東方異人録 作:かまきりバニラ
翌朝、魔法の森を包む霧は深く、湿った空気が肌にまとわりつくようだった。
アサヒとアオは、陽光さえも遮る鬱蒼とした木々の間を抜け、迷いの竹林へと足を踏み入れた。
竹林の境界を越えた瞬間、空気の質が変わった。
見上げるほどに高く伸びた竹が、風もないのにサワサワと騒がしい音を立て、視界の端から端までを淡い緑の檻で埋め尽くす。
「……なるほど、これは厄介だな」
アサヒは背後に振り返ったが、そこには今来たはずの道はなく、ただ果てしなく続く竹の壁があるだけだった。
空間の認識が歪み、平衡感覚がじわじわと削り取られていく。
地図も方位磁針も、恐らくこの場所ではただのガラクタに過ぎない。
アサヒは呟き、背後のアオに視線を送った。
アオは無表情に頷くと、アサヒの半歩先に出て、周囲の気配を探るように歩き出す。
二人は静寂が支配する竹の海を進んだ。風に揺れる竹の葉が擦れ合う音が、まるで誰かの囁き声のように鼓膜を叩く。
一時間、あるいはそれ以上の時間が過ぎた頃だろうか。
アサヒは周囲の景色が、先ほどから全く変わっていないことに気づいた。切り倒された不自然な竹の切り口。
それは数分前に自分たちが通り過ぎたはずの場所だった。
「結局、迷ってしまった……」
アサヒは足を止め、無策でこの迷いの竹林に入ったことを後悔した。
だが、焦りはなく、冷静に今置かれている状況を把握する。この非効率的な状況に対して、わずかに眉根を寄せただけだった。
「珍しい。こんな竹の奥深くまで、美味そうな『外の人間』が迷い込んでくるとはね」
その静寂を破ったのは、低く、湿った唸り声だった。
竹の節が擦れ合う音に混じり、何かが泥を蹴る音が近づいてくる。
藪の中から姿を現したのは、巨大な狼男を思わせる獣の妖怪だった。
しかし、その瞳には獣特有の純粋な殺意ではなく、狡猾な理性が宿っている。
裂けた口からは、人の言葉が滑らかに、そして不気味に溢れ出していた。
「ちょうど腹が減っていたところだ。安心しろ、一思いに喉笛を掻き切ってやる。その隣の小娘は、デザートにでもするか?」
獣が前脚を低く構え、鋭い爪が地面を抉る。
アサヒが言葉を返す暇もなく、獣の巨体が弾丸のような速さで跳ねた。
「アオ」
短く、アサヒの声が飛ぶ。
その瞬間、アオの動きは物理的な質量を感じさせないほどに滑らかだった。
彼女は一歩も引くことなく、虚空へと細い手を伸ばす。
その手の中に、一瞬にして巨大な銀色の質量が結実した。それは、彼女の背丈ほどもある無骨で巨大な戦斧。
装飾を一切排し、ただ断つという機能のみを追求したその武器は、創造された瞬間に空気を裂く重圧を放つ。
「あ――?」
空中で獲物を仕留める確信に満ちていた獣の妖怪が、驚愕に目を見開く。
しかし、それが最期に抱いた感情となった。
アオは、跳ね上がってきた獣の勢いを利用するように、斧を垂直に振り下ろした。
空気を断つ轟音。
言葉を解する知性も、数多の人間を屠ってきたであろう経験も、その一撃の前には無意味だった。
戦斧は獣の脳天から股下までを、紙を裂くかのように一線に両断する。
血飛沫が舞うよりも早く、強大な衝撃波が周囲の竹をなぎ倒した。
かつて妖怪だったものは、肉塊となって地面に叩きつけられ、ピクリとも動かなくなった。
戦斧は、その役割を終えると同時に霧のように霧散し、アオの手の中には再び何も残らなかった。
彼女は返り血の一滴すら浴びることなく、無機質な表情のまま、足元に転がる死骸を見下ろしている。
森に静寂が戻る。
アサヒは、あまりにも一方的な幕引きを前に、ゆっくりと自分のこめかみを押さえ、深い溜息を吐き出した。
「あ、やっべぇ……」
アサヒの声が、竹林に力なく響く。
「……人の言葉が分かるなら、何か聞いとけばよかったぁ。永遠亭への行き方とか、妹紅さんのこととか……」
目の前の肉塊は、もはや情報を引き出せる状態にはない。
アサヒは、自らの不手際を痛感することとなった。
隣に立つアオは、主人の嘆きを理解しているのかいないのか、ただ次の指示を待つように、静かにその視線を虚空へと戻していた。
竹林の静寂を破ったのは、先ほどの殺戮を特等席で眺めていた者の、どこか楽しげな声だった。
「へぇ~、やるじゃん。人の言葉が分かるってだけでなかなか手強い妖怪だってのに、一撃か~」
アサヒが声のした方へ鋭く視線を転じると、そこには不釣り合いなほど無邪気な姿があった。
頭上の太い枝に腰掛けているのは、癖のある短い黒髪に、ぴんと立った白い兎の耳を持つ少女。桃色のワンピースの裾を揺らし、もふもふとした尻尾を枝に預けて、退屈しのぎの玩具を見つけたような目でこちらを見下ろしている。
「君は?」
アサヒが問いかけると、少女は太い枝の上でくるりと身を翻し、膝を抱えるように座り直した。
白い兎耳が小刻みに揺れ、逆光の中で口角が吊り上がる。細められた瞳が、値踏みするように地上を見下ろした。
「名乗るならまず自分からじゃない?」
「……俺はアサヒ。こっちはアオ。ほら、自己紹介したぞ」
ぶっきらぼうにそう告げると、少女は満足げに頷き、重力を無視したような軽やかさで枝から舞い降りた。地面に降り立つその足取りには、不思議な軽快さがある。
「私は因幡てゐ。この迷いの竹林の主だよ」
自らを主と称した少女――てゐは、足元に転がっている無惨な獣の死骸を一瞥し、鼻を鳴らした。
てゐは、アサヒの周囲を値踏みするようにくるりと回り、最後にアオの前で足を止めた。
アオは感情を排した瞳で、目の前の小さな亜人をじっと見据えている。先ほどまで戦斧を振るっていたとは思えないほど、その立ち姿は静止画のように揺るぎない。
「あんたたち、『永遠亭』に行きたいんじゃないの~?」
てゐはアサヒを見上げ、三日月のように深く口角を吊り上げた。
細められた瞳の奥で、粘りつくような光が揺れる。
彼女は爪先で地面の土を弄びながら、横目でじっとこちらの反応を伺った。
「迷いの竹林の主である私が案内してあげてもいいけど……どうする? このままここで一生、竹の数を数えて過ごすのも悪くないと思うよ?」
アサヒは、先ほどの後悔を即座に切り替えた。
目の前の兎が、アリスの言っていた永遠亭の関係者、あるいは少なくともそこへ至る道を知る者であることは明白だった。
「……助かるよ。見ての通り、俺たちはこの竹林に歓迎されていないみたいだからな」
「あはは! 歓迎されてないのはいつものことだよ。ここはそういう場所だもん」
てゐはアサヒの言葉を笑い飛ばすと、ひょいと背を向けて歩き出した。
歩き出すてゐの背中を追いかけようとしたアサヒの袖を、アオの指先がわずかに引いた。
アサヒが振り返ると、アオは言葉を発することなく、ただ一点――先ほどまでてゐが座っていた枝の周囲、見えない何かの気配が揺れている方向を指し示した。
「……アオ?」
アオの視線は鋭い。
彼女の眼には、てゐが歩くたびに竹林の霧が不自然に形を変え、二人を囲むように道が閉じていく様子が見えていた。案内されているのか、それともより深い場所へと誘い込まれているのか。
「どうしたの? 早く来ないと、本当に置いていっちゃうよ?」
前方からてゐの急かすような声が響く。
アサヒはアオの肩に手を置き、小さく頷いた。
「あぁ、わかってる。……大丈夫だ。行こう、アオ」
主人の言葉に従い、アオは指を離した。
しかし、その足取りは先ほどよりもわずかに速く、いつでも主人の前に割り込めるよう、絶妙な距離感を保ち続けている。
三人の影は、てゐの軽快な鼻歌と共に、さらに深く、陽の光の届かない竹の迷宮へと吸い込まれていった。
次回へ続きます!