八重森みににとって、師匠はとても尊敬できる人だ。
今もレンタル彼女につき完璧超人……千鶴さんに対する一途な想いと情熱は、誰から見ても本物であるのだと確信している。
思えば、ベランダで二人でイチャついていたあの時からだろうか。
この二人は、いずれ付き合うことになるのだろうという予感はひしひしと感じていた。
この物語の最初から、自分はあの人達の関係に入る余地すらないのだということは分かっていたつもりだった。
師匠がどれだけ千鶴さんの為に努力の汗を流してきたのかは、一番近くで見守って来た私がよく知っている。
彼女とのデートを成功させるために、下見に行った時だってそうだった。
いつだって彼はあの人のことを想い、第一に考え、そして誰よりも『愛』を持っている人なんだってことぐらいには。
でも……そんな頑張っている師匠の姿を見るたびに、自身の心がチクりと痛む。
最初は気のせいだと思っていた。
きっと、師匠と千鶴さんに嫉妬している『八重森みに』は、初めから存在していないのだと。
こんな無関係な自分が、二人の間に割って入るようなことはしてはいけないのだと。
でも、心の中では……自覚している自分も居て。
中々素直になれない彼女を見て、もどかしくなって少しイライラしてしまったり。
どうして彼は自分に振り向いてくれないんだろうと拗ねてしまったり。
そして、なによりも……。
こんなに愛されているのに、どうして千鶴さんは、師匠のことをすぐ受け入れてくれないのだろうと。
気が気で仕方がなかったのは言うまでも無かった。
後日、その理由をそれとなく聞いてみたら、彼女は7月の舞台に集中したいからと言っていた。
それまでは恋愛する余裕なんて無いにも等しく、千鶴さんは千鶴さんなりに考えがあってのことなんだと思う。
でも、私には納得が出来なかった。
なんでかは自分でも分からないっス。この感情に名を付けるとするなら、ただの恋する乙女なのかもしれない……。
だけれど――。
「はあ……。この感情、どうにかしてほしいッス。師匠」
そう一言、ポツリと呟く。
誰に対して、なんてことは言うまでも無く分かりきっている。
白馬の王子様がこんなオタク美少女の元に振り向くなんて展開は来ないんだって理解している。
ただ、師匠は変な所に敏感で、核心的な所には鈍感なタイプだ。
そんな彼にどうこうしてほしいなんていうのは今更ながら、そういう人を好きになってしまった自分に責任がある。
こんな雨の中、駅の近くで外を眺めている私は、周りから見てどう映っているのだろう。
きっと、哀れで負けヒロインの『八重森みに』がその場所に居るだけだという認識だろうか。
この後の予定としては食材を買って、夕飯の準備をしたい所ではあるが……やはり、隣にあの人が居てくれないといつもの調子が出ない。
かといって、今一番に会いたいかと言われれば、それも少し違う気がする。
もし今会ってしまえば……今まで押し殺してきた感情を、全て吐き出してしまいそうになるから。
だが、今日の神様は少しツキが悪いらしい。
突如、後ろから肩をトントン、と叩かれたものだから、「またナンパか……」と思ってため息を吐きながら後ろを振り向くと。
そこに居たのは――。
いつも以上に具合の悪そうな、顔を真っ青にした師匠だった。
ここから、物語は本編から少しずつ、ずれていくことになる。
絶対に恋してはいけないと思っていた存在が、この日を境に劇的に変わってしまうこととなるとは、ずっと後になって想像すらしていなかった。
これは、水原千鶴と木ノ下和也の物語ではない……私と師匠の物語であるのだと自覚するのは、思ってもいなかったことなのだから。