホント、意味分かんない』

 

『俺も、自分の感情の全部分かってるわけじゃない』

 

『じゃあ、ちゃんと分かってからにしなよ』

 

『……分かるまでここにいたら、俺は永遠にここから離れられなくなる』

 

 それが一番、恐ろしかった。

 Dに唆されたからじゃない。蜘蛛子のためだけでもない。俺自身が、もう痛いほど理解してしまっているからだ。

 

 この影の中は、あたたかくて、心地よすぎる。

 俺が心から欲しいものに()()()()()()()が、ここには全部そろっているのだ。距離感も、役割も、安全も。

 けれど、それは似ているだけの偽物だ。俺が自力で掴み取らなきゃいけない本当のものとは違う。

 

『……勝手に迷って、勝手に決めて、勝手に行くんだ』

 

『そうなるな』

 

『最低』

 

『そうだな』

 

『少しは反論しなよ』

 

『できない。けど、撤回もしない』

 

『はぁ……ホントさぁ……』

 

 蜘蛛子の声は、呆れたように低かった。

 けれど、そこにはもうトゲはなかった。納得したわけでも、許したわけでもない。ただ、俺の頑固な本気だけは伝わったのだろう。

 

 その静けさの中で、蜘蛛子の視線が一瞬だけ鋭くなる。

 何かが俺の存在に、ふっと触れたような感覚があった。糸でもない、魔法でもない、もっと薄い視線の跡のような何か。けれど次の瞬間には、気のせいだったかのように消えていた。

 

『……今、何かしたか?』

 

『別に?』

 

 蜘蛛子がぷいと顔を背ける。

 

『今の妙な間は何だ』

 

『別にって言ってるでしょ』

 

『怪しいんだが』

 

『別に!』

 

『……そうか』

 

 それ以上追及する気力は、俺にはなかった。

 

 蜘蛛子はそれ以上何も言わず、不機嫌そうに地面を蹴りつける。

 

『……行けば』

 

『……ああ』

 

『ただし!』

 

 蜘蛛子の声が、ぴんと張り詰める。

 

『……絶対に戻ってきなよ』

 

 その一言に、体が止まった。

 

『勝手に影から出ていくのは、少しだけ認めてあげる。でも……勝手に死ぬのだけは絶対に認めないから!』

 

『ああ』

 

『あんたは、私が相棒だって認めたんだからね!』

 

 蜘蛛子は、こちらを見ないまま叫んだ。

 

『私の影にいたんだから! 私がいいって言うまで、勝手に死ぬな! 勝手に消えるな!』

 

 どこまでも傲慢で、どこまでも蜘蛛子らしい言葉だった。

 

『……分かった』

 

『本当に?』

 

『勿論だ』

 

『戻ってきたら怒る』

 

『そこは怒るのか』

 

『怒るよ! 私は全然納得してないんだから!』

 

『理不尽だな』

 

『理不尽で結構!』

 

 そこでようやく、少しだけいつもの調子が戻った。

 喧嘩でもない、和解でもない。ただ、蜘蛛子は俺を送り出す決意をしたのだ。

 一度認めた相棒が勝手に先へ進もうとするのは腹が立つ。けれど、ここで無理に引き留めるのも違うと理解してしまったから。

 

 だからこそ、彼女は条件を付けた。

 戻ってこい。勝手に死ぬな。勝手に消えるな。それらを、俺に押し付けた。

 

 俺は、影の外へと這い出た。

 

 上層の冷えた岩場の上に、自分の蛇の体を滑り込ませる。蜘蛛子の影から、物理的に距離を置く。

 ただそれだけの動作なのに、体の奥が冷えていくような錯覚を覚えた。

 

 いつもなら、すぐそこに蜘蛛子の温もりと気配があった。浅く重ねた感覚を通して、あいつの微細な感情の揺れや、視線の動き、糸を繰り出す直前の予兆が自然と伝わってきた。

 けれど、ここから距離が開けば、その繋がりも薄れていく。届かなくなっていく。

 

 当たり前だ。離れるとは、そういうことなのだから。

 

 静かになった。軽くなった。そして——ひどく心細くなった。

 

『影蛇』

 

『……何だ?』

 

『勝手に分かった気になって、一人で勝手に完結するなよ』

 

『……ああ』

 

『戻ってきたら、ちゃんと説明しなよ』

 

『分かった』

 

『今より、ずっとちゃんとね』

 

『分かった』

 

『どうせ今のあんた、うまく説明できないんでしょ』

 

『……否定できないな』

 

『まったく……』

 

『行ってくる』

 

『……行ってきな』

 

 蜘蛛子は背を向けたまま、ぽつりと呟いた。

 

『次に会った時は、逃がさず全部聞くから』

 

『……ああ。またな』

 

『うん。またね』

 

 蜘蛛子はそれ以上何も言わなかった。

 俺も言わなかった。

 

 細く薄暗い脇道へ向かって体を滑らせる。蜘蛛子の進む道とは異なる、先の見えない闇の道。

 一歩。また一歩。

 背後から、あいつの気配が遠ざかっていく。

 

 蜘蛛子の影が遠くなる。今すぐ踵を返してあの影に飛び込みたいという猛烈な衝動が、何度も何度も俺を引き止める。

 けれど、戻らない。

 

 これがDの描いた筋書き通りなのかもしれない。それでも、これはあいつの命令なんかじゃない。

 俺自身が選び取った選択だ。

 

 俺が間違え、俺がその責任を背負う。

 蜘蛛子の道は蜘蛛子のもの。俺の道は、俺自身が切り開く。

 俺が心の底から欲しているものは、あいつの影に隠れているだけじゃ永久に手に入らないのだから。

 

 上層の暗い道を、俺は一匹で進んでいく。

 焦がすような中層の熱はない。あいつの温かな気配も、もう届かない。

 

 それなのに、胸の奥だけが、灼けつくように熱く、痛かった。




TIPS:【傲慢】と【強欲】

支配者スキルは、誰でも同じように獲得できるものではない。
必要なスキルポイントは、魂の性質や適性によって大きく変わる。
少ないポイントで獲得できたということは、それだけその性質に深く噛み合っているということでもある。

【傲慢】に適性がある者は、自分を基準にして世界を見る。
認める。
認めない。
許す。
許さない。
その判断の中心には、常に自分がいる。
だから、自分が認めたものが勝手に失われることを許さない。
それは優しさや心配であると同時に、自分の判断を絶対のものとして扱う性質でもある。

【強欲】に適性がある者は、足りないものを求め続ける。
力が欲しい。
場所が欲しい。
隣に立つ資格が欲しい。
置いていかれない自分が欲しい。
その欲の中心には、常に満たされない自分がいる。
だから、自分が欲しいものを簡単には諦めない。
それは執着であると同時に、足りないものへ手を伸ばし続ける性質でもある。

【傲慢】は、自分が認めたものを勝手に失わせない。
【強欲】は、自分が欲しいものを諦めない。
似ているようで、向いている方向は違う。
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