26.一匹で、迷宮の外へ
さて、蜘蛛子と別れたはいいが、これからどうしたものか。
強くなるためには、今まで以上に努力が必要なのは言うまでもない。
これからも蜘蛛子は超スピードで成長していく。追いつくどころか置いていかれないようにするだけでも、並大抵のことじゃない。
参考になりそうなのは、やっぱり原作の蜘蛛子が辿った軌跡か。あいつがどうやって強くなったか、あらためて思い出してみる。
【傲慢】による、経験値獲得量の大幅増加。
マザーの魂を削り取って喰らったことで得た、膨大なステータスと大量のスキル。
そして、自身が原因で発生した戦争によって大勢の人間を殺したことによる、大量の経験値。
……うん、無理じゃないか?
いや、経験値稼ぎなら方法次第でどうにかなるかもしれない。けれど、マザーレベルの巨大な魂を喰らい尽くして莫大な能力値を底上げした蜘蛛子に、俺が同じペースで追いつけるイメージがまるで湧かない。
地道に【強欲】で敵から力を奪い続けて、少しずつ食らいついていくしかないか。
何はともあれ、まずは上層の魔物を相手に一匹だけで戦う訓練から始めるとしよう。
そう思考を切り替え、近くにいた魔物へと狙いを定めて魔法を撃ち込んだ。
一撃で死んだ。
……いや、これじゃ全く訓練にならないな?
上層にも手強い魔物がいないわけじゃないだろうけれど、広い迷宮でわざわざ強い個体を探し回る時間の方が圧倒的に長くなりそうだ。
なら、下層に戻るか?
幸い、転生直後に取った【記憶】は【記録】へと進化し、今では【思考の極み】に統合されている。そのおかげで、この世界に生まれてから通ってきたルートや座標はすべて頭の中に完璧に記憶されていた。記憶している座標へ【空間魔法】で直接跳ぶことだって可能なはずだ。
転生直後に【記憶】を取得しておいて本当に良かった!
……って、思考がずれてた。
だがまあ、下層は無理筋か。
あそこは蜘蛛子と二匹がかりで、避けられる敵を全部避けて、それでも何度も死にかけた場所だ。一匹になった直後に戻るなんて、訓練でも何でもないただの自殺行為である。
今の俺にとって、上層は弱すぎる。けれど下層は強すぎる。
となると、まずは今の段階で進化を目指すのが一番現実的だ。
次の進化まで、あと五レベル。問題は、その五レベルをどこで安全かつ確実に上げるかだが……。
……それにしても。
【探知】の範囲内に、蜘蛛子の気配がない。
正直これだけで独占欲や執着といった欲望を抑えるのが楽になった。……楽になったはずなのに。
未だに、今すぐにでも引き返してあの影に飛び込みたいと思っている。
そして、あいつを守ってやりたいと願っているのだ。
……自分で思っていた以上に、重症だったらしい。
そこまで考えたところで、俺は一度身体を影の底へ深く沈めた。
少し冷静になろう。意識的に【自己理解】を稼働させる。
死にたくない。神になりたい。今度こそ自分の生を満足できるものにしたい。……そして、蜘蛛子の隣にいたい。
どれも紛れもない俺の欲望だ。
蜘蛛子の隣にいたいからって、死にたくなくなったわけじゃないし、神になりたいという野望が消えたわけでもない。
だったら、こんなところで泣き言を言って、あいつの影に逃げ帰るわけにはいかない。
◇
ひとまず、今まで足を踏み入れていない場所を進んで、地上を目指すしかない。
上層のそこらへんの魔物を狩るより、人間の方が圧倒的に経験値を稼げたはずだ。もちろん無関係な人間を襲うつもりはないけど、盗賊や悪党が相手なら容赦する必要もないだろう。
地上に出たら、【探知】で人間の反応を拾って、【慧眼】で遠くから装備や行動を確認して、盗賊だと確定したような連中だけを狙えばいい。
……よし、地上へ出ようと決めたのはいいのだが。
肝心の出口って、どこにあるんだ?
蜘蛛子と一緒にいれば人間に会える可能性は高かったが……。いや、今更そんなこと考えても仕方ない。
あそこで離れなかったら、俺はまた離れなくてもいい理由を探してしまい、結局蜘蛛子と離れることができなかっただろう。
今は地上への出口を見つけることに集中しよう。
正規の出入り口は人間によって厳重に管理されているはずだし、場所が分からない上に魔物の姿で堂々と通り抜けるのは大変だ。
けれど、原作のシュンたちは海底の洞窟からエルロー大迷宮へと侵入していた。
あれとまったく同じ隠しルートを見つけるのは不可能でも、ああいう管理されていない抜け道が他に存在しないとは限らない。
人間が通過した痕跡。あるいは、外に繋がっていそうな水路。
当面はその二つを目印に探してみるか。
俺は影から出ると、【探知】を広域に広げながら暗い通路を進み始めた。
◇
結論から言うと、出口はまだ見つかっていない。
人間が付けたように見える古い傷を見つけ、期待してその先を辿ってみたものの、結局は行き止まりだったり。
水場を発見して喜んで近づけば、ただの行き場のない水溜まりだったり。
次に見つけた水場には小型の魔物が群れで住み着いていて、襲いかかってきたので返り討ちにして美味しくいただいたり。
そんなことを繰り返しながら、眠って起きるのを何度か繰り返した。
久々に一人で眠る夜は思いのほか寂しかったけれど……まあ、それは我慢するしかない。
完全な洞窟内だから昼夜の区別もつかず、正確な時間は分からないけれど、蜘蛛子と別れてから二日か三日ほどは経過しているはずだ。
それでも、地上への出口は一向に見つからない。
エルロー大迷宮、広すぎるだろ……。
【探知】と【思考の極み】で擬似的に作った脳内マップのおかげで、同じ場所を何度も歩くことはない。自分が通ってきたルートも完璧に把握している。
迷っているわけではないのだ。迷ってはいないのだが——
出口へ続く道が分からない……!
はぁ。まだまだ時間がかかるかもな。
◇
もちろん、ただ出口を探してうろついていたわけじゃない。
移動しながら【探知】と【慧眼】を使って、上層の中でも比較的強そうな単体個体の魔物を厳選して、何度か一対一の戦闘を試みていた。
最初の一匹目には、思っていた以上に苦戦させられた。
遠距離から魔法を一方的に連射していればもっと楽に仕留められたと思うけれど、それでは回避や位置取りを含めた「一匹で戦う技術」は身につかない。
敵の正確な位置、攻撃の前兆、周囲の地形、万が一の逃げ道。それらすべてを自分一匹で把握しながら、あえて近距離戦を挑んでみた。
そして——見事に失敗した。
蜘蛛子と一緒にいた時は、あいつの【叡智】が周囲の戦闘情報を完璧に処理して共有してくれていた。俺はその中から、特に注視すべき場所だけを【慧眼】で拾い上げれば良かった。
一人になったことで、周囲の情報まですべて【慧眼】で深く見通そうとしてしまい、結果として情報過多で思考が追いつかず、敵への反応が遅れてしまった。
危うく攻撃をまともに食らうところだった。……というか、一発は受けた。
すぐに【HP自動回復】で治る程度の傷だったけど。
上層だからと油断するのは絶対にダメだな。
それからも、探索の合間に何度も戦闘を重ねた。
敵の位置や、周囲の反応は【探知】で拾う。必要な情報を【思考の極み】と【万象演算】で優先度をつけて整理する。そして【慧眼】で集中して深く見るのは、今戦っている敵の動作だけに絞る。
そうやって役割を意識的に切り分けてみると、かなり動きやすくなった。
分かっていたつもりだったけれど、実際に一人で実行してみると、勝手がまるで違ってくる。
ちなみに、この数日で倒した魔物には全て【強欲】を使った。
今の時点で特定のスキルを狙っているわけではないけれど、スキルポイントなら将来必要なスキルが出てきた時に自由に使える。それに、上層の魔物から奪えるステータスも微々たるものだったので、今回はスキルポイントの獲得を優先した。
すべて合わせて、増えたスキルポイントは約600ポイント。
火竜や火龍から奪った時と比べれば桁が違うけれど、これからスキルを増やすことを考えれば、十分にありがたい数字だ。
また、戦闘の最中には【魔闘法】と【気闘法】も実際に使って試してみた。
発動している間は、確かに全身の能力が底上げされている感覚がある。けど、当然ながらMPとSPはどんどん減る。
俺には【MP高速回復】【MP消費大緩和】【SP高速回復】【SP消費大緩和】が揃っているから普通よりは長持ちするだろうけれど、それでも探索中に常時発動しておけるほどの燃費ではない。
戦闘が始まった瞬間に発動し、倒したら即座に解除する。安全な場所で何度も発動と解除を繰り返し、馴染ませていく。
いつかシステムを離脱して神になれば、システムの補助なんて恩恵は消えてなくなるのだ。今のうちにスキルが身体や魔力をどう動かしているのか、その感覚を覚えておかないとな。
さらに【龍力】も、戦闘の中で何度か試してみた。
初めて発動した瞬間、身体の奥からこれまでとは比べものにならないほどの圧倒的な力が湧き上がった。全能力が一段階上がったかのような感覚だ。
だが、効果はそれだけじゃない。
【龍力】には、【龍鱗】と同じような強力な魔法妨害が含まれている。
俺は既に【龍鱗】のスキルを持っている。元から【龍鱗】によって弱められていた相手の魔法が、【龍力】を発動すると、さらに崩れやすくなった。
二つの効果がそのまま重複しているのか、それとも【龍力】が【龍鱗】の力を強めているのかは分からないけど、相性が良いのは間違いなさそうだ。
さらに、感覚に任せて喉の奥へと魔力を集めてみる。何をすればいいのかは、身体が自然と理解していた。
【龍力】を発動している最中限定で、ブレスを吐くことができるのだ。
俺は口内に圧縮された濃密な闇の魔力を、そのまま前方へ吐き出した。
一直線に放たれた黒いブレスが、立ちふさがる魔物を跡形もなく吹き飛ばす。
威力は当然、本物の龍のブレスには遠く及ばないけれど、上層の魔物を一瞬で消し飛ばすには十分すぎる威力だった。
別の戦闘では、試しに【火竜】の力を混ぜてみると今度は、口元に凄まじい火炎が凝縮された。
闇のブレスと、火のブレス。現状の俺が使えるのはこの二つか。今後、別の竜や龍の属性スキルを獲得できれば、その属性のブレスも使えるようになるかもしれない。
……それにしても、俺の性能が本格的に龍っぽくなってきたな。なんだかギュリエディストディエスの配下みたいで何となく気持ち的に嫌な感じもするが……まあ、龍のスキルを持ってるだけで、俺の本質は蛇だし大丈夫か。
……話を戻そう。
これだけ強力な【龍力】だが、燃費の悪さは致命的だった。
ほんのちょっとの時間発動しただけでも、MPとSPがごっそり削られてしまう。これじゃ、【魔闘法】と【気闘法】、それに【龍力】を同時に育てようとしても、MPとSPが足りないな。戦闘中に三つを使い続ければ回復よりも消費の方が早い。
何か、戦闘を継続しながらMPやSPを補給するような手段はないものか……。
……あ、あったな。
原作で蜘蛛子が使っていた、【呪怨の邪眼】だ。
【呪いの邪眼】の進化系であり、対象のHP・MP・SPを削り、その一部を自分へ還元する邪眼。
邪眼自体も発動にMPを消費するけれど、燃費自体はかなり良かったはずだ。これなら相手から吸収する分を考慮すれば、十分すぎる補給になるかもしれない。
呪いは状態異常に分類されるから【状態異常耐性】を持っている相手には効果が落ちるが、持っていない相手なら問題ない。
……欲しいな。
普通なら【呪いの邪眼】を育てて進化させるスキルなんだろうが、俺は【慧眼の支配者】によって全スキルが解禁されている。直接、上位スキルを取得することもできる。
問題は進化後のスキルだから必要ポイントが高いことだが——
《現在所持スキルポイントは5025です。
スキル【呪怨の邪眼LV1】をスキルポイント2000使用して取得可能です。
取得しますか?》
2000ポイント。
高い。けれど、今の所持ポイントなら余裕で手が届く。
何より【魔闘法】【気闘法】【龍力】を常用するための補給手段になるなら、2000ポイントを支払って取る価値は十分すぎるほどある!
取得だ!
《【呪怨の邪眼LV1】を取得しました。残りスキルポイント3025です》
よし! これで敵を削りながら、自分のMPとSPをリアルタイムで補給できる!
……ん?
取得できるスキルリストを眺めていると、もう一つ気になる名前が目に留まった。
【呪怨魔法】。
確か、原作では名前くらいしか出ていなかった魔法だ。けれど【呪怨の邪眼】と同系統なら、レベルを上げた先で相手の能力やエネルギーを奪うような魔法が使えるようになるかもしれない。
必要なポイントは——
《現在所持スキルポイントは3025です。
スキル【呪怨魔法LV1】をスキルポイント500使用して取得可能です。
取得しますか?》
500ポイントか。【呪怨の邪眼】の直後だと破格の安さに思えるな。
よし、取得しよう。
《【呪怨魔法LV1】を取得しました。残りスキルポイント2525です》
さっそく取得した【呪怨魔法】を確認してみる。
今使えるのは、相手の一部の能力値を一時的に低下させるデバフ魔法のみらしい。HPやMPを吸収して自分に還元するような都合の良い効果は、まだ解放されていなかった。
流石に最初からそんな甘い話はないか。けど、敵の能力値を削れるだけでも近接戦の補助としては十分に使い道がある。それに魔法系スキルは熟練度を上げれば使える術式が段階的に増えていく。【呪怨の邪眼】と同系統であるなら、いずれ似たようなドレイン系の術式が出てくる可能性もある。
しばらくは戦闘のたびに積極的に使って、熟練度を稼ぐとしよう。
基本は近接戦。必要な場面でのみ【龍力】を発動。ブレスはここぞという時の切り札。
【呪怨の邪眼】で燃料を回収しつつ、【呪怨魔法】のレベルも並行して上げる。当面はこれでいくとしよう。
◇
その後も、新しく手に入れた【呪怨の邪眼】と【呪怨魔法】のテストも兼ねて、比較的強い魔物をターゲットにして何度か戦闘を重ねた。
【状態異常耐性】を持っていない魔物に対しては、【呪怨の邪眼】が面白いくらいに刺さった。
視線を向けるだけで敵のHP・MP・SPが目に見えてゴリゴリ削れ、その一部が俺へ流れ込んでくる。これなら【魔闘法】と【気闘法】を常時使ったままでも、十分にお釣りが来るレベルで燃料を補給できた。流石に【龍力】まで長時間使い続けるのは無理だったが、発動できる時間は劇的に延びた。
【呪怨魔法】の方は相変わらず能力低下のデバフのみだが、弱体化した敵相手なら安全に立ち回りの練習ができる。使い続けて熟練度を稼げば、遠からず上位術式が解禁されるはずだ。
ちなみに、この後に倒した魔物からは、【強欲】を使ってMPかSPの最大値を選んで奪った。
スキルポイントを増やすのも大切だが、今の俺には三つの強化スキルを使い続けるための燃料の拡大の方が必要不可欠だ。珍しいスキルを持つ相手がいればそれを奪うが、今のところ見当たらないからこの方針でいいだろう。
別れた直後に比べれば、自分でも驚くほど身のこなしが洗練されてきた。上層の比較的強い魔物が相手でも、一匹で十分戦える。
……まあ、上層でなら、の話だが。
……そして肝心の地上への出口は、相変わらず影も形も見つかっていないのだが!
◇
さらに何度か眠って起きるのを繰り返した。
蜘蛛子と別れてから、すでに数日は経っているはずだ。
戦闘の訓練の方は順調で、一匹での立ち回りもかなり様になってきた。
問題はただ一つ——まだ地上へ出られていないこと。
……頼むからそろそろ外に出させてくれ!!
そんな切実な思いを抱きながら【探知】を広げた時だった。
通路の岩壁の隅に、妙な空間が引っかかった。
一見すると、岩と岩の間にできた細い隙間にしか見えない。しかし【探知】を伸ばしてみると、その隙間は岩盤の奥深くへと続いていた。
自然にできた亀裂か?
細い穴は斜め下に向かって落ち込んでおり、途中から完全に水で満たされていた。
それだけなら、今までにも似たような水溜まりはあった。けれど——この水は完全に澱んで停滞していなかった。ごく僅かに、けれど確実に、穴の奥とこちら側の間を水龍が行き来していたのだ。
より意識を集中させ、【探知】をさらに奥へと伸ばす。
無数に折れ曲がっているため詳細な形状までは掴めないが、その先に広がっている空間の規模だけは察せられた。
これまでに見つけたどんな水場とも比べものにならない、途方もないスケールの水域。
少なくとも、今の俺の【探知】の最大範囲では、対岸の端すら捉えられないほどの広大さだ。
……まさか、海か!?
巨大な地下湖という可能性もゼロではない。けれど、水が僅かに動いていることを考えると、どこか大きな水域へ繋がっている可能性は高そうだ。
俺は即座にその亀裂の前まで移動した。
……狭い。
人間が潜り込むのは到底不可能だ。大型の魔物もこの狭さでは途中で詰まるだろう。
俺も体長だけで言えば決して小さくはない。けれど、俺の身体はしなやかな蛇の形態だ。手足もなく、身体をくねらせれば、ギリギリ通り抜けられるサイズ感だった。
……外へ繋がっているという確実な保証はない。途中で完全に塞がっている可能性もある。
それでも、ここまで数日探して見つけた中では、一番外へ続いていそうな場所だ。
行ってみるか。
原作で蜘蛛子がやっていたのを真似て、【空間魔法】で周囲の空気をたっぷりと収納する。どれほどの長旅になるか分からないので、念には念を入れて多めに確保しておいた。これなら途中で酸素欠乏に陥る心配はないはずだ。
……たぶん。
……なんか急に怖くなってきた。
けれど、ここで日和って引き返したら、また一から出口探しのやり直しだ。
流石にそろそろ、迷宮から脱出して外に出たい!
俺は【遊泳】の感覚を全身に巡らせ、水の中へと躊躇なく飛び込んだ。
◇
暗い。そして、息が詰まるほど狭い。
岩盤の亀裂が、そのまま水中へとどこまでも続いていた。
綺麗な洞窟というより、崩落した岩と岩の複雑な隙間を強引にすり抜けていく感覚だ。
俺の体長はそれなりに大きい。けれど胴体自体は細く滑らかだ。手足のない蛇の身体だからこそ、曲がりくねった岩の合間を縫うように前進することができた。人間はもちろん、身体の太い水棲魔物でもこの狭さは突破できないだろう。
【探知】で亀裂の先を索敵しながら進む。
上へ、下へ、そして再び横へ。
道と呼べるような代物ではなく、自然が気まぐれに作った隙間に過ぎない。
進みやすい方向へ続いているわけでもない。それでも、水の微かな揺らぎと、奥にある広大な水域を頼りに前へ前へと進んでいく。
この先が、本当に海ならいいんだが……。
まあ、今さら不安がっても意味はない。行けるところまで行くしかないのだ。
俺は収納していた空気を少し取り出して呼吸すると、さらに奥へ進んだ。
しばらく進むと、暗闇の中に微かな明かりが混じり始めてきた。
そして洞窟の先から、生き物の反応が一気に増えていた。
魚と思われる小さな反応の群れ。それらを捕食する大型の魔物。上層で遭遇した魔物とは比較にならないほど強力な気配も多々混ざっている。
間違いない、海だ!!
そしてさらに遠く——今の俺では絶対に近づきたくないほど、圧倒的で巨大な気配があった。
当てはまりそうなのは……水龍か!?
距離が離れすぎているため【慧眼】で詳しく見ることはできない。それでも、近づかない方がいいことだけは本能が警告していた。今の俺が水龍らしきものに挑むのは、進化前に下層へ突撃するのと何ら変わりない自殺行為だ。
まずは地上へ出ること。そして進化までのあと五レベルを稼ぐことだ。
ただ、この海には上層よりも強い魔物が溢れかえっている。水中で自由に戦える術を身につければ、ここを格好の狩場にできるかもしれない。
今はまだ、無茶はしないけれど。
俺は水龍らしき巨大な気配から遠ざかるように進路を取り、岩盤の割れ目からついに広大な水中世界へと飛び出した。
◇
広い。
どこまで【探知】を伸ばしても、澄んだ水がどこまでも広がっている。
見上げれば、頭上で光の波紋がゆらゆらと揺れていた。
ついに、海へ出たのだ。
俺は岩場の影に身を潜めながら泳ぎ、光が降り注ぐ海面を目指して一気に上昇した。
そして、バシャリと水面からゆっくりと顔を覗かせる。
——眩しいっ!
久しぶりの光に、思わず目を細めた。
空がある。
岩の天井じゃない。見上げてもどこまでも青く、何一つ遮るものがない本物の空。
……空って、こんなに広かったっけか。
二度目の人生では、当たり前のように見上げていた景色だったはずなのに。迷宮の暗闇に浸かりすぎていたらしい。
潮風が濡れた身体を優しく撫でていく。潮の香りが鼻腔をくすぐる。
海中で呑気に浮いている場合ではないと頭では分かっているのに、俺はしばらくの間、広がった空を見上げたまま動くことができなかった。
外だ。本当に、あのエルロー大迷宮の外へ脱出したのだ。
……少し感傷に浸りすぎたか。
こんな目立つ場所で呑気に浮いていたら、海中の魔物に見つかるかもしれない。
俺は【探知】で陸地を探し、近くの岩場に向かってしなやかに泳ぎ出した。
幸い、岸はそれほど遠くない位置にあった。
岩の隙間に身体を滑り込ませ、地面へと這い上がる。
ここがどっちの大陸側なのかは分からない。……というか、自分が迷宮のどちら側の出口から出てきたのかすら把握していないのだから、考えても仕方ないか。
俺は岩肌が作る濃い影の中へと身を潜めた。
迷宮の中よりも、太陽光が作る影は遥かに濃く鮮明だ。光が強い分、暗い場所もハッキリと際立っている。これは動きやすそうだな。
俺が影から出て、陸地の奥へ足を進めようとした、まさにその時だった。
魂の奥深くで、何かが微かに揺れた。
【探知】に反応があったわけじゃない。【遠話】が繋がったわけでもない。
解除したはずの、蜘蛛子との【影憑】の繋がり——その残響のようなものが、ほんの一瞬だけ震えたのだ。
俺は動きを止め、深くその感覚を探る。
場所は分からない。具体的に何が起きたのかも伝わってこない。けれど危険な目に遭っているような感じではなかった。
ただ、何かが劇的に変化した。蜘蛛子という存在が、これまでとは違う上の段階へと引き上げられたような——
……進化したのか?
別れる直前、蜘蛛子はあと一レベルで進化できる状態だった。あれから数日は経っている。
なら、あいつが進化を完了させていても何の不思議もない。不思議はないのだが……。
……もう進化したのかよ!
俺が数日かけて出口を探してウロウロしている間に、あいつはもう次のステップへと進んでしまったのだ。
いや、俺だってこの数日間、遊んでいたわけじゃない。
一人で戦うコツを掴み、スキルの実戦運用の練習もし、ついに地上への脱出も果たした。
出来たけど……やっぱりあいつは早いな!
俺は海を背にして、広がる陸地の奥へと視線を向けた。
蜘蛛子は、もう次へと進んだ。
俺も、こんなところで足踏みしている場合じゃない。
まずは進化までの、あと五レベル。
あいつに置いていかれないように、俺も泥臭く足掻いて、強くなってみせよう。
TIPS:【影憑】の残響
【影憑】による接続は、解除すれば基本的に失われる。
ただし、長期間にわたって共存していた場合や、強い共存接続を何度も行った相手との間には、解除後もごく薄い繋がりが残ることがある。
この繋がりを通して、常時会話することはできない。
相手の位置や、現在何をしているか、どのような状態にあるかを詳しく知ることもできない。
伝わるのは、強い危機感や、魂・存在そのものに関わる大きな変化が起きた時、それが理由の分からない違和感として届く程度である。
今回、影蛇が感じ取ったのも、蜘蛛子が進化したという明確な情報ではない。
蜘蛛子という存在に大きな変化が起きたことを感じ、別れる前にあと一レベルで進化できる状態だったことから、影蛇が進化したのだと推測した。