東方異人録   作:かまきりバニラ

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『アサヒ』

 意識が浮上すると同時に、視界に飛び込んできたのは見覚えのない、古びた木目の天井だった。

 

 ゆっくりと上体を起こそうと試みるが、その刹那、頭蓋を内側から引き裂くような鋭い激痛が走る。思わず顔を歪め、指先でこめかみに触れると、そこには幾重にも巻かれた包帯の感触があった。

 

 その無機質な感触がトリガーとなり、脳裏に悍ましい光景がフラッシュバックする。

 

 鬱蒼と茂る森。空気を切り裂くような咆哮。猿を思わせる異形の獣。そして、かつて「人間だったもの」が、見る影もなく無残に食い荒らされていた地獄絵図。

 

 「……夢じゃ、なかったんだな」

 

 渇いた声が唇から零れる。頭に刻まれた確かな痛みが、それらすべてが残酷な現実であることを突きつけていた。しかし、同時に奇妙な喪失感が彼を襲う。あの森で目を覚ます以前の記憶が、深い霧に包まれたかのように霧散しているのだ。なぜ自分がそこにいたのか、何から逃げていたのか。

 

 ただ一つ、暗闇の中に灯る小さな火のように、確かな実感を伴って思い出せるものがあった。

 

 アサヒ。

 

 それが自分の名だ。確固たる根拠などどこにもない。だが、魂の奥底に刻み込まれたその響きだけは、決して偽りではないという奇妙な確信があった。

 

 アサヒは己の熱を確かめるように何度もその名を心の中で反芻しながら、ようやく周囲の情景を視界に収めた。

 

 そこは、時間が止まったかのような静謐な空気に満ちた部屋だった。

 

 使い込まれた暖炉、壁に吊るされた色褪せたドライフラワー。規則正しい音を刻む古時計に、沈み込むような革張りのソファ。一見すれば、手入れの行き届いた古き良き洋風の邸宅の一室に見える。

 

 だが、その平穏な調度品を塗りつぶすほどの、圧倒的な「違和感」が部屋を支配していた。

 

 おびただしい数の、人形。

 

 戸棚の上、椅子の背もたれ、窓際、あるいは床の隅々に至るまで。どこに視線を向けても、精巧に作られた人形たちの無機質な瞳が、一斉に彼を射抜いていた。

 

 レースのドレスを纏った少女、凛々しい制服姿の少年、あるいは異形を模したもの。数えきれないほどの「視線」が、静まり返った室内でアサヒを包囲している。

 

 生まれて初めて目にする、美しくも不気味な光景。

 

 記憶を失った青年は、沈黙を守り続ける人形たちの群れの中で、自身の置かれた数奇な運命を予感せざるを得なかった。

 

 「あら? お目覚めかしら?」

 

 静寂を破るように響いたのは、鈴の音を転がしたような、涼やかで凛とした声だった。

 

 重厚な木造りの扉が静かに開かれ、逆光の中に一人の少女が姿を現す。

 

 アサヒが反射的に視線を向けると、そこに立っていたのは、この部屋を埋め尽くす人形たちの誰よりも精緻で、完成された造形美を持つ少女だった。

 

 短く切り揃えられた柔らかな金髪。透き通るほどに白い肌。その端正な顔立ちは、あまりの現実味のなさに、一瞬彼女自身も動く人形なのではないかと錯覚してしまうほどだ。

 

 「私はアリス・マーガトロイド。……運が良かったわね。貴方、あの森で妖怪に食われかけていたのよ?」

 

 「……食われ、かけて?」

 

 呆然として言葉を返すアサヒに、アリスは「やれやれ」と肩をすくめて見せた。その仕草には、どこか突き放したような冷たさと、それでいて捨て置けない者への僅かな慈悲が混ざり合っている。

 

 「いい? よく聞きなさい。ここは『幻想郷』。忘れ去られたものや、外の世界で必要とされなくなったものが、最後の最後に流れ着く境界の地なの。貴方のように境界を越えて迷い込んできた人のことは、『外来人』と呼んでいるわ」

 

 アリスは淡々と、しかし拒絶しがたい説得力を持って言葉を重ねる。

 

 幻想郷、外来人、そして妖怪。

 

 聞き慣れない単語の羅列に、アサヒの思考は追いつかない。困惑を隠せずにいる彼をじっと見つめていたアリスは、不意に腕を組み、納得したように頷いた。

 

 「その様子だと、本当にここに来たばかりなのね。……混乱するのも無理はないけれど」

 

 アリスは再び「やれやれ」と溜息をつき、部屋の隅にある古時計に目をやった。

 

 「いい?今日はとにかく、このままゆっくり休みなさい。まだ怪我も治りきっていないんだから。……明日になれば、私が『人里』まで一緒に連れて行ってあげるわ」

 

 彼女は窓の外、広大な森の向こう側を指し示す。

 

 「そこなら、この世界の理に詳しくて、もしかしたら外の世界へ帰る方法を教えてくれそうな人たちも知っているから。ちょうど私も、人形の材料や買い足しておきたい物がたくさんあるの。ついでだから、都合が良いわ」

 

 アリスはそれだけ告げると、アサヒの応答も待たずにスカートを翻して扉へと向かう。

 

 扉が閉まる乾いた音が、静まり返った室内に虚しく響いた。

 

 アサヒは、アリスが去った後もただ呆然と、自身の膝の上に置かれた無骨な掌を見つめていた。無理もなかった。つい先ほどまで、彼は名状しがたい獣の顎に喉笛を裂かれ、無惨な死骸となって森の土に還る寸前だったのだ。命の灯火が消えかけるあの瞬間の、凍り付くような恐怖と血の匂いが、今も肺の奥底にこびりついて離れない。

 

 「……何なんだよ、ここは」

 

 掠れた声で呟くが、答えをくれる者は誰もいない。

 

 自分自身の名前こそ「アサヒ」であると直感的に理解していても、それ以外のすべてが欠落していた。家族の顔も、これまで歩んできた道のりも、なぜ自分が現代的な感覚を持ちながら、このようなお伽話のような、あるいは悪夢のような場所に辿り着いたのかも。 

 

 足元が崩れ去るような、底知れない不安が泥のようにせり上がってくる。

 

 今回、彼は偶然にもアリスという少女に拾われた。だが、それはあくまで天文学的な確率の「幸運」に過ぎない。もし、再びあの猿のような獣に出会ったら。もし、次に遭遇するものがアリスのような慈悲を持ち合わせていなかったら。

 

 その時、自分は再び「幸運」を掴み取れるだろうか。

 

 (次は、ないかもしれない……)

 

 そう思うと、背筋に冷たい戦慄が走った。記憶を失い、身を守る術も持たず、世界の理すら知らない。今の自分は、嵐の海に放り出された小舟も同然だった。

 

 周囲を見渡せば、棚や壁、至る所に鎮座する人形たちが、その無機質なガラスの瞳で一斉に彼を観察している。彼らが何かを知っているかのように見え、あるいは自分の無力さを嘲笑っているかのようにも感じられた。

 

 薪の爆ぜる音だけが、やけに大きく部屋に響く。

 

 アサヒは、逃れられない運命の渦中に立たされている自分を自覚し、重い溜息とともに、再びずきずきと疼き出した頭を抱え込んだ。

 

 今はただ、アリスから与えられた短い平穏に身を委ね、傷ついた体を休めることしかできなかった。

 

 




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