東方異人録   作:かまきりバニラ

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始まります!


『名前を決めよう』

 「ごしゅじん……さま」

 

 少女の唇から零れ落ちたその言葉は鈴奈庵の空気を震わせ、アサヒの鼓膜に非現実的な重みをもって響いた。

 

 アサヒは思考を停止させ、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。視界の端では、腰を抜かしたままの本居小鈴が、漫画のように口をあんぐりと開けて固まっている。

 

 つい数分前まで、自分の手の中にあったのは、古びて禍々しい、けれど間違いなく無機物であるはずの「本」だった。それが今、体温すら感じさせる柔らかな肌を持ち、意思の宿った瞳で自分を見上げている。この飛躍した現実を、一体どう咀嚼すればいいのか。

 

 「……え、あ……何、だって?」

 

 ようやく絞り出した声は、情けないほどにかすれていた。

目の前の少女は、アサヒの困惑を気にする様子もなく、おかっぱに近い黒髪をさらりと揺らして首を傾げた。その瞳に映っているのは、純粋な好奇心というよりは、生まれたての雛が親を認識した時のような、根源的で揺るぎない肯定だった。

 

 「あなた、よんだ。わたしのうちがわ。声を、くれた。だから、わたしはここにいる。あなたの、ものとして」

 

 彼女の言葉は断片的で、どこか機械的な冷たさを孕んでいたが、服の裾を掴む小さな指先には、確かな力がこもっていた。

 

 アサヒの脳裏には、先ほど妖魔本から流れ込んできた「静寂を編む」感覚が、いまや少女の鼓動と同期するように脈打っている。文字として理解したはずの魔法の術式が、彼女という形を取ることで、より強固な実在感を持ってアサヒの精神に根を張り始めていた。

 

 「……これ、どういうこと……?」

 

 小鈴が震える声で、ようやく言葉を紡ぎ出した。彼女は這いずるようにして二人に近づき、少女の顔を恐る恐る覗き込む。

 

 「本が……妖魔本が実体化して、しかも誰かに従うなんて……。そんな話、聞いたこともありません。この本、私がどれだけ調べても、ページを捲ることさえ拒んでいたのに……」

 

 小鈴の顔には、本が化けたことへの驚愕と、それ以上に解読できなかった謎が目の前で劇的に姿を変えたことへの、抑えきれない興奮が混ざり合っていた。彼女の手は、職業病ゆえか、少女の髪や服に触れてその正体を確かめたいという誘惑に震えている。

 

 「ごしゅじんさま……。わたし、なにをすればいい?」

 

 少女は小鈴の視線など意に介さず、ただアサヒの答えを待っている。

 アサヒは、自分の日常が音を立てて崩れ去り、別の何かに作り変えられていく予感に眩暈を覚えた。外の世界から弾き出され、迷い込んだ果てに出会ったのが、自分を「主」と呼ぶ魔導書の化身だとは。

 

 「待ってくれ……。俺は、ただ本を読もうとしただけで、君の主人になった覚えなんて……」

 

 言いかけ、アサヒは少女の銀色の瞳に宿る、吸い込まれるような深淵を直視した。

 

 否定しようとした言葉が、喉の奥で消える。

 

 薄暗い店内に漂う古い紙の匂いと、少女から放たれる清冽な魔力の気配。

 

 アサヒの長い沈黙を、小鈴は固唾を呑んで見守り、少女はただ無垢な沈黙をもって受け入れていた。

 

 この瞬間、貸本屋の奥まった一角で、幻想郷の歴史にも、外の世界の記録にもない、奇妙で不可逆な契約が結ばれたことを、アサヒは本能的に悟らざるを得なかった。

 

 

 ~~~~~~~~~~

 

 

  

 「んー……付喪神か、あるいは式神の類なんですかねぇ……」 

 

 小鈴が眉間に皺を寄せ、独り言のように呟いた。

 

 それから一刻ほどが過ぎ、店内に満ちていた異常な熱気はようやく落ち着きを見せていた。アサヒと小鈴は、店の隅にある小さな文机を挟んで向かい合い、この信じがたい事態について冷静に話し合いを始めていた。

 

 アサヒのすぐ隣には、先ほど少女へと姿を変えた「本」が、隙間もないほどぴったりと寄り添って座っている。彼女は相変わらず無表情に近いものの、アサヒの服の裾を小さな手でぎゅっと掴んで離さない。その様子は、まるで見知らぬ土地で親とはぐれまいとする子供のようでもあり、あるいは自分の存在を繋ぎ止める楔を必死に守っているようにも見えた。 

 

 アサヒはそのあまりの距離感に困惑しつつも、無理に引き剥がすこともできず、居心地が悪そうに肩をすくめている。

 

 対する小鈴は、鼻先に読書用の眼鏡を引っかけ、机の上に山高く積まれた古書や資料を猛烈な勢いで捲っていた。

 

 「少しだけ黙っていてくださいね。今、うちの蔵書にある『外来の怪異』と『神降ろしの術』に関する記述を片っ端から照らし合わせていますから」

 

 彼女の瞳は、好奇心で爛々と輝いている。指先でページを弾く音が、静かな店内に小気味よく響く。

 

 小鈴は、時折眼鏡を押し上げながら、アサヒの隣に座る少女を盗み見るように観察した。

 

 「……普通、道具が意思を持つには、百年単位の年月か、強力な妖力が必要です。でも、この子の気配はもっと……こう、洗練されていて、無機質な感じがする。まるで、特定の目的のために最初から『設計』されたかのような……」

 

 彼女はそう言いながら、さらに別の古い巻物を広げた。判読の難しい変体仮名や、奇妙な幾何学模様が並ぶ頁に目を走らせる。だが、どれほど読み漁り、知識の海を泳いでも、目の前の少女に合致する答えは見つからなかった。

 

 「……やっぱり、どこにも載っていません」

 

 やがて小鈴は、がっくりと肩を落として、開いたままの本の上に突っ伏した。

 

 眼鏡が少しだけずれ、彼女はそれを直す気力もなさそうに溜息を吐く。

 

 「幻想郷の記録にも、私が密かに集めた外の世界の書物にも、こんな事例は一つもありません。本そのものが、文字を読んだ人間を主人と認識して実体化するなんて……あなた、本当にただの人間なんですか?」

 

 小鈴の疑いの眼差しが、レンズ越しにアサヒを射抜く。

アサヒは、自分の隣で無言のまま裾を握りしめている少女を見やった。彼女の銀色の瞳には、相変わらず深い静寂が湛えられている。

 

 「俺に聞かれても困ります。昨日まで、魔法なんて物語の中の話だと思っていましたから……」

 

 「ですよねぇ。でも、事実は小説より奇なり、です。この子はあなたの声に反応し、あなたの意志で形を成した。それだけは間違いありません」

 

 小鈴は再び身を起こすと、今度は真剣な表情でアサヒを見つめた。

 

 「正体が分からない以上、不用意に外へ連れ出すのは危ないかもしれません。でも……この子があなたを離すつもりがないのも、一目瞭然ですね」

 

 アサヒが視線を落とすと、少女は感情の読めない瞳でじっと彼を見上げていた。服の裾を掴む力に、わずかな強まりが感じられる。

 

 得体の知れない不安と、けれど決して不快ではない不思議な繋がり。

 

 「名前を決めてあげましょうよ。このまま『元本』だなんて、あんまりにも味気ないじゃないですか」

 

 小鈴は呆れたように肩をすくめると、積まれた本を脇に退けてアサヒに身を乗り出した。その瞳には、物語の登場人物に名を与える名付け親にでもなったかのような、ワクワクとした輝きが宿っている。

 

 「名前……か」

 

 アサヒは困惑気味に呟き、顎に手を当てて視線を彷徨わせた。

 

 つい先刻まで実体のない情報の塊だった存在に、個としての名を与える。その行為が持つ責任の重さに、アサヒはたじろいでいた。外の世界でごく普通の生活を送ってきたであろう彼にとって、名付けなどという大役はあまりに縁遠いものだったからだ。

 

 ふと、横からの熱い視線に気づき、アサヒは隣の少女と視線を合わせた。

 

 彼女はアサヒの服を掴んだまま、じっと彼の言葉を待っていた。感情の起伏が削ぎ落とされた、無機質なまでに澄んだ瞳。本であった時の装丁や、先ほどまでの銀色の揺らぎとはまた違う、深く吸い込まれるような——夜明け前の空のような、あるいは深い海の底のような、透明感のある青。

 

 アサヒはその瞳の奥に、名もなき深淵を見た気がした。

 

 「……アオ、とかはどうかな」

 

 「……その心は?」

 

 小鈴が期待に満ちた顔で、先を促すように問いかける。アサヒは少し気恥ずかしそうに視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに答えた。

 

 「いや……瞳が、青いから。直感的というか、そのままだなと思って」

 

 一瞬の沈黙。その後、小鈴は盛大な溜息を吐きながら、机をバンと叩いた。

 

 「もうっ! ちょっとは真面目に考えてあげましょうよ! 一生を左右するかもしれない名付けなんですよ? 語源とか、由来とか、もっとこう……捻りというものがないんですか!」

 

 「お、俺は至って真面目なんですが……。シンプルで呼びやすいのが一番だと思って……」

 

 小鈴の剣幕に押され、アサヒはたじたじと身体を引いた。しかし、二人のやり取りを余所に、少女に変化が訪れた。

 

 「アオ……」

 

 少女は、自分の唇からこぼれたその音の響きを確かめるように、小さな声で呟いた。

 

 「アオ……アオ、アオっ」 

 

 それは、今までで一番体温を感じさせる声だった。少女はアサヒの服を掴む指にさらに力を込め、どこか嬉しそうに、あるいは大切に宝物を数えるかのように、その名前を何度も繰り返し口にしている。無機質だった彼女の瞳に、ほんのわずかな色彩と、確かな自己の輪郭が宿り始めた。

 

 「ほら、見てください。本人が一番気に入ってるじゃないですか」

 

 アサヒが少し得意げに、けれど照れくさそうに言うと、小鈴は「うぐっ……」と言葉を詰まらせた。

 

 「……本人が満足なら、外野の私が口を出すことじゃありませんけど。でも、もう少し捻りがあれば、うちの棚に並べる時も箔がついたのに……」

 

 小鈴は未練がましそうに、自分の考えたもっと難読でかっこいい名前案を脳内のゴミ箱へ捨てた。

 

 小鈴は未練がましそうに唇を尖らせ、手近な古書をパラパラと捲りながら不貞腐れてみせた。しかし、アサヒの袖を離そうとしない少女——「アオ」の様子を見れば、それ以上の追求が無粋であることは、彼女自身が一番よく分かっているようだった。

 

 「……まあ、いいですよ」

 

 小鈴はパチンと本を閉じ、再びアオの顔を覗き込んだ。

 

 その瞳は相変わらず静謐だったが、先ほどまでの空虚な情報の器としての冷たさは消え、そこには確かな意思の萌芽が灯っている。

 

 「ごしゅじんさま……ありがとう」

 

 名前をくれた主の名を呼び、彼女はほんの少しだけ、春の陽だまりに溶ける雪のような、淡い微笑を浮かべた。

 

 それを見たアサヒは、心臓の奥がキュッと締め付けられるような、妙な気恥ずかしさと責任感に襲われる。

 

 「……あ、ああ。よろしく、アオ」

 

 彼女の頭を軽く撫でようとして、アサヒは空中で手を止めた。相手はつい先ほどまで本だった存在だ。触れていいものか、それとも壊れ物のように扱うべきなのか、その距離感が掴めない。

 

 「あっ。そういえば、私、あなたのお名前を聞いていませんでした」

 

 不意に投げかけられた言葉にアサヒは答える。

 

 「アサヒと言います。名乗るのが遅れてしまいましたね」

 

 「アサヒさん、ですか。素敵な響きですね」

 

 小鈴は満足げに頷いたが、すぐに何かを思い出したように表情を曇らせた。どこか落ち着かない様子で指先を弄り、視線を泳がせる。

 

 「あの……っ、敬語、止めませんか? たぶん私の方が年下だと思いますし……その、ずっと丁寧な言葉で話されると、なんだか調子が狂うというか、やりにくいといいますか……」

 

 彼女はあはは、と困ったような、それでいて愛嬌のある笑みを浮かべて懇願した。アサヒは少しの間を置いてから、彼女の提案を汲み取ることにした。

 

 「えっと……本居さん……?」

 

 試しに距離を測るような呼び方をしてみる。しかし、小鈴は小首を傾げたまま、まだどこか納得がいかないといった様子でこちらを見つめている。

 

 「じゃあ……小鈴?」

 

 「あ、はい! そっちの方が、なんだかしっくりきますっ」

 

 ぱあっと花が咲いたような笑顔。

 その反応に、アサヒも思わず口角を緩めた。

 

 「分かったよ、小鈴。俺のこともアサヒでいいし、敬語も使わなくて大丈夫だから」

 

 これで互いに気兼ねのない関係になれるだろう。そう確信して告げたアサヒだったが、返ってきたのは予想外の反応だった。

 

 「あ、いえ。私は敬語を使いますし、『アサヒさん』と呼ばせていただきますね」

 

 小鈴はきっぱりとした口調で、しかしどこか悪戯っぽく微笑んで言い切った。

 

 「…………えっ、なんで?」

 

 思わず本音が漏れる。自分にはタメ口を要求しておきながら、自分自身は礼儀の壁を崩そうとしない。その徹底した非対称なルールに、アサヒは呆れ半分、困惑半分の表情を浮かべるしかなかった。

 

 「ふふっ、いいじゃないですか。これが私の落ち着く形なんです」

 

 アサヒはどこか煮え切らない表情をしながら、外の景色に目を移す。

 

 気付けば夕暮れ時。

 

 アリスとの集合時間が近づいていることにアサヒは気付いて腰を上げ始めた。

 




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