八重森みにの逆転ラブコメ物語   作:Black Shadow

4 / 4
今回は千鶴視点で。ここから思いっきり曇らせようと思います(願望)。


嫌な予感

 ――舞台袖に置かれたスポットライトの熱が、薄暗い空間の空気をゆっくりと灼いていた。

 

 照明機材の発する独特の焦げたような匂いと、稽古を終えた役者たちの汗の湿った熱気が混ざり合い、七月公演を目前に控えた稽古場には、張り詰めた緊張感と、どこか浮き足立つような高揚感が満ちている。

 

 誰もが本番を意識し始めていた。失敗は許されない。けれど、その重圧すらも舞台人にとっては心を震わせる燃料だった。

 

「ちーちゃん! さっきの二幕ラスト、めちゃくちゃ良かったじゃんっ!」

 

 休憩に入った瞬間、ペットボトルを片手に劇団員の女性が駆け寄ってくる。

 周囲にもまだ興奮が残っていて、さっきまで演じていたシーンの余韻が空気に漂っていた。

 

「ほんと? ありがと、しーちゃん」

 

 一ノ瀬ちづるは額に浮かんだ汗をタオルで軽く押さえながら、小さく微笑んだ。

 

「いやマジで空気変わったって。特にあの“泣きそうなのに泣かない”芝居、鳥肌立った」

「分かる分かる! 演出の人も珍しくベタ褒めしてたし!」

「さすがちーちゃん。次の舞台、主演オファー確定じゃない?」

 

「ちょ、ちょっとみんな! そんな持ち上げないでよ……もう」

 

 困ったように笑いながら返す。その声音はいつも通り控えめだったが、胸の奥では確かな安堵が静かに広がっていた。

 

 ここ最近、自分でも驚くほど芝居に集中できている。

 感情が以前より自然に役へ溶け込み、舞台の上で“生きる”感覚を掴める瞬間が増えていた。

 以前の自分なら、公演前になるたび不安に呑まれていたはずだった。

 本当にこの演技でいいのか。観客の心に届くのか。祖母に胸を張れる役者になれているのか――そんな迷いが常に胸の奥底に沈殿していて、どれだけ拍手を浴びても消えることはなかった。

 

 けれど、今は違う。

 

 不安になった時、「大丈夫だ」と言ってくれる人がいる。

 何度迷っても、何度立ち止まっても、変わらず自分を信じてくれる人がいる。

 その存在が、自分の心をどれほど支えていたのか、最近になってようやく理解し始めていた。

 

「……」

 

 ふと、脳裏に一人の顔が浮かぶ。

 

 情けなくて、頼りなくて、すぐ空回りするくせに、誰よりも真っ直ぐな人。

 自分の夢を、まるで自分のことみたいに本気で応援してくれて。

 映画制作でも、舞台でも、苦しい時にはいつだって隣にいてくれた。

 

 そして――誰よりも、自分を好きでいてくれた人。

 

 一度振ったはずなのに、「ずっと待ってるから」と笑って言ってくれた。

 靴擦れで歩けなくなった夜には、何も聞かず背中を貸してくれた。

 

 どこまでも不器用で、どこまでも優しくて、その真っ直ぐさが時々痛いほど胸に刺さる。

 

 だからこそ、彼のことを考えるたび、心が乱される。冷静でいようとしても、自分が自分じゃなくなるような感覚に襲われる。

 

 それなのに、自分はまだ、その想いを言葉にできずにいた。

 

 彼の優しさに甘えている自覚はある。

 待たせ続けてはいけないことも分かっている。

 それでも、答えを口にしてしまえば、今まで積み上げてきた関係が一気に変わってしまう気がして、怖かった。

 

 最近、彼は引っ越したばかりで忙しいらしい。その話は、みにから聞いていた。

 そういえば、ここ最近まともに連絡も取れていない。

 

 今、どうしているんだろう。

 

「ちーちゃん?」

「え?」

「ぼーっとしてたけど、大丈夫?」

「あ……ご、ごめん! ちょっと考え事してて。何の話だっけ?」

「ふぅ〜ん? もしかして彼氏のこと考えてたー?」

「なっ!? ち、違うってば!」

 

 その瞬間、周囲が一斉にニヤついた。

 

「図星だー!」

「ちょ、しーちゃん!?」

 

 反射的に否定しようとして――言葉が止まる。

 以前なら即座に「違う」と言えていたはずなのに、今はその言葉が喉につかえて出てこなかった。

 

 “絶対に違う”と断言できない自分がいることに気づき、余計に頬が熱を持つ。

 

「最近なんか雰囲気柔らかいもんね〜」

「恋すると女優は変わるってやつ?」

 

「だから違うって……!」

 

 必死に否定しても、耳まで熱くなっているのが自分でも分かる。

 周囲の視線がむず痒くて、居心地が悪い。

 それなのに、脳裏にはまた彼の顔が浮かんでしまう。

 

(もう……なんでこんな時に、あの人の顔が浮かぶのよ……)

 

 小さく唇を尖らせた、その瞬間だった。

 

 ポケットのスマホが震える。

 

 取り出して画面を見た途端、ちづるの表情が固まった。

 

『木ノ下 晴美』

 

「……え?」

 

 胸の奥がざわつく。晴美お義母さんから電話が来ること自体が珍しい。

 ましてこんな時間に。嫌な予感が、説明のつかない不安となって心臓を締め付けた。

 

「ごめん、ちょっと電話出てくるね」

 

 仲間たちに軽く会釈し、ちづるは稽古場を出る。

 扉が閉まった瞬間、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠ざかり、廊下には静かな空気だけが残った。

 

 スマホの画面を見つめたまま、数秒だけためらう。

 けれど、鳴り続ける着信音が不安を煽り、やがて意を決して通話ボタンを押した。

 

「……もしもし?」

『あっ……ち、千鶴ちゃん!?』

 

 電話越しの声は、ひどく震えていた。泣いている――そう気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 

「お義母さん……?」

『ご、ごめんねこんな時間に……! 忙しかったわよね……!?』

「いえ、私は大丈夫です。どうかしたんですか?」

 

 返事はない。代わりに聞こえてくるのは、嗚咽を押し殺すような浅い呼吸音だけだった。

 

 嫌な予感が、急速に現実味を帯びていく。

 

 和に何かあったのだろうか――そんな最悪の想像が頭をよぎる。だが、その直後に告げられた現実は、それ以上に残酷だった。

 

「……何か、あったんですか?」

『――ッ』

 

 電話越しに息を呑む音。

 

 そして。

 

『和也が倒れたの……!!』

 

 その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えた。理解が追いつかない。頭の中が真っ白になる。

 

「あ、あの……和也さんが、どうしたんですか……?」

『急に倒れて、救急車で運ばれて……今、病院に……!』

 

 倒れた。救急車。病院。

 

 言葉だけが耳に入ってくるのに、意味として脳が受け入れられない。呼吸が浅くなり、指先から体温が抜けていく。

 

「ちょ、ちょっと待ってください……」

 

 掠れた声が、自分でも驚くほど弱々しい。

 

『病気だったみたいなの……!』

「病気……?」

『ずっと隠してたみたいで……私たちも知らなくて……!』

 

 思考が停止する。

 

 病気?

 

 木ノ下和也が?

 

 そんなはずがない。だって、この前まで普通に笑っていた。ジョイポリスにも行った。引っ越しの日には、「俺、待ってるから。水原のこと」と、真っ直ぐな目で言ってくれた。

 

 自分だって、あの時――勢いのままキスをしてしまった。

 

 それに、この前の電話でも。

 

『稽古頑張ってくれ!!』

 

 あんなに明るく笑っていたのに。なのに、どうして。

 

「……病院、どこですか」

 

 気づけば、そう尋ねていた。驚くほど感情のない声だった。けれど、その一方で指先は小刻みに震えている。

 

『え……?』

「今から行きます」

『で、でも千鶴ちゃん、稽古が……!』

「行きます」

 

 有無を言わせない口調だった。しかし胸の奥では、恐怖が濁流のように渦巻いている。

 

 もし。

 もし、取り返しのつかない状態だったら。

 

 もし、もう二度と――。

 

「……っ」

 

 息が詰まり、気づけば壁に手をついていた。膝から力が抜けそうになる。

 

『千鶴ちゃん……?』

「病院の場所、送ってください」

『……わ、分かったわ。今送るから……!』

 

 通話が切れた瞬間、全身から一気に力が抜け落ちた。

 

「……はっ」

 

 呼吸が乱れる。スマホを握る手が震え、視界がかすむ。

 

 病気なんて知らない。

 何も聞いていない。

 どうして、自分は何も気づけなかったのか。

 

「一ノ瀬ちゃん?」

 

 背後から演技監督の声が聞こえる。振り返ると、劇団員たちが不安そうな顔でこちらを見ていた。

 

「だ、大丈夫? 顔真っ青だけど……」

 

 返事ができない。頭の中に浮かぶのは、和也の顔ばかりだった。笑った顔。泣いた顔。必死に自分を励ましてくれた顔。

 

『俺、絶対諦めないから』

 

 あの日の声が蘇るたび、胸が強く締め付けられる。

 

 嫌だ。

 そんなの、嫌。

 

「……ごめんなさい」

 

 俯いたまま、小さく呟く。

 

「今日、早退します」

「えっ!? 大丈夫!?」

「ちょっと……知り合いが……」

 

 そこまで言って、自分で気づく。

 

 知り合いなんかじゃない。そんな軽い存在じゃない。

 

 もし彼がいなくなったら――そう想像しただけで、立っていられないほど苦しくなる。

 

 この感情が何なのか、もう分からないふりなんてできなかった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。