東方異人録 作:かまきりバニラ
マズイ……!
魔法の森の薄暗い静寂を抜け、視界が開けた先に広がっていたのは、どこか懐かしくも、決定的に異質な活気だった。
アリスとアサヒが辿り着いたそこは、幻想郷における人間の中心地、通称『人里』である。
往来を行き交う人々は、揃いも揃って江戸時代を彷彿とさせる和装に身を包んでいた。着流しに股引、あるいは色鮮やかな着物。その光景は、まるで行き届いた時代劇のセットの中に迷い込んだかのようだった。立ち並ぶ建物も、黒ずんだ木材が味わい深い木造平屋ばかりで、瓦屋根が波打つように連なっている。
現代的な鉄筋コンクリートも、無機質なアスファルトも見当たらない。数百年前にタイムスリップしたと言われれば、疑う余地もないほどの徹底した過去がそこにあった。
しかし、真に異様なのは風景ではなく、周囲からの視線だった。
道行く人々は、すれ違いざまに揃ってアサヒへと怪訝な眼差しを向ける。それは、見慣れぬ余所者を見る目であり、同時に奇妙な装束の者を観察する好奇の目でもあった。この里においては、江戸風の装いこそが正装であり、日常なのだ。
アサヒはたまらず、自分自身の姿を足元から見つめ直した。
少し泥の跳ねた跡がある、使い古された簡素なパーカー。そして機能性だけを重視した、裾の絞られたジョガーパンツ。
そう自問自答するものの、その確信さえも、幻想郷の濃密な空気感に侵食され、輪郭がぼやけ始めていた。かつて当たり前だったはずの「外」の記憶が、霧の向こう側へと遠ざかっていくような、心許ない感覚に襲われる。
「……ちょっと。そんなにキョロキョロしないでよ。連れているこっちまで恥ずかしくなるじゃない」
隣を歩くアリスが、呆れたような溜め息を混じらせて釘を刺した。彼女は慣れた様子で雑踏の中を歩いていくが、その横顔には、落ち着きなく視線を泳がせるアサヒへのわずかな守護欲も見え隠れする。
「そんなこと言われても……俺の記憶じゃあ、この光景は正直異様だ。少なくとも外の世界はもう少し発展してるというか、なんというか……」
喉元まで出かかったアスファルトや電柱という言葉を飲み込み、アサヒは言葉を失った。言葉にすればするほど、自分の立っている場所が浮き彫りになり、現実感が剥離していく。
アサヒの困惑と、飲み込んだ違和感を敏感に察したのだろう。アリスは少しだけ歩調を緩め、里の喧騒を背に説明を始めた。
「ここはね、幻想郷において、最も多くの人間が肩を寄せ合って住む場所。この狭い世界でただ里と言えば、普通はここを指すわ」
アリスの言葉通り、そこは人々の生活の熱量に満ちていた。軒を連ねる木造建築には、酒屋、貸本屋、団子屋といった看板が掲げられ、威勢のいい呼び込みの声が響いている。主要な商店が集まっていることもあり、人々の賑わいは絶えることがない。
アサヒは、異郷の地であることを突きつけられながらも、どこか温かみのある木の匂いと、行き交う人々の喧騒に、押し黙ったまま耳を傾けていた。
アリスは、行き交う人々の活気から視線を外し、淡々とした、けれどどこか警告を含んだような声音で言葉を継いだ。
「ここは確かに人間の領域よ。一見すれば平和そのものに見えるでしょう。けれど……妖怪たちからすれば、ここは格好の『餌場』として見られているのも、また残酷な事実なの」
アリスの視線の先、賑わう通りの向こう側には、里を囲む高い防壁が見える。それは物理的な壁である以上に、内と外を分かつ境界のようでもあった。
「獲物が一箇所に集まっているんですもの。外に潜む連中が、ここを虎視眈々と狙わないはずがないわ。常に彼らの飢えた視線に晒されている……そう言っても過言ではないかもしれないわね」
アサヒは背筋に冷たいものが走るのを感じ、思わず周囲を見渡した。笑い合う子供たちや、荷を運ぶ人足。彼らが常にそんな脅威の隣り合わせにいるとは、今の穏やかな光景からは到底想像もつかなかった。
「……でも、安心していいわ。妖怪たちがここを餌場だと認識していながら、実際に手を出してくることは滅多にないから」
アサヒの抱いた不安を透かし見るように、アリスはわずかに目を細めて微笑んだ。
「この人里に下手に手を出すと、ろくなことにならない……それを連中は骨の髄まで知っているのよ。里には里の守護者がいるし、ここを壊すことが自分たちの首を絞めることになると理解している賢い妖怪も多い。だからこそ、危うい均衡の上でこの『絶対的な安全』は確立されているの」
アリスはふと足を止め、立ち並ぶ木造家屋の屋根越しに広がる空を見上げた。
「ここは、そんな理屈と打算、そして少しばかりの力による抑止力で保たれた、幻想郷で唯一の安息地。……ねえ、少しは安心できたかしら? もっとも、あなたのその『外の世界』の格好自体が、別の意味で目立って危なっかしいのは相変わらずだけどね」
最後は少しだけ意地悪く、けれどアサヒの緊張を解きほぐすような冗談を交えて、アリスは再び歩き出した。
「妖怪ってのは、一体……?」
アサヒの口から漏れたのは、あまりにも根源的な問いだった。彼の知る外の世界において、その言葉は古めかしい伝承や、子供向けの娯楽の中にだけ存在するフィクションの記号に過ぎなかったからだ。
しかし、目の前を歩く少女は、まるで今日の献立を語るような平易さで答える。
「幻想郷に住まう、人間以外の種族全般のことよ」
その一言は、アサヒがこれまで信じてきた世界の理を、音も立てずに塗り替えていくものだった。
人間以外の知的な種族が、当たり前のように社会を形成し、すぐ傍に息づいている。それも、一種類や二種類ではなく、多種多様な姿形をした異形たちが、この狭い世界の至る所に潜んでいるというのだ。
本来であれば、声を荒らげて驚いてもおかしくない事実だった。脊髄が反射的に拒絶反応を示し、そんな馬鹿げた話があるかと笑い飛ばしたくなる衝動。
だが、アサヒはあえて表情を変えなかった。ここで取り乱せば、自分の内側にある外の世界のアイデンティティまで崩れ去ってしまうような、奇妙な危機感があったのだ。
彼はただ、感情を押し殺したまま、アリスの言葉の続きを待つ。
「吸血鬼に河童、天狗に妖精……。挙げればキリがないけれど、共通しているのは、彼らが人間の畏怖や信仰を糧に存在しているということね」
アリスは、アサヒが努めて冷静を装っていることに気づいているのか、いないのか。彼女の淡々とした解説は続く。
「人間と対立するものもいれば、共存の道を選ぶものもいる。けれど、彼らは決して人間と同じ価値観では動かない。それを忘れないことね。……まあ、今のあなたには、少し情報が多すぎたかしら?」
アサヒは、喉の奥に溜まった乾いた空気を飲み込み、無意識のうちに拳を握りしめた。
里の喧騒、漂う煮炊きの匂い、そして隣を歩く人形使いの少女。すべてが現実としてそこにありながら、同時に深い霧の中にいるような非日常感が彼を包み込んでいた。
「妖怪が寄り付かないとは言ったけれど、それはあくまで『組織的な侵攻』がないというだけ。種としての人間が絶滅しないよう、ルールで守られているに過ぎないわ」
アリスは、賑わう市場の喧騒を横目に、どこか冷徹な響きを帯びた声で続けた。
「妖怪たちにとって、人間は今も昔も畏怖の対象であり、同時に……『餌』でもある。それは紛れもない事実よ。この里そのものが、彼らにとっては都合のいい保存食の貯蔵庫、あるいは繁殖場のように見なされている側面もある。皮肉な話だけど、だからこそ彼らは、自分たちの食い扶持を根絶やしにするような真似はしないの。一種の共生関係、と言えば聞こえはいいかしらね」
アサヒは背筋に冷たいものが走るのを感じた。「安全が確立されている」という言葉の裏側に潜む、家畜化された平穏とでも呼ぶべき残酷な真実。
「もちろん、それは里全体の存続が保証されているというだけで、個人の安全が完璧だという意味じゃないわ。夜道で、あるいは里の外れで、不運にも妖怪に遭遇して連れ去られる人間は後を絶たない。妖怪の餌場として見られているという現実は、今この瞬間も変わっていないのよ」
アリスの視線が、楽しげに笑いながら買い物をする親子連れに向けられる。その瞳には、彼らがいつ「獲物」に変わるか分からない危うさを知る者特有の、深い憂いが宿っていた。
「ただ、この人里に大規模な手出しをすれば、幻想郷の均衡を司る守護者たちが黙っていない。妖怪たちもそれを知っているから、露骨な略奪や虐殺は控えている……いえ、手出しが出来ないの。だから、その危うい均衡の上で、今のこの一見穏やかな生活が成り立っているというわけ」
アサヒは、先ほどまで時代劇のセットのようと感じていた人里の風景が、急に薄氷の上にある蜃気楼のように思えてきた。活気ある呼び込みの声も、笑い声も、すべては強大な力を持つ妖怪たちの慈悲と打算によって許された、儚い「日常」に過ぎないのだ。
アサヒの沈黙をどう受け取ったのか、アリスは少しだけ口角を上げ、安心させるように歩みを再開した。その小さな背中だけが、今の彼にとって唯一の確かな現実だった。
「さてと、私はこれから少し用事を済ませてくるわ。あなたはここで適当にぶらぶらしてなさい」
里のメインストリートとも言える大通りの一角で、アリスは不意に足を止め、事も無げに告げた。あまりにも突然の放り出しに、アサヒは虚を突かれたように目を丸くする。
「いや、ちょっと待ってくれ。そんなこと言われても……」
この見知らぬ土地で、唯一の知己であり世界の案内人でもあるアリスに離れられるのは、今の彼にとって死活問題だった。周囲の視線はいまだに自分の奇妙な服装を突き刺すように追ってくるし、何より先ほど妖怪の餌場だの人間が攫われるだのといった物騒な話を聞かされたばかりなのだ。
しかし、アリスは困惑するアサヒの様子をどこ吹く風と受け流し、手際よく集合場所を指し示した。
「いい? この先、あなたはこの人里に長く世話になることになるわ 私もね。だからいつまでも私の後ろに隠れているわけにもいかないでしょ。少しでも空気に慣れておきなさい。……それじゃあ、夕暮れ時になったらこの団子屋の前で集合ね」
「おい、ちょっと……!」
アサヒの制止も、伸ばしかけた手も届かない。彼女は一度も振り返ることなく、人混みの向こうへと軽やかな足取りで身を翻した。フリルの付いた衣装と金色の髪が、和装の群衆の中に溶け込んで消えていくまで、そう時間はかからなかった。
人里のど真ん中、ポツンと取り残されたアサヒは、呆然としたまま立ち尽くした。
通りを行き交う人々は相変わらず自分を珍妙なナリの異邦人として眺めて通り過ぎていく。漂ってくる香ばしい醤油の匂いや、聞き慣れない方言の混じった喧騒が、かえって彼の孤独感を煽った。
「えぇ……嘘だろ……」
アサヒは天を仰ぎ、重い溜め息とともに声を漏らした。
見上げた空はどこまでも高く、澄み渡っている。けれど、その先にあるはずの「外の世界」へ繋がる道は、今の彼には微塵も見当たらなかった。
残されたのは、心細さで重くなった自分の足取りだけ。
アサヒは仕方なく、夕暮れまでの途方もない時間をどう潰すべきか考えながら、見よう見まねで里の雑踏へと一歩を踏み出した。
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