東方異人録   作:かまきりバニラ

16 / 16
『外来人』

 

「にしても、どうしてこっちを見るなり襲いかかってきたんだ?」

 

 大木の根元にもたれかけさせたレイセンの静かな寝息を聞きながら、アサヒは腕を組み、頭を抱えるように首をひねった。

 

 「尚更、てゐの姿が見えたんなら、仲間だってことくらい分かりそうなもんだろ」

 

 「んなこと私に聞かれてもわっかんないよー。こっちだって何が何やらちんぷんかんぷんなんだから」

 

 呆れたように肩をすくめるてゐ。その横ではアオが口元にそっと手を添え、アサヒの思案を妨げないよう静かに控えている。

 

 「目を覚ましたら、また見境なく襲ってきたりしないよな?」

 

 「まあ、可能性はゼロじゃないよねぇ」

 

 「妖怪の山へ輝夜さんと永琳さんからの使いで向かってたってんなら、色々と情報を聞き出したいところなんだけど……」

 

 思考を巡らせながらも、意識のない者をこの森に置き去りにするわけにもいかない。アサヒが苦々しい顔で思い悩んでいると、パンッと乾いた拍手の音が静寂を破った。

 

 「しゃーない! 私が一旦、この子を永遠亭まで連れて帰るよ」

 

 「それじゃ困るだろ。妖怪の山への道案内はどうするんだ?」

 

 「大丈夫、ほいっ」

 

 ひょいと投げ放たれた小物が綺麗な放物線を描き、アサヒの手に収まる。手持ちの明かりに透かしてみれば、それは葉っぱの形をした、プラスチックのような独特の質感を持つキーホルダー状の代物だった。アサヒは眉をひそめ、物珍しそうにそれを検分する。

 

 「その葉っぱの先っぽが示す方向に向かえば、迷わず妖怪の山まで辿り着けるよ。目的地に到着したら全体が黒く変色するから、それが着いた証拠ね」

 

 「磁石のコンパスみたいなものか……って、だったら最初から道案内なんて必要なかったんじゃないか?」

 

 「バカ言わないでよ! それ、滅多に手に入らない貴重品なんだから、本当は使わせたくなかったんだからね? 絶対壊さないで返しなよ?」

 

 「ああ、分かった。大事に使うよ。とりあえずここまで助かった。その子のこと、よろしく頼む」

 

 「あいよー。そっちも何が潜んでるか分からないんだから、しっかり用心しなよ~」

 

 てゐは自分よりも背の高いレイセンを器用に担ぎ上げると、ひらひらと手を振りながら元来た道へと引き返していった。その姿が完全に樹木の影に消えるのを見届けてから、アサヒは隣の少女に視線を向ける。

 

 「さて、俺たちも行こうか。アオ」

 

 「うん。分かった」

 

 手の中にある小さな葉っぱは、深い森の奥——妖怪の山のある方角をじっと指し示している。ふたりは足元を確かめながら、未知なる導きに従って歩き出した。

 

 静まり返った森の中、二人の足音だけがカサカサと落ち葉を鳴らしていた。前を行くアサヒの背中を見つめ、アオがぽつりと口を開く。

 

 「ごしゅじんさま」

 

 「ん? どうした?」

 

 足を止めずに振り返るアサヒに、アオは少し歩調を速めて並んだ。いつもと変わらない無表情。けれどその澄んだ瞳の奥には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。

 

 「……わたしがもっと強くなれば、ごしゅじんさまは無茶しなくてもすむ?」

 

 先ほどのレイセンとの戦いで見せた、アサヒの身を削るような立ち回り。それが心に引っかかっているのだと察し、アサヒは困ったように苦笑いを浮かべた。

 

 「アオは十分強いよ。それに、俺だって無茶なんてしてないさ」

 

 「でも……」

 

 アオは視線を落とし、自分の衣の裾をぎゅっと握りしめた。

 

 「ごしゅじんさまがいっぱい怪我しても、わたしが治せる。……でも、えいりん、っていう人に言われたの。わたしがごしゅじんさまを治すたびに、ごしゅじんさまが人間じゃなくなっていくって」

 

 永遠亭で永琳から受けた検診の記憶。癒やすほどに侵されていくという残酷な真実を、アオはずっと胸の奥で抱え込んでいたのだ。

 

 アサヒは足を止め、ゆっくりと振り向いた。アオの頭にそっと手を置くと、どこか遠くを見つめるような、諦観の混じった静かな笑みを浮かべる。

 

 「アオ。それが——俺の背負うべき業なんだ。アオには、まだピンとこないかもしれないけどさ」

 

 頭に載せた手に少しだけ温もりを込め、アサヒは言い聞かせるように言葉を続けた。

 

 「大丈夫だから、そんな顔をしないでくれ。俺だって、死に急ぐような真似は絶対にしないからさ」

 

 アオは頭上に触れる手の感触を確かめるように静止し、じっとアサヒの瞳を見つめ返した。その深海のような瞳の奥で小さな葛藤が揺らぎ、やがて静かな覚悟へと変わっていく。

 

 「……ごしゅじんさまが決めたことだから、わたしは無理に止めない」

 

 感情の起伏に乏しい声。けれどそこには、主の意思をどこまでも尊重しようとする健気な決意が宿っていた。アサヒは救われたような思いで、優しく目元を緩める。

 

 「ああ。ありがとう、アオ」

 

 ポンポンと優しく頭を叩いてから手を離すと、アサヒは再び前を向き、指し示された深緑の奥へと足を踏み出した。

 

 それからどれほど歩いただろうか。天を覆うほどの巨木が立ち並ぶ、ひときわ静寂の深い境界のような場所へと差し掛かったときだった。手元のコンパスを見つめていたアオが、足を止めてぽつりと声を漏らす。

 

 「あ、黒くなった」

 

 言われてアサヒが覗き込むと、手にしていた葉っぱ型のコンパスは、まるで墨を流し込んだかのように全体が黒く染まりきっていた。

 

 「つまり、目的地到着?」

 

 「みたいだな。……なんとなく、少し空気も変わった気がする」

 

 周囲を包む湿んだ森の気配がふっと薄れ、肌を撫でる風の中にピンと張り詰めた冷気が混じり始める。妖怪の山——その境界へと踏み込んだことを肌感覚で理解したアサヒが軽く息を吐いた、次の瞬間だった。

 

 「っ……!」

 

 「アオ?」

 

 アオの瞳が不意に鋭く細められ、アサヒを庇うように素早く一歩前へ躍り出る。

 

 彼女の華奢な手元から、眩い蒼の光彩が弾けた。散った光の粒子が一瞬で収束し、その手に重厚な手斧の姿を立ち昇らせる。無言のまま刃を構え、森の奥の闇を睨みつけるアオの鋭い視線に呼応するように、アサヒもまた即座に身構えた。

 

 静まり返った樹海の暗がりから、不穏な気配が確実に近づいてきていた。

 

 「ごしゅじんさま」

 

 アオが静かな声で呼びかける。彼女の空いた左手に再び蒼い光の粒子が収束すると、今度は一振りの無骨な鉈となって実体化した。アオはその柄をアサヒの方へと向け、迷いなく差し出す。

 

 「助かる」

 

 アサヒは短く答え、差し出された鉈の柄を慣れた手つきで受け取った。手になじむ重みと鉄の冷たさを確かめるようにギュッと握り直すと、アオの背後に回るようにして視線を鋭く走らせる。

 

 重厚な手斧を構えるアオと、鉈を静かに握り締めるアサヒ。互いの背中を守り合う陣形を整えた二人の視線の先で、森の闇を揺らす葉擦れの音が、次第に大きくなっていった。

 

 ——頭上。

 

 頭頂を刺すような悪寒と同時に、アサヒの視界の端で頭上の枝葉が激しく揺れた。

 

 「くっ……!」

 

 思考よりも早く、手にした鉈を斜め上へと突き出す。直後、頭上から叩きつけられた一閃が、アサヒの掲げた刃を激しく打った。

 

 静寂を切り裂く、鼓膜を穿つほどの金属音。暗闇の中に鮮烈な火花が散り、二つの刃が擦れ合う微かな不協和音が鼓膜を震わせる。腕を痺れさせるほどの重い衝撃を、アサヒは半身を引いて巧みにいなし、力任せの落下攻撃を斜め後ろへと受け流した。

 

 擦れ違った衝撃の正体——頭上から降り立った影の手には、冷たい月光を弾く白銀の剣が握られていた。

 

 視認すら困難な、恐ろしいまでの速度と威力を秘めた急襲。直撃していれば首と胴が分かたれていたであろう一撃を、アサヒは僅かな予兆と直感だけで見事に弾き返してみせたのだ。

 

 人外の領域に身を置くアオやてゐ、あるいは先ほど死闘を演じたレイセンのような存在であれば、今の奇襲を回避することなど造作もないことだったろう。しかし、特別な能力を持たない「ただの人間」に過ぎないアサヒが今の切り払いをやってのけたのは、本来ならば驚嘆に値する芸当だった。

 

 だが——それはどこまでも、紙一重で噛み合った「たまたま」に過ぎない。例えるなら、人が叩き落とそうとした腕を、羽虫が偶然かわしてみせたようなものだ。奇跡的に死線を掠めただけであり、二人の間に横たわる決定的な実力差は何一つ埋まってはいない。

 

(次を食らえば……間違いなく殺られる)

 

 痺れた手首に残る鈍い痛みを噛み殺しながら、アサヒの背筋を冷や汗が滑り落ちる。今のは完全に運が良かっただけだ。次は到底、捌ききれる保証などどこにもなかった。

 

 思考する隙すら与えない。刹那の静寂を破り、再び刺すような死の気配が爆ぜた。

 

 アサヒの脳裏に警鐘が鳴り響く。——だが、身体の反応が追いつかない。先ほどの回避が純粋な奇跡だったのだと思い知らされるほど、眼前の影がブレ、銀閃が迫る。視認すら叶わない神速の一撃。

 

 「もらった——!」

 

 勝利を確信した襲撃者の、鋭い喚声が夜の森に響く。

 しかし——その圧倒的な速度すら、主を守る少女の前では遅すぎた。

 

 暗闇を切り裂き、甲高い金属音が鼓膜を揺らす。アサヒの視界に割り込んだアオが、手にした手斧の厚い腹で、閃光のような斬撃を真っ向から弾き返していた。

 

 「なっ……!?」

 

 衝撃で体勢を大きく崩した襲撃者の隙を、アオは見逃さない。流れるような踏み込みで見切ると、空を切った相手の足首を、華奢な腕からは想像もつかない力で鋭く掴み上げた。そのまま躊躇うことなく、力任せに地面へと叩きつける。

 

 「ガハッーー!?」

 

 硬い土と落ち葉を叩き割り、激痛とともに襲撃者の肺から絶叫が吐き出された。

 

 叩きつけられた相手を冷ややかに見下ろしながら、アオの感情を欠いた静かな声が、夜気にぽつりと落ちた。

 

 「……もらった」

 

 さっき突きつけられたはずの言葉を、全く同じ言葉で、冷酷なまでに静かに返し返しながら。

 

 追撃に一切の躊躇はない。アオは叩きつけられた影に覆いかぶさるように踏み込むと、すぐさま手斧を頭上高く振り上げた。蒼い光彩を帯びた刃が、今にも首元を刈り取らんと振り下ろされる直前——

 

 「ごしゅじんさま、どうする?」

 

 ピタリと刃を止めたアオが、首だけを僅かに傾けてアサヒへと視線を向ける。その声には一切の動揺も殺意の昂ぶりもなく、ただ主の意思に従う淡々とした静けさだけがあった。

 

 「……無論、話を聞くよ」

 

 荒くなった息を整え、緊迫した空気を切るようにアサヒが吐き出す。

 

 「ん。分かった」

 

 アオが小さく頷くと同時に、掲げられていた手斧はスッと蒼い光の粒子となり、夜の空気に溶け込むように消え去った。

 

 「くっ……! 殺せ……!」

 

 地べたに伏せたまま、襲撃者は悔しそうに歯噛みしながら、テンプレのような言葉を吐き捨てた。

 

 「いや、殺さないよ……。ただ話が聞きたいだけなのに、いきなり殺りに来やがって……」

 

 思わず出たお約束すぎるセリフに、アサヒは呆れたように大きなため息をつき、額を押さえた。手にした鉈の緊張を少し緩め、地面に横たわる相手を見下ろす。

 

 「いきなり上から襲いかかっておいて、捕まったら『殺せ』って……なあ、頼むからまず落ち着いて話を聞いてくれよ」

 

 「黙れ! 妖怪の山に侵入する者は容赦するなとの長殿からのお達しだ!! 貴様らなど話を聞くに値しな——っ!?」

 

 喚き散らしながら暴れようとした相手の言葉が、途中で凄絶な悲鳴へと変わった。アオが無表情のまま相手の腕を背中に回し、折れる寸前の角度まで問答無用で締め上げたのだ。

 

 「ぐ、ぁッ……——!?」

 

 みりみりと骨の軋む嫌な音が響き、襲撃者の顔が痛みで激しく歪む。

 

 「黙ってごしゅじんさまとおはなしして。じゃないと、へし折る」

 

 感情の欠片もない平坦な声。けれどそこには、主の言葉を遮られたことに対する明確な不快感と、いつでも容赦なく腕をへし折る準備ができているという冷酷なまでの威圧感が漂っていた。

 

 「ぐっ……折ればいい……! 貴様らに話すことなど、何もない……!」

 

 腕を締め上げられた激痛に冷や汗を流しながらも、襲撃者は鋭い眼光で二人を睨みつけ、突っぱねるように吐き捨てた。

 

 「じゃあ、えんりょなく」

 

 返答は一切の躊躇もない、あまりに淡々としたものだった。アオは表情ひとつ変えずに、さらにグッと腕を捻り上げる。みりみりと骨が悲鳴を上げる嫌な音が夜の森に響き渡り、脅しではなく本当にへし折るつもりだと悟った襲撃者の顔が苦痛に歪んだ。

 

 「アオ、ストップ! ここでこの人にこれ以上危害を加えれば、完全に妖怪の山全体を敵に回すことになる。だから力を緩めてくれ」

 

 見かねたアサヒが慌てて制止に入り、アオの手に自分の手を重ねて宥めるように声をかける。アサヒの焦り混じりの静止を聞いて、アオはピタリと動きを止めた。

 

 アサヒはアオの手から力が抜けたのを確認すると、地べたに伏せられた相手と視線を合わせるように、ゆっくりと片膝をついた。手にした鉈をそっと地面に置き、両手を広げて敵意がないことを示しながら、静かに、けれど芯のある声で語りかける。

 

 「アンタが言うように、俺たちは確かに部外者だ。無断で侵入したことは謝るし、必要ならその長殿って人に直接許可を取りに行ってもいい。……だから頼む、まずは話をさせてくれないか?」

 

 真っ直ぐなアサヒの眼差しと、一切の偽りがない誠実な言葉。痛みに耐えながら睨みつけていた襲撃者は、アサヒの気圧されるような佇まいに一瞬だけ言葉を詰まらせ、悔しそうに歯噛みした。

 

 「……チッ。勝者の余裕ってやつかよ」

 

 しばらくの間、二人の顔を見比べていた襲撃者は、ついに毒気を抜かれたように深く溜息を吐き捨てた。

 

 「アオ、少し腕を解放してやってくれ」

 

 アサヒが優しく促すと、アオは無表情のまま、締め上げていた腕をすっと離した。激痛から解放された襲撃者は、痛む腕を抱えながらノロノロと起き上がり、なおも警戒を解かない眼光で二人との距離を取る。

 

 「……あたしは山の警邏だ。長殿から『山に入り込む不審者は即刻排除せよ』と強いお達しが出ている。だから襲った。それだけだ」

 

 「警邏か……。いきなり襲いかかってきた理由は分かったが、それにしたってピリピリしすぎじゃないか? 実は俺たち、ここへ来る途中で永遠亭のレイセンって兎にもいきなり襲撃されたんだ」

 

 アサヒの言葉に、襲撃者は驚きに目を見開いた。

 

 「レイセン……? あの兎か……? あいつが襲ってきただと?」

 

 「ああ。正気じゃない様子で、問答無用に襲いかかってきた。だから俺たちも何が起きているのか分からなくて参っていたところなんだ」

 

 「……」

 

 襲撃者は顔をしかめ、痛む手首を擦りながら苦々しく思考を巡らせた。

 

 「……山の中も、ここ最近どこか異様だ。長殿が警戒を極限まで強めているのも、何か深刻な事態が起きているからなのかもしれない」

 

 「何か、心当たりでもあるのか?」

 

 「知らん。あたしたち末端の警邏に知らされているのは、命に従って侵入者を拒めということだけだ。だが……」

 

 そこで言葉を切ると、襲撃者はアサヒの真っ直ぐな瞳と、その隣で静かに佇むアオを交互に見つめた。

 

 「その様子じゃ、あたしを騙して山を荒らそうってわけでもなさそうだな。……それに、そっちの娘にその気があれば、あたしの首なんて一瞬で飛んでた」

 

 アオはただ無言のまま、主を守る体勢を崩さずに冷ややかな視線を注いでいる。

 

 「……分かったよ。お前たちが本当に永遠亭からの使いで、長殿に用があるってんなら、上に取り次いでやる。ただし、怪しい動きをしたら容赦なく全員で叩き潰すからな」

 

 「助かるよ。元より争うつもりはないんだ」

 

 「じゃあ、案内してもら——」

 

 アサヒがそう言いかけた、まさにその瞬間だった。

 何の前触れもなく、視界の端で冷ややかな光の線が走る。

 

 次の刹那、和らぎかけていた警邏の首が、呆気なく宙を舞った。

 

 遅れて胴体から噴き出した凄絶な血飛沫が、夜の森の静寂を塗り潰すように、周囲の葉を黒く濡らしていく。

 

 「——!?」

 

 あまりに唐突な死。直前まで言葉を交わしていた者が物言わぬ肉塊へと変貌した光景に、アサヒの思考が一瞬凍りつく。

 

 「アオ!!」

 

 ハッと正気に戻り、アサヒが叫ぶと同時に、アオはすでにその前に身を滑り込ませていた。再び弾けた蒼い光彩から手斧を顕現させ、殺気が放たれたはずの方向へと鋭い視線を走らせる。

 

 しかし——アオの表情に、珍しく僅かな戦慄が走っていた。

 

 「っ……気配がない……」

 

 感情の波風を滅多に見せないアオの声が、硬く緊張に強張る。

 

 目の前で一瞬にして命を刈り取ってみせた攻撃の主。その残留思念も、風を切る音も、踏みしめた足音すら残されていない。一撃を放つと同時に超神速でこの場を離脱したのか、それとも吐息一つ残さず、すぐ目と鼻の先の闇に潜んでいるのか。

 

 アオほどの感覚を持ってしても、敵の存在を何一つとして感知できない。ポツリ、ポツリと、頭上の葉から血の雫が落ちる音だけが、静まり返った森に響く。

 

 先ほどまでの交戦とは一線を画す、圧倒的で冷酷な「死」の気配が、どこからともなく二人をじっと見つめている。

 

 血の匂いが充満する凄絶な現場に、場違いなほど軽い声が響き渡った。

 

 「あれ? もしかして外来人じゃない?」

 

 冷え切った暗闇の奥から聞こえてきた声に、アサヒの緊張が頂点に達する。

 

 「あ、ホントだ」

 

 声の主は二人。警戒を露わにする二人の前に、静かな森の樹影を割って、二人の少女がひょっこりと姿を現した。

 

 「あははっ! お兄さん、警戒しなくても大丈夫大丈夫! 私たちは外来人には危害を加えないから~!」

 

 能天気とも思える明るい声を張り上げ、屈託のない笑みを浮かべる少女。

 

 「私たちも外来人。お兄さんと一緒」

 

 その隣で、どこか淡々とした口調で静かに言葉を添える、もう一人の少女。

 

 暗闇の中から照らし出された二人の姿に、アサヒは思わず目を見張った。幻想郷の住民たちが身につけるような和装やクラシカルな衣装とは明らかに異なる、現代的で実用的なデザイン。アサヒ自身が身につけているものと非常によく似通った「外の世界」の衣服だった。

 

 その装いには、自分たちがこの幻想郷において異邦人——すなわち「外来人」であるという、何よりも雄弁な説得力が宿っていた。

 

 だが、足元に首を跳ね飛ばされた警邏の骸が転がるこの惨劇の真っ只中で、まるで散歩の途中で知り合いに会ったかのような二人の態度は、あまりにも異様で、不気味なほどの違和感を放っていた。

 

 敵意も、殺気も、何一つとして感じられない。二人から漂っているのは、まるで旧友の訪れを心から喜んでいるかのような、不気味なほど無邪気で肯定的な歓迎の空気だけだった。

 

 だが——その「陽気」な方の少女が取った行動は、目の前の惨劇を前にしてあまりにも狂気に染まっていた。

 

 「よいしょっと」

 

 少女は屈み込むと、まだ温かい血を滴らせている警邏の生首を、まるで道端に落ちている落ち葉でも拾い上げるような軽快さで掴み上げた。そのまま指先で髪を弄び、ボールのように軽々と弄び始める。

 

 「狼天狗って素早さだけで、めっちゃ脆いよね~。私、首飛ばすつもりなかったのにな~」

 

 まるで「うっかりおもちゃを壊してしまった」とでも言いたげな、悪びれもないコロコロとした笑い声。無邪気だからこそ際立つ、底知れない狂気と絶対的な暴力。

 

 目の前で繰り広げられる常軌を逸した光景に、アサヒの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。殺気がないのではない。命を奪うという行為があまりに日常的すぎて、彼女たちにとってそれ自体が「意思を持って殺す」という特別な事象にすらなっていないのだ。

 

 「……っ」

 

 アオがアサヒを完璧に庇い出すように一歩前へ踏み込み、無言のまま刃を固く構え直す。異世界の「同郷」を名乗る少女たちの笑顔の裏に、底知れぬ深淵が広がっていた。

 

 警邏の生首を指先で弄びながら、陽気な少女が今度はアサヒの前に立ちはだかるアオへと視線を移した。

 

 「あれ? お嬢さんも外来人?」

 

 血の匂いと狂気が渦巻く場にそぐわない、軽い問いかけ。だがアオの瞳には一切の動揺も揺らぎも映らず、ただ冷ややかな光を宿したまま、淡々と言い放つ。

 

 「アオはアオ。ごしゅじんさまのあいぼう」

 

 迷いのない言葉。己の存在理由と主への忠誠を即座に示す宣言に、少女は一瞬だけ呆気にとられたような顔をしたかと思うと、可笑しそうに甲高い声をあげた。

 

 「あははっ! なにそれ~」

 

 少女は大声をあげて笑い転げ、手に持った首をポーンと軽く放り投げては、無造作に片手で受け止めてみせる。

 

 「兄妹……にしては全然似てないし……お兄さん、そういう趣味~?」

 

 からかうような、意地の悪い笑みを浮かべてアサヒを覗き込んでくる少女。

 

 「……趣味なんて不躾なもんじゃない」

 

 アサヒは背筋に冷たい汗を滑らせながらも、アオの背中を守るようにそっと手を置き、二人との間合いを慎重に保った。

 

 一切の殺気を感じさせないまま人を殺め、その死体すらもおもちゃのように扱う少女たち。その「無邪気な異常性」に呑まれないよう、アサヒは刃を握る手にぐっと力を込めた。

 

 「まあ、趣味の話は置いといてさ」

 

 首を弄ぶ手をピタリと止め、陽気な方の少女がニッコリと歪んだ笑顔をアサヒに向けた。

 

 「本題、本題。お兄さんたちさ、外来人なんだよね? だったら話は早いや。私たちの仲間になりなよ!」

 

 「……仲間?」

 

 思わぬ提案に、アサヒは眉をひそめた。首を跳ね飛ばされた天狗の遺体が転がるこの惨状の中で、あまりに唐突すぎる勧誘だった。

 

 「そう! 私たちはね、この幻想郷に迷い込んじゃった『外来人』だけで作られた組織なんだよ。ほら、この世界って妖怪だのなんだのが威張ってて、私たち人間……特に外の世界から来た人間なんて、ただのエサか異物扱いじゃん?」

 

 少女はつまらなさそうに肩をすくめ、足元の首を無造作に蹴っ飛ばした。ゴロゴロと音を立てて転がる生の残骸に、もう一人の静かな少女が視線を落とす。

 

 「……幻想郷の連中は、外来人を自分たちの都合よく扱う。だから、私たちは群れることにした」

 

 静かな方の少女が、淡々と不穏な言葉を付け加えた。

 

 「外来人は外来人で助け合う。この狂った世界で、私たちが私たちのルールで生き残るためにね。お兄さんたちも外から来たなら、こんな妖怪の山でうろついてないで、私たちのところに来た方が絶対に安全だよ?」

 

 陽気な少女が両腕を広げ、心からの歓迎を示すように笑いかける。だが、その言葉とは裏腹に、アサヒの背筋には冷や汗が滑り落ちていた。

 

 「外来人を守る」と口にしながら、彼女たちがやってのけたのは、交渉しかけていた警邏の首を躊躇なく刈り取ることだ。そこにあるのは正義でも防衛でもない。自分たちの論理を押し通すための、純粋で圧倒的な暴力だった。

 

 「……断ったら、どうなる?」

 

 アサヒが慎重に問いかけると、二人の少女は顔を見合わせ、まるで悪戯が見つかった子供のようにクスクスと笑い出した。

 

 「どうにもしないよ! 別に提案してるだけ。強制じゃないし~」

 

 肩をすくめ、拍子抜けするほど軽快に笑う陽気な少女。

 

 「でも出来れば入ってほしいな~! お兄さんイケメンだし!」

 

 首を切り落とした直後とは思えない無邪気さで指を指され、アサヒは引きつりそうになる頬を必死で抑えた。目の前に転がる凄惨な現実と、目の前の少女たちが放つ呑気な空気とのギャップが、狂気となって肌を刺す。

 

 「……悪いけど、どこにも所属するつもりはない」

 

 アサヒが毅然とした態度で拒絶を口にすると、少女は「ちぇー」と大袈裟に口を尖らせた。

 

 「そっか~。ざーんねん」

 

 あっさりと引き下がる様子に、アサヒとアオはわずかに警戒の度合いを強める。言葉通り強制するつもりはないのか、それとも他に企みがあるのか。

 

 そこへ、これまで静かに佇んでいたもう一人の少女が、淡々とした視線をアサヒに向けた。

 

 「ところで……貴方、能力はなに?」

 

 「能力……?」

 

 聞き慣れない、だがこの世界において決定的な意味を持つ単語に、アサヒは首を傾げる。

 

 「そう。この幻想郷の連中に倣って、私たちは『〜程度の能力』って呼んでる」

 

 静かな少女が、自分の胸元にそっと手を当てながら口を開いた。

 

 「私は……『薄める程度の能力』」

 

 言葉の意味を噛み締めるアサヒの脳裏に、先ほどアオが「気配がない」と漏らした言葉が蘇る。自身の存在や気配、殺気すらも薄めて潜伏していたのだとすれば、アオほどの感覚を持ってしても察知できなかった理由が嫌でも理解できた。

 

 「あ、私はね~!」

 

 陽気な少女が、首を弄んでいた手元を宙にかざし、嬉々として胸を張る。

 

 「私は『斬撃を生み出す程度の能力』だよ~」

 

 無邪気な笑顔と共に明かされた、絶望的な種明かし。剣すら構えず、ただ空を切るだけであの狼天狗の首を一瞬で跳ね飛ばしてみせた圧倒的な暴力の正体。

 

 二人が口にした「能力」の真実を前に、アサヒの背筋を冷たい汗が静かに伝い落ちた。

 

 「それで? 貴方は?」

 

 二人の能力が明かされた直後、刃のような問いがまっすぐにアサヒへ向けられた。二人の異常な少女、そして首を刈られた天狗の骸。逃げ場のない惨状の中で、アサヒは深く息を吐き出し、隠すことなく言葉を返す。

 

 「……俺は能力なんて持ってない」

 

 「え!?うっそだぁ~!」

 

 陽気な少女が、大袈裟に目を丸くして身を乗り出してきた。

 

 「外来人は皆、何かしらの能力を絶対に持ってる筈だよ! この世界に落ちてくるときに、勝手に生えるみたいな感じなのにさ!」

 

 呆れたように笑いながらも、その瞳の奥には胡散臭いものを見るような色が混じる。

 

 「能力なしでよく今まで生き残ってきたね。……もしかして、隠してる?」

 

 静かな方の少女が、淡々とした声で疑問を投げかける。その射抜くような視線がアサヒの全身を舐めるように走り、隠された秘密を探ろうとするかのように目を細めた。

 

 無能の人間が、異形や怪物たちの蠢く幻想郷でただの「人間」として歩いていること自体が、彼女たちにとってはあり得ない異常事態なのだ。

 

 アサヒは背中に冷や汗を感じながらも、視線を逸らさずに二人を正面から見据え続けた。

 

 「まあ、隠す隠さないは本人の自由だから、深く詮索はしないよ」

 

 アサヒの返答に探るような視線を送っていた静かな少女が、あっけなくそう言って追及を収めた。

 

 「えー、ホントに~? 絶対なんか隠してるって!気になるのに~」

 

 陽気な少女が唇を尖らせて不満げに声をあげるが、隣の少女は気にした風もなく、淡々とアサヒたちから視線を外す。

 

 「でも、これ以上ここに長居するのは感心しない。警邏を一人殺した以上、すぐに他の天狗どもが集まってくる」

 

 「あ、そっか! 天狗って集団で来るとホント面倒くさいんだよね~。じゃ、私たちもそろそろ退散しよっか」

 

 少女は手に持っていた天狗の首を無造作に放り投げると、まるでただの玩具を飽きて捨てたかのように見向きもせず背を向けた。

 

 不穏すぎる少女たちの去り際に、アサヒは固くなった声を絞り出す。

 

 「待ってくれ。あんたたちの組織って……いったい何なんだ?」

 

 足を止めた二人の少女が、樹影の隙間から同時に振り返る。陽気な方の少女が、今度は一切のからかいを交えず、冷たいまでの純粋な笑顔を浮かべた。

 

 「言ったでしょ? この幻想郷で、外来人が生き残るための居場所だよ。……お兄さん、本当に能力がないなら、余計に気をつけた方がいいよ?」

 

 「……この山は今、歪み始めている。無能の人間が足を踏み入れて、生きて戻れるほど甘くはない」

 

 静かな少女がそれだけ言い残すと、二人の姿はまるで見えない霧に溶けていくかのように、静かに夜の森の闇へと消え去っていった。

 

 風が吹き抜け、残されたのは静寂と、凄惨な血の匂いだけだった。

 

 「……行った、か」

 

 アサヒが深く息を吐き出すと、隣で冷ややかな殺気を放ち続けていたアオが、ゆっくりと肩の力を抜いた。だが、その瞳は二人と消えた闇の奥を、警戒を解くことなく見つめ続けていた。

 

 二人の姿が完全に消え去り、森には再び痛々しいほどの静寂が戻ってきた。

 

 鼻を突く濃密な血の匂いと、冷たくなりゆく狼天狗の遺体。アサヒは手にした鉈をぎゅっと握り直すと、頭を抱えるようにして深々とため息を吐き出した。

 

 「この状況、間違いなく俺たちが殺ったと思われるよな」

 

 「うん。まちがいなく」

 

 アオが何の疑いもなく、あっさりと同意する。

 

 首を斬り落とされた警邏の遺体と、血の海の中に佇む刃物を手にした二人の人間。仮に今、別の警邏や天狗たちが駆けつけてくれば、弁明の余地すら与えられずにその場で処刑されてもおかしくない現場だった。あの少女たちの狙いが、最初から自分たちに濡れ衣を着せることだったのではないかと疑いたくなるほどの完璧な状況証拠だ。

 

 「とりあえず、この場を去ろう。他の天狗に見つかったら厄介なんてレベルじゃない」

 

 「ん。分かった」

 

 アオは短く頷くと、アサヒを促すように素早く先回りし、周囲の暗闇へ警戒の目を光らせる。

 

 足元に散らばる血溜まりを踏まないよう慎重に歩みを進めながら、二人は足早に惨劇の現場を後にした。残された痕跡と不穏な影を背に受けながら、深緑の闇へと身を躍らせていく。

 




ここまで読んで頂きありがとうございます。
不自然な箇所や、誤字脱字等ありましたらご報告いただければ幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。