病院特有の消毒液の匂いというのは、どうしてこうも人の不安を煽るのだろう。
救急車に乗ってから、どれくらい時間が経ったのか分からない。
気付けば私は、白い壁と無機質な椅子しかない待合スペースで、一人ぼうっと俯いていた。
スマホの画面には、何件もの通知。
配信アプリのコメント、グループチャット、仕事の連絡。
だけど、そんなものを確認する余裕なんて一切無かった。
「師匠……」
ポツリと漏れた声は、静まり返った夜の病院にやけに小さく響く。
搬送される直前まで、彼は普通だった。
いや、違う。その普通は、普通ではなかった。
少し顔色が悪くて、妙に疲れていて。
でも、いつもの師匠なら「大丈夫大丈夫!」って無理して笑うことなんて珍しくない。
だから私は、深く考えなかった。
考えなかったんだ。
「っ……」
胸の奥がズキズキ痛む。
もし、もっと早く異変に気付けていたら。
もし、無理やりでも休ませていたら。
もし――。
「八重森さん、ですね?」
「あっ、は、はいッス!」
そんな中、突然声を掛けられ、勢いよく立ち上がる。
そこに居たのは、少し疲労が見える――中年の医師だった。
「木ノ下さんの関係者でお間違いありませんか?」
「は、はい……。その、師匠……木ノ下さんは大丈夫なんスか……?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
医師は少しだけ言葉を選ぶように沈黙した後、静かに口を開く。
「命に別状はありません」
「――ッ!? ほんと、ですか……!?」
それを聞いた瞬間、全身から一気に力が抜けた。
よかった。
本当に、よかった。
思わずその場に座り込みそうになる。
だけど――。
「ただ、安心できる状態ではありません」
続いたその言葉に、息が止まった。
「以前から持病を抱えていたようです。かなり進行していました」
「じ、持病……?」
「ご本人から、何か聞いていませんか?」
「な、何も……全然……」
聞いてない。そんな話、一度も。
だって師匠は、いつだって普通だった。
情けなくて、騒がしくて、すぐ暴走して。
でも、誰よりも一生懸命で。
だから私は――。
「……っ」
知らなかった……何も。
そんなことを思いながらも、対面では医師が淡々とカルテを見せながら説明を続ける。
「恐らく、かなり以前から症状は出ていたはずです。過度のストレスや疲労で発作的に悪化したのでしょう」
「発作……」
「しばらくは入院が必要になります」
途端、頭が真っ白になる。
入院。
その単語が、妙に現実味を持って胸に刺さった。
あの師匠が?
毎日バイトして、千鶴さんのこと考えて、くだらないことで一喜一憂してたあの人が?
病院のベッドで寝込む?
そんなの、想像できるわけがない。
「詳細についてはこの後、ご家族の方が来た後に話す予定です。今なら面会は短時間なら可能ですが――まだ意識が朦朧としています。会われて行かれますか?」
「……行くッス」
気付けば、即答していた。
なぜかは分からない。自分は師匠の家族でもないし、彼女でもない。
だから、本当であれば。今一番に会いに行かなければならないのは私ではないはず。
だけど――。
医師に案内され、静かな病室へ向かう。
一歩進むごとに、心臓の音が大きくなる。
そして、カーテンの先で見た姿に、私は言葉を失った。
「……師匠」
そこに居たのは、点滴に繋がれ、酸素マスクを付けた師匠だった。
青白い顔。弱々しい呼吸。
普段の騒がしさなんて、どこにもない……別人みたいだった。
「っ……」
涙が出そうになる。
だけど、ここで泣いたらダメだ。
泣いたら、もっと不安になる。
私は無理やり口角を上げて、いつもの調子を作る。
ここで泣いてはいけない。私が狼狽えてどうする。
「なーにやってるんスか師匠。マジでビビったんスからね?」
返事はない。当然だ。
まだ師匠は眠っているっスもん。
それでも私は、隣の椅子に腰掛けた。
「……ほんと、バカっスよ」
ぽつりと、そう一言だけ呟く。
「なんで一人で抱え込むんスか」
この人はそういう人だということは前々から知っているつもりではあった。
誰かに迷惑を掛けるくらいなら、自分が苦しむ方を選ぶ。
だから、きっと病気のことも言えなかった。
千鶴さんにも。家族にも。友達にも。
誰にも。
でも――。
「頼ってほしかったッスよ……」
その瞬間。
和也の指先が、僅かに動いた。
「……し、しょう!?」
ゆっくりと目が開く。
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと私を見る。
「……や、えもり……さん……?」
「そ、そうッスよ!? 八重森みにッス!!」
安心した瞬間、今度こそ涙が溢れそうになった。
でも、今は必死に堪える。耐えなければならない。
ここで私が崩れてしまえば、彼の重荷になるかもしれないから。
「……俺……」
「喋らなくて良いっス」
「ごめ……」
「だから喋るなっつってるじゃないッスか!」
思わず強めに言ってしまう。
だけど、和也は弱々しく笑った。
「今はしっかり休んでくれれば、それで良いっス」
「……っ」
「もうほんと。超迷惑ッス。というか、今欲しい言葉は謝罪じゃないっス」
鼻の奥がツンとする。
「心臓止まるかと思ったんスから」
「……はは……」
その笑い声すら弱々しくて、胸が苦しくなる。
少しの沈黙。
病室に、機械音だけが響く。
やがて私は、小さく息を吐いた。
「……千鶴さんには、連絡してないッスよ」
和也の目が僅かに揺れる。
この人が今考えていることは、大体わかっているつもりだ。
だからこそ、現時点では彼女には伝えないでおくことがベターな選択肢っス。
「今の師匠、多分あの人に知られたくないだろうなと思ったから」
「……」
「違ったッスか?」
しばらく沈黙した後。
和也はゆっくり目を閉じた。
「……助かる」
その一言だけだった。
だけど、それで十分理解できた。
ああ、この人は。
こんな状態になってまで、まだ水原千鶴のことを優先するんだ。
迷惑掛けたくない、とか。
舞台の邪魔したくない、とか。
きっとそんなことを考えてるに決まってるっス。
「……ほんと、重症ッスね」
「病気……だけにな……」
「今そのギャグ言う余裕あるんスか」
思わず吹き出してしまった。
同時に、いつもの笑みも零れた。
なんなんスか、もう。
こんな時まで、さっきまでの空気が台無しじゃないっスか。
「……八重森さん」
「はい」
「……怖いんだ」
その言葉に、私は固まった。
師匠が怖い、と口にしたことに対して。
「俺。死ぬ、のかなって……」
消え入りそうな声だった。
その瞬間、なぜだか胸の奥が、ぐしゃぐしゃに掻き乱される。
ああ。そんなの当たり前だ。
どれだけ頑張っても。
どれだけ強がっても。
人間、誰しも突然倒れたら、怖いものは怖いに決まってる。
「死なないッスよ」
私は間髪入れずに言った。
即答しなければならなかった。
「師匠は、そんな簡単に終わる人じゃないッス」
「……」
「だって、まだ千鶴さんのこと幸せにしてないじゃないッスか」
そう言った瞬間、胸が痛んだ。
本当は、そんなこと言いたくない。
本当は、今だけは。
私だけを見てほしいと思ってしまった。
だけど、それでも。
この人が一番望んでるものを、私は知っているから――。
「だから、ちゃんと治すッス」
師匠は静かに私を見つめる。
その視線が、妙に熱かった。
「……なんで」
「え?」
「なんで……そこまで……」
そんなの、決まってるじゃないっスか。
貴方のことが、大好きだからだ。
ずっと前から。
もう、本当にどうしようもないくらい。
初めて「師匠」と呼んだあの時から、ずっと私は惹かれていて。
一緒に千鶴さんと3人で同棲した時なんかも、本当に楽しくて。
ジョイポリスでの下見デートの時なんかも、本当の恋人のような感覚を味わえて――。
でも。この気持ちは絶対に表に出してはいけないっス。
だから、今は我慢をしなくちゃいけない。この感情を溢れ出せてはいけない。
そんなことを今ここでしてしまったら、いつもの『八重森みに』ではなくなる。
けれど――。
「本当に、いつも助けてくれてありがとう」
「……っ」
和也が、小さく笑う。
その笑顔を見た瞬間。
私はようやく理解してしまった。
もう、ダメなんだと。
私はもう、“師匠の恋を応援する八重森みに”ではいられない。
この人を失うかもしれないと思った瞬間。
自分でも引くくらい、心が壊れそうになった。
友達なんかじゃ嫌だ。ただの後輩じゃ足りない。
もっと近くに居たい。もっとこの人の面倒を見てあげたい。
この人に触れたい。
この人を独占したい。
そして、千鶴さんに、師匠のことを渡したくない。
そんな訳のわからない醜い思考と感情が、私の胸の奥で渦巻いている。
「や、八重森さん?」
「……なんでもないッス」
私は立ち上がる。
これ以上ここに居たら、きっと抑えられなくなる。
「今日はもう休むッスよ。師匠」
「……おう」
「あと、しばらく私が面倒見るんで」
「え」
「拒否権は無いッス」
「いやでも――」
「無いッス」
ぴしゃりと言い切る。
当たり前だ。私の前で呑気に倒れたくせに、はいそうですかとすんなり帰る気なんてさらさら無いっスよ。
「今の師匠、一人にしたら絶対無理するじゃないッスか」
「……」
「だから、私が傍に居るっス」
師匠は何か言おうとして、結局何も言わなかった。
その代わり。
少しだけ、安心したように目を閉じる。
「……おやすみッス。師匠」
静かに病室を出る。
そして扉が閉まった瞬間。
「っ……はぁ……」
壁に背中を預け、そのままずるずると座り込んだ。
ああ。苦しい。
どうしてだか、胸が痛い。
この後、師匠の家族が駆けつけてくるだろう。
このことが、千鶴さんに伝わるのも時間の問題かもしれないっス。
もしかしたら、木部さんや栗さんも来るかもしれないし、るかさん、そして元カノの麻美さんもこの緊急事態を聞いて駆けつけてくるかもしれない。
でも、今だけは。
この瞬間だけは、私だけ傍に居させてほしい――そう思った。