東方異人録   作:かまきりバニラ

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『成る覚悟』

 柔らかな陽光が障子を透かし、室内を淡く照らし出す。竹林を渡る風が葉を鳴らす、その規則正しい音色でアサヒは意識を浮上させた。

 

 隣には、既に身なりを整えたアオが座している。微動だにせず、呼吸すら感じさせないその佇まいは、鏡のような水面を思わせる静謐さを纏っていた。

 

 アサヒが身支度を終え、部屋の引き戸を開けると、廊下には鼻を突く薬草の香りが満ちていた。

 

 廊下の角を曲がったところで、八意永琳と正面から顔を合わせる。彼女は昨日と変わらぬ凛とした空気を纏い、その腕には年季の入った数冊の書物を抱えていた。

 

 「おはよう。よく眠れたかしら?」

 

 「あ、おはようございます。おかげさまで」

 

 「それなら良かったわ。これから向かうの?」

 

 アサヒの返答に短く頷いた永琳の背後から、軒下に身を隠していたてゐがひょっこりと顔を出した。

 

 「早いねぇ」

 

 「ていは準備できたのか?」

 

 「まあ一応ね~」

 

 軽い調子で応じるてゐを見やり、アサヒは歩を進めようとしたが、永琳の静かな声がそれを止めた。

 

 「アサヒ。出発の前に少しだけ話せる?」

 

 「大丈夫ですけど……」

 

 「それじゃあ私の医務室に立ち寄ってもらえるかしら」

 

 永琳の視線には、単なる挨拶以上の重みがあった。一行は彼女の後に続き、奥まった場所にある医務室へと足を踏み入れた。

 

 医務室の中は、乾燥した薬草と古い紙の匂いが混じり合っていた。永琳は抱えていた書物を机に置くと、アサヒに向き直る。

 

 「さてと。どこから話そうかしら?」

 

 永琳は一呼吸置き、机の上に置かれたガラス製の試験管に目をやった。そこには、昨日採取されたアサヒの血液が僅かに残っている。

 

 「アサヒ、あなたから採った血を少しだけ、興味本位で調べさせてもらったの。そしたら面白い事実が判明したわ。貴方、自分が何か別のものへと変わっていっている自覚はある?」

 

 「べ、別のもの……?」

 

 問いかけの意味が掴めず、アサヒの言葉が詰まる。壁に背を預けていたてゐが、退屈そうに爪を弄りながら口を挟んだ。

 

 「もったいぶらないで教えてやんなよ~」

 

 永琳は小さく溜め息を吐き、視線を再びアサヒに固定した。その瞳は、観察者としての冷徹な光を宿している。

 

 「負った傷をアオが治してくれてると言ったわね?」

 

 「そう、ですね……」

 

 「アオは、傷を再生させられるかもしれない。けれど、再生した部分は、厳密にはあなたの組織ではないの。アオという存在の構成物質が、あなたの欠損を埋めている」

 

 永琳は手近な資料を指先で叩き、言葉を継いだ。

 

 「貴方が傷をアオに治療してもらう度に、貴方の肉体は変質していく。細胞単位で書き換えられ、人間ではない『ナニか』へと近づいているのよ。……この幻想郷の言葉で定義するなら、それは『妖怪』に近い存在へとね」

 

 診察室の中に、沈黙が落ちる。

 

 アサヒの隣に立つアオは、相変わらず表情を一切変えることなく、ただ静かに主の傍らに佇んでいる。

 

 「貴方が傷を負い、アオが治す。この繰り返しによって貴方は人を失っていくの」

 

 永琳の言葉に重なるように、てゐが低く、愉しげな声を響かせた。

 

 「自覚はないかもしれないけどさ。あんた、会ったときから既に混ざった匂いがしてたんだよねぇ」

 

 壁に寄りかかったまま、てゐは口角を吊り上げ、品定めをするような視線をアサヒに投げかける。

 

 永琳の表情は、先ほどまでの冷静な観察者のそれから、医者としての、あるいはこの世界の理を説く者の深刻な色へと変わっていた。

 

 「もう無茶は止めなさい。これからは戦いになったとしても、矛であり盾であるアオに全てを委ねるの。でなければ、貴方は取り返しのつかない変質を遂げることになるわ」

 

 沈黙が医務室の空気を支配する。アサヒは視線を落とし、言葉を咀嚼するように黙り込んだ。永琳はそれを躊躇いと受け取ったのか、さらに厳しい言葉を重ねる。

 

 「いい? この幻想郷において、人間が妖怪へと転じることは最大の禁忌なのよ。もしその境界を越えれば、貴方は守られる対象ではなく、博麗の巫女を筆頭とした者たちに『退治』される側になる」

 

 その宣告を聞いた瞬間、傍らにいたアオの肩が僅かに震えた。無機質だった彼女の瞳に、言いようのない不安と動揺が混じり、耐えかねたように視線を床へと逃がす。

 

 「だから――」

 

 永琳が結論を口にしようとしたその時、アサヒの声がそれを遮った。

 

 「ご忠告、ありがとうございます」

 

 その声には、迷いや恐怖の震えは一切含まれていなかった。

 

 「けど、それは俺が今までのやり方を変える理由にはなりません」

 

 永琳とてゐの動きが止まった。二人は虚を突かれたように目を見開き、目の前の青年を凝視する。

 

 「は、話を聞いていたかしら? 無茶を続ければ貴方は人でなくなる。そうなれば、貴方を排除しようとする輩が次々と現れるのよ」

 

 「それでも構いません」

 

 淡々とした、しかし岩のように動かない返答に、永琳は声を荒らげた。

 

 「貴方……!」

 

 「俺は、アオに多くの命を奪わせました。それは、彼女の力にかまけた俺の身勝手なエゴです。俺が彼女を使い、彼女に怪物になるための業を背負わせてしまった」

 

 医務室を、先ほどとは質の違う静寂が包み込む。俯いていたアオが、弾かれたように顔を上げた。

 

 「ただ……アオ一人を怪物にさせるつもりはありません」

 

 アサヒの瞳には、一切の曇りがない。そこにあるのは、自らの破滅を予見しながらも、それを当然の報酬として受け入れる覚悟だけだった。

 

 永琳は毒気を抜かれたように、あるいは圧倒されたように、数秒の間言葉を失った。やがて、絞り出すように問いを投げかける。

 

 「彼女は……アオは、貴方にとって一体何なの?」

 

 「昨日も言いましたよね?俺の相棒です」

 

 簡潔なその一言に、アサヒの意志のすべてが凝縮されていた。

 

 「あっひゃっひゃっ! こりゃ一本取られたね~!」

 

 てゐが膝を叩いて爆笑し、重苦しい空気を強引に突き破った。

 

 「笑い事じゃないわ。全く……」

 

 永琳は深く、深く溜め息を吐き、頭を抱えるようにして視線を逸らした。

 

 「アサヒ、あなたの考えはハッキリ言って甘いわ。結末がどうなるか、想像もついていないのでしょうね」

 

 一呼吸置き、永琳は再びアサヒを正面から見据えた。呆れの色は消えていないが、その瞳の奥には、奇妙な熱に触れた時のような、隠しきれない敬意が混じっていた。

 

 「でも、貴方が決めた道よ……精進しなさい」

 

 「はい。ありがとうございます」

 

 アサヒは短く一礼し、隣で呆然としているアオの肩を軽く叩いた。医務室を出ていく三人の背中を、永琳は無言で見送っていた。

 

 

 

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 三人が医務室を去り、バタンと扉が閉まった後の室内。静寂が戻ったはずの空間に、衣擦れの音と共に新たな気配が混じった。

 

 「どうしたの? そんな怖い顔して」

 

 奥の私室へと続く帳が静かに上がり、輝夜が姿を現した。彼女は手に持った扇で口元を隠しながらも、その瞳には隠しきれない好奇心の色を湛えている。

 

 「輝夜様、聞いていたんですね……」

 

 永琳は姿勢を正し、主に向き直った。その表情には、先ほどまでの議論の名残である険しさがまだ僅かに張り付いている。

 

 「まあね。貴女が一人の人間に感情的になるなんて、珍しいじゃない」

 

 輝夜は軽やかな足取りで室内を歩き、先ほどまでアサヒが立っていた場所を見つめた。

 

 「あのていが毒気を抜かれたような顔をして。ましてや月の頭脳たる貴女が、理屈ではなく感情で言葉をぶつけるなんて。よほど彼が気に入らなかったのかしら?」

 

 「……ええ。私自身も驚いています」

 

 永琳は机の上の書物を整える手を一瞬止め、遠くを見つめるような目をした。

 

 「あんな眼をする人間は、久々だったので。ただの無謀とも、破滅願望とも違う。己の行き着く先を完全に見据えた上での……あんなに静かな覚悟は」

 

 数多の歴史を見届け、神にも等しい知恵を持つ永琳にとって、人間の決意など大抵は予測の範疇に収まるものだ。しかし、先ほどアサヒが示した「怪物になる業を共有する」という言葉の重みは、彼女の計算を僅かに狂わせたようだった。

 

 「ふふっ。おもしろいわね、彼」

 

 輝夜は楽しげに声を弾ませた。

 

 「まるで、御伽話の結末を書き換えようとしているみたいじゃない」

 

 「止めてください、輝夜様まで……」

 

 永琳は困ったように眉を下げ、溜め息を吐き出す。

 

 「ただでさえ危うい均衡の上に成り立っている者たちです。放っておけば、本当に幻想郷のタブーに触れて消されてしまう。私はただ、無駄な命を散らしてほしくないだけです」

 

 医者としての、あるいは賢者としての義務感を強調するように言葉を継ぐ永琳。しかし、輝夜はその様子を眺めながら、悪戯っぽく微笑を深めた。

 

 「何言ってるのよ。貴女、さっきから口角が上がってるわよ?」

 

 「え……っ」

 

 不意を突かれた永琳は、慌てて自分の口元を片手で塞いだ。指先の下で、確かに自分でも無意識のうちに頬を緩ませていたことを悟り、彼女の耳の端が僅かに赤く染まる。

 

 「あら、図星かしら?」

 

 「……さあ、どうでしょうね。私はただ、あのような予測不能な要素が入り込むのは、治療の計画を立てる上で非常に厄介だと思っているだけです」

 

 永琳は努めて冷静な声を出し、逃げるように棚の薬瓶の整理を始めた。

 

 その背中を見つめながら、輝夜は満足げに扇を閉じ、窓の外に広がる深く青い竹林へと視線を向けた。




次回に続きます!
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