東方異人録 作:かまきりバニラ
アサヒとアオが永遠亭へと到着した同時刻。
静寂と古書の匂いが充満する空間で、エイタはパラパラと紙をめくる音だけを響かせていた。
紅魔館の地下に広がる、巨大なパチュリーの図書室。
急な呼び出しを受けてこの館を訪れたものの、「今日は他にも重要な客人が来るから、少し待っていなさい」と館の主たちに告げられ、案内されたのがこの場所だった。
「……で、暇潰しに本を読めと言われてもな」
エイタは手元にある分厚い革装丁の本に目を落とし、小さく息を吐いた。
書かれているのは、この世界——幻想郷の独自の歴史や魔法理論、あるいは眉唾ものの怪異譚ばかり。元の世界で身につけた知識や常識とは程遠いものばかりだが、それでも何もせずに退屈と向き合うよりは遥かにマシだった。
ふと視線を上げると、少し離れた本棚の陰で、薄紫色の部屋着に身を包んだパチュリー・ノーレッジが、積み上がった本に囲まれながら静かに頁をめくっている。彼女はこちらに気を払う様子もなく、自分の世界に没頭していた。
(他の客人、か……)
エイタは本を閉じ、パタンと重い音を立てて机の上に置いた。
紅魔館の面々がわざわざ自分を呼び出し、さらに別の「客人」と同席させるという状況。嫌な予感というか、胸のざわめきを禁じ得ない。
「……何が始まるんだか」
椅子にもたれかかり、エイタは図書室の薄暗い天井を見上げた。
「ゴッシュジーン!」
思索に耽っていた背後から、不意に小柄な体躯が飛びついてきた。背中に伝わる柔らかな感触と元気いっぱいの声に、エイタは苦笑しながら振り向く。
「みてみて! 鶴折れた!」
「妙に静かだと思ったら、ずっと鶴折ってたのか」
「ウン! ようやくいちわ折れた!」
小さな両手のひらに大事そうに乗せられたのは、どこか不揃いで、微妙に歪な形をした一羽の折り鶴。それを誇らしげに掲げ、少女——アカネは目をキラキラと輝かせてエイタを見上げていた。
彼女の名前はアカネ。
奇妙な縁があってからというもの、エイタと共にこの幻想郷で暮らしている少女だ。どういうわけかエイタのことを「ご主人」と慕い、まるでひな鳥のように彼の後を四六時中ついてまわっている。
「上出来だ。不器用なお前がよくここまで折れたな」
エイタが頭を撫でてやると、アカネは満足そうに「へへん」と鼻を鳴らした。
その無邪気な笑顔を見つめながら、エイタは胸の奥にどこか割り切れない感情を抱く。無垢で純粋な彼女の存在は、この異界での殺伐とした日々に小さなくつろぎを与えてくれていた。
だが、その平和な空気も、パチュリーの図書室の静寂を破る足音によって長くは続かなかった。
「図書室では静かに。集中して本も読めやしないわ」
積まれた本棚の影から、心底煩わしそうな声が聞こえてきた。パチュリーが本から視線を外し、紫色の瞳でじろりと二人を睨みつけている。
「別にずっと騒いでた訳じゃないだろ?」
エイタは呆れ顔で肩をすくめ、平然と返した。
「そーだそーだー!」
エイタの背後ろから顔を覗かせたアカネも、彼の言葉に乗っかって威勢よくパチュリーに言いのける。その手に握られた歪な折り鶴は、大事そうに胸元へと抱え込まれていた。
「まったく……類は友を呼ぶとはよく言ったものね」
パチュリーは小さく溜息をつき、手元の分厚い魔導書をパタンと音を立てて閉じた。
「言っておくけれど、これから来る『客人』は、貴方たちにとっても他人事ではないはずよ。特に……そこにいる異物にとってはね」
意味深な視線をアカネに向けながら、パチュリーは静かに椅子から立ち上がった。その言葉に、それまで冗談めかしていたエイタの表情が僅かに引き締まる。
「その客人……ってのは一体誰なんだ?」
「博麗神社の巫女よ」
「異変解決に飛び回ってるっていう、あの?」
「ええ。アカネは存在そのものが異変みたいなものだから、精々気を付けることね」
「とは言っても、別に世間に害をなしてるわけじゃない。大丈夫だろ」
「どうかしらね。あの巫女は、自分にとっての『危険因子』なら理由を問わず叩き潰すような性格をしているわ」
「今の今まで散々人を喰ってきたこの館の主がお咎めなしなのにか?」
エイタの軽薄な一言に、パチュリーの長いまつ毛がピクリと跳ねた。
「……何が言いたいのかしら?」
ふわりと、パチュリーの身体から刺すような密度の魔力が膨れ上がり、図書室の空気を重く沈ませていく。
「別に? 害のないアカネを警戒する割には、随分とここの主には寛容なんだなって思っただけさ」
「喧嘩……売ってるの?」
「おっと、気に障ったか? 俺はただ事実を口にしただけなんだが」
「……痛い目を見ないと分からないようね」
「おお怖い怖い。更年期って歳でもないだろ?」
挑発的な笑みを浮かべるエイタと、冷徹に殺気を孕ませるパチュリー。
その緊迫した空気を察した瞬間、エイタの後ろにいたアカネの目つきがガラリと変わった。
先ほどまでの無邪気さは雲散霧消し、その瞳には冷酷な光が宿る。アカネは歪んだ折り鶴を握りしめたまま、エイタを脅かす存在——パチュリーに向けて、容赦のない凶暴な殺気を弾けさせた。
「ちょっと……私の館でおっ始めるのは止めてちょうだいね」
二人の間に割って入るように、一人の少女が姿を現した。
青みがかった美しい銀髪に、暗闇に妖しく光る真紅の瞳。十歳にも満たない幼子のような小柄な背丈だが、その背からは異形にして威厳ある大きな悪魔の翼が広がっており、独特の圧倒的な存在感を放っている。白の強いピンク色に赤いリボンがあしらわれたナイトキャップと、同じ色合いの可憐なドレス。
レミリア・スカーレット。
この紅魔館の主にして、威厳と気品を纏う吸血鬼である。
「パチュリー、貴女じゃ彼に勝ち目がないことは誰よりも知ってるでしょ?」
退屈そうに肩をすくめながら投げかけられた主の言葉に、パチュリーは不満げに眉をひそめた。
「そうかしら? 私はまだ直接彼と戦ったことはないのだけど?」
「この館のメンツで歯が立たなかったんだから、結果は火を見るより明らかでしょ……」
レミリアの呆れたような追及に、パチュリーは返答に詰まり、くっと口を噤んだ。膨れ上がっていた禍々しい魔力も、主の介入によってしぶしぶといった様子で霧散していく。
それと同時に、エイタの背後でパチュリーに牙を剥いていたアカネの鋭い殺気もすっと失われ、再びエイタの服の裾をぎゅっと掴む無邪気な少女の顔へと戻っていた。
「それで? 客人とやらは到着したのか?」
「いいえ。未だに来ないから、待たせてる貴方がパチュリーと喧嘩してないか心配になって一旦様子を見に来たのよ」
「様子を見に来て正解だったな。もう少しでこの図書室が木っ端微塵になるところだった」
「ムカつく奴……」
悔しそうに小さく呟き、パチュリーが再び刺すような視線で睨み付けてくる。エイタはそれを軽く受け流しながら、レミリアへと向き直った。
「で? その客人は何をもたもたしてるんだ?」
「さあね。あの巫女のことだから、途中で道草でも喰っているんじゃないかしら?」
レミリアは溜め息を一つつくと、優雅な動作で赤いリボンのついた帽子を少しだけ直した。
「人を待たせといて、随分と図々しいやつだな」
エイタは呆れたように首を振ると、近くの書卓に腰を預け、腕を組んだ。
「まあ、霊夢らしいといえばらしいけれどね。あの気まぐれさは今に始まったことじゃないわ」
レミリアはくすりと可憐に微笑むと、優雅な足取りでエイタの側へと歩み寄った。小柄な体を揺らし、悪魔の翼を僅かに羽ばたかせながら、退屈そうに図書室の天井を仰ぎ見る。
「本当に……人を呼び出しておいて放置とは良いご身分だ」
エイタの吐き捨てるような台詞に、背後で裾を握りしめていたアカネが「うんうん」と深く頷いて同調する。
「ゴシュジンをまたせるなんて、わるいやつだね!」
二人のやり取りに、パチュリーは呆れたように溜め息を吐き出すと、手にしていた魔導書をそっと棚へと戻した。不機嫌そうに眉をひそめてはいるものの、先ほどまでの刺々しい魔力はすっかり鳴りを潜めている。
「まあ良いわ。紅茶でも淹れさせましょう。咲夜に言ってすぐに用意させるわよ」
「助かる。この気難しい司書様と一緒の空間で待つのは御免だからな」
「……誰が気難しいって?」
再び火花を散らしそうになるエイタとパチュリーを横目に、やれやれと言った風に首を振る。薄暗く静寂に包まれていたはずの大図書館に、歪な空気が漂っていた。
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場所を図書室から陽の光が優しく差し込む応接セットへと移し、テーブルを囲むように着席する。
「というわけで、ここに集まってもらったのは——」
「ちょいちょいちょい。もう一人がまだ来てないんだけど?」
「もう待ちくたびれたから、別々に来たときに話すわよ。じゃないと、貴方痺れを切らして帰っちゃうでしょ?」
「まあな」
用意された紅茶を一口すすりながら答えるエイタ。
隣ではアカネが猫舌らしく、カップを両手で包み込みながら「ふー、ふー」と懸命に息を吹きかけて冷ましていた。
「んっ。やっぱり咲夜が淹れた紅茶はウマイ。紅茶の銘柄とか全然興味ないし普段から飲まないけど、ウマイってのはとりあえず分かる」
「勿体無いお言葉。ありがとうございます」
エイタの少し雑な褒め言葉にも、控えていたメイド長——十六夜咲夜は表情ひとつ崩さず、優雅に一礼してみせた。
「で? もう一人の客ってのと、俺たちを呼んだ本題は何なんだ? 思わせぶりに巫女の名を出されたが」
「焦らないで頂戴」
レミリアは自身のカップにそっと口を付け、妖しく真紅の瞳を輝かせた。
「最近、外来人だけで構成された組織なるものが動いているらしいの」
「外来人だけ……?」
「そう。その組織が、最近妖怪を片っ端から殺して回っているっていう噂を耳にしたのよ」
「誰からだ?」
「うちの妖精メイドからよ。外へサボりに出かけた一人が、よその妖精からそんな話を聞きつけてきたらしいわ」
「初耳だな……。それに、まだただの噂の段階なんだろ?」
エイタはカップをソーサーに戻すと、微かに眉をひそめた。
「噂だと切って捨てるには、少々きな臭いのよ」
レミリアは脚を組み替え、優雅にカップを傾ける。
「その組織ついてなのだけど……」
「俺たちが組織の一員じゃないか疑ってるってわけか」
「まさか。誤解しないで頂戴。もし疑っているなら、こうしてお茶を振る舞ったりしないわ。ただ、同じ外から来た者として、何か思い当たる節や心当たりがないか確かめたかったのよ」
「心当たり、か……」
エイタは顎に手を当て、隣でようやく温くなった紅茶をちびちびと飲み始めたアカネへと視線を滑らせた。
自分たち以外の「外来人」、そして妖怪を無差別に殺して回る謎の組織。
静かな応接室に、不穏な空気の糸がゆっくりと垂れ下がっていく。
「まったくないな。そもそも俺たち、この世界に来てからまともな連絡手段すら持ってねえし」
エイタは即答し、呆れたように肩をすくめた。そのあまりにあっけらかんとした態度に、レミリアは微かに眉をひそめる。
「……即答ね。少しは考えるフリくらいしたらどうかしら?」
「嘘ついたって仕方がねえだろ。それに、もし俺たちがそんな物騒なグループと繋がってたら、今頃こんなところで呑気に紅茶なんて飲んでねえよ」
そう言ってエイタは、隣で平和そうに紅茶を飲み干したアカネをあごでしゃくった。当の本人も「ねー」とばかりに頷き、満足そうにカップを置いている。
「なるほど。どうやら本当に無関係のようね。あなたのその遠慮のない態度は、嘘をついていない証拠としては十分だわ」
レミリアはくすりと小さく笑うと、背もたれに深く体を預けた。咲夜が無言のまま進み出で、レミリアと二人のカップへと手際よく温かい紅茶を注ぎ足していく。
「ただ、向こうがあなたたちを『仲間』とみなすか、それとも『排除対象』とみなすかは別問題よ。同じ外来人である以上、巻き込まれる可能性は高いわ」
「……」
「せっかく美味しい紅茶を味わえるお客様を、正体不明の連中に横取りされるのは面白くないでしょう?」
赤い瞳を細め、意味深な笑みを浮かべるレミリア。エイタは注ぎ直されたカップの湯気をじっと見つめながら、舌打ち混じりに息を吐き出しす。
不穏な噂は、もう他人事ではいられなくなっているようだった。
「んで、忠告する為だけに呼んだわけじゃないんだろ?大方、その組織とやらを探って欲しいと」
「話が早くて助かるわ。博麗の巫女ーーもとい、霊夢にも頼もうと思ってたのだけれど……一向に姿を見せる気配がないわ」
「気まぐれ過ぎんだろ」
「あいつの気まぐれは今に始まったことじゃないけどね」
レミリアは呆れたように肩をすくめ、手元で静かにカップを揺らした。
「とはいえ、巫女が動かない以上、手をこまねいているつもりもないわ。紅魔館の領分を脅かす害虫なら、早いうちに潰しておきたいの」
「だから、俺たちにその『害虫』の足取りを追わせようってわけか。外来人同士なら、お互い嗅ぎつけやすいだろうしな」
「そういうこと。もちろん、タダでとは言わないわ。情報でも物資でも、あなたたちの探しているものに相応の対価を用意してあげる」
エイタは腕を組み、深々とソファに背を預けた。
単なる噂話だと思っていたものが、一気に面倒な厄介事へと化けつつある。隣を見ると、アカネが「どうするの?」と言いたげに、くりっとした目でこちらを見つめていた。
「そもそも、俺が素直にこの依頼を受けると思うか? 妖怪を殺して回ってるんなら、俺にとっちゃむしろ都合が良い。道中、いちいち絡まれずに済むからな」
エイタが突放すように告げ、冷ややかな沈黙が流れた——その直後。
「お願い……エイタ」
言葉とともに、レミリアが静かに椅子から立ち上がった。
次の瞬間、あの誇り高き紅魔館の主が、自ら膝をつき、地へと頭を下げる。
その常軌を逸した光景に、傍らで控えていた咲夜の目が見開かれ、エイタも思わず息を呑んだ。
「れ、レミリア様……!? 頭をお上げください!」
平然と給仕をこなしていたはずの咲夜が、明確に動揺を露わにして声を張り上げる。
「どうしても……この紅魔館に害を成す不安要素は潰しておきたいの……私の居場所を守りたいの……貴方が教えてくれたことよ」
絞り出すようなレミリアの言葉。
あの尊大な吸血鬼が、なりふり構わず頭を下げている。
「っ……! エイタ様! 私からもどうかお願い申し上げます……! どうか……どうかこの依頼を受けてはいただけないでしょうか……!」
レミリアの隣へと滑り込むように跪き、並んで咲夜も深く頭を下げた。
あの完璧なメイド長が、必死に声を震わせながら懇願してくる。
「……おいおい、冗談だろ……」
眼前で繰り広げられる常軌を逸した光景に、エイタは完全に毒気を抜かれ、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
チラリと隣を見れば、アカネも目を見開いたまま固まっている。
誇り高き主と、その絶対の従者。二人がそこまでして守りたい「居場所」と「平穏」。
「……ハァー……クソッ、マジかよ」
エイタは大袈裟に頭を抱えると、深々とため息を吐き出した。
「……なんでそこまですんだよ。たった一人の人間なんかに——ましてや、ただの調査なんて依頼で」
エイタの困惑が混じった問いかけにも、レミリアは返答しない。
陽の光が差し込む美しい応接室で、ただ静かに、頑なに頭を下げ続けている。
言葉を発しないその沈黙が、かえって彼女の本気度と、内に秘めた焦燥の深さを物語っていた。主の決意を悟った咲夜もまた、微動だにせず床に額を押し付けている。
(……反論すらしてこねえのかよ)
いつもなら尊大な笑みを浮かべて見下してくるはずの吸血鬼が、なりふり構わず自分に乞うている。その姿は、エイタにとって煽られるよりもずっとタチが悪かった。
「……アカネ」
エイタが低く呼びかけると、ずっと息を呑んでいたアカネが、小さくハッとしてこちらを見た。
「……どう思う?」
「ウチはゴシュジンについてくだけ!」
アカネは胸を張り、一切の迷いがないハッキリとした声でそうと言い切った。
エイタは呆れ果てたように天を仰ぐと、本日何度目になるか分からない深い溜め息を吐き出した。
ガシガシと乱暴に頭をかきむしり、意を決したようにソファから勢いよく立ち上がる。
「あー……もうクソッ! 分かった、分かったから二人とも頭を上げろ! 受ける! 受けりゃいいんだろ!」
半ばヤケクソ気味に吐き捨てられたその言葉に、レミリアの華奢な肩がぴくりと跳ねた。
ゆっくりと顔を上げたレミリアの真紅の瞳は、ほんのわずかに揺れていたが、すぐにいつもの不敵で優雅な吸血鬼の笑みがその唇に舞い戻る。隣の咲夜もすばやく立ち上がり、何事もなかったかのように身なりを整えると、深々と頭を下げた。
「……感謝するわ、エイタ。あなたならそう言ってくれると信じていたわ」
「嘘つけ、完全に背水の陣みたいな顔してただろ。……で、まずはどこから探ればいいんだ?」
エイタがうんざりした顔で尋ねると、レミリアは小さく胸を張り、一瞬前に見せたなりふり構わぬ姿など嘘であったかのように、いつもの威厳を取り戻した声で言葉を紡ぎ始めた。
「妖精メイドの話だと、霧の湖の辺りで妖怪の死骸の山を目撃したそうよ」
さらりと告げられたその凄惨な言葉に、応接室の温度がわずかに下がったような錯覚を覚える。
「死骸の山ね……噂どころか、完全に足元まで迫って来てんじゃねえか」
エイタは不機嫌そうに鼻を鳴らした。自分たちが呑気に紅茶を啜っていたすぐ近くで、そんな殺戮劇が繰り広げられていたのだ。
「霧の湖なんて、せいぜいチルノみたいなのがチョロチョロしてるか、中級妖怪が巣くってるくらいか。 そんなのが束になったところで、その組織とやらには手も足も出なかったってわけね」
「ええ。そのサボり魔のメイドも、恐怖で震え上がりながら逃げ帰ってきたわ。……まあ、お仕置きは後でたっぷりしてあげるとして」
レミリアはくすりと毒を含んだ笑みを浮かべ、カップに残った液体を飲み干した。
「まずはその現場を確認するのが手っ取り早いでしょうね。何か手がかりが残されているかもしれないわ」
「湖か……。了解、さっさと行って見てくるわ。アカネ、行くぞ」
「はーい! ゴシュジン!」
立ち上がるエイタに続いて、アカネも元気に返事をしてカップを置いた。
「エイタ」
「なんだ?」
「……お願いね」
いつもの尊大な言葉遣いではなく、か細く、どこか少女のような切実さを帯びた声だった。真紅の瞳が、すがりつくような色を宿してエイタを見つめている。
「……らしくねえな」
エイタは足を止め、振り返ることなく鼻で笑ってみせた。
「仕事はきっちりこなしてきてやる。そこで、高貴にお茶でも飲んで待ってろ」
「……ふふ、そうさせてもらうわ」
エイタの背中に向けて、レミリアはいつもの不敵な笑みを舞い戻らせた。
エイタはひらひらと手を振ると、応接室の重厚な扉を押し開けた。隣を歩くアカネも「行ってきまーす!」と元気に手を振り、二人は陽光が降り注ぐ紅魔館の廊下へと踏み出していった。
立ち去った二人を見送った重厚な扉が静かに閉じると、応接室には再び穏やかな陽光だけが差し込んでいた。
「レミリア様。いくらなんでも、頭をお下げになるのはやり過ぎかと……」
咲夜が複雑な表情を浮かべ、注ぎ直されたばかりの紅茶へと視線を落としながら低く呟く。完璧なメイド長にとって、敬愛する主がたった一人の人間に跪いて地をつける姿は、耐え難いほどの衝撃だった。
「あそこまでしないと、彼は動いてくれないわ」
レミリアは脚を組み直し、優雅な動作で背もたれに体を深く預けた。膝の上で指先をトントンと規則正しく遊ばせる。その表情には先ほどのみじめな切実さなど欠片もなく、いつもの不敵で計算高げな笑みが舞い戻っていた。
「それなら、私に命令してくだされば……」
「言ったでしょう? 私の居場所を守るためだって。咲夜が渦中に飛び込んでどうするのよ」
「それは……あ、ありがとうございます」
不意に投げかけられた主からの情愛に、咲夜はハッとして表情を緩め、深々と頭を下げた。
「あの男は口こそ悪いけれど、妙なところで情に厚いわ。ただ頼み込まれるより、弱者が必死に縋り付く姿を見せられた方が、断れなくなる面倒なタイプよ」
レミリアは優雅にカップを傾け、液体をそっと口に含む。
「それに……あの外来人たちの組織とやら。本当に妖怪を効率よく狩っているのなら、生半可な戦力じゃ返り討ちに遭うわ」
「…………」
無言で眉をひそめる咲夜の視線に気づき、レミリアはくすりと胸の内で楽しそうに笑った。
「ふふっ。そんな顔をしないで。私だってあの二人には……いいえ。エイタには手も足も出なかったんだもの」
「エイタ様は一体……何者なんでしょうか……」
「さあね。自分のことを一切話さないじゃない、彼」
ふっと力を抜くように呟き、レミリアは窓枠に肘を預けて顎を乗せた。ガラス越しに差し込む陽光が、その華奢なシルエットを淡く光らせる。
「……私はね、彼が欲しいの」
ぽつりとこぼれ落ちたその一言に、咲夜は思わず息を呑んだ。
振り返ったレミリアの顔には、いつもの傲慢な笑みも、計算高い主としての仮面もなかった。ただ純粋で、どこか焦心に満ちた——まるで初めて欲しいおもちゃを見つけた子供か、初恋に胸を痛める少女のような表情を浮かべていた。
「これって恋心? それとも……ただの独占欲かしら?」
真紅の瞳を揺らし、自嘲気味に呟くレミリア。
自分の運命をも操る吸血鬼が、たった一人の人間の男に心を乱されている。その可憐でいて、どこか危うい佇まいに、咲夜は返す言葉を見つけられず、ただ静かに主を見つめることしかできなかった。
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