東方異人録   作:かまきりバニラ

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『成って』

 惨劇の現場を遠く離れ、漆黒の深緑が支配する夜の森を、二人の少女が軽やかな足取りで歩いていた。

 

 先ほどまで手にしていた天狗の生首の感触など綺麗さっぱり忘れたかのように、陽気な方の少女が退屈そうに両腕を頭の後ろで組み、大きな溜息を吐き出す。

 

 「あ〜あ、残念だったな〜。同じ外来人同士なんだし、誘ったら絶対来てくれると思ったのにー」

 

 「しょうがないよ。見たでしょう、あの人の眼」

 

 隣を歩く静かな少女は、足元を覆う深い影を見つめたまま、淡々とした声で言葉を継いだ。

 

 「誰かの傘下に入って群れるようなタイプじゃないよ。あの人は自分の足で立って、己の判断で動く人間だ」

 

 「でもさ〜、あの人『無能力』だったんでしょ? なーんにも持ってないただの人間が、このイかれてる幻想郷でよく今まで生き残ってこれたよね。普通なら初日で妖怪の餌食になって終わりじゃん」

 

 陽気な少女は不思議そうに首を傾げ、どこか納得がいかない様子で唇を尖らせる。

 

 そんな彼女の言葉を受け止めながら、静かな少女は思考を巡らせるようにふと目を細めた。

 

 「……多分、あのアオって子が特別な力を持っているんじゃないかな」

 

 「ん? あの子が? まあね〜、私の斬撃にも即座に割り込んできたし、相当ヤバい使い手っぽいのは分かったけど……幻想郷のルールで言うなら、何の能力なんだろ? 武器を出す『〜程度の能力』とか?」

 

 「いいえ。……あの連中が枠に当てはめる『〜程度の能力』なんていう、分かりやすい概念に収まるものじゃないと思う」

 

 暗闇の奥へと消えていく二人の足音が、夜の静寂にカサリと溶けていく。

 

 静かな少女の低く落ち着いた声が、不穏な予兆を含んで闇の中にぽつりと落とされた。

 

 「もっと複雑で……根深く厄介な『何か』だよ。安易に深入りしない方が正解かもしれないね、きっと」

 

 「でもでも、私はやっぱりあのお兄さんに興味そそられちゃったな~」

 

 木漏れ月光が落ちる獣道を歩きながら、陽気な少女が気楽な調子で声を弾ませた。

 

 「どうせ顔でしょ?」

 

 隣を並んで歩く静かな少女が、一切の感情を交えずに冷たく返す。

 

 「まあそれもあるけどぉ~」

 

 陽気な少女はニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべ、それからふっと、爪に付着した乾きかけの血をペロリと舐めた。

 

 「あの人、なんていうんだろ……少し人間らしくないと言うかさぁ」

 

 「……」

 

 「いくら自分たちを脅かす妖怪とは言えさ。目の前で人間にそっくりな生き物が一瞬で首を飛ばされてさ、挙げ句の果てにおもちゃみたいに弄ばれてるのを見ておいて——」

 

 少女の言葉が途切れた瞬間、静かな少女が足音もなく歩調を合わせながら、その先を淡々と引き継ぐ。

 

 「怯えた『フリ』をしてる感じがしてたね」

 

 「そうっ! そうなんだよ~!」

 

 陽気な少女は待ってましたとばかりにパチンと手を叩いた。その瞳には、先ほどまでの無邪気な軽薄さとは一線を画す、不気味で歪んだ知的好奇心がギラリと揺らめいていた。

 

 「ありゃあ私と同じ側の……いや、それ以上に狂った何かを抱え込んでるかもね~。あーどうしよう、ゾクゾクしてきちゃった」

 

 陽気な少女は自分の抱きかかえる肩をぎゅっと抱きしめると、身震いするように小さく身体を揺らした。楽しげに歪むその表情には、同類を見つけ出したかのような、禍々しいまでの悦びが浮かんでいる。

 

 「アンタ、自分がイカれてるのを誇りか何かに思ってる?」

 

 静かな少女は一切足を止めず、心底呆れたといった風に溜息を吐き捨てた。

 

 「えへへ〜。そんな私と嫌がりもせず組んでくれて、ありがとっ」

 

 「誤解しないで。私はただ命令されたから行動を共にしているだけで、好きで組んでる訳じゃない」

 

 「もうっ。素直じゃないんだから〜」

 

 無造作に肘で突っつこうとする陽気な少女の動きを、静かな少女は最低限の動作で淡々とかわす。軽口を叩き合いながらも、二人の足取りは闇の奥へと吸い込まれるように加速していく。

 

 狂気を纏う二人の影が夜の樹海に消え去った後には、冷たく湿った静寂と、先ほどまで「誰か」であった肉塊だけが残されていた。

 

 「……やっぱりなんとかして引き込もうよ。あの二人」

 

 突然ピタリと足を止めた陽気な少女が、思いついたばかりの悪戯に胸を躍らせる子供のように、爛々と目を輝かせて振り向いた。

 

 「はぁ?」

 

 立ち止まった静かな少女の口から、心底不快そうな声が漏れる。だが、一度着火した陽気な少女の好奇心は、もはや誰にも止められない。

 

 「いや、もうお兄さんだけでも良いや! 行こう! 今すぐ見つけに! そこまで遠くに行ってないはずだよ!」

 

 言いたいことだけ捲し立てると、少女はすぐさまきびすを返し、アサヒたちが消えた夜の深緑へ向かって軽快に駆け出そうとする。その躊躇のない背中に、静かな少女は思わず平常心を崩して声を張り上げた。

 

 「ちょっ、夜も深いし一旦集会所に戻らないと! そんな勝手に……あぁ、もう!」

 

 制止の言葉すら風に吹き飛ばし、闇の中へと躍り出ていく後ろ姿。静かな少女は天を仰ぐように深く溜息を吐き出すと、頭を抱えながら苦々しい足取りでその後を追った。

 

 

 

 

 

 ~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 

血の匂いが充満するあの凄惨な現場をどうにか離れ、入り組んだ大木の根元へと身を潜めた二人。深く腰を下ろしたアサヒは、荒くなった息を整えながら、手にした鉈の柄をぎゅっと握り直した。

 

 張り詰めていた緊張がほんの少しだけ解けたその隙間を突くように、隣に佇んでいたアオがそっと覗き込んでくる。

 

 「ごしゅじんさま、大丈夫? お腹空いてない?」

 

 澄んだ瞳で覗き込んでくるその声には、先ほどまでの冷酷な戦闘の余韻など一切残っておらず、ただ目の前の主を気遣う優しさだけが宿っていた。

 

 アサヒは引きつりそうになる頬をなんとか緩め、深く息を吐き出しながら小さく首を横に振る。

 

 「ああ、大丈夫だ。……アオこそ、疲れてないか? 体調は大丈夫か?」

 

 連続した戦闘に加え、一瞬で武器を顕現させて相手を圧倒したアオの負担を案じて尋ねると、アオは感情の起伏に乏しい声のまま、至極淡々と応じた。

 

 「アオは、食べなくても平気」

 

 「そっか……そうだったな」

 

 彼女の人間離れした性質を思い出し、アサヒはどこか苦々しくも愛おしいような感情を混じえて苦笑いを浮かべた。そっとアオの頭に手を置き、その柔らかい髪の感触を確かめるように撫でる。

 

 二人を包む深い夜の静寂。だが、その静寂の裏には、先ほど去っていった奇妙な少女たちと、いつ追手が迫るとも限らない「歪み始めた妖怪の山」の暗雲が、重く立ち込めていた。

 

 「それにしても、どうしたものか……」

 

 アサヒは暗がりの中で腕を組み、深く息を吐き出した。もとより妖怪の山へ来たのは、永遠亭からの使いとして長殿に命を伝え、穏便に話をつけるためだ。争うつもりなど毛頭なかったというのに、あの「外来人」を名乗る二人の少女の乱入によって、状況は最悪の形でこじれてしまった。

 

 (あの遺体、隠しておくべきだったか……?)

 

 一瞬だけ頭をよぎった選択肢を、アサヒはすぐに打ち消した。もし隠したところで、後々になって遺体が発見されれば隠滅を図ったとみなされる。仮に天狗たちと上手く話がついた後だったとしても、そんなものが露呈すれば一発でアウトだ。

 

 だからといって、あのまま遺体を放置して立ち去るのが正解とも思えない。第一発見者どころか、現場のすぐ近くにいた部外者だ。天狗たちが遺体を見つければ、ろくな捜査もなしに自分たちへ疑いの目を向けるのは火を見るより明らかだった。

 

 (詰んでるな……完全に)

 

 八方塞がりの現状に、アサヒは苦々しい顔でこめかみを押さえた。隠せば隠滅の罪、残せば容疑者。部外者というだけで圧倒的に不利なこの状況で、どう動くのが正解なのか答えは出ない。

 

 「ごしゅじんさまの考えてることは、わかる」

 

 暗闇の中で思考を巡らせるアサヒの横顔を見つめ、アオがぽつりと呟いた。

 

 「そうだとしたら、あの二人も状況は一緒」

 

 「あ……アオって、頭の中も読めるのか?」

 

 思わず目を丸くしたアサヒの反応に、アオは表情ひとつ変えずに頷いた。

 

 「うん。ごしゅじんさまのだけ」

 

 「ま、マジで……?」

 

 自身の思考を完全に透かされていたのかと冷や汗を流すアサヒに、アオの薄い唇がふっと小さく緩んだ。

 

 「んふふ。じょうだん」

 

 「……」

 

 永遠亭でアサヒが「相棒」と口にしてからというもの、アオの距離感は明らかに変わっていた。ただ指示に従うだけの忠実な「従者」から、どこか兄を慕う「妹」のような近さへ。アサヒにとってその変化は心から喜ばしいものでありながらも、同時にどこか気恥ずかしく、多少のやりづらさを覚える部分でもあった。

 

 無言のまま固まってしまったアサヒの様子に、アオは急に不安になったのか、すっと表情を曇らせて顔を覗き込んでくる。

 

 「お、おもしろく……なかった?」

 

 「いや……アオが冗談なんて言ってくれるようになったのが嬉しくてさ。つい面食らっちゃっただけだよ」

 

 「……? ごしゅじんさまがうれしいなら、よかった」

 理由まではよく分かっていない様子だったが、アサヒの言葉に安心したように、アオの澄んだ瞳が柔らかく和らいだ。

 

 「確かに、アオの言う通りだ。警邏を殺した以上、あの二人だって天狗たちにとっちゃ容疑者……いや、正真正銘の犯人だからな」

 

 顎に手を当て、アサヒは深々と頷いた。だが、安易に楽観視できるほど状況は甘くない。

 

 「だけど、置かれている環境が決定的に違う。あの二人には『外来人の組織』っていう後ろ盾があるんだ。隠れ家もあれば、仲間もいる。対して俺たちは……たった二人のツーマンセルだ。孤立無援ってわけさ」

 

 いくらアオが並外れた戦闘力を持っているとはいえ、ここは妖怪の山という敵地の真っ只中。補給も情報もなく、山全体を敵に回して潜伏し続けるのは不可能に近かった。

 

 「追い詰められているのは、間違いなく俺たちの方だな」

 

 自嘲気味に呟くアサヒの言葉を、アオは静かに受け止めていた。その表情には恐れも焦りもなく、ただ「主がどう判断し、どう動くか」だけに全てを委ねているかのように、澄んだ瞳でアサヒを見つめ返している。

 

 再びアサヒが苦々しい思考の渦に没入しようとした、まさにその時だった。

 

 「お兄さ~ん!!」

 

 静まり返った夜の森に、場違いなほど明るく甲高い叫び声が木霊した。

 

 「っ!?」

 

 アサヒの背筋に冷たい緊張が奔り、即座に手にした鉈の柄を握り直す。隣にいたアオの気配が一瞬で跳ね上がり、蒼い光彩を宿した手斧が再びその華奢な手に現出していた。

 

 静寂を破って影から飛び出してきたのは、先ほど別れたばかりのはずの、あの陽気な方の少女だった。暗闇の木々をすり抜け、まるで宝物でも見つけた子供のように爛々と目を輝かせながら、こちらへ向かって手を振ってくる。

 

 「あっ! いたいた〜!」

 

 「な……ッ!?」

 

 隠れ潜んでいたはずの自分たちをあっさりと捕捉し、無邪気な笑顔で距離を詰めてくる少女の姿に、アサヒの顔が驚愕に歪む。

 

 「何故追ってきた……?」

 

 先ほどの惨劇の冷めやらぬ空気の中、警戒を露わにして問い詰めるアサヒ。その背後から、肩で激しく息を乱した静かな方の少女が、追いつくやいなや倒れ込むように樹木へ手を突き、心底うんざりした顔で追いついてきた。

 

 「はぁ……はぁ……だ、だから待ちなさいって言ったのに……ッ!」

 

 「だって〜! ゆっくりしてたら逃げられちゃうじゃん!」

 

 アサヒたちの警戒など何処吹く風で、陽気な少女は屈託のない笑みを浮かべ、二人との距離をぐっと詰めてきた。

 

 「やっぱりお兄さんが諦めきれなくてさ! どうしても組織に入ってもらいたいんだ〜」

 

 陽気な少女は息を荒らげる相棒の制止など聞こえていないかのように、無邪気な笑みを浮かべたまま指をさしてきた。

 

 「……堂々巡りな気もするけど?」

 

 静かな方の少女が肩で息を吐きながら、呆れたように呟く。

 

 「かもねっ。だから〜」

 

 語尾が空気に溶けた瞬間——

 

 直感的な悪寒とともに、アサヒの頬に一筋の熱い線が走った。

 

 肌を切り裂く微かな音と遅れて訪れる刃の感触。一切の手振れも溜めもなく放たれた不可視の刃が、アサヒの頬をかすめ、背後の巨木の幹へ深い傷を刻み込んでいた。

 

 「ち、か、ら、づ、く、で、連れてこっかなって」

 

 一滴の血がアサヒの頬を伝い落ちる。殺気すら混じえぬまま「力ずく」を口にした少女の瞳には、狂気じみた愉悦が爛々と輝いていた。

 

 先に動いたのはアオだった。

 

 一瞬で間合いを潰し、目に捉えられぬ速さで少女の懐へと入り込むと、両手で固く握りしめた手斧を躊躇なく振り抜く。

 

 だが——刃が少女の体を切り裂く直前、どこからともなく発生した不可視の歪みが手斧を真っ向から弾いた。暗闇の中で激しい火花が弾け飛び、甲高い金属音が夜の森に響き渡る。

 

 「うわぁ! 怖い怖い!」

 

 少女は能天気な叫び声をあげながら、寸前で踏みとどまり嘲笑うように後ろへと飛んだ。同時に、彼女の空を切る指先から二の斬撃、三の斬撃が無から繰り出され、鋭い刃音とともにアオの全身を襲う。

 

 だが、アオの動きに一切の淀みはなかった。

 

 手首の鋭い返しと流れるような身のこなしで、空中に走る死の閃光を弾き、いなし、完璧に殺していく。蒼い光彩を散らしながら、一歩も引かずに主を守る壁となって立ち塞がるアオの鋭い眼光が、狂気的な少女の姿を逃さず捉え続けていた。

 

 後ろへ飛ぶ少女に向かって、アオは即座に右腕を振り抜き、手斧を勢いよく投げ放った。空を裂き、一直線に迫る刃。しかし、少女が虚空を軽く指差すと、どこからともなく生じた不可視の斬撃が手斧の腹を叩き、あっけなく軌道を逸らして弾き飛ばした。

 

 弾かれた手斧は放物線を描く途中で蒼い光の粒子となり、夜の空気に溶けるように霧散する。

 

 間髪を入れず、アオの左右の掌から再び鮮烈な蒼い光彩が弾けた。散った光が収束すると同時に、その両手には取り回しの利く二振りの小刀が実体化していた。刃を低く構え、油断なく少女を射抜くアオの静かな殺気。

 

 それを受け止めながら、着地した少女は首をかしげ、困ったように頭をかいた。

 

 「んー、やっぱりこっちの子をなんとかしないとな~」

 

 言葉とは裏腹に、少女の唇にはどこまでも楽しげな、歪んだ笑みが貼りついたままだった。

 

 「そこまでして俺を加入させる価値はないと思うけど?」

 

 無から生み出される殺戮の刃を小刀で軽々と弾き返すアオの背後に立ちながら、アサヒは引きつる顔を必死で抑え、硬い声を絞り出した。

 

 「お兄さんってさ、目の前に美味しそうなスイーツがあるのに、子供に向かって『食べる価値はないよ』なんて言うの?」

 

 陽気な少女は楽しげに首を傾げ、心底不思議そうに目を丸くしてみせた。その言葉に込められているのは、純粋で無邪気な、だからこそ一切の情理が通じない暴虐の欲望そのものだった。

 

 「貴方達が組織にすんなり入ってくれれば、余計な争い事はしなくて済むのだけど」

 

 アオと陽気な少女が火花を散らすその傍らで、静かな少女が呆れ交じりの溜息とともに、冷ややかに言葉を添えた。

 

 「生憎、素性も得体も知れない組織に入る勇気はないんでね」

 

 刃の交錯する不穏な空気の中、アサヒは慎重に言葉を選びながら言い返す。

 

 「じゃあ、どんな組織かちゃんと説明すれば入ってくれる!?」

 

 陽気な少女がピタリと手を止め、子供のように目を輝かせて身を乗り出してきた。

 

 「…………内容による」

 

 アサヒが苦々しい顔でわずかに間を置いて答えると、少女は「やった!」と言わんばかりに嬉々として表情をほころばせた。

 

 「じゃあじゃあ、ちゃんと説明してあげて!」

 

 陽気な少女は嬉々として隣の相棒へと丸投げするように両手を広げた。

 

 「はぁ? 私がするの?」

 

 振られた静かな方の少女は、露骨に嫌そうな顔をして眉をひそめる。

 

 「だって説明するの得意でしょ?」

 

 「……私のこと説明書か何かだと思ってる?」

 

 「うんっ!」

 

 迷いのない即答と満面の笑みに、静かな少女は心底頭が痛そうにこめかみを押さえ、深々と溜息を吐き出した。

 

 「はぁ……『嘘も方便』ってことわざ、後で調べといた方がいいよ」

 

 呆れ果てたように呟いてから、少女は気持ちを切り替えるようにすっと姿勢を正し、冷ややかな視線をアサヒへと向け直す。

 

 「それでお兄さん……何か私たちの属する組織について、聞きたいことはある?」

 

 「……組織の規模は?」

 

 二人の間にある緊迫した空気を探るように、アサヒが問いを投げる。

 

 「それは把握してない。というか、知らされてない。私達は下っ端だから、色んなツテを辿って情報を共有してるだけ」

 

 静かな方の少女は淡々と、しかし隠す様子もなく答えた。

 

 「下っ端って……階級があるってことなのか?」

 

 「そう。具体的には明示されてないけどね。成果を上げた奴や、突出した能力を持つ奴が上に立つ……至極シンプルな実力主義だよ」

 

 「実力主義か……。じゃあ、その組織の『一番上』にいる奴は誰なんだ? トップの名前くらいは知ってるんだろ?」

 

 アサヒが探るように重ねて尋ねると、静かな少女はわずかに目を細め、静寂の深緑に視線を泳がせた。

 

 「名前までは教えられない。……けれど、その人は『最初の外来人』と呼ばれている」

 

 「最初の外来人……?」

 

 「この幻想郷に最初に落ちてきて、狂わずに、妖怪どもに屈することなく生き残った人物。私たちが組織として機能しているのは、すべてその人が集落を作り、ルールを定めたから」

 

 語る少女の言葉には、先ほどまでの冷淡さとは異なる、絶対的な信奉の姿勢が滲んでいた。

 

 「へぇ~! 私その人の顔見たことないんだよね~! 会ったことあるの?」

 

 興奮気味に会話に割り込んできた陽気な少女に、静かな少女は呆れたような視線を向ける。

 

 「あるわけないでしょ。さっきも言った通り、私たちは末端。……だけどね、お兄さん」

 

 静かな少女はアサヒへ視線を戻し、諭すように低く力強い声を響かせた。

 

 「その人の理念はひとつ。『外来人の生存と主権の確立』。妖怪の気まぐれで生かされ、殺されるようなこの歪んだ世界で、私たちが人間としての誇りを持って生きるための組織なの。……これでもまだ、入る価値はないと言い切れる?」

 

 アサヒは背中に突き刺さるような静寂を感じながら、手にした鉈の柄を握り直した。

 

 一見すれば、虐げられた異邦人たちの正当な防衛組織。だが——足元に散った警邏の血を思い返し、アサヒは固く口を結ぶ。その理念の裏に隠された、あまりにも過激で一方的な選民思想と暴力を、見過ごすわけにはいかなかった。

 

 「誇り、ね……」

 

 アサヒの呟きに、小刀を構えたままのアオが、主の判断を待つように静かに耳を澄ませていた。

 

 「その為には、他の幻想郷に住む住民は淘汰されても仕方ない、と……?」

 

 静かな少女の揺るぎない眼光を見つめ返しながら、アサヒは低く問いかけた。

 

 「私たちの世界でも人間は弱い。だから知恵を絞って進化してきたの。生存競争に勝とうとして、自分たちの居場所を作ろうとして、何が悪いの?」

 

 少女は至極当然のことのように言いのけた。そこには邪悪な意図などなく、純粋な生存本能に基づく冷徹なロジックが存在していた。

 

 「無論、現地人の人間には一切手は出さないし、なんなら上手くやってる。私たちが排除するのは、人間を脅かす『害獣』だけ」

 

 彼女の言っていること、組織の理念そのものは理解できた。元の世界という共通のルーツを持ち、圧倒的な脅威に晒された外来人たちが身を守るために団結する——それ自体は至極真っ当な生存戦略だ。

 

 だが、とアサヒは踏み込む。

 

 「……人と手を取り合うことが出来る妖怪が居たとしてもか?」

 

 人間に危害を加えず、共に暮らし、時に庇い合って生きる者たちがこの山にも、人里にも、あの永遠亭にだって存在する。それを知っているアサヒの問いに、少女は一切の迷いもなく、冷ややかに言い放った。

 

 「それを妖怪とは言わないでしょ?」

 

 「な……」

 

 「喰う側と喰われる側。その歪んだ生態系の上に成り立つ仮初めの平和を『手を取り合っている』なんて思ってるなら、お兄さん、相当おめでたい頭をしてるよ」

 

 妖怪の本質を端から「排除すべき敵」と断定し、それ以外を認めない排他性。その過激な思想を突きつけられ、アサヒは言葉を失った。

 

 交渉の余地はない。彼らの正義と、自分たちが守ろうとしている世界の有り様は、根本から相容れないものだった。

 

 「もうっ! 反論ばっかして! 本当に勧誘する気あるの!? そこは嘘も方便って言うでしょ!」

 

 二人のやり取りの重苦しい空気を台無しにするように、陽気な少女がジタバタと地踏みをしながら叫んだ。

 

 「あ、貴女がそれを言うの……!? というか! 意味知ってるじゃない!」

 

 思わず素でツッコミを返した静かな少女は、頭を痛めるように深くこめかみを押さえ、長々と溜息を吐き出す。

 

 「はぁ……いい? どうせ嘘言って無理やり引き込んだところで、すぐ実態に気付いて抜け出すでしょ」

 

 「むー……それもそっか。お兄さん賢いだろうし」

 

 陽気な少女はあっさりと納得すると、ぷくっと頬を膨らませてアサヒの方をちらりと見た。先ほどまでの緊迫した思想論争が、一瞬で彼女たちの身内ノリに流されていく。

 

 「……賢いかどうかは置いといて、騙されて入るほどお人好しじゃないのは確かだな」

 

 アサヒは呆れたように肩をすくめつつも、手にした鉈の握りは緩めなかった。横で小刀を構え続けるアオも、二人の温度差に惑わされることなく、蒼い瞳でじっと少女たちの動向を見定めている。

 

 「組織を途中で抜けた人間はどうなるんだ?」

 

 アサヒが低く探るような声を向けると、陽気な少女は退屈そうに人差し指をくるくると回しながら答えた。

 

「そんなヤツ滅多に居ないと思うけどねぇ〜」

 

「組織を抜ける事例は直接見たことないけれど……」

 

 静かな方の少女は言葉を切り、夜の暗がりの中で冷静にアサヒを見つめ返した。

 

 「おそらく情報漏洩の危険性を鑑みて、消されるかもね」

 

 「尚更物騒な組織だな……」

 

 アサヒは引きつった表情を隠しもせず、苦々しい溜息とともに吐き捨てた。一度足を踏み入れれば死ぬまで縛られる、絵に描いたような無法者の集団。入る理由などどこを探しても存在しなかった。

 

 「でもさぁ、入っちゃえば居心地いいよ〜? ご飯も美味しいし!」

 

 「貴女、さっきからズレてない……?」

 

 危機感のない陽気な少女の追撃に、静かな少女が冷たい視線を浴びせる。だが、アサヒとアオの全身から漂う警戒の波は、もはや一層高まるばかりだった。

 

 「悪いけど……入るには少しばかり窮屈そうだ」

 

 アサヒは首を横に振り、はっきりと拒絶の意思を言葉に乗せた。

 

 「答えはノー……と言うことで良いのかしら?」

 

 静かな少女の瞳から一切の感情が消え、冷徹な刃のような眼光がアサヒを射抜く。

 

 「…………」

 

 アサヒは無言で刃を構え直し、鋭い視線を返した。それが言葉以上の返答だった。

 

 「ざーんねんっ!」

 

 直後、無邪気な叫びとともに、先ほどを遥かに凌ぐ密度の不可視の斬撃が夜空を切り裂いた。

 

 空気が爆ぜ、落ち葉が巻き上がる。弾幕となって押し寄せる不可視の刃に対し、アオは即座に前に躍り出ると、両手の小刀を蒼い光の旋風のごとく振るい、迫り来る断絶の波を真っ向から迎え撃った。

 

 「ごしゅじんさま、下がって!」

 

 甲高い金属音が夜の山に激しく響き渡り、四散した火花が四人の影を暗闇の中に明々と浮かび上がらせる。もはや言葉による交戦の時間は終わりを告げていた。

 

 アオが不可視の斬撃を小刀で激しく弾き返し、前線を押し維持している隙を突き、アサヒは低く地を蹴った。

ターゲットは無造作に立ち尽くす、もう片方の静かな少女。彼女自身は「戦闘向きではない」と言っていた。ならば、アオが斬撃を防いでいる間に自分が彼女を拘束し、人質にでも取れればこの窮地を脱せられるかもしれない。

 

 一直線に間合いを詰め、その華奢な肩へ手を伸ばす——

 

 「——っ!?」

 

 直前、少女の姿が霧のようにかき消えた。目の前にあった存在感そのものが、唐突に掻き消されたのだ。

 

 「そうか! 薄める程度の——!?」

 

 視覚だけでなく、気配も、音も、存在そのものを認知できない領域まで薄められ、消えたように錯覚させられたのだと理解した瞬間、アサヒの膝裏に鋭い衝撃が走った。

 

 「ぐっ……!?」

 

 不意を突かれてバランスを崩し、片膝をついて地面に伏しかける。直後、背後から冷たい腕が回り込み、アサヒの首を容赦なく締め上げてきた。

 

 感触はある。確かにそこに彼女はいる。

 

 体格差から言えば、相手は小柄な少女だ。力任せに背負い投げたり、腕を解いて振り払ったりすることなど容易いはずだった。しかし——

 

 「く……っ、あ……!?」

 

 全身から急激に力が抜け落ちていく。視界が急速に狭まり、手足が鉛のように重くなって力が入らない。

 

 「体内血液を薄めることだって出来る。賢そうだから分かると思うけど、端的に言えば極度の貧血に近い状態にも出来るの。ただの人間である貴方は、それだけで動けなくなる。私みたいな戦闘向きじゃない能力でも、簡単に再起不能に出来るの」

 

 耳元で、少女の冷徹な声が淡々と響く。首を絞める力以上に、体内で起きている異常な異変がアサヒの抵抗力を奪い去っていた。

 

 「力がないなら無いなりに保護してくれるわよ、組織は。本当にこのまま、女の子に首を締め上げられて死ぬ気……?」

 

 意識が遠のきかける暗闇の中で、アサヒは掠れた息を吐きながら、必死に抗う術を暗索していた。

 

 アオの鋭く澄んだ気配が爆ぜた。

 

 視界が眩むほどの超速度で空間を跳んだアオは、アサヒの背後に密着していた少女の側腹へと容赦ない蹴りを叩き込む。

 

 「っ……!?」

 

 間一髪、少女は己の存在とともに衝撃そのものを能力で極限まで希釈し、直撃を防ぎはした。だが、アオの脚力に込められた絶対的な質量と勢いまでは打ち消しきれない。少女の華奢な体は弾丸のように吹き飛び、後方で弾幕を撒き散らしていたもう片方の少女と激しく衝突し、二人は落ち葉の舞う地面をごろごろと転がっていった。

 

 ……アオは相当手加減したのだろう。でなければ、能力の防御を貫通して首から上が丸ごと吹き飛んでいたはずだ。

 

 「ゲホッ……! 偉いぞ、アオ……!」

 

 急激な血流の解放に激しく咳き込みながら、アサヒは首をさすり、掠れた声を振り絞った。

 

 それは自分を助けてくれたことに対してではなく、アオが土壇場で理性を保ち、相手を「殺さずにいなした」ことに対する称賛だった。ここで外来人を殺せば、天狗の殺害に続いて自分たちの手は完全に血で汚れ、戻れない一線を越えてしまう。

 

 アオは小刀を低く構えたまま、倒れ込んだ二人から片刻も視線を外さず、アサヒの前に立ちはだかった。

 

 「ごしゅじんさま、アイツら殺しちゃダメ? てかげんすると、こっちがやられる」

 

 アオの蒼い瞳には、一切の迷いも容赦もなかった。

 

 主を危うくした敵に対する明確な害意と、手加減という制約がもたらす致命的なリスク。それを完璧に理解しているからこその、感情を削ぎ落とした問いかけ。

 

 地面を這い起き上がろうとする二人の少女と、死線の一歩手前で息を荒らげるアサヒ。緊迫した夜の森に、重い選択の沈黙が落ちた。

 

 (マズいな……完全に俺が足を引っ張ってる)

 

 首元に残る鈍い痛みと、未だ手足にまとわりつく痺れを感じながら、アサヒは歯を食いしばった。

 

 アオの言う通りだ。相手は明確な殺意と特異な能力をもって牙を剥いてきている。それに対して、自分という護るべき足枷を抱え、「殺さずにとどめる」という極限の条件まで課せられては、いくら圧倒的な戦闘力を誇るアオであってもジリ貧に追い込まれるのは目に見えていた。

 

 (俺を守りながら手加減して戦うなんて、無茶にも程がある……!)

 

 地面を這い起き上がり、再び警戒を強める二人の外来人。静かな方の少女はアオの脚力に冷や汗を流し、陽気な少女もまた、その瞳からふざけた色を消しつつあった。

 

 アオはアサヒの返答を待っている。殺すべきか、生かすべきか。彼女の蒼い双眸は、ただ主の命ずる判断に従うべく、静かな覚悟を宿してアサヒの言葉を待っていた。

 

 「んー。お兄さんの足斬っちゃう? どうにか直せる能力持ってる人居るでしょ?」

 

 倒れ込んだ体勢から起き上がりながら、陽気な少女が無造作に言い放つ。

 

 「たぶん見つける前に出血多量で死ぬわよ?」

 

 腹部を押さえ、苦々しい顔で立ち上がった静かな少女が冷ややかに窘める。

 

 「えぇ〜! めんどいなー。どうしよ?」

 

 「……こういうのはどう?」

 

 静かな少女がそう呟いた直後、再び彼女の姿が夜の暗闇の中へと掻き消えた。

 

 自分狙いか、それともアオへの奇襲か。二人が瞬時に身構えた、その瞬間だった。

 

 「……ごしゅじんさま……?」

 

 突如、アオの手斧を構える手が僅かに揺らぎ、蒼い瞳が宙を泳いだ。すぐ隣に立ち、息遣いすら感じ取れる距離にいるはずのアサヒの存在を、アオが急に見失ったのだ。

 

 「アオ? 俺はここに——」

 

 己の声すら届いていないのかとアサヒが声を張り上げようとした瞬間、空を裂いて陽気な少女の斬撃がアオに向かって飛ぶ。

 

 反射的にそれを小刀で弾き飛ばしながら、アオは半ば錯乱したように、すぐそばにいるはずの主人の姿を必死に探そうと視線を巡らせ始めた。

 

 「ごしゅじんさま!? ごしゅじんさま!?」

 

 その狼狽ぶりに、アサヒは戦慄とともに察した。

 

 あの少女は自分自身の気配を殺して接近し、その能力の効果範囲を拡大して、アサヒの存在そのものをアオの認識から極限まで希釈し、薄め去っているのだ。

 

 「ははっ! ビンゴ! お兄さん居ないとそんなに取り乱すんだね!」

 

 陽気な少女が歓喜の声をあげ、容赦なく追撃の不可視の刃を繰り出す。

 

 そう——常に傍らにいた主を失ったアオは、これまで「主人を守る」という根幹の行動以外を己の意思で行った試しがなかった。

 

 目と鼻の先にいるはずの主を感じ取れず、守るべき対象を見失ったアオは、戦闘の術すら見失い、完全に路頭に迷っていた。

 

 「アオ! 俺はここに——」

 

 混乱し、無防備に刃を弾き続けるアオの元へ、アサヒは必死に手を伸ばした。直接肌に触れさえすれば、自分がここにいると教えられるはずだった。

 

 だが——シュッ、と不快な風切り音とともに、アサヒの伸ばした手のすぐ先端に不可視の斬撃が突き刺さり、地面の土と落ち葉を跳ね上げる。

 

 「っ……!?」

 

 「あははっ! どこ行こうとしてるの~? お兄さんの動き、こっちからは丸見えだからねっ!」

 

 陽気な少女が指先をこちらに向けたまま、意地悪く笑う。

 

 少女たちの連携——気配を極限まで殺して距離を詰め、アサヒの存在を完全に希釈する静かな少女の能力と、アサヒの位置を視認しながらアオへの接触を正確に阻む陽気な少女の斬撃。

 

 (クソッ……なんて最悪な相性だ……!)

 

 アサヒは歯を食いしばり、踏み出そうとした足を止めざるを得なかった。

 

 アオの戦闘力は圧倒的だ。だがその強さは、「アサヒを守る」という絶対的な指針と、アサヒの存在を網膜と肌で捉えているからこそ発揮されるものだった。主人の位置も、無事かどうかも知覚できない今の状況は、アオという苛烈な防衛本能の核を完全にくり抜いたに等しい。

 

 「ごしゅじんさま……っ! どこ……どこに行ったの……!?」

 

 蒼い光をまとわせた小刀を闇雲に振るい、迫り来る断絶を弾きながらも、アオの声は明らかな悲壮感に揺れていた。視線は虚空を泳ぎ、防衛に回るだけで手一杯になっている。

 

 このままでは、アオが手加減を捨てて狂乱するか、あるいは焦りから生じた一瞬の隙を突かれて二人の刃に沈むか——刻一刻と、最悪の結末へ向かって時間が削られていた。

 

 「……あっ」

 

 混乱が思考を埋め尽くし、アオの視線が完全に泳いだ。

 

 主人の気配を完全に失った焦燥が、彼女の研ぎ澄まされていた集中力を無残に散らしていく。迫り来る絶対的な殺意——空気の歪みすら捉えられなくなったアオの無防備な胸元へ、不可視の断絶が寸分の狂いもなく肉薄した。

 

 刺さる。アオが切られる。

 

 アサヒは思考よりも早く、身体を動かしていた。

 

 「アオ——っ!!」

 

 姿も声も届かないのなら、物理的に弾き飛ばすしかない。気配を消された自分の身体を前傾させ、全力で地面を蹴る。極度の貧血で重い足を踏み出し、すんでのところでアオの華奢な肩を力任せに押し退けた。

 

 ドッ、と横合いから突き飛ばされたアオの身体が大きく宙を舞う。

 

 それと引き換えに——アサヒの視界が、真っ赤に染まった。

 

 ズバァッ!!

 

 静寂を裂く凄絶な切断音。

 

 「……ぐ、あ……っ!?」

 

 肉を断ち、骨を砕く鈍い感触とともに、アサヒの右腕が肘の上から綺麗に宙を舞った。

 

 一瞬の遅れののち、猛烈な激痛と灼熱が右肩から全身へと駆け巡る。絶叫すら声にならず、ボタボタと大量の朱が夜の土と枯れ葉を赤く染めていく。激痛に膝が折れ、アサヒはその場に崩れ落ちた。

 

 「ご、しゅ……じん……さま……?」

 

 アサヒから流れ出た鮮血が、少女の「希釈」の領域を超えて地面に広がり、その凄惨な事実を嫌でもアオの網膜に叩きつける。

 

 地面に転がった一本の腕。そして、腕を失い、激痛に顔を歪めて血の海に伏す主人の姿。

 

 「あ……あぁ……っ!?」

 

 アオの瞳から光が消え、世界が急速に冷たく、重く、狂気へと塗り替えられていった。

 

 「あっ! やっちゃったぁ……」

 

 静まり返る夜の森に、あまりにも不釣り合いな軽い声が響いた。

 

 「私のお膳立てが台無し……」

 

 いつの間にか、存在を薄めていた静かな少女も姿を現し、二人は並んで立ち尽くしていた。アサヒの右腕から溢れ出る圧倒的な血の量が、過剰に薄められていた空間の認知を強制的に破綻させ、皮肉にもその姿を現世に繋ぎ止めてしまっていた。

 

 「どーしよ。これ」

 

 陽気な少女は手にした見えない刃の感触を確かめるように指先を動かし、困ったように首を傾げる。

 

 「私に聞かないでよ」

 

 静かな少女は心底うんざりした様子で、地面に広がる惨状を見下ろした。勧誘対象の腕を跳ね飛ばし、修復不可能な重傷を負わせる——あまりに拙く、取り返しのつかない結果に、冷徹な仮面の裏から苛立ちが滲み出る。

 

 「ご……しゅ……じん、さま……?」

 

 二人の不用意なやり取りを余所に、地面に転がる血塗れの腕と、崩れ落ちたアサヒを見つめるアオの瞳から、完全に感情が抜け落ちていた。

 

 主を守れなかった。

 

 主を傷つけられた。

 

 静寂が、破滅的な密度の殺意へと姿を変えていく。アオの手にある小刀から、言葉通り空間を圧迫するほどの、禍々しく澄み渡った蒼い気が噴き出し始めていた。

 

 「ア……オ………ダメ……だ」

 

 血の海の中で荒い息を吐きながら、アサヒは残された左手で必死にアオの衣の裾を掴んだ。かすれ切った声。だが、そこには明確な意思が込められていた。

 その声に、狂気へ落ちかけようとしていたアオの瞳にすっと光が戻る。

 

 「ごしゅじんさま……! いま、すぐ……っ!」

 

 我に返ったアオは取り乱しながら膝をつき、アサヒの傷口へ自らの蒼い霊力を注ぎ込もうと手を伸ばす——しかし、その指先が触れる直前で、ピタリと止まった。

 

 脳裏に去来したのは、かつて永遠亭で八意永琳が告げた、冷徹な警告の言葉。

 

——これ以上、アオの力でアサヒの肉体を直接治癒・再構築すれば、アサヒの人間としての存在そのものが変質し、人外の領域へと引きずり込まれる危険性がある。

 

 「あっ……あ、あ……っ」

 

 治せば、アサヒは「人間」でなくなってしまうかもしれない。

 

 かといってこのまま放置すれば、出血多量で死ぬ。

 

 目の前で激痛に耐える主を前に、アオの手が絶望に震えた。治す術を持ちながら、それを使うことが許されない。選択肢を奪われたアオの顔が、焦燥と恐怖で歪んでいく。

 

 「あらら……治癒能力はあるのに使えない理由があるんだ? 可哀想に」

 

 傷口を固く押さえるアサヒと、八方ふさがりの状況で呆然と佇むアオ。その姿を見下ろしながら、離れた場所に立つ静かな少女が、どこか諦めたような冷ややかな声を漏らした。

 

 「アオ……っ……やってくれ………成る覚悟は……出来ている……!」

 

 途切れ途切れの声。しかし、アサヒの虚ろな瞳の奥には、濁りのない力強い熱が宿っていた。

 

 その視線を正面から受け止め、アオは意を決して震える手をアサヒの傷口へと押し当てた。

 

 「……はい、ごしゅじんさま」

 

 溢れ出す澄み切った蒼い光が、切断面を包み込む。肉が蠢き、骨が伸び、新芽が吹くように滑らかな肌が再構築されていく。瞬く間に、右腕は何事もなかったかのように完全に再生された。

 

 だが——腕が生え揃ったその瞬間、アサヒの全身を恐ろしい衝撃が貫いた。

 

 「っ……あ、ぐ……っ!?」

 

 自分の中に、膨大で異質な「ナニか」が雪崩のように流れ込んでくる。血液でも、神経の信号でもない。理屈や知識では到底説明のつかない、冷たくも熱い不快な異物が、細胞の隅々にまで侵食し、塗り替えていく感触。

 

 ——終わった。

 

 直感的に、理解してしまった。

 

 自分はもう、引き返せない一線を越えた。人を辞めてしまったのだと。

 

 痛みが引き、呼吸が整っても、身体の表面には何の変化も表れていなかった。鏡を見ても、きっとこれまで通りの人間の姿が映るのだろう。

 

 しかし、内側で決定的に壊れ、新しく再構築されてしまった「何か」。変わってしまったという確信だけがあるのに、それが具体的に何なのかすら分からないという漠然とした恐怖が、アサヒの輪郭を内側からじわじわと蝕み、言いようのない不安で満たしていく。

 

 「お兄さん……? いま、何したの……?」

 

 目の前で起きた完全な肉体再生と、アサヒの纏う空気に訪れた不可解な変質を前に、静かな少女の顔から余裕が消え去っていた。

 

 「……これで……明確に……俺は君達の組織と敵対したことになったな」

 

 地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がりながら、アサヒは低く言いのけた。

 

 一見すれば傷一つない肉体。しかし外見的に、たった一つだけ明らかな変化が生じていた。

 

 アサヒの瞳の色が、アオと同じ静謐で禍々しい蒼へと変色し、暗闇の中で妖しく澄んだ光を放っていたのだ。

 

 「やっばぁ……お兄さん、ますます面白くなっちゃったよぉ……!」

 

 その異様な佇まいを目にした陽気な少女が、恐怖を通り越して歓喜に目を輝かせる。

 

 「言ってる場合? ほら、流石にヤバい雰囲気出てるから撤退撤退」

 

 静かな少女は眉をひそめ、冷や汗を流しながら相棒の首根っこを掴むように引き剥がした。アサヒの纏う「ナニか」に変質した気配に、本能的な危険を感じ取ったのだ。

 

 「むむっ……確かにしょーがないっ! お兄さん! それでも私! 絶対に組織に引きずり込んで見せるからねぇ~!」

 

 捨て台詞を残した途端、二人の気配が急速に薄れ、夜の深い静寂の中へと完全に掻き消えていった。

 

 ……本当に撤退していったのだろう。追撃の刃が飛んでくる気配はない。

 

 (……助かった、のか……?)

 

 アサヒは胸を撫で下ろすと同時に、強烈な徒労感に襲われた。完全に遊ばれていたのだ。もしあの二人が本気で殺しにかかり、能力の連携を維持したまま押し切られていたら、ひとたまりもなかっただろう。

 

 何より、アサヒ自身「自分が何に変質してしまったのか」すら見当もついていないのだから。

 

 「ごしゅじんさま……」

 

 気配が完全に消えたことを確認したアオが、小刀を収め、恐る恐るアサヒへと歩み寄ってくる。その蒼い瞳には、安堵と、主を「人間ではなくしてしまった」という深い罪悪感が交錯していた。

 

 「あいつらが引いてくれて、助かったよ……。……なぁ、アオ。俺の顔、変か?」

 

 アサヒは再生したばかりの右腕の拳を握り締め、違和感を拭いきれないまま、自分の目を指差して苦笑いを浮かべた。

 

 「アオといっしょ。うれしい」

 

 ぽつりとこぼれたアオの言葉に、アサヒは拍子抜けしたように小さく笑った。

 

 罪悪感に押しつぶされそうだったアオの表情がふっと緩み、微かに胸を撫で下ろすような仕草を見せる。人ではなくなったという事実の恐ろしさも、これから待ち受けるであろう不穏な運命も、今の彼女にとっては「主と同じ色になれた」という純粋な充足感の前に霞んでしまっているようだった。

 

 「気に入ってもらえたなら良かったよ」

 

 アサヒは自嘲気味に呟きながら、再生したばかりの手のひらを何度も開いては握りしめた。

 

 肌の感覚も、指の動きも、以前と何一つ変わりはない。だが、視界の端に映る己の瞳の蒼い光と、胸の奥に澱のように居座る正体不明の「ナニか」が、二度と元には戻れないことを冷酷に告げている。

 

 「でもまあ……これで名実ともに、君の連れ合いってわけだ」

 

 アサヒは小さく息を吐き出すと、視線を山道の奥へと向けた。

 

 敵は引いた。だが、天狗殺害の疑いがかかるこの妖怪の山で佇んでいる猶予はない。何より、二人の外来人が去り際に残した不穏な余韻と、己の身体に起きた異変という新たな課題が、二人の肩に重くのしかかっていた。

 

 次の瞬間、夜の静寂を破って二人の影——青年と少女が姿を現した。

 

 「——っ!?」

 

 すぐさま刃を構え、警戒を跳ね上げるアサヒとアオ。向こうの青年も瞬時に鋭い身構えを見せたが、その傍らに立つ少女だけは違っていた。

 

 彼女は目を見開き、アオの姿を凝視したまま呆然と立ち尽くしている。

 

 そして——それはアオも同じだった。

 

 先ほどまであれほど冴え渡っていたアオの殺気が霧散し、蒼い瞳を丸くして、目の前の少女を茫然と見つめ返している。

 

 「あ、アオ……?」

 

 「アカネ……?」

 

 見つめ合う二人の少女。

 

 直後、呼吸すら完全に重なるタイミングで、二人は声を揃えて呟いた。

 

 「「…………同じ」」

 

 「「…………え?」」

 

 予期せぬ言葉の一致に、アサヒと対峙する青年は思わず声を漏らし、顔を見合わせた。

 

 あまりにも酷似した空気感、そして互いを呼んだ名。山中の暗闇の中、突如としてあらわれた未知の二人組を前に、ただならぬ困惑と緊張がその場を包み込んでいく。

 

 




ここまで読んで頂きありがとうございます。

次回に続きます。
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