東方異人録 作:かまきりバニラ
夜の静寂が去り、窓から差し込む柔らかな陽光がアサヒの瞼を叩いた。
朝の目覚めは、意外なほどに穏やかなものだった。昨日まで全身を支配していた、あの泥のような倦怠感や鋭い頭痛は、眠りという休息を経て幾分か和らいでいる。
ゆっくりと上体を起こして周囲を見回すが、視界に映る景色に変わりはない。精巧に作られた無数の人形たちが、無機質な瞳でじっと自分を凝視している。やはり夢ではなかったのだと、アサヒは小さく吐息をこぼした。
今日は「人里」という場所へ、アリスが案内してくれる手筈になっている。人里。文字通りに捉えれば人間が住まう集落なのだろうが、この「幻想郷」なる場所において、それが現代的な街なのか、あるいは前時代的な村なのか、今の彼には知る由もなかった。
(……道中、少しは詳しいことを聞けるだろうか)
アリスの態度はどこか事務的で、多くを語るタイプには見えない。それでも、これからの自分の身の振り方を考えるためには、情報の断片だけでも拾い集める必要があった。
「おはよう。朝食、食べるかしら?」
思考を巡らせている最中、戸口から聞き慣れた声が響いた。アリスが、昨日と同じ凛とした佇まいで部屋に入ってくる。
「えっと……あ、ああ。……た、食べる」
突然の問いかけに、アサヒの声はわずかに上擦った。記憶を失い、さらに命の恩人を前にしているという緊張が、どうしても言葉を硬くさせる。
「そう。なら、隣の部屋に来なさい。もう準備はできているわ」
アリスはそれだけ告げると、返事を確認するまでもなく、さっさと踵を返して部屋を出ていってしまう。その淀みのない動作に急かされるように、アサヒもベッドから立ち上がり、おぼつかない足取りで彼女の後を追った。
扉を抜けた先、食堂と思われる部屋に足を踏み入れたアサヒは、そこで思わず息を呑んだ。
「これは……」
そこでは、数体の人形たちがまるで生を吹き込まれたかのように、忙しなく立ち働いていた。
ある人形は手慣れた様子で食器を運び、またある人形は皿の上に湯気の立つ料理を美しく盛り付けている。それらは糸で操られている風でもなく、自らの意思を持っているかのように滑らかに動いていた。
(……一体、どういう仕組みなんだ?)
科学的な技術なのか、あるいは彼女が口にしていた「魔法」のような超常的な力なのか。アサヒの胸中には強い知的好奇心が芽生えたが、同時に「聞いたところで、まともに取り合ってはくれないだろう」という予感もあった。昨日の彼女の、どこか突き放したような態度が脳裏をよぎる。
アサヒは湧き上がる疑問を喉の奥に押し込み、静まり返った室内でカチカチと音を立てて働く人形たちを、ただ黙って見守ることしかできなかった。記憶のない青年にとって、この光景はあまりにも現実離れしており、同時にこの「幻想郷」という世界の異質さを改めて象徴しているようだった。
「ほら、何を呆然としているの。さっさと済ませてしまいましょう」
動かぬ人形たちの献身的な奉仕を眺めていたアサヒの意識を、アリスの鋭い声が現実へと引き戻した。弾かれたように身体を震わせたアサヒは、促されるまま、重厚な木目調のテーブルの前に置かれた椅子へと腰を下ろす。
食卓に並べられたのは、香ばしく焼き上げられたパンに、鮮やかな黄色の卵料理。それから、塩胡椒でシンプルに味付けされた肉料理と、湯気を立てる野菜スープ。
それは、どこか見覚えのある、ビジネスホテルの朝食を彷彿とさせるような、質素ながらも無駄のない献立だった。記憶の大部分が失われていながらも、この奇妙に整った食事の形式に、アサヒは現代的な親近感と、それゆえの得も言われぬ違和感を同時に抱く。
アリスは、慣れた手つきでフォークとナイフを操り、音もなく優雅に食事を進めていく。その洗練された所作は、まるで一枚の絵画のように完成されていた。
アサヒも彼女の動きをなぞるように、ぎこちなくナイフを手に取る。鋼の触れ合うカチャカチャという乾いた音だけが、静謐な朝の空気の中に規則正しく響き渡った。
「……助けてくれて、ありがとう」
ふと、アサヒは止まっていた言葉を絞り出した。
昨日は混乱の極みにあり、ろくに礼も言えていなかったこと。そして何より、この重苦しいまでの沈黙に耐えかねたゆえの独り言に近い一言だった。
「どういたしまして」
アリスは皿に向けた視線を一度も上げることなく、ただ短く、事務的にそう返した。感謝を受け取ったというよりは、完了した作業の報告でも聞くかのような淡泊な響きだった。
再び、気まずい沈黙が部屋を支配する。
アリスはそれ以上会話を広げるつもりはないらしく、ただ黙々と、しかし確実に食事を消化していく。アサヒは彼女の横顔を伺いながら、これ以上何を話すべきか、あるいは何も話すべきではないのかを測りかねていた。
(……今は、体力をつけるのが先決か)
彼は再び手を動かし始めた。焼かれた肉の脂の甘みと、温かいスープが喉を通るたびに、希薄になっていた自身の存在感が、わずかずつだが確かな輪郭を取り戻していくような気がした。
「今更だけど、貴方、身体の方は平気なの?」
しかし、次に沈黙を破ったのはアリスだった。
不意に投げかけられたアリスの問いは、静かな食卓に波紋を広げた。
「今のところ、特に痛むということもないけれど……」
「その頭の傷のことを言っているんじゃないわ」
食い気味に返された言葉に、アサヒはフォークを動かす手を止めた。彼女の視線は、包帯の巻かれた頭部ではなく、彼の全身を舐めるように、そして何か不可解な現象を観察するかのように細められている。
「えっ……傷じゃないなら、一体何が?」
アサヒの困惑を見透かしたように、アリスは短く、溜息を吐き出した。それは呆れというよりも、目の前の男が置かれている異常な状況に対する再確認のような響きを持っていた。彼女は手にしていたカトラリーを置き、背もたれに身を預けると、淡々とこの場所の「正体」を語り始めた。
「ここはね、『魔法の森』。幻想郷でも指折りの曰く付きの場所よ。普通の人間なら、足を踏み入れた瞬間に立ち込める瘴気にあてられて、すぐに御陀仏するか、さもなければ正気を失っておかしくなっちゃうような場所なの」
彼女の言葉が進むにつれ、アサヒの背筋に冷たいものが走る。
アリスの説明によれば、この森は幻想郷において最も湿度が高く、日光さえ拒絶する深い原生林なのだという。森の空気中には、一年中「化け物茸」と呼ばれる奇妙なキノコの胞子が霧のように漂っており、それは人間にとって呼吸をするだけで内臓を蝕む猛毒だった。
「湿り気が酷いから、茸が際限なく育つの。中には食用になるものもあるけれど、大半は強い幻覚作用を持っていてね。ただ近くにいるだけで、魔法を掛けられたような白昼夢を見せられるわ。妖怪でさえ居心地の悪さに顔を顰めるこの森で、あなたは丸一日、毒を吸いながら眠り続けていたのよ」
この「魔法の森」という名も、元を正せばその幻覚作用に由来しているという。しかし、常人には生存すら困難なこの毒素も、魔力を糧とする魔法使いにとっては、自らの力を高めるための最良の触媒となる。アリスのような「人ならざる者」だからこそ、この死の森は安住の地となり得たのだ。
「……改めて聞くわ。あなた、本当に人間?」
アリスの青い瞳が、鋭いナイフのようにアサヒを射抜く。
記憶を失い、自らの名前さえ不確かな彼には、その問いに対して首を縦に振る自信がなかった。もし自分がただの人間なら、今頃は喉をかき毟りながら狂い死んでいるはずだ。しかし、自分の指先を見つめても、そこには確かな体温と、人間らしい肌の質感がある。
自分は何者なのか。なぜ、この死の森で平然と息をしていられるのか。
底なしの恐怖と疑問が、アサヒの胸中で渦巻く。彼が答えに窮し、沈黙に沈んでいくのを見て、アリスは不敵な、それでいてどこか邪悪な好奇心を孕んだ笑みをその薄い唇に浮かべた。
「……ふふ、いいわ。やっぱり予定変更よ」
「え……?」
「面白そうじゃない。その身体、その体質……あなたの記憶を見つけるのに、私が直接手を貸してあげるわ」
突然の心変わりだった。アサヒが呆気にとられていると、アリスは卓を指先でリズミカルに叩きながら、決定事項として告げた。
「だーかーら。貴方は今日から私の『研究対象』よ。人里に預けてお払い箱にするなんて、勿体なくてやめにしたわ。異論はないわね?」
有無を言わせぬ、強烈な拒絶の拒否。
人里という安全圏への平穏な引渡しという唯一の希望は、魔法使いの気まぐれな知的好奇心という突風によって、あっけなく吹き飛ばされた。
困惑と不安に顔を歪めるアサヒを余所に、アリスの瞳には、未知のサンプルを解剖する瞬間を待ちわびるような、冷徹で熱い光が爛々と宿っていた。
こうして、記憶を失った青年と、人形を操る魔法使いの、あまりにも奇妙な共同生活が幕を開けた。
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