東方異人録 作:かまきりバニラ
暇潰しになれば幸いです!
意識の覚醒は、鋭い痛みとともに訪れた。
青年がまぶたを持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、重苦しく垂れ込めた深い緑の天蓋だった。そこは見知らぬ土地——というよりは、果てしなく続く鬱蒼とした原生林だった。巨木がひしめき合い、枝葉の隙間から差し込むわずかな光さえも、湿った空気に飲み込まれている。
「……っ」
こめかみを指先で押さえるが、頭を割るような拍動はやまない。どうして自分はここに横たわっていたのか。直前まで何をしていたのか。手探りで記憶の断片を拾い集めようとしても、脳裏には白い霧が立ち込めるばかりで、肝心な部分は霞んで消えてしまう。
泥の匂いと、腐葉土の冷たさ。
現実感のない静寂の中で、彼はよろめきながらも、ゆっくりと上体を起こした。
肺の奥がひりつくような感覚に、自分が浅い呼吸を繰り返していたことに気づく。泥を払うのも忘れ、肺胞の隅々まで行き渡らせるように、深く、長く、森の空気を吸い込んだ。
一度、二度。
湿り気を帯びた酸素が巡るにつれ、視界の歪みが収まっていく。毒々しかった頭痛は、潮が引くように少しずつ、静かな疼きへと形を変えていった。
頭痛が和らぐと、代わって鋭い焦燥が肌を刺した。
青年は周囲をゆっくりと見渡した。どこまでも続く巨木の群れは、まるで巨大な檻の格子のように彼を囲んでいる。風はないはずなのに、時折、遠くで葉が擦れるような、あるいは何かが這いずるような乾いた音が耳に届いた。
「……誰か、いないのか」
自身の声は、湿った空気に吸い込まれて響かない。喉の渇きを覚え、無意識に腰やポケットに手を伸ばすが、そこには見慣れたはずの日常を証明するものは何一つなかった。財布も、鍵も、現代的な文明の欠片さえも見当たらない。
ふと、足元に視線を落とした。
踏みしめた地面には、自分のものとは明らかに違う、何かが通り過ぎたような不自然な轍が残っている。それは獣の足跡にしては規則正しく、人間にしてはあまりに重苦しい。
その轍を追うように視線を先へ進めると、霧の向こう側に、周囲の樹木とは明らかに質感の異なる影が佇んでいた。
それは、朽ち果てた石造りの道標のようにも見えたし、あるいは誰かが意図的に配置した、警告のための杭のようにも見えた。
彼は躊躇い、そして一歩を踏み出す。
ここがどこであれ、このまま立ち止まっていれば、いずれ森の一部として飲み込まれてしまうだろう。その確信だけが、重い足を前へと進ませた。
森の奥から、冷ややかな風が吹き抜ける。
その風に乗って、微かに——本当に微かにだが——鉄の錆びたような匂いが漂ってきた。
錆びた匂いの正体は、すぐに判明した。
数歩、霧の奥へと踏み込んだ男の足が、凍りついたように止まる。
視界が開けたわずかな空間に横たわっていたのは、無惨に破壊された馬車の残骸だった。
頑丈そうだった木製の車輪はへし折れ、積み荷であったと思われる木箱や布袋が、中身をぶちまけられた状態で散乱している。だが、何より男の目を逸らさせたのは、その中心に横たわる「モノ」だった。
それは、かつて人間であったはずの肉塊だ。
「……っ、うあ……」
喉の奥から酸っぱいものがせり上がる。
死体は、およそ自然界の捕食ではありえないほど、執拗に食い破られていた。衣服は引き裂かれ、露出した胸部や腹部は、鋭利な「何か」によって強引に抉り取られている。周囲の地面は黒ずんだ血に染まり、鉄錆の匂いが混じった死臭が、湿った空気の中にどろりと停滞していた。
死体の傍らには、息絶えた馬の姿もあった。馬もまた、首筋から大きく肉を削ぎ落とされ、苦悶の表情を浮かべたまま硬直している。
そこにあるのは、単なる事故や野犬の襲撃ではない。もっと悪意的で、圧倒的な暴力の痕跡だ。
青年は震える手で口元を覆い、必死に嘔吐感を堪えた。逃げ出したいという本能が警鐘を鳴らす。しかし、その凄惨な光景の中に、妙に現実味を帯びた「ある物」が落ちているのが目に入った。
散乱した荷物と血溜まりの境界線。
そこには、この惨劇とは不釣り合いなほど、静かに転がっている遺留品があった。
思考が停止していた。あまりの惨状を前に、青年の足は地面に縫い付けられたように動かない。
だが、その硬直を破ったのは、本能が鳴らす最大級の警鐘だった。
背筋を凍りつかせるような、剥き出しの殺気。
「——ッ!」
反射的に顔を上げると、頭上の巨木の枝にそれはいた。
筋骨隆々とした四肢を木に絡みつかせた、巨大な猿を彷彿とさせる獣。その体躯は、立ち上がれば優に三メートルは超えるだろう。うっそうとした闇の中で、獣の双眸だけが、飢えと狂気を孕んだ深紅の光を放っている。
咆哮さえなかった。
獣は獲物を定めるや否や、弾かれたように枝を蹴った。巨体が空を切り、死神のような速度で肉薄する。
動け!と脳が叫び、青年は無我夢中で横へ身を投げた。
直後、鼓膜を震わせる轟音が響く。
獣が着地した地面は、爆散したかのように激しく爆ぜた。凄まじい衝撃波とともに、粉砕された土石が礫(つぶて)となって四方八方へと飛び散る。
「がっ、あぁ……!?」
かわしたはずだった。しかし、散弾のように放たれた石の一つが、無慈悲にも男の側頭部を捉える。
鈍い衝撃とともに、視界が真っ白に染まった。
焼けた鉄を押し当てられたような熱い激痛が走り、平衡感覚が消失する。男の体は為す術もなく地面を転がり、止まない耳鳴りの中で、再び深い混濁の淵へと引きずり込まれそうになる。
意識が遠のく中、青年の網膜に焼き付いたのは、さらなる絶望ではなかった。
爆塵の向こう側、血に飢えた獣が再び地を蹴る音が聞こえる。抗う術のない死の抱擁——。だが、その結末を切り裂くように、無数の「糸」が月光を反射して煌めいた。
「——詰めが甘いわね」
凛として、どこか冷徹な響きを含んだ少女の声。
視界の端で、七色の人形遣いを象徴する、青を基調としたエプロンドレスが翻る。彼女は優雅な所作で本を閉じると、青年と怪物の間に、まるで見えない壁を築くように立ちはだかった。
獣が三メートルの巨体を揺らし、圧殺せんと腕を振り上げる。しかし、少女は眉ひとつ動かさない。彼女が指先をわずかに躍らせると、虚空から現れた数体の人形たちが、意志を持つかのように鋭い槍を構えて飛び出した。
「……下がりなさい」
次の瞬間、森の湿った空気が張り詰めた魔力に支配された。
彼女が操る人形たちが複雑な陣形を描き、それぞれの掌から非科学的な光の弾幕が放たれる。
一糸乱れぬ連携。
放たれた人形たちが獣の懐で眩い光を放ち、連鎖的な爆発を巻き起こした。
鼓膜を震わせる咆哮が、断末魔へと変わる。圧倒的な質量の暴力に対し、彼女は指先ひとつで編み上げた芸術をもって、その存在を完膚なきまでに否定してみせた。
獣の影が爆煙の中に霧散していくのを、青年は朦朧とした意識の中で見つめていた。
背中を向けたまま、彼女は人形を回収し、乱れた金髪を静かに整える。上海と呼ばれた人形が彼女の肩の周りを浮遊し、主人の勝利を称えるようにくるりと回った。
(助かった……のか……?)
安堵が限界を迎えた脳に溶け込み、男の意識はぷつりと途絶えた。
最後に耳に届いたのは、彼女が青年の傍らに膝をつき、小さく溜息をつく声だった。
「……貴方、運がいいのね」