――舞台袖に置かれたスポットライトの熱が、薄暗い空間の空気をゆっくりと灼いていた。
照明機材の発する独特の焦げたような匂いと、稽古を終えた役者たちの汗の湿った熱気が混ざり合い、七月公演を目前に控えた稽古場には、張り詰めた緊張感と、どこか浮き足立つような高揚感が満ちている。
誰もが本番を意識し始めていた。失敗は許されない。けれど、その重圧すらも舞台人にとっては心を震わせる燃料だった。
「ちーちゃん! さっきの二幕ラスト、めちゃくちゃ良かったじゃんっ!」
休憩に入った瞬間、ペットボトルを片手に劇団員の女性が駆け寄ってくる。
周囲にもまだ興奮が残っていて、さっきまで演じていたシーンの余韻が空気に漂っていた。
「ほんと? ありがと、しーちゃん」
一ノ瀬ちづるは額に浮かんだ汗をタオルで軽く押さえながら、小さく微笑んだ。
「いやマジで空気変わったって。特にあの“泣きそうなのに泣かない”芝居、鳥肌立った」
「分かる分かる! 演出の人も珍しくベタ褒めしてたし!」
「さすがちーちゃん。次の舞台、主演オファー確定じゃない?」
「ちょ、ちょっとみんな! そんな持ち上げないでよ……もう」
困ったように笑いながら返す。その声音はいつも通り控えめだったが、胸の奥では確かな安堵が静かに広がっていた。
ここ最近、自分でも驚くほど芝居に集中できている。
感情が以前より自然に役へ溶け込み、舞台の上で“生きる”感覚を掴める瞬間が増えていた。
以前の自分なら、公演前になるたび不安に呑まれていたはずだった。
本当にこの演技でいいのか。観客の心に届くのか。祖母に胸を張れる役者になれているのか――そんな迷いが常に胸の奥底に沈殿していて、どれだけ拍手を浴びても消えることはなかった。
けれど、今は違う。
不安になった時、「大丈夫だ」と言ってくれる人がいる。
何度迷っても、何度立ち止まっても、変わらず自分を信じてくれる人がいる。
その存在が、自分の心をどれほど支えていたのか、最近になってようやく理解し始めていた。
「……」
ふと、脳裏に一人の顔が浮かぶ。
情けなくて、頼りなくて、すぐ空回りするくせに、誰よりも真っ直ぐな人。
自分の夢を、まるで自分のことみたいに本気で応援してくれて。
映画制作でも、舞台でも、苦しい時にはいつだって隣にいてくれた。
そして――誰よりも、自分を好きでいてくれた人。
一度振ったはずなのに、「ずっと待ってるから」と笑って言ってくれた。
靴擦れで歩けなくなった夜には、何も聞かず背中を貸してくれた。
どこまでも不器用で、どこまでも優しくて、その真っ直ぐさが時々痛いほど胸に刺さる。
だからこそ、彼のことを考えるたび、心が乱される。冷静でいようとしても、自分が自分じゃなくなるような感覚に襲われる。
それなのに、自分はまだ、その想いを言葉にできずにいた。
彼の優しさに甘えている自覚はある。
待たせ続けてはいけないことも分かっている。
それでも、答えを口にしてしまえば、今まで積み上げてきた関係が一気に変わってしまう気がして、怖かった。
最近、彼は引っ越したばかりで忙しいらしい。その話は、みにから聞いていた。
そういえば、ここ最近まともに連絡も取れていない。
今、どうしているんだろう。
「ちーちゃん?」
「え?」
「ぼーっとしてたけど、大丈夫?」
「あ……ご、ごめん! ちょっと考え事してて。何の話だっけ?」
「ふぅ〜ん? もしかして彼氏のこと考えてたー?」
「なっ!? ち、違うってば!」
その瞬間、周囲が一斉にニヤついた。
「図星だー!」
「ちょ、しーちゃん!?」
反射的に否定しようとして――言葉が止まる。
以前なら即座に「違う」と言えていたはずなのに、今はその言葉が喉につかえて出てこなかった。
“絶対に違う”と断言できない自分がいることに気づき、余計に頬が熱を持つ。
「最近なんか雰囲気柔らかいもんね〜」
「恋すると女優は変わるってやつ?」
「だから違うって……!」
必死に否定しても、耳まで熱くなっているのが自分でも分かる。
周囲の視線がむず痒くて、居心地が悪い。
それなのに、脳裏にはまた彼の顔が浮かんでしまう。
(もう……なんでこんな時に、あの人の顔が浮かぶのよ……)
小さく唇を尖らせた、その瞬間だった。
ポケットのスマホが震える。
取り出して画面を見た途端、ちづるの表情が固まった。
『木ノ下 晴美』
「……え?」
胸の奥がざわつく。晴美お義母さんから電話が来ること自体が珍しい。
ましてこんな時間に。嫌な予感が、説明のつかない不安となって心臓を締め付けた。
「ごめん、ちょっと電話出てくるね」
仲間たちに軽く会釈し、ちづるは稽古場を出る。
扉が閉まった瞬間、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠ざかり、廊下には静かな空気だけが残った。
スマホの画面を見つめたまま、数秒だけためらう。
けれど、鳴り続ける着信音が不安を煽り、やがて意を決して通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『あっ……ち、千鶴ちゃん!?』
電話越しの声は、ひどく震えていた。泣いている――そう気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「お義母さん……?」
『ご、ごめんねこんな時間に……! 忙しかったわよね……!?』
「いえ、私は大丈夫です。どうかしたんですか?」
返事はない。代わりに聞こえてくるのは、嗚咽を押し殺すような浅い呼吸音だけだった。
嫌な予感が、急速に現実味を帯びていく。
和に何かあったのだろうか――そんな最悪の想像が頭をよぎる。だが、その直後に告げられた現実は、それ以上に残酷だった。
「……何か、あったんですか?」
『――ッ』
電話越しに息を呑む音。
そして。
『和也が倒れたの……!!』
その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えた。理解が追いつかない。頭の中が真っ白になる。
「あ、あの……和也さんが、どうしたんですか……?」
『急に倒れて、救急車で運ばれて……今、病院に……!』
倒れた。救急車。病院。
言葉だけが耳に入ってくるのに、意味として脳が受け入れられない。呼吸が浅くなり、指先から体温が抜けていく。
「ちょ、ちょっと待ってください……」
掠れた声が、自分でも驚くほど弱々しい。
『病気だったみたいなの……!』
「病気……?」
『ずっと隠してたみたいで……私たちも知らなくて……!』
思考が停止する。
病気?
木ノ下和也が?
そんなはずがない。だって、この前まで普通に笑っていた。ジョイポリスにも行った。引っ越しの日には、「俺、待ってるから。水原のこと」と、真っ直ぐな目で言ってくれた。
自分だって、あの時――勢いのままキスをしてしまった。
それに、この前の電話でも。
『稽古頑張ってくれ!!』
あんなに明るく笑っていたのに。なのに、どうして。
「……病院、どこですか」
気づけば、そう尋ねていた。驚くほど感情のない声だった。けれど、その一方で指先は小刻みに震えている。
『え……?』
「今から行きます」
『で、でも千鶴ちゃん、稽古が……!』
「行きます」
有無を言わせない口調だった。しかし胸の奥では、恐怖が濁流のように渦巻いている。
もし。
もし、取り返しのつかない状態だったら。
もし、もう二度と――。
「……っ」
息が詰まり、気づけば壁に手をついていた。膝から力が抜けそうになる。
『千鶴ちゃん……?』
「病院の場所、送ってください」
『……わ、分かったわ。今送るから……!』
通話が切れた瞬間、全身から一気に力が抜け落ちた。
「……はっ」
呼吸が乱れる。スマホを握る手が震え、視界がかすむ。
病気なんて知らない。
何も聞いていない。
どうして、自分は何も気づけなかったのか。
「一ノ瀬ちゃん?」
背後から演技監督の声が聞こえる。振り返ると、劇団員たちが不安そうな顔でこちらを見ていた。
「だ、大丈夫? 顔真っ青だけど……」
返事ができない。頭の中に浮かぶのは、和也の顔ばかりだった。笑った顔。泣いた顔。必死に自分を励ましてくれた顔。
『俺、絶対諦めないから』
あの日の声が蘇るたび、胸が強く締め付けられる。
嫌だ。
そんなの、嫌。
「……ごめんなさい」
俯いたまま、小さく呟く。
「今日、早退します」
「えっ!? 大丈夫!?」
「ちょっと……知り合いが……」
そこまで言って、自分で気づく。
知り合いなんかじゃない。そんな軽い存在じゃない。
もし彼がいなくなったら――そう想像しただけで、立っていられないほど苦しくなる。
この感情が何なのか、もう分からないふりなんてできなかった。